種は育っていた

2010年、宇宙探査機「はやぶさ」の帰還は、長く行方不明となっていだけに感動と勇気を与えた。
また、1958年南極に取り残された南極犬タロ・ジロは、生存が絶望しされていただけに、その発見は当時の日本人に大きな感動を与えた。
そしてまた、蒔いておいた小さな種が長い時を経て大きなくなった姿に、再会する感激のドラマもある。
タイには山岳民族あるいは高地民、山地民と呼ばれる少数民族が北部山間部を中心に住んでいる。
カレン、リス、ラフ、アカ、ヤオ、モンなど大別して10種の民族が現在では約100万人といわれている。
もともとタイの住民ではない後住民族がほとんどで、この100年間に山伝いに、あるいは川を越えて、政治的、経済的な事情により、ミャンマー、ラオスから入ってきた人々である。
それぞれに民族の不幸を背負ってこの地にやってきたのであろうが、興味深いのはそれぞれ独自の伝統文化・言語を持ち、特にその民族衣装はそれぞれに特徴があり、意外に華やかであることだ。
しかし、中にはアヘンの原料であるケシを栽培して生計を立ててきた人々もいたがが、現在ではケシの栽培も、森林伐採と山焼きによる耕作地の開拓も禁止されている。
多くは、不安定な収入で、貧しい家庭も多く国籍を持たない人が3割をしめ、タイ語が不自由な人も多いため、かろうじて生計を立てている感じである。
まだ村に学校のないところもあり、小さい頃から親元を離れ、民族の伝統文化を受け継ぐ機会を持たない子供たちや、ふもとで仕事を転々として、自分を見失う若者も増え、山岳民族としてのこれからの生き方が問われる。
そんなタイ北部の山岳少数民族で「村の救世主」としてあがめられている日本人がいる。
チェンライの山の中にあるルアムジャイ村を変えた和歌山県で農業法人に勤める大浦靖生氏である。
今から10数年前、青年海外協力隊でタイ北部の山岳地帯の貧しい村を訪れた大浦氏は、現地の村人が3度の食事もろくにとれずに、若い働き手は村の外に出て出稼ぎに行かなくてはいけないことを知った。
ところがある日、村に梅の木があるのを発見した。
村では日本と違い梅を食べる習慣がなく、梅の実はそのまま放置しているだけであった。
大浦氏は、自分が日本から持って行った梅干しを村人に食べさせて、それを作ることを激しく勧めた。
初めて食べた梅干し、村人はショッパさと酸っぱさに驚く。
こんなものを作ってお金になるナド全く信じなかった。
それでも大浦氏は一生懸命村人を説き伏せ、「梅干し」の作り方を一生懸命教えた。
そして青年海外協力隊の期限がきて、大浦氏は日本に帰国した。
村には電話もなく、大浦氏は村がその後どうなったか、全く知るら便(よすが)さえなかった。
ところが、村で作った「梅干し」は、タイの首都バンコクなどのスーパーで日本人向けの商品の梅干しの中で、1番人気の商品にまでなっていた。
梅干しを作った収入で、貧しい村の建物の屋根は茅葺きから瓦葺きになり、テレビやバイクやパソコンまで買えるほどに、村の暮らしは豊かになっていたのである。
最近、民放テレビ局の尽力で、ルアムジャイ村の村長と梅干作りのリーダーが和歌山にやってきて、大浦氏と感動の再開を果たしている。
1人の青年が落とした「種」がこんなにも大きくなっていようとは。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは1786年、ドイツはバイエルン州のヴュルツブルグの医者の家に生まれた。
その家庭環境からヴュルツブルグ大学の医学部に入学した彼は、専門の医学だけではなく、動物学や植物学・民族学などを精力的に学ぶ。
卒業後、オランダの軍医となったため、当時交易のあった日本のオランダ商館の医師として長崎に派遣されてきた。
当時、日本は鎖国の時代で、オランダ・中国とのみ貿易を行い、出島という小島にのみにオランダ人の居住が許されていた。
外国人は許可なくしてはここから一歩もでることは許されず、ここに入ることができる日本人は托鉢僧とオランダ人がよぶ遊女にかぎられていた。
しかし1年間の勤務で、長崎での信頼を得たシーボルトは、鳴滝に家を持つ事を許され、ここに「鳴滝塾」を開設し、西洋医学を広める場所とした。
そして、全国各地から意欲旺盛な若者が集まり彼に教えを乞うとともに、シーボルト自身も、彼らから日本の事をいろいろと学んだ。
この頃、シーボルトは日本人女性・楠本滝と知り合い結婚し(1826年)、シーボルトは長崎奉行の江戸参府に同行するまでになる。
江戸行きは、シーボルトにとって、植物を採取したり、動物の生態を観察したりする絶好の機会ともなり、1825年には第13代将軍・徳川家定にも謁見している。
また、お滝との間に娘イネも生まれたが、幸せな日々はそう長くは続かなかった。
シーボルトは1828年に任期を終えて帰国することになるが、母子をともなって帰国することは許されなかった。
また、お滝にとっても混血児である子供を女手ひとつで育てることは、当時の社会風潮のなかで苦難が予想された。
一方でお滝には、シーボルトという人物の血を伝えることは自分にしかできないという思いもあったかもしれない。
