月の裏側の孤独

人は正しいことに邁進して、その「正しさ」に裏切られることが往々にしてある。
「正義」が危険なのは、人間が言葉を操る生きものであることと関係しているのかもしれない。言葉は宿命的に世界を限定するからだ。
その結果、誰よりも正しいはずの自分が、なぜこんな「凶悪犯」になったのかと、自問する外ない人生だってある。
新約聖書「マタイの福音書」に、イエスが聖霊に導かれて荒野にいって悪魔の試みにあう話がでてくる。
悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛び降りてごらんなさい。神はあなたのために御使いたちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、と”書いて”ありますから」と試みる。
それに対して、イエスは「主なるあなたの神を試みてはならないと”書いて”ある」と反論している。
ここで示すとうり、悪魔でさえも「神の言葉」を使うとするならば、「文字に仕える」ダケの信仰とは、なんと危ういものであろうか。
「文字に仕える信仰」を「ドグマ信奉」といいかえてもよい。
、 1970年代の初め「革命」を目指した連合赤軍が群馬県の山中で行った「総括」と称した粛清殺人事件があった。
革命を目指して武装訓練をしていた若者達は、山奥に追い詰められて疑心暗鬼に陥り、互いに殺しあった。
若者達が滑り込んだ闇の大きさに衝撃が走ったが、親の中には、子供がそんなに簡単に罪を認めて欲しくないという微妙な思いもあったという。
彼らなりに真摯に正義を求めていたからだ。
作家の瀬戸内寂聴は、連合赤軍のリーダーで14名もの同士を殺害した永田洋子死刑囚と300通近くの手紙のやり取りをした。
なぜ、作家が死刑囚と関わったのかといえば、自身の出家体験と関係しているとしかいいようがない。
どうしても好きになれなかった彼女から手紙が来るようになり、瀬戸内女史は、今まで抱いていた永田洋子のイメージと全く違う人物と個性をそこに発見したという。
大量の同志殺害をした狂気の殺人鬼というイメージは彼女の手紙のどこにもなく、世間知らずの、一本気の、単純な正義感に支えられて、ひたすら世直しを夢見ていた少女が、そのまま年をとらずに獄中で凍結されたままいるような気がしたと語っている。
瀬戸内女史は、永田死刑囚に「他の人間のする悪徳の芽は全部自分の中にもあると思うのです。たまたま運がよくてその芽が表にでていないから、わたしは平然とこの世に生きているのにすぎないのでしょう」とも書いた。
そして、宗教を持つわけでなく、あの世を信じているわけでもない永田洋子だったが、殺した人々の冥福を作家に祈ってほしいとは度々もらしたという。
永田洋子死刑囚は、2011年2月5日獄中にて脳腫瘍ために死去した。
1990年代に一連の凶悪事件を起したオウム真理教の信者達は、バブル経済にむかう物質主義に対する疑問から精神世界を求めて入信した人が多かった。
つまり、当時「ジュリアナ東京」で踊って浮かれていた者達よりも、はるかに真剣に人生について考える人達だった。
オウム真理教に入信し8人の殺害に関わった容疑で死刑判決を受けたエリート医師は、逮捕後に「月の裏側へすべり落ち、ひとり取り残されたような恐怖」とその心境を語った。
村上春樹はこの「孤独」にインスピレーションを受けて、「1Q84」という本を書いたが、続けて次のようなコメントを書いている。
「僕が今、一番恐ろしいと思うのは特定の主義主張による”精神的な囲い込み”のようなものです。多くの人は枠組みが必要で、それがなくなってしまうと耐えられない。オウム真理教は極端な例だけど、いろんな檻というか囲い込みがあって、そこに入ってしまうと下手すると抜けられなくなる」。
そして自分の創作の意義について、「物語というのは、そういう”精神的な囲い込み”に対抗するものではなくてはいけない。目に見えることじゃないから難しいけど、いい物語は人の心を深く広くする。深く広い心というのは狭いところにはいりたがらないものなんです」と述べている。

さて、月の裏側に滑り堕ちるような恐怖といえば、フランス第一共和政における「恐怖政治」が思い浮かぶ。
