黒潮の男達

千葉市は自転車の信号無視による人身事故が多いらしい。そのニュースを聞きながら、ふと千葉県出身者の中にはユニークな冒険野郎が多いことが閃いた。
自転車の無法運転と冒険がどう結びつくかは説明しにくいが、とにかくそういう連想が湧いたのだ。
「冒険野郎」といえば、高知県出身者(ジョン万次郎ら)や和歌山県出身者(紀伊国屋門左衛門ら)が多い印象があるが、ソコに千葉県が加わると太平洋の「黒潮」洗う三県には、共通するメンタリティーを形成する「何か」があるのだろうか。
そういえば甲子園を沸かせた優勝チーム(1974年)に「黒潮打線」というのがあった。
千葉県・銚子商業はエース土屋正勝(元中日)と、2年生からの不動の4番篠塚利夫(元巨人)を擁し、圧倒的な強さで初優勝を飾った。
その豪快な打棒から「黒潮打線」の異名をとったのである。
しかし長嶋巨人の時代に、好打者とはいえ高校生の篠塚をドラフト1位指名したことに対して批判もあったが、篠塚は長嶋の動物的なカンが正しかったことを証明した。
長嶋茂男は千葉県佐倉出身で、自身もまた「黒潮の男」であった。
最近映画「バンクーバー朝日」によりカナダ日系人社会で生まれた野球チームが知られることになったが、この日系人チームにも「黒潮の男達」すなわち和歌山や千葉の出身者が多い。
バンクーバーの中心街から南へ17kmにスティーブストンという町がある。かつては鮭の缶詰加工業の中心地として栄え、多くの日本人が移り住んでカナダ最大の日系人コミュニティができた。
この町の団長・本間留吉は日系人に対する様々な差別と戦い選挙権獲得運動にも奔走し、「カナダ日系人の父」とよばれる人物である。
太平洋戦争が勃発すると カナダの日系人2万人は全財産を没収され強制収容所に送り込まれためその活動は頓挫するが、カナダ日系人の地位向上に大いに貢献したため、彼の名のついたホンマ・エレメンタリースクールが当地に現存している。
この本間留吉は、千葉県東葛飾郡鬼越村(現在の市川市)出身である。
千葉県出身で海外で活躍した人といえば、日本人ハリウッド俳優第一号・早川雪洲、本名早川金太郎も1886年千葉県千倉七浦村に漁師の子として生まれた。
そのことから早川も「黒潮の男」といってよい。
海軍兵学校の試験で、潜水中に鼓膜を痛めて不合格となるが、早川の人生を転換させるある出来事に出会う。
千葉県千倉沖でアメリカの船が座礁し村人たちが船客を救助したが、早川が得意の英語をつかって彼らと対応しその面倒を見るなどした。
この出来事が海軍大将の夢を絶たれた早川に、アメリカへの夢を抱かせるきっかけとなった。
そして1909年に横浜からアメリカに渡った早川はシカゴ大学に入学し、勉学に励みつつフットボール選手として活躍した。
ところで、ロサンゼルスのリトル東京は世界最大の日本人街であるが、早川は「リトル東京」で芝居を見に行った際、団長に面会を求めて意見を述べたところ、それが認められついには芝居の脚本を作り主役までやってのける。
この公演が評判になり、早川はリトルト東京では知られた存在となる。
その頃「早川雪洲を名乗るが、これは彼が崇拝していた西郷隆盛の別名「南洲」にあやかったものである。
さて、リトル東京はハリウッドに近く、たまたま早川の芝居を観劇に来ていた大物プロデューサーが芝居の「映画化」話をもちかけた。
そして早川雪洲主役の映画「タイフーン」がヒットして、日本人初の「ハリウッドスター早川雪洲」が誕生したのである。
早川が妻となる青木鶴子と出会ったのはこの頃である。
青木鶴子は「オッペケペー節」で知られた博多の川上音二郎の姪で、1899年、8歳の頃から子役として川上一座とともにアメリカ各地で巡業していた。
