小さく生んで大きく

最近、「小さく生んで大きく育てる」というのが目に付く。ただし、子どもの出産の話ではなく、法律の世界で。
成立が難しいと予想される法案は、まず対象を限定して成立させ、その後の「改正」で一気に対象を拡大するというやり方である。
別にそれが悪いというわけではなく、男女雇用機会均等法は「小さく生んで大きく育った」法律の典型である。
この法律、誕生の段階では「幼児」のように心もとない法律であった。
しかし今振り返れば、この法律とにかく生まれ出でたことに大きな意義があり、日本社会が現在、人権における国際的潮流にナントカ追いつかんと努力しているのも、この法律のおかげである。
実はこの法律の成立には、赤松良子という女性キャリア官僚の存在意義が大きい。
この人は、2008年の厚生省キャリアの後輩・村木厚子が「障害者団体向け割引郵便制度悪用」で起訴された件につき「無実の村木厚子さんの解放を求める」とする声明を発表した人物でもある。
赤松良子は大阪生まれで、父親は関西西洋画壇の大家・赤松麟作である。画家は良子を溺愛し「良子」という作品を描いている。
というわけで我々は、彼女の幼き日の姿に、美術の教科書などでよく馴染んでいる。
赤松は1953年東京大学法学部政治学科を卒業して、労働省に入省し婦人少年局婦人労働課に勤務して、1975年には女性で初めて山梨労働基準局長に就任した。
つまり彼女は女性官僚キャリアの「草分け的」存在だったのだが、この法律成立のカギとなったもう1人の女性がいる。
総評の女性幹部の山根和子で、赤松良子と「男女雇用均等法」をめぐり論争相手となった労働者側代表であった。
山野和子は、三重県出身で戦後すぐに高校を卒業して愛知県の会社に入りアシスタントばかりの仕事をしてきた経歴をもつが、1976年から89年まで総評・婦人局長となり、当時加入人数380万人にも達する日本最大の労働組合の全国組織・総評の婦人局長でああった。
一方、赤松は国連公使として1979年に、「女子差別撤廃条約」に賛成の投票を行い、翌年コペンハーゲンの世界女性会議で同じ労働省出身の高橋展子がこの条約に署名している。
次の段階で、条約が国会で承認され批准されなければならないが、そのためには当然国内法と条約の相容れない部分を是正ないといけない。
そこで新しい法律を作るには、まずは関係団代の代表者が出席する審議会などで法案の趣旨や必要性を訴え、統一見解とされた「審議会答申」を国会の委員会に提出するという手順をふむ。
したがって、立場を異にする人々をまとめて接点を見出すまでの「根回し」が大きな仕事になる。
実際に、労働省婦人少年局の赤松良子を中心としたプロジェクト・メンバーは、のちに「鬼の根回し」と異名をとるほど懸命に各界への調整を続けたといわれている。
というのも、法案を通す際の最大の障害になったのは経営側(使用者側)であり、赤松らの戦いは立ちはだかる「男社会」の壁との戦いでもあった。
なにしろ、当時の経団連会長が日本経済は男女差別の上に成り立ってきたと臆面もなく言い、法案に反対の姿勢を表明した。
赤松は、依然意識の低い経営者代表に、なんらかの「男女平等法」をつくらないと、国際的に人権意識が低い国と見られ、様々な分野での交渉にも支障が生じると訴えた。
こうした赤松チームの説得で少しずつ経営者側の意識が変わっていった。
しかし、法案の中身については、経営者側、労働者側の立場が激しく対立したことは、いうまでもない。
そこで、経営者側との妥協点が、法の実効性を「努力義務」とした点にとどまった。
赤松らの経営者側の意向を取り入れ「努力目標」とした「男女雇用均等法」案に対して、労働者代表の山根和子は、その内容が「手ぬるい」と批判したのである。
そして、労働者者側代表の女性幹部は 男女差別をなくす法律には賛成だが、男女差別した企業への「罰則」が科せられる厳重な法律が必要だと訴えた。
それに対して経営者側は、男女平等というのであれば、女性の深夜業禁止など女子の「保護規定」をハズスべきだといい、労働者側はイヤむしろ男子にも保護規定を認めるのがスジだと相互に主張して譲らない。
結局、法案では妊娠出産の以外は「女性保護規定」を見直すことにした。
実はこの法案成立には、タイムリミットがあった。 1975年が国際婦人年で、日本も10年をめどに男女平等法をつくるという行動計画を批准していたからだ。
ところが、1984年4月、国会提出のタイムリミットぎりぎりの審議会で、労働者側代表の山根和子は、「手ぬるい法律は認められない」と激しく異論を唱え、審議会への出席を拒否し別室に立てこもった。
なにしろ山根には、赤松がたじろぐほどの凛とした風格があった。
その山根が審議会への出席を拒めば、「審議会答申→法案提出→事務次官会議→閣議→国会上程」と続く法案作成の作業に進むことができないのである。
ひいては、1984年4月まで法案要綱つくらなければ、国際婦人年「10年の行動計画」の期限1985年までに、法が成立しないのである。