フランス革命で「自由と平等」という理想(=正義)を求めたロベスピエールは、王のない共和政を実現し、「理性」を最高存在とする祭典まで行った。
ロベスピエールは、革命政府の破壊をもくろむ陰謀家の敵から共和国を守らなければならないと、革命と人民の大義の擁護者を自認し、終始一貫して主張を変えなかったため世論の支持をうけた。
当初は外国の宮廷や国内の反対勢力が対象だった「粛清行為」も、「人民の中にも外国の敵によって指導された陰謀家が交じっている」といった論理に基づき、人民をも処罰する方向に拡大する。
つまり自らが最も凶悪な独裁者と化していった。外国からの包囲網の中で1万6千人以上もの自国民をギロチン台に送った。
1894年にロベスピエールを失脚させる「原動力」となったのは、独裁は認めないという議会制民主主義の萌芽ともいえる当時の世論であり、それは彼自身がかねて主張してきたことだった。
しかし自身がギロチン台に立つとき「月の裏側へと滑る」思いだったに違いない。
また、現代アジアではカンボジアのポルポト政権も「ドグマ信奉」に陥っていった。
ポルポトはカンボジアの中流の農民である。従姉妹は国王の側室になっていて、王室とは繋がりがあった。
そのため、学校の勉強はできず成績も悪かったが、従姉妹の関係で奨学金をもらうことができ、そのお金でフランスに留学した。
この留学の最中に社会主義者になったのだが、社会主義の文献を読んでも理解できず、他の社会主義者とは遊離した存在だったという。
そしてマルクス・レーニン主義をどの程度理解していたかは疑わしく、その思想形成も彼独自のものだったといってよい。
カンボジアに帰国すると私立学校で教師をしながら働きながら民主党の活動に加わり、その後カンボジア共産党に流れる。
なかなか出世することが出来なかったが、共産党上層部が政府の弾圧によって殺されていくと、ポルポトはどんどん出世して、最終的には書記長にまでのし上がったのである。
その上に、ロンノル将軍のクーデターは国王を慕う農民達をカンボジア共産党の支持者に変えてしまい、ポルポトは内戦で勝ち抜いて社会主義者革命を実現してしまう。
国民は共同農場に所属させられ、学校も病院も廃止された。国民は全員が黒い綿の農民服を着せられ、家族というまとまりは解体され、共同農場の食堂で一緒に食事をとること義務づけられた。
子どもたちは、5~6歳で親から引き離され、「国家の子ども」としての教育を受ける。
恋愛は認められず、党が決めた相手と結婚して子どもを生むことを強制された。
家族と引き離されたことに抗議したり、家族が死んだことを嘆いたりすると「反革命」として処刑されたので、国民は自らの感情を表に出さなくなったという。
そして「通貨の廃止」から「私有財産の没収」、そして「都市の破壊」から「文化財の破壊」までをやり、その結果200万人におよぶ人々が命を落としたといわれている。

「赤頭巾ちゃん気をつけて」(庄司薫作/1971年芥川賞)は、「若さ」という狼に食い尽くされないようにという当時左翼活動に突き進む若者達(赤頭巾)への思いがこめられていたが、そのメッセージ自体はほとんど影響力をもたなかった。
さて、1970年3月31日、9人の「赤頭巾」達が飛行機を乗っ取り朝鮮平壌に降り立った。
JAL351便がハイジャックされた事件で「よど号事件」とよばれている。
日本で起こった初めての飛行機乗っ取り事件に、事件発生から福岡空港での給油から解決までの122時間、全国民が固唾をのみ、テレビにくぎづけとなった。
ハイジャック3日目、金浦空港で赤軍派と交信していた若き代議士・山村新治郎が突如として「乗客の身代わりに人質になる」と申し出た。
人質交換が決まった夜、赤軍派と乗客たちは奇妙なお別れパーティーを開いた。
「別れ」を主題とした詩吟を吟じたリーダー格の田宮高麿、お返しに乗客代表が歌ったのが小林旭の「北帰行」だった。
ついに、搭乗口のドアが開き乗客が降り始めたのは、羽田離陸から80時間後のことだった。
乗客の一人が飛行機に乗った思い出に、羽田離陸から90分にわたり機内の様子をカセットに録音していた。