だが、アメリカでは子役の労働条件に厳しい制限があり、それに加えて一座の興行収入を持ち逃げされるなど災難が重なったため、足手まといとなった鶴子は一座と別れサンフランシスコに留まることになった。
そして鶴子は日本人画家の青木年雄に預けられ養女となったのである。
その後養父の亡くなると、鶴子は白人女性記者に引き取られ、彼女の下でロサンゼルスの映画学校に通い本格的に演劇を学んだ。
やがて、鶴子はハリウッドの監督・制作者に見出されて劇や映画に出演するうちに早川雪洲と出会うことになった。
雪洲と鶴子の二人は、それぞれが歩んできた波乱の人生を経て、アメリカの地で交叉したのである。
ところで「タイフーン」の成功によって俳優として認められた雪洲はパラマウントに移り、出演4作目の「チート」(1915年)が大ヒットし彼の人気を不動のものとする。
ハリウッド史上に燦然と輝く大監督セシル・B・デミルから声がかかり、出演したのが「チート」で、無声映画時代の傑作として今も語り継がれている。
しかし、早川の出演した映画は日本において「国辱的」であると見なされた。
なにしろ「チート」で早川は悪役を演じ、排日の機運を高めたとまでいわれたからである。
借金を抱えた上流階級の貴婦人にお金を貸した日本人大富豪・トリイ(早川)は、彼女に自分の愛人になる事を強要し、自分の女であることを示すために、彼女の肌に「焼印」を押してしまう。
その衝撃的な内容が大きなきな波紋を投げかけたが、予想外にも早川は全米女性の人気の的になってしまう。
その東洋的なルックスのよさと悪のニオイは、女性の潜在的なマゾヒズムを刺激したのだろうか。
早川の主演する映画は次々大当たりし、当時のトップスターだったチャップリン人気と優るとも劣らないほどになる。
早川は1917年ハリウッドの一角に城のような豪邸を買ったが、1920年代には全米で排日感情が高まり、早川と映画会社との関係も悪化し、1923年に自らハリウッドを去ることになる。
そしてサイレント・ムービーの時代は終わり、映画スター早川雪洲の時代は終わるかに思えた。
ところが、パリでの公演「神の御前に」が大ヒットし、堂々たる舞台俳優としてもスターの座を獲得したのである。
そして戦後の1949年、ハンフリー・ボガートは自ら主催するサンタナ・ピクチャーズが製作する「東京ジョー」の共演者に早川の起用を切望し、早川は16年ぶりにハリウッドにカムバックする。
早川は長く二枚目として活躍したが、年齢を重ね貫禄が備わると、その堂々とした風貌で軍人などを演じることが多くなっていった。
デビッド・リーン監督の「戦場にかける橋」(1957年)でもタイの捕虜収容所長・斎藤大佐に扮している。
この役が早川にとっては戦後の代表作となった。
斎藤大佐は、憎まれ役ではあるものの、武士道精神に満ち、血の通った人物として描かれ、イギリスの騎士道精神を持つニコルソン大佐演じるアレック・ギネスとの男の意地の張り合いが見所の一つである。
「戦場にかける橋」は、アカデミー賞において作品賞、監督賞、主演男優賞(ギネス)など計7部門で受賞しているた。

あるテレビ番組で、ひとりのフリーター青年がジャングルで旧日本兵・小野田少尉を発見した出来事を再現していた。
この番組で興味深かったのは、青年と小野田少尉のあまりにも強烈なコントラストであるが、二人には意外にも共通点があった。
それぞれ、和歌山県と千葉県出身で「黒潮の男」であったことである。
小野田寛郎は、戦争が続いていると信じフィリピン・ルバング島に30年間任務を続けた元陸軍少尉で、和歌山県海南市で生まれである。
陸軍中野学校を卒業後、情報将校としてフィリピンへ派遣され、「とにかく生き残りゲリラ戦を続けよ」という上官からの指令を受けた。
終戦後も「任務解除」の命令が届かず、ルバング島の密林にこもって「任務続行の潜伏」を続けたのである。
