場所の素性

ひとつの場所には、様々な人々の思いが交錯し重層している。しかし「近代化」の過程で、それらを覆い隠してしまった面がある。
「春の小川」は1912年につくられた文部省唱歌。
作詞の高野辰之氏は、渋谷の代々木に暮らし、渋谷川の支川・河骨川の景色を詠みこんだ。
しかし今や、渋谷駅から上流は蓋をされて暗渠となり、下流では開渠ではあるものの、深く掘りこまれたコンクリートの三面張り水路となっている。
現在では、山手通りと井の頭通りが交差するあたりの小田急線代々木八幡駅近くに「春の小川」の石碑がたっている。
明治末から大正にかけて渋谷では大水害が続いたため、河川改修への住民の強い要望が寄せられた。そのため、昭和初期に河川改修事業が実施されて、このような姿になったという。
大きな治水効果を発揮したものの、同時に住民を川から遠ざけることにもなった。
さらに、1964年開催の東京オリンピックが契機となって、都内14河川の全部または一部の「暗渠」化が決定された。
すなわちオリンピックを開催するために江戸から連綿と続く風土・景観が切り捨てられたのである。
東京オリンピックにむけて急ピッチで工事が進められたが、川に蓋をしたのは日本だけではなく、「暗渠化」は、20世紀・経済活動優先の「象徴的行為」といってよい。
こうした「臭いものに蓋」をするかのような「都市河川の地下化」が、現在の乾ききった、ヒートアイランド現象に苦しむ東京に繋がっている。
童謡「春の小川」をコンサ-トで必ず歌うロック歌手がいる。
加瀬竜哉は、小さい頃、宇田川という河の側に住んだが、川の存在を知らなかった。
この行為は大人たちの愛、つまり後年自分達が安全に清潔に生きるための選択だったに違いない。
それでも、自分が川の上にいて生きていることを知ってショックをうけた。知らなかったことが「無念」だと思った。
人は何かを得るために何かを犠牲にしていることを思い、加瀬は東京中の暗渠を訪ね歩くことになる。
そして町の表には出てこない川の暗渠を探しだし、見つけては(フタ)をあけてはいりこみ、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。
加瀬にとって「春の小川」こそロック魂の原点なのだという。
今、「天空の蜂」という映画が評判となっており、原作は1995年で舞台は福井県の原発となっている。
防衛庁から奪取された最新鋭にして日本最大のヘリコプターが、稼働中の高速増殖炉がそびえ立つ原発上空に現れ、 電力会社、県庁、マスコミへ一斉にFAXが届く。
「現在稼働中、建設中の原発を全て使用不能にしなければヘリコプターを落とす。燃料がなくなる10時間が期限である」と。
さらに、ヘリコプター内には子供が取り残されている事が判明する。
犯人の動機は、真実をみようとせず沈黙する「仮面」をつけた大衆に対する蜂の「一刺し」なのだという。
我々の繁栄は何によって支えられているのか。作者自身の思いが、犯人の口を借りて吐露されている。
東野圭吾がこの作品を書いて16年を経て、東日本大震災で未曾有の地震と津波という形で私たちの我々の現実に堕ちてきた。その作者の「先見性」に驚く。
さて、311の東北大震災まで、日本の電気の1割が福島でつくられている。
ある人の記事によれば、福島にいけば、なぜこれだけの原発がこの地にあるのか、という疑問がわくという。
「浜どうり」に立ち並ぶのは原発だけではなく、東電や東北電力などの巨大火力発電所軍もあり、出力の合計は原発を上まわっているほどだ。
歴史的にみて、福島県の「浜どうり」は、色々な文化を繋ぐ場所で、地形的にも文化的にも、東北と関東のいわば「分水嶺」であった。
また浜通りには、良質の蹉跌、製鉄所に必要な良質の年度、燃料の木炭に適した樹木がそろっていた。
明治時代以降、「電化」の時代が到来すると、福島は発電の一大拠点となる。
猪苗代湖など豊かな水源をもつ会津に次々と水力発電所が建設され、やがて東京も直接送電されるようになる。その電気が日本の近代化を支えた。
最近NHKで、昨年88歳でなくなった山崎豊子の特集があった。
山崎豊子は、戦争をあつかった「不毛地帯」や「大地の子」「運命の人」など、いくつもの大作を書いた理由として、我々の繁栄が「何」をどういう犠牲によってアルのかを、一般の人々にも伝えたかったと語っている。
たまたま、その番組の直後の報道番組で、なぜ米軍基地が沖縄に集中しているのかを伝えていた。
沖縄には在日米軍基地の3/4が集中する、その内さらに3/4が海兵隊の基地。しかし海兵隊は元々沖縄にいたわけではない。
岐阜基地はかつてアメリカ海兵隊の基地だった。
岐阜・各務原市(かがみがはら)の基地ではゼロ戦など試験飛行を行っていた。
しかし1945年6月22日に各務原空襲があり8月15日終戦した。米軍による基地接収がありアメリカ海兵隊が駐留した。