赤松は時間との戦いの中で、労働者側代表すなわち山根和子が出席を拒否すれば審議会は成立しない、つまり法案の成立は実現しないところまで追い詰められた。
赤松は役所の窓から外の景色を見た。すべての苦労が水泡に帰するかもしれないと涙があふれた。
そして、赤松は山根に最後の電話をかけてみようと思った。
「不十分な法律であることはわかっている。しかし今法律をつくっておくことが大事である。法律ができなければ、国連の女子差別撤廃条約を批准できない。これでは世界の動きからいっそう遅れてしまう」。
そして電話は無言で切れた。
そして翌日、山根和子は審議会に出席していた。山根は赤松を睨んだようにみえたが、赤松は山根が来てくれるような気がしていた。
赤松は、法案の説明をしながら、心の中で赤松は山根に頭を下げていたという。
そして1984年、国会で男女雇用機会均等法が成立した。
働く女性たちにとってこの法律の成立はこの上ない朗報だったろうが、違反者に対する罰則義務規定がなく、努力義務規定に留まってしまったという弱点もあった。
しかし「小さく産んで大きく育てよう」という赤松の確信は正しく、97年に均等法は大幅に改正され「募集、採用、配置、昇進、教育訓練、福利厚生、定年、退職、解雇」のすべてにおいて、男女差をつけることが禁止され、赤松がかつて無念の涙を呑んで見送った「禁止規定」が盛り込まれた。
それどころか「ポジティブ・アクション」つまり女性を積極的に昇進昇格させ、男女比を合わせる方針も盛られていた。
さらに2回目の改正(2006年)では、女性だけではなく男性に対するセクハラ防止義務などが盛り込まれた。
後日、当時を振り返って赤松は山根に言った。「あなたはたいしたものだった」。山根も「あなたこそたいしたものだった」と返した。
結局二人は「思いは一つ」であったのだ。

特定秘密法は2014年、「秘密」の対象を限定して成立した法律である。
その秘密とは、①防衛②外交③スパイ活動防止④テロ防止の4つの分野で55の項目が対象になった。
しかし、その55項目を見ると「自衛隊の訓練」「国民の生命及び保護」などと抽象的で、何を指しているのか曖昧である。
したがって、テロの脅威や国際情勢の急変により「4分野55項目」が拡大されていくのが懸念される。
また、「秘密」の内容が拡大解釈され、政府にとって都合の悪い(国民に知られたくない)情報を「特定秘密」にして隠す恐れもある。
また、今のところ公務員および、省庁などと契約している民間業者などが秘密をもらせば、最長で10年の刑課せられるが、それがマスコミなど一般国民に広がれば、かつての「治安維持法」の轍を踏むことになる。
戦前の悪名高い治安維持法もまた「小さく生んで大きく」なった法律である。
注目したいことは、治安維持法を成立させたのは「護憲三派」の政党内閣だったという点である。
したがって政党がなぜ自らを縛りかねないこの法律を生んだのか、さらにその後の「拡大」をなぜ許したのかは、今日的問題ともいえる。
治安維持法は本来、暴力や革命の発生源となる「結社」を取り締まろうとしたにすぎない。
しかしその後、暴力や不法行為の実態が無くても、学問や研究といった分野さえもこの法律の対象は広がっていく。
つまり警察による恣意的な法運用を許し、自由主義や反戦運動も適用の対象となり、政党自身が息の根を止められていくのである。
実は背景に、日ソ基本条約締結と普通選挙法があり、日本政府には自由主義・民主主義を力により転覆させようとする勢力、すなわち共産党や無政府主義にどう対抗するかという問題意識が強く浮上してきた。
そして取り締りを重視する「政友会」と社会政策を重視する「憲政会」、行政警察を重視する「内務省」、そして法治を重視する「司法省」の四者の妥協のもとで1925年に治安維持法が成立したのである。
しかし、文言の曖昧さもあって、時代を下ると検察などから「拡大運用」を求める声があがり、治安維持法の改正(改悪)がなされていく。
特に1928の法改正では、最高刑が「死刑」にまで引き上げられていったのである。
平成の1985年成立の「労働者派遣法」も「小さく生んで大きく育てる」方向に進み、日本社会を根底から変えたといってよい。
もともと労働者を派遣して働かせるというのは「中間搾取」や人権侵害につながるおそれがあり、本来、労働基準法で禁じられていたものである。
しかし、業務の電算化や、機械化が急速に進み、ビジネスの現場では外部の専門的な技術や知識を活用したいというニーズが高まってきたことを受けて「労働者派遣法」が制定された。
始めは、ソフトウエア開発や秘書など「13の専門業務」にのみ限定して、派遣事業が認められたが、その後、26業務に増え、2003年には長く議論されてきた製造業への派遣も「解禁」となった。
2008年、リーマンショックによる景気悪化で、多勢の派遣労働者がいわゆる「ハケン切り」にあい、職を追われ、行き場のなくなった人たちが、年末・年始の寒空の中、日比谷公園に集結し「年越し派遣村」として、大きな社会問題にもなったのが、今なお記憶に新しい。