ここから帰還した兵隊によって小野田少尉が残されていることが知られ、原住民によって何度かその姿を目撃されていた。
しかし、素早く密林に消えてしまう小野田少尉と接触することができず、1972年にその捜索も打ち切られた。
しかし、小野田少尉捜索打ち切りのニュースをアルバイト先で聞いていたひとりの若者がいた。
それが千葉県市原市八幡出身の無職青年・鈴木紀夫である。
実は鈴木の夢は「雪男、パンダ、小野田さん」を見つけることで、1974年25歳の鈴木は、残留日本兵の小野田寛郎に逢うため、フィリピン・ルバング島に向かった。
そこで鈴木は意表を突く作戦を行い、小野田少尉との接触に成功した。
鈴木は、日本政府は、拡声器を使った大捜索をやったため、小野田少尉はますます懐疑的になっていると推測した。
そこで「小野田さんの占領地」に一人で入って行って野営していれば「縄張りを荒らすやつ!」と向うからから来るのではないと鈴木は予測した。
そして、この読みは見事にあたった。
鈴木が野営していると、読みどうり小野田少尉が現れたのだが、鈴木が読みきれなかったことは、それが鈴木の命が「風前の灯」になる瞬間だったことだった。
小野田は、「もし、奴(鈴木)が、あの時、靴下にサンダルという妙な格好していなかったら、撃ち殺していただろう。なぜなら、フィリピンでは、靴下をはく階級はサンダルなんか履かない。必ず靴を履くから」と語っている。
鈴木が靴下にサンダル履きという珍妙なスタイルだったため、かえって疑いも晴れ、鈴木が無意識に小野田少尉にタバコを渡すとうまそうに吸ったという。
フリーター青年の鈴木と旧日本兵・小野田少尉は次第に警戒をとき、夜を徹して語り合った。
翌朝鈴木が「小野田さんを見つけたという証拠に一緒に写真を撮りたい」と言ったが、鈴木は機械に弱くセルフタイマーの扱いがうまくいかなかった。
しかしカメラが趣味である小野田に手伝ってもらって、ようやく撮った写真が「小野田さん発見」の証拠写真となったのである。
ただ鈴木が帰還を進めると、小野田は日本が戦争に負けたとしても、上官からの「任務解除」の命令を受けない限りは、この場を離れることは出来ないと語った。
そして鈴木はかつての上官をともなって再びこの地をを訪れ、上官から小野田に「任務解除」の指令が伝えられて、ようやく密林をでて日本に帰還することを決意したのである。
インタビューで、敗戦後30年間もジャングルにいたことをどう思うかという質問に、自分の若い力を「任務遂行」に注げだことをは幸せだったと語った。
小野田はその後結婚してブラジルへ移住し、牧場を開業する。
平成元年には小野田自然塾を開設し、ルバング島での経験を基にキャンプ生活を通した野外活動などでボランティアの育成などに尽力した。
一方、鈴木紀夫は「パンダ・小野田少尉・雪男」の最後に残った「雪男発見」に情熱を注ぐ。
1978年に年上の女性と結婚するが、結婚後も定職に就くことなく、アルバイトでカネを稼いではヒマラヤにむかった。
ある時、誰かが雪男を発見してくれない限り、自分の冒険ぬも決着がつかないと夫人に漏らしていたという。
そして1986年11月ヒマラヤ・ダウラギリのベースキャンプ附近で遭難し、翌年年10月に遺体が発見されている。享年37であった。
小野田寛郎は、鈴木の死について「死に残った身としては淡々と受け止めているが、友人の死は残念だ」と語っている。小野田は「慰霊」のためにヒマラヤを訪れている。

ヒマラヤの雪男ではなく、アラスカに野生動物を追ったのが動物写真家・星野道夫である。
星野はカナダ日系人の父・本間留吉と同じく千葉県市川生まれで、やはり「黒潮の男」である。
アラスカをフィールドにおよそ20年にもわたって、自然の動物や人々の暮らしを撮り続けた。