街中には女性が米兵を接客する居酒屋が次々開店した。
しかし朝鮮戦争が始まり、暴力沙汰や性暴力などが起き、現在の沖縄を取り巻く状況そのものだった。
当時は、警察も米軍の下にいて反対運動ができず、基地経済に依存していたことも反対運動を躊躇させていた。
しかし日本の警官が居酒屋で暴れた米兵に発泡したことから 「反基地」が進んだ。
また当時おきた砂川事件やジラード事件などを受けアメリカへの批判の声が高まった。
アメリカは地上部隊を撤退させると表明。岐阜基地でも1958年、海兵隊が完全撤退した。
そして、撤退した基地が向かった先が沖縄だった。
海兵隊の沖縄への移設に日本政府も歓迎しているアメリカの報告書も見つかっている。
在日米軍基地の沖縄に占める割合は1950年代は1割ほどだったのだが、その後逆転し今や74パーセントにまでなった。
つまり、アメリカ海兵隊の存在は、反米運動の激化を避けるためにも、多くの日本人の目から遠ざけられた。そして「重いもの」を一身に背負ったのが沖縄である。

最近では、「スマートハウス」や「スマートシティ」あるいはコンピュータとロボットがすべてを制御する「スマート工場」があらわれている。
特に、2010年代にはアメリカの「スマートグリッド」の取り組みをきっかけとして、地域や家庭内のエネルギーを最適制御する住環境として再注目されている。
しかし、生活や工場が「最適制御」されのはいいといても、人々の生活空間が、ますます「歴史性」を失っていくように思える。
自分達の職場の環境や住環境など「場所の素性」を知れば、我々が何の上に立っているのかを実感できる。
我が福岡市にはキャナル・シティという人工空間があるが、そこが鐘紡工場跡地に立っていることや、吉塚のパピオン広場が日本たばこ産業跡地に立っていることを、知る人は少なくなりつつある。
東京でいえば、池袋サンシャインシティは、A級戦犯が処刑された巣鴨刑務所跡地に建てられ、渋谷のNHKは、226事件の首謀者の処刑地となった原っぱの上にたっている。
また2019年東京オリンピック開催までに、新国立競技場が建設されることになった。
同じ場所で、1964年10月10日に平和の祭典・東京オリンピックがあり、14日の間聖火が燃え続け8000羽の鳩が飛びたったことを多くの人々は知るであろう。
しかし、この場所はそこからさらに溯ること21年、同じ競技場のトラックを「隊列」が進んでいった。
戦局が悪化のした1943年10月21日、徴兵猶予を説かれた大学生が2万人以上が「出陣学徒壮行会」に臨んだのである。
スタンドの女子学生からは「海ゆかば」の大合唱が沸きおこっていたのである。
そこで、「地名の由来」を知ることは、「場所の素性」を知り、その土地の素性・正体を知る最初の手がかりとなる。
世界選手権で注目されたラグビーの五郎丸選手は、福岡市南区の「三宅ラガーズ」でラグビー初めて学んだことを知った。
この三宅の名は、古代の役所である「屯倉」を連想する場所である。 自分が野球をしにいていた三宅小学校に手洗い場の石は、ある歴史を秘めたものであることを知ったのは割と最近だ。
大宰府の前身の「筑紫の大宰官家」は現在の三宅小学校に隣接した若八幡宮あたりにあったといわれている。
663年白村江での敗戦後、海岸に近い今の三宅の地より、内陸の太宰府の地に移転したのである。
その「筑紫の大宰官家」の初代長官が蘇我日向(そがひむか)である。
この蘇我日向は日本史では悪名高き人物で、中大兄皇子に異母兄・倉山田大臣を讒言し妻子ら8人もろとも山田で自害においこんだ人物である。
孝徳天皇が真相究明のために倉山田大臣の自宅を捜索すると、倉山田大臣の無罪が証明された。
蘇我日向はそうした血に塗られた事件の首謀者として都をでて「筑紫の大宰官家」にやってきたのである。
若八幡宮の手洗い場の石こそ、その日向が長官であった時代の「筑紫太宰官家」の礎石だといわれている。
さて以前から、早稲田大学のラグー選手の中に「五郎丸」という名の選手がいるのを知っていた。
その時には、福岡県の筑後地方を走る甘木線に「五郎丸」という名のつく駅があることぐらいが浮かんだ。
ラグビーの世界選手権をきっかけに調べると、「五郎丸」の地名は西日本を中心に点在するが、その「発祥地」は、筑後国那珂郡五郎丸(現福岡県筑紫郡那珂川町五郎丸)という。
五郎丸の丸は「開拓」を意味する言葉、したがって五郎さんが開拓した土地ということになる。
地図で探してみて驚いたのは、那珂川町「五郎丸」の地名のすぐ近くに、「安徳」という地名があったことである。
20数年前「安徳」あたりをバイクで通り過ぎながら、その地名が気になって那珂川役場に尋ねた場所だった。気になった理由は、安徳天皇を連想する名前であったからである。
安徳天皇は高倉天皇の子で、母親は平清盛の女・建礼門院・徳子である。
