超えられぬ存在

川崎市で中学1年の男子生徒が殺害された事件で、逮捕されたのは、遊び仲間ら少年3人だった。
過去のケースを見ても、少年が危険な一線を越え、重大な犯罪の容疑者になることは少なくない。
仲良く遊んでいたもの同士が、いつしか憎しみの塊になってしまう、どこにも起きそうな事件だけに社会的な関心も高い。
少年犯罪の場合は、リーダーが自分がどう見られるかを気にするあまりに暴走したり、やらなければ自分がやられてしまうという過剰な恐怖心から凶行に走るケースがあるという。
だからといって、子供を無菌状態に置くこともなお危険である。
富裕でも優秀でも、それがゆえにカエッテ壊れやすく、支配されやすい性格を生み出すこともある。
特に人が「超えられぬもの」を意識しだすと、それに一生支配されることにもなる。
学者が、探求の迷路から抜け出せず、芸術家が色や音が出せず、自らを追い詰める。誰も解けない難問に挑戦して、一生を棒にふる数学者も数多くいる。
また、歌の文句に「愛がすべて」とか「All needed is love」とはいうけれど、人はそれだけで済むほど簡単な存在ではない。
何かの思いに取り付かれたり、克服できない不全感に襲われたり、自己否定の病にとりかれれば、大切な愛さえも見えなくなる。
三島由紀夫の小説「金閣寺」では、主人公は美の象徴・金閣寺に引き込まれていくが、金閣寺はいつしか主人公を「拒む」存在の象徴と化し、ついには焼き尽くさずにはおかない。
また、自分を導く憧れの対象も、「超えられぬ」となると嫉みや憎しみの対象ともなる。
また、人間がもつ感情の中でヤヤコシイのは、「もてるもの」と「もたざるもの」の意識に苛まれることなのではなかろうか。
それが友人、夫婦、師弟といった関係だったら、その意識から逃げられない。
モーツアルトの「アマデウス」では、天才(もてるもの)と凡人(もたざるもの)を対比的に描いた映画だが、作品の全体を通してコミカルに、バックにはモーツァルトの音楽が流れていて、その分エンターテインメントとして楽しめた。
この映画で、個人的の心に残ったのはモーツアルトの方ではなく、凡人サリエリの方だった。
その理由は「共感できた」部分が多かったからということである。
ちなみに「アマデウス」というのは、モーツアルトの洗礼名である。
アモーレなどと同じ語源の「愛」を表す"ama"に、神の"deus"がついて「神に愛される者」という名前である。
確かに、モーツアルトはあまりにも神に愛されたがゆえに、若くして天に召されたのではあるまいか。
さて、凡才サリエリにとって、天才アマデウスは、憧憬とともに自分の幸せを曇らせてしまう存在であった。
この映画どこか戯画的で、どこまで史実にもとづいた物語りであるかよくわからないが、天才と凡才のコントラストを見事に描いた。
サリエリという音楽家は貧しい家の出身で、努力に努力を重ねてやっと宮廷音楽家として雇われ、日の目を見た人である。
彼は真面目で礼儀正しく、謹厳実直な人であった。
ところがモーツァルトは若い天才音楽家として彗星のごとく現われ、彼が作曲する音楽はどれもこれも人々の心を感動させる。
ところが、モーツァルトは品性に欠け、非常識で不真面目で遊び好きで、お金にルーズで、しかも他の音楽家たちを平気で侮辱する、高慢きわまりない人であった。
そしてこともあろうに宮廷音楽家であり、品行方正な道徳心の高いサリエリを公衆の面前で愚弄したりもする。
モーツァルトは悪意はないのだが、できるのがあたりまえでできないことが不思議らしく、他の音楽家がくだらないと思えたのだろう。
天才の持つ無邪気さ、天真爛漫が人を傷つける。
サリエリは、そんなモーツァルトにしだいに妬みと憎しみを抱くようになる。
そしてある時神様に訴える。「神よ。なぜ貴方はあんな品性の欠けた、人間として道徳心もない愚弄な男に、あのような音楽の才能を授けられたのですか」と。
さらには、「私はどうなのですか。真面目に働き、人一倍苦労してきたのに、私には彼のような才能を下さらないのですか。
神は恩知らずの者にも、自己中心でわがままな者にも、情け深くめぐみを豊かにそそがれるというのは、不公平ではないか。
それでは真面目に道徳的に生き、一生懸命努力している者が損をするのではないか」と。
そして、サリエリは若いモーツァルトの音楽の仕事が失敗するようにあらゆる工作をするが、彼が企む事がすべて裏目に出てしまう。
モーツァルトはますます世間の評価を得、その分サリエリは落ち目になっていく。
この映画はその辺を強調するかのように、コミカルに演出している。
そしてモーツァルトが病気になった時、サリエリは彼を看病していると見せかけて、病気を押して作曲に向かわせ、とうとうモーツァルトを死に追いやる。