その作品と著作は、北国の厳しい自然に生きる野生動物や植物などで、見る多くの人々の心を捉えた。
個人的には、流氷に乗ったタテゴトアザラシの赤ちゃんの表情が記憶に残ってる。
その写真はたとえようもなく命に対する慈愛で満ちていたようだった。
実際に星野の写真は国内外の雑誌に掲載され1990年には木村伊兵衛賞も受賞している。
慶應義塾大学経済学部時代は探検部で活動し、神田の洋書専門店で購入したアラスカの写真集を見て、同書に掲載されていたアラスカのシシュマレフ村を訪問したいと村長に手紙を送った。
すると半年後に村長本人から訪問を歓迎する旨の返事がきた。
翌年の夏、日本から何回も航空機を乗り継いでシシュマレフ村に渡航する。
現地でホームステイをしながらクジラ漁についていき、写真を撮ったり漁などの手伝ったりしながら3ヶ月間を過ごした。
帰国してから指導教官にアラスカでのレポートを提出してなんとか卒業単位を取ることができたという。
大学卒業後、ある動物写真家の助手として写真の技術を学ぶはずだったが、実際にはカメラの設置や掃除・事務所の留守番などの仕事ばかりで、2年間で職を辞した。
その後アラスカ大学フェアバンクス校の入試を受け野生動物管理学部に入学し、グルズリーやカリブーの写真を撮り続けた。
アラスカ大学は、星野が学長と直談判してなんとか入学を許されたのたが、結局は写真撮影に時間を費やして中退してしまう。
そして二年の交際後 1993年に17歳年下の女性と結婚する。
アラスカのオーロラを見て結婚を決意したという夫人は当時の星野について、少年のように目をキラキラさせながらアラスカの話をして、すごく素朴で温かい人だなという印象を受けたと語っている。
夫人の思い出として、アリューシャン列島に同行した際、ワスレナグサが花が咲きそうもない痩せた土地に、背丈が伸びずに這いつくばるように花を咲かせていた姿を見て、誰も見ていなくてもこんなに厳しい状況の中で命を繋げている姿に心を動かされたという。
また星野との撮影旅行へ同行途中には、忘れられない出来事もあった。
クマの生息地の中で撮影があって、カトマイ国立公園というところでテントを張って10日くらいキャンプをした時、クマが歩いていって大地を踏みしめる音が聞こえてくるが、ある夜に今まであまり聞いたことのないような低い音が聞こえてきた。
テントの入り口を開けて、ふたりで耳を澄ますと、外は真っ暗で何も見えないけれど、音が聞こえたり止んだりというのを繰り返していたため、クマのイビキなんだということに気がついた。
しかしその星野は1996年の8月8日早暁、星野道夫はテレビ番組「どうぶつ奇想天外」取材のために滞在したカムチャッカ半島でヒグマに襲われて亡くなる。
スタッフはバンガローで一夜を過ごし、本人だけがテントの中にいた未明のことであった。享年43。
遺された家族は、夫人の直子さんとたった一人の息子であった。結婚生活は僅か3年に満たず、結婚の翌年に生まれた子が翔馬君である。
初めて海外に出たのがアラスカだったという夫人は、アラスカ・フェアバンクスの丸太小屋と日本の市川市とを行ったり来たりしながら、星野道夫が遺した作品の管理などをしてきた。
そして2005年には「星野道夫と見た風景」 (新潮社刊)を出版し、星野道夫と交際してからたった5年半の短い思い出を書いた。
2006年には、NHKハイビジョン特集「アラスカ星のような物語〜写真家・星野道夫 大地との対話〜」が放映された。
星野道夫は、動物写真家として有名ではあるが、本人は人間も含めた自然全体の写真家であり動物はその一部であるという意識があったようで、写真家としては珍しく随筆のみの著書が多数出版されている。
高知沖から和歌山沖をへて千葉県沖を流れる「黒潮」は、確かにユニークな冒険野郎を生み出したようだ。