しかしシーボルトの帰国の際に、幕政を揺るがす大事件がおきる。
シーボルトが幕府の天文方・高橋景保から送られた伊能忠敬製作の「大日本沿海輿地全図」や江戸城内部の正確な地図を祖国へ持ち帰ろうとしていたことが発覚したのである。
日本地図は、最高機密の軍事情報ともいえるもので、日本地図の国外持ち出しは国禁である。そのためシーボルトは国外追放、再渡航禁止となり、それに約50人が連座して処罰され高橋景保も切腹させられたのである。
シーボルトは二度と日本に戻る事は許されず、妻・娘とは永遠の別れとなった。
そこでシーボルトは1829年、門下生に後事を托し、お滝とイネの毛髪を胸に帰国の途についたのである。
この時イネはまだ3歳にも満たなかったが、イネが19歳になった頃、母はイネをシーボルトの門弟に預ける。
しかしイネが混血児としてこの間に体験したことは尋常な体験ではなかったであろうし、並みの女性では己の志を保ち続けることは困難ではなかっただろうかと想像する。
しかしイネはいつしかシーボルトの娘であることを自覚し、オランダ語を学び学問で身をたてる決心をする。
そしてシーボルト父・娘に思わぬ「幸運」が訪れる。
1859年、開国派が攘夷派を一掃して、幕府が開国に傾き、シーボルトは以前の罪が許され、彼は再び長崎に来ることが許されたのである。
イネが32歳になった1859年、父シーボルトが再び日本にやってきた。
実に30年ぶりの家族の再会である。イネにとっては、まだ記憶のない幼い頃に別れた、遠く離れた異国の父であったが、二人の心はしっかりとつながっていた。
想像するに、娘はシーボルトを父としてより自分の生涯を導いた師とめぐり会ったという感じだったのでは。
イネの進んだ道、それは父と同じ医学の道に進み、日本初の産科医となっていたのだ。
また父シーボルトも立派に育つ娘をみて涙したことであろう。
シーボルトはこの2度目の来日で3年間滞在し、1862年再び日本を去った。
そしてその4年後、母国・ドイツのミュンヘンにて70歳の生涯を閉じている。
イネは長崎でポンペ・ボードインらに学び、1870年に東京築地に産科医を開業し、宮内庁御用掛の医師として晩年をまっとうした。イネが産科医を開いたあたりは「江戸蘭学発祥の地」碑がたっている。
ところで、シーボルトの蒔いた種は、我が福岡にも育っている。
福岡藩は、佐賀藩と1年交代で長崎警備を担当していたために鎖国の世にありながらも他藩に比べるとヨーロッパの文物にふれる機会が多かった。
シーボルトは、江戸を訪問するさい長崎街道をとおり福岡の大宰府近郊の山家宿や原田宿にも滞在している。
大阪で「適塾」を開いた緒方洪庵は、中之島の筑前蔵屋敷に出入りする機会が多く、緒方を通じて多くの福岡藩の学者が洋学に啓発された。
福岡藩10代藩主・黒田斉清は、長崎でシーボルトに学んだことがあり、また11代藩主・黒田長溥も薩摩島津家より養子に入ったため、実父の影響をうけて蘭癖といわれるほどに洋学に心酔していた。
東京・赤坂溜池の黒田藩屋敷内には、黒田長溥に仕える永井青崖という人物がおり、勝海舟は永井青崖に多くを学んだ。後年「氷川清話」を語った勝の自宅も黒田藩屋敷すぐ近くであった。
そしてシーボルトが播いた洋学の種は、黒田長溥や永井青崖を通じて福岡の地でも花開くのである。
黒田藩・藩医の3代・原三信は、出島にいたオランダ人より外科医の免状を授かった。そして明治になると第13代の原三信が現在地の呉服町に九州初の私立病院・原三信病院を開業した。
原家にはオランダ人より受けたこの外科医免状の他、「阿蘭陀外科術式図譜絵巻」と「人体解剖図」が家宝として伝えられている。
また第16代原三信は、原家が蘭方外科術習得とその資料を今日まで伝えた功績が評価され、オランダの国立ライデン大学より日本人初の「ブールハーフェメダル」が贈られた。
ライデン大学といえば、シーボルトが日本で集めた植物や記録などが保管されている処でもある。

今年3月17日、長崎・大浦天主堂で「信徒発見150周年」のミサがあった。
数々の弾圧の中で信仰をつないできた先祖たちに、信徒や教会関係者ら約300人が祈りをささげた。
信徒発見は1865年、キリスト教の信者たちが、完成したばかりの大浦天主堂で、フランスから来たプチジャン神父に信仰を告白したことを指す。
このことが、日本政府が長崎のキリスト教会群を世界遺産の登録候補として推薦する理由のひとつとなっている。
幕末日本が開国すると、鎖国によってキリシタンが弾圧された日本にキリシタンが今なお存在するかは、ローマカトリック教会の関心事であった。
そこで調査のために幕末から明治の初期に宣教師を送りこんだ。
しかし、明治の新政府になっても依然としてキリシタン弾圧は続いていたのだが、そんな中にも日本に信徒がいることの発見は、宣教師達によって感激をもってローマ教会に伝えられたのである。
さて「信徒発見150周年」ミサでは、特使として派遣されたフィリピンの枢機卿が江戸期の禁教令や明治初期の弾圧など数々の苦難をしのいできた信徒をたたえるフランシスコ法王のメッセージをラテン語で読み上げた。