2015年、新たに浮上しているのが、「残業代ゼロ法案」である。
政府はこの4月、残業代や深夜手当が払われなくなる新たな制度を柱とした労働基準法などの「改正案」を閣議決定し、国会に提出した。
政府は成長戦略の目玉の一つとしているが、野党の一部や労働組合などは「残業代ゼロ法案」への批判を強めている。
「残業代ゼロ」というと、誰しもがそんなバカナと思うかもしれないが、これは仕事を時間ではなく「成果」で評価するということと表裏一体の考え方である。
例えば、遊んでいるのか、働いているのか、明確に線をひけないような創造的な仕事をしているような人は、こういう雇用形態の方が相応しいかもしれない。
以前、NHK[プロジェクトX]に登場した池田敏雄という一人の技術者のことを思い浮かべた。
戦後、コンピューター市場に君臨したのはアメリカの大企業IBMであった。IBMは世界市場の7割を抑え、高い技術で他を圧倒し、「巨大な象」と呼ばれた。
その巨象に挑んだのが池田敏雄で、富士通のコンピュータ業界における基礎をつくり、ミスター・コンピューターとよばれた。
実は池田は学生時代よりトップクラスのバスケットの選手として活躍したばかりではなく、それ以外にも囲碁・麻雀をはじめ趣味は多彩だったが、遅刻・欠勤・行方不明の常習犯で、問題社員の1人でもあった。
その池田が社内で一躍注目を浴びることになったのは、1947年、電話機を納入していたGHQ(連合国軍総司令部)から苦情が入ったときのことだ。
「雑音が聞こえる、欠陥商品だ」会社側は大慌てで、必死に調査を行ったが、原因はわからなかった。
そんな中、機構研究室課長に二冊の大学ノートを差し出しながら、原因がわかりましたと言ったのが池田だった。
「この電話機ではダイヤルが100回転するたびに、構造上必ず1度雑音が起こります。理論的に避けられない現象です」
ノートには、精緻な証明がびっしりと書き込まれていた。課長はあ然とした。「こいつはいったい何者なんだ」と。
富士通がIBMに挑むのは、資金力や技術力の差からみて「象と闘う蚊のようなものだ」と笑われた。
実際、池田達が何度、コンピューターを開発しても、更に性能の高いIBMのコンピューターが市場を席巻していった。
それでも池田は諦めなかった。そして大規模集積回路「LSI」こそが逆転のカギだと確信し、当時不可能といわれた「LSI」の搭載に挑んだ。
4ミリ四方に数千本もの配線。チップの温度は瞬く間に200度を超え、焼き切れた。
池田は何かの閃きを得ると、職場・自宅のほか、同僚の家でもひたすら考え続けた。
ついには出社することさえ忘れ、夕方になって突然会社にやってきて、今度は会社から帰らずに数日考え続けたというエピソードもある。
数日出社しないことはザラであり、日給制が普通だった当時、これでは池田の給料が支払えないと困った会社側が、池田を支持する同僚の訴えを聞き入れて、彼だけ「月給制」にしたという。
池田が在籍していた当時の富士通にはこうした奇行を受け入れる社風が存在し、池田の天才的能力を生かせるだけのメンバーが揃っていたともいえる。
そしてトンカツ屋や喫茶店などがプロジェクト・ルームとなって、そこに部下を集め、開発を進めた。
また、熱海市の保養所泊り込みでの研究開発時に温泉三昧をしていたこと、多摩川の河原で模型飛行機を飛ばして近所の子供達の人気者だったエピソードも知られている。
ところで、労働基準法における労働時間は、原則1日8時間、週40時間で、それを超えると「割増賃金」となるが、今でも経営者に近い管理職には「適用除外」となっている。
例えば、部長級などの上級管理職や研究者などの一部の専門職に限って、企業が労働時間にかかわらず賃金を一定にして「残業代」を払わないことが認められている。
そのため「名ばかり管理職」などの長時間労働問題が起きているわけである。
前述の池田敏雄の場合は極端な例だが、創造的な仕事をする人は、会社にでることがあまり意味がない場合もあるし、会社に来たとしても働いているのか、頭脳労働したり、閃きをまったりして、遊んでいるかわからないような時間を過ごす。
それならイッソ、労働時間よりも「成果」で評価したほうが適当であり、本人も満足できる。
さて、この4月に国会に提出された「残業代ゼロ法案」は、管理職以外にも一般の労働者にも広げようとしているということである。
これををワイトカラー・エグゼンプションというが、今のところ、そのの対象は、年収が1075万円以上ある為替ディーラーやアナリスト、研究開発職などである。
また、高収入でなくとも労働組合との「合意」で認められた社員ということになっている。
しかし、いままで見てきた「小さく生んで大きく育った」ケースから推し量られることは、「残業代ゼロ法案」の適用範囲が「成果評価」を前面に出しつつ、ごく平均的な労働者にまで拡大するのは、充分にアリウル話である。