だがサリエリは、本来、平気で人を傷つけるようなことはできない人間で、自分がモーツァルトを殺してしまったという罪の意識に苛まれ苦しみ続ける。
そして死後、モーツァルトの音楽はますます世界的評価をうけ、サリエリの存在は人々の記憶から消えていく。

あるテレビ番組で、元・巨人の西本聖と江川卓の対談があり、あまりにもストレートな感情が吐露されていただけに引き込まれた。
そこには「もてるもの/もたざるもの」の感情がぶつかりあっていたともいえる。
西本を「もたざるもの」と位置づけるのは失礼かとは思うが、少なくとも「ドラフト外」か入団した西本にとって、政治家までもまきこんでまで巨人軍に入った江川は、「もてるもの」として立ちはだかる存在だったのではなかろうか。
江川が「ひじ痛」で引退宣言を出したとき、西本は「冗談じゃない。まだ決着はまだついていない」と思ったという、ソノ言葉の激烈さに西本の気持ちがひしひしと伝わってきた。
高校校時代から「怪物」の名を欲しいままにした江川は常に、世間の注目を浴びる存在だった。
そしてそれはあの入団における「空白の1日」でピークに達する。
以後、多くの悪意に満ちた視線と、実際どれだけやれるのかという好奇の視線の下で江川は投げ続けたが、間違いなく江川が本物であることを証明していった。
回が進むごとに威力を増すかのように、150キロを超える回転のかかった速球は、唸りをあげてキャッチャー・ミットに収まった。
その江川に対して「雑草」もといわれた西本聖は年齢こそ江川の1つ下だったが、入団は江川より5年早い。
「ドラフト外」入団といういわばツケタシのような存在から、文字通り這い上がってローテーション投手の座をつかみつつあった。
そこに割り込むように現れた江川は、這い上がってきた自分を突き落とすだけの存在では済まなかったかもしれない。
そこには西本の意地とプライドかかっていた。
ただ西本にも、江川のストレートに対抗しうる、切れ味するどいシュートがあった。実際、江川の方も、自分の現役時代、他の投手の球で一番すごいと思ったのは、西本のシュートだけったと振り返っている。
このように、何もかもが対照的な二人だったが、二人には「エースは1人」という共通する思いがあり、西本とて当時のエースは江川であることを認めざるを得なかった。
この対談ではじめて知ったのは、ライバル心を隠そうともしない西本に対し、エースとなった江川自身にもそれを気にしないほどの余裕はなかったということだった。
江川は「西本、今日は打たれてくれ。明日は俺が抑える、そうすれば俺の評価が上がる」と思い、対する西本の方は江川に対してさらに激しく「打たれろ、負けろ」と念じていたという。
つまり、西本は江川を必死に引きずり落としにかかり、江川もまたそんな西本を懸命に蹴落とそうとしていたのだ。
その二人が、エースとしての評価をかけたのが、1983年の西武との日本シリーズだった。
江川はシリーズ直前にケガをしたこともあり、出ると打たれるという無様なピッチングをしていた。
一方の西本はそんな江川の尻拭いをするかのように、キッチリ完投勝利でチームを救う。
辛口野球評論家の青田昇がスポーツ・ニュースで、「あのシュートは翌朝まで試合をやっても打てない」と西本のピッチングを賞賛していたのを覚えている。
そして巨人ファンなら思い出したくもない、あの運命の第6戦がやってくる。
日本一まで後一勝と迫っていたジャイアンツは、土壇場の9回、中畑清が起死回生の逆転三塁打を放ち、いよいよクライマックスを迎えた。
そして9回、最後を締めるべくマウンドに上がったのは2日前に完投した西本だった。今までの投球内容から見て、江川のリリーフなど考えられなかったといってもいい。
しかし、西武の打者の放った打球はボテボテの当たりながら、ことごとく三遊間を抜けて行ったり、内野守が追いついて捕っても、どこにも投げられないといった場面もあった。
つまり、西本はヒット性のあたりを1つも許していないにもかかわらず同点に追いついてしまった。
そして延長10回、変わって出て来た江川は、今までどうりの生彩のないピッチングでサヨナラ負けをくらう。
この対談では、あの試合の裏側が語られ、そうだったのかと思いを新たにした。
実は、第六戦の勝ち越した9回の場面、当初行くのは江川の予定だったという。
投球練習をしていたのはずっと江川1人だった。しかし、勝ち越したと同時に西本がブルペンに走った。つまり、ベンチに迷いが生じたのだ。
それでも江川はエースのプライドに賭けて、ここで行くのは自分しかいない、と信じていたという。
ところが、藤田監督が告げたリリーフは「西本」だった。
本来なら意気に感じてマウンドに上がるハズの西本自身を含めて、チームのホボ全員が想定外のことだった。
そして一番の問題は、行く気満々の江川の心を折ってしまったことだった。
10回の江川は不調を引きずっていたことに加え、もはや「抜け殻」状態でマウンドに上がった。