その後「信徒発見の場面」を再現した寸劇が披露され、ミサの参加者は当時の信徒たちの思いを追想した。
それでは「信徒発見の場面」とは、どのようなものだったろうか。
1858年日仏通商条約の締結により、フランス人のための礼拝堂建立を認める条文が規定され、1865年に大浦天主堂が建立され、異国風の建物に長崎の市民たちは目をみはった。
天主堂という名は、カトリックの聖堂を中国風に呼んだものである。
大浦天主堂は、俗にフランス寺と呼ばれ、連日見物人でにぎわった。その見物人の中に、浦上の農民たちが混じっていた。
そんな折、プチジャン神父に近づく者がいた。そして神父の耳元で「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウハドコ?」とささやいた。
このササヤキこそ、日本における「信徒発見」の瞬間であった。
神父は驚愕にうちに、彼女たちを聖母子像の前に案内した。かくして浦上のキリシタンが発見され、ひきつづいて、長崎県内だけでも数万人も潜伏していることが明らかになった。
1614年のキリスト教禁教令から250年にもわたる、きびしい迫害と殉教の期間を潜伏しつづけたキリシタン達の信仰はこの時まで生き続けていた。
これは他国にその例を見ない世界宗教史上の「奇跡」といってよいものだった。

ドイツ移民がフランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて作ったアメリカ製の服とは?~答えは「ジーンズ」。
ジーンズはアメリカ発祥とばかり思っていたが、ジ-ンズという言葉の起源は、イタリアの港町ジェノバである。
フランスの南部の町ニームで製造された「サージ織り生地」が原型といわれている。
フランスの伝統的な産業としてしられていた青い丈夫な帆布のことで、ニ-ムから輸出されるようになった生地はフランス語でセルジュ・ドゥ・ニーム、今では「デニム」という言葉に縮まっている。
その布地で作ったパンツを履いていた水夫たちを「ジェノイーズ」と呼んでいたことが、現在の「ジーンズ」の語源だと言われている。
ところでリーバイ・ストラウスというドイツ・バイエルンの生まれの男が、14歳の時ニューヨークに移住し兄弟で1860年代ゴールドラッシュに沸くカリフォルニアに殺到した試掘者や開拓者たちに日用品を調達する仕事にで従事していた。
リーバイの会社(リーバイス)は、こうした男達の作業服として、デニムの布とジェノヴァの水夫のズボンを組み合わせた。
また、槌や道具がポケットにしっかりとおさまるよう縫い目を馬具用の真鍮の鋲で補強することを思いついた。
こうしてドイツ移民がフランスの素材とイタリアのスタイルをもちいて典型的なアメリカ製品を生み出したのである。
さて、イタリアの水夫がはくパンツがジーンズの原型ならば、日本の女学生が着るセーラー服はイギリスの水兵服がモデルとなっている。
我が福岡には、日本でセーラー服の発祥といわれる福岡女学院がある。
1915年にアメリカからエリザベス・リー校長が9代目の校長として着任した。新任のリ-校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボールやバレーボールを指導した。
ところがこれが思わぬ不平を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマ、これでバレ-やバスケットをやれといわれても、身動きがとれないし服の破れや汚れがはげしい。
生徒達の表情はスポ-ツを通して日増しに明るくなっていくのに悪評不評は日毎に増していった。
頭を抱えたリ-校長は、着物とハカマに変わる新しい制服はないかと探し始め、いろいろな洋服屋を訪ねたり、雑誌を探してみたが、なかなかいい制服が見つからない。
そして、 思案のあげくリー校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日した折りにトランクに入れてきた水兵服を思い出した。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋のところに行き、リー校長持参の水平服をモデルにして試着品を作らせた。
同店で試作すること8回の後、ようやくリ-校長のGOサインがでて、生徒150人分を3ヶ月がかりで縫い上げた。
今でも色あせない究極のデザイン、その製作過程には時代の要請や現場のニーズに即した関係者の粘り強い試行錯誤があったのである。
ともあれ、エリザベス・リーが日本に持ち込んだトランクの中に、こんな大ブレイクの「種」が潜んでいたとは。
ただ昨今の女学生も、セーラー服のスカーフが事故時の応急用に、甲板で声が聞こえるよう広い襟を立て風をよけられるように実用的に作られていることぐらい知っていてよいかと思う。
1971年、リー校長83歳にして再来日し福岡女学院86年記念式典出席の折には、孫達のようなセーラー服姿の女学生大勢を前に、涙を流してその思い出を語った。