1185年壇の浦の戦いでわずか7歳で海中に入水し没したことはよく知られている。
役場の方に安徳天皇は瀬戸内海を漂う前に平家ゆかりの地・太宰府を訪れたことがあるという話を聞くことができた。
平清盛は1157年、大宰大弐として太宰府の地にいたことがある。
「大弐」なる地位の場合、代理人を派遣するのが通例であるが、博多での貿易の利に目をつけていた平清盛は太宰府の地に実際に赴任していたのである。
しかし平清盛死後、平家は没落の一途をたどり、東国から源氏の追討をうけ、清盛ゆかりの地・太宰府に逃れた。このころ平家一門は安楽寺(太宰府天満宮)に参り、終夜歌詠み連歌をしている。
大宰府天満宮すぐそばに「連歌屋」という地名があるが、この場所で飯尾宗祇などもここを訪れ連歌を詠んだのである。
この時平家に擁された安徳天皇は、坂本の善正寺と筑紫郡那珂川町にある原田氏居城を行在所としている。
那珂川町の安徳台と呼ばれる小さな台地を訪れたところ、畑の中に大きな木がありそのすぐそばに「安徳天皇行在所」をしめす碑が立っている。
福岡には、「安徳」の他にも、天皇にごく近い人物の名が地名になっている場所がある。
福岡県糸島半島の志摩町にある「久米」と名がついた集落から火山北麓側へと山道を登ると、聖徳太子の弟、来目皇子(くめのみこ)の墓に出会う。
たまたまこの地を訪れて「久米」という地名が、この皇子の名に由来するものであることを知ったのである。
来目皇子は用明天皇の皇子、聖徳太子の同母弟であり6世紀後半に活躍した人物である。
来目皇子は602年に朝鮮半島内の勢力争いの際に敵対していた新羅という国に攻めこむ為2万5千の大軍を久米港に駐屯させた。そして翌603年皇子がこの地で病死した。
久米は日本で最古の軍港とされ、墓がある地を登り火山の頂上からみると、西方は弧状を描いて松林と砂浜の「弊の浜」が美しくのびている。
「火山」の名も急を知らせる狼煙をおいたところからつけられたといわれている。

地名がかならずしもその場所の「素性」を表わしていない。日本人には「言霊信仰」があるので、現状とは裏腹な名前がつけられるからだ。
平城京でから、長岡京を経て京都に都を移し、そこに「平安京」と名づけられたのも、それまでの貴族や豪族の争いが絶えなかったからだ。
例えば、我が地元福岡には「平和」とよばれる地域があるが、それは、陸軍第12師団歩兵第24連隊が置かれた場所であったがゆえに、平和への願いをこめてコノ地名がつけられている。
そして福岡城址の中に立てられた「平和台球場」は、西鉄ライオンズの黄金期の舞台となったが、この球場あたりが第24連隊の拠点となったところである。
またこの平和台球場のグランド下には、古代における迎賓館である「鴻臚館」が、眠っていた。
公式の住所以外の「通称」にも、人々の夢や屈折した気持ちが秘められている。
例えば、東京・青山には通称「キラー・ストリート」という通りがある。直訳すれば「殺人者通り」で、こんな名前を治安の悪い国でつけたら、本当に誰も歩けなくなる。
日本人には、1960年代に「ピンキーとキラーズ」とかいうグループ名があったくらいだから、それほど「キラー」という言葉には抵抗はないようだ。
通りの名づけの親は、この通りに東京進出の一号店を開いたファッション・デザイナーのコシノ・ジュンコさんである。
コシノさんは、名刺に「キラー通り」と書いたり、タクシーの運転手に「キラー通りまで」と告げるうちに、この名前をすっかり定着させたという豪腕ぶりを発揮した。
ところで、「キル」という言葉は「魅了」するという意味もある。昔、ネス・カフェのコマーシャルで流れたロバータ・フラックの「キリング・ミー・ソフトリー ウィズ ヒズ ソング」という歌詞もそういう意味か。
そしてこの「キラー通り」には、1970年代以降、若手建築家が才能を競うように「前衛的」な建築物を建てていったため、「キラー・ストリート」は、実際に人々を魅了することになった。
最近では、不特定多数を狙った「理由なき殺人」が頻発し、この通りもシャレが通じないくらい物騒になると、もはやこの名前のママではいられなくなる。
実際に、我が福岡市の繁華街には「親不幸通り」というのがあったのだが、ある事件がきっかけで、住民の要望で「親富孝通り」に変えられた。
つまり、「親不幸通り」なんてヒネリのきいた名前をつけられる時代は、遠くなりつつあるのかもしれない。
そういえば、鹿児島の南方に浮かぶ「喜界ケ島」という孤島がある。
平安時代に天皇に対して謀反の陰謀をめぐらせたとされる僧・俊寛が流されたところが「鬼界ケ島」といわれた。
そして今、この島には「喜界ケ島」という名がつけられている。
島民が、島の名前を変えたくなる気持ちもわからぬではないが、この楽しげな名前では、この場所の「素性」を消すことになる。