NO2になった経験がない江川だけに、心が定まらぬままの投球で逆転を許してしまった。
ところが対談で、江川は9回の場面について「俺なら勝てたと思ってる、今でも。あの状況で行ったら、俺は抑えたという自信は今でも持っている」と譲れないプライドを隠さなかった。
西本・江川の2人のライバル関係は、それから4年後、江川の突然の引退で、唐突に終わりを迎える。
この対談で一番印象づけられたことは、あり余る才能に恵まれ、他人から嫉妬されることがあっても、自らは嫉妬することがなかった江川。そこにただ1人表れた存在が西本聖というライバルだったともいえる。
江川が素直にそれを認め、西本もそれに「素直に嬉しい」と答えた。
江川は「それはお互い様だよ。お前がいなかったら、俺もっと手抜いてたもん」と彼らしいウイットで応じた。
しかし、一番印象的だったのは、西本がいった「1983年 日本シリーズ9回で押さえていれば、自分は江川を超えることができた」という言葉である。
西本にとって江川は、「超えられぬ存在」だったということだ。

詩集「智恵子抄」は、高村光太郎と妻・智恵子との「愛の絶唱」として世に賞賛されている。
当初、この詩を「東京には本当の空がない」といった生活の違和感から次第に異常をきたす智恵子を、光太郎が傍らで見守り支え続けている愛の詩というぐらいの印象だった。
とはいえ光太郎によって「だんだんきれいになり、あどけなくなり、風にのったりする」と歌われた智恵子の姿は、次第に現実界との接点を失っていく女性の壮絶さをともなっていた。
しかし今では、あの詩集は詩人の妻に対する罪責感の極限までの「昇華」ではなかったか、と思うようになった。
光太郎と智恵子は、確かに二人は愛によって結ばれていたに違いない。
しかしそれが故に、現実の世界としては様々な葛藤があり、光太郎同様に「芸術の高み」を目指していた智恵子に多くの苦悩を与えた。
つまり、夫婦といえども同じ世界を歩む以上は、緊張をはらんだものだったのかもしれない。
何が智恵子を発狂に至らしめたのか。それは芸術そのものの高みであり、「新しい女」とよばれる女性が登場した時代の状況もあった。
つまり智恵子は、陰日なたに咲いて満足できる女性ではなかったし、少なくとも光太郎と共に歩みたかった智恵子が、道の傍らに置いてけぼりをくらったような寂しさを味わっていたのではないか。
長沼智恵子は福島県二本松に生まれ、当時女子のための最高教育機関のひとつであった日本女子大学校普通予科に進学する。
そして新進女性画家として活動し、先輩の平塚雷鳥の「青鞜」にも参加したりする女性であった。
中途半端は大嫌い、何でも徹底してやらなければすまない女性であった。
ところが実家の父・長沼朝吉が、結婚から4年後の1918年には亡くなり、9年後にはその実家が破産し、一家は離散する。
智恵子の人生に暗い陰が射すようになり、精神に異常のきざしが現れたのはその2年後だった。
実は、画家としても行き詰まりの感の中にあり、それを回避するようなカタチで光太郎と結婚したのである。
そして1932年には、一度服毒自殺をはかっており、それ以降、画家として表舞台に出ることはなかった。
ある本に「西洋的近代に翻弄されかろうじて抗うことができた男と、それに抗いきれず敗れ次第に追い詰められ、壊れてしまった女性の悲劇」とあった。
そこまでのことは分からぬが、芸術家同士の共棲の中、芸術に専念していけたのは光太郎で、夢をあきらめ生活を背負っていたのが智恵子であった。
智恵子は、光太郎を尊敬し、夫の芸術家としての進む車輪に、自らなんとか追いつこうとしては、空転を続けていった感じがする。
智恵子は発狂し入院生活を送りながら、1938年52歳の時肺結核で亡くなった。
この時、光太郎は55歳で、二人は24年間の結婚生活を送ったことになる。
高村光太郎は最愛の妻・智恵子を失い、晩年には山の中での寂寥とした生活を理想とし、岩手県花巻市に独居自炊の場をもうけた。
山小屋での冬の生活は夜具の上に雪が降り積もる状態だったという。
光太郎は詩文集「智恵子抄その後」の中で、智恵子を失うことで、かえってどこにもいる「普遍的存在」になったと書いている。
光太郎は妻・智恵子に山荘での生活の中で、さりげなくこう呼びかけている。
「智恵さん気に入りましたか、好きですか」と。
畑を耕し、山の中でのたった一人の生活を通じて、智恵子と向き合い、語り合おうとしたのである。
光太郎はその山荘で7年間暮らし、晴耕雨読の日々を送りながら、地元の農家の人たちとも交流を深めた。
そして1952年、青森県から依頼を受け「十和田湖」への裸婦像制作のため、帰京した。
その裸婦像をも妻・智恵子をモデルとし、渾身の力を込めて完成させ、それから3年後の1955年、73歳の生涯を閉じた。