その中には「私たちは共産主義者同盟赤軍派です。北鮮に行き、そこにおいて軍事訓練を行い、今年の秋、再度日本に上陸し、断固として前段階武装蜂起を貫徹せんとしています」という肉声が残っている。
そして、9人の過激派学生は北朝鮮平壌に降り立った。彼らハイジャッカーたちは、今還暦を過ぎている。
北朝鮮に渡ったハイジャック犯のうち田村高麿は処刑されたが、その後4人が死亡、平壌に残る者は4名となった。
ところが、彼らが理想とした「皆が等しく働き、働きに応じて生活の糧を得る」という生き方さえも許されなかった。
彼らはその生活を、北朝鮮当局によって完全に「保証」されてきたからだ。
これまで拉致問題や帰国問題では断片的に発言してきた彼らだったが、還暦を過ぎた今、事件を風化させたくないという思いから、ハイジャックの全容についてインタビューに応じている。
ある者は、「あれから40年、万感の思いが込み上げてきます。当時、私たちが"革命的行為"だと思っていたハイジャックは、正義のためなら人民を盾にしてもよいという自分本位の行為でした。よど号闘争の誤りを認め、人質となった乗客、乗務員の皆様を危険な目に合わせたことを心から謝罪します」と語っている。
またハイジャック犯の中には、サイケデリックバンドのメンバーもいた一方で、オウムと同じく東大医学部出身の超エリートもいた。
「私は癌の研究をしてたらここにはいない。人のためになることをしたいと東大医学部に入ったが、革命家と医者、どっちが人の為になるかを考えて革命家を選んだ」と語った。
現在、かつてのハイジャック犯は早期帰国を望んでいるという。
帰国すれば逮捕される。それでも帰国を望むという心境には、滑り落ちた月の裏側の孤独を伝えているようだ。

亡命先に幻滅して早期帰国を望む人がいる一方、派遣先から帰国したらすっかり情勢が変わり、「厄介者」としての孤独を味わった人もいる。
1618年、伊達政宗は宣教師のソテロとともに支倉常長をローマに送ることを命じた。
一行は仙台領の「月の浦」(=宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡る。
この大航海の目的はメキシコとの通商と宣教師の派遣をスペイン国王とローマ教皇に要請することであった。
彼らがスペインで約一ヶ月を過ごしたセヴィリアは、マゼランが世界周航へと出港した港町でスペイン第4の都市だけあって、町並みはとても華やかで活気があった。
一行26人(資料によって異なる)のうち6~9人はどうやら最初に上陸したコリア・デル・リオに留まり、そのまま永住したらしい。
さらにマドリッドではスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜り、ここで支倉常長は洗礼を受けバルセロナに滞在後ローマへと向かっている。
彼らはローマで熱狂的な歓迎を受け、教皇パウロ5世に謁見し、伊達政宗の手紙を渡している。
しかし彼らがようやく帰国した1620年は、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていた。
日本ではしだいにキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が教皇のもとに届いており、交易を約する返書をすら得られず7年後に帰国している。
しかしキリシタンとなった彼らの多くは「招かれざる帰還者」であり、仙台藩にとっても厄介者になっていく。
そうして帰国した支倉らは、以後身を潜めて生きなければならなくなったのである。
仙台市、広瀬川の橋のたもとには、殉教者の石碑が建っており、東北キリシタン弾圧の凄まじさを物語っている。
時代を現代1950年代に下って、「地上の楽園」を信じて北朝鮮に「帰還」した者達も「月の裏側」に堕ちることになる。
浦山桐郎監督の映画「キューポラのある街」は、吉永小百合主演の映画で、中小の鋳物工場の建ち並ぶ埼玉県の「川口」という街が舞台である。
そして、鋳物工場のシンボルこそが「キューポラ」とよばれる煙突の形をした鋳物溶場である。
そこで働く労働者たち、働けど働けど暮らしは一向に向上することのない社会の下層の生活者たち、そして同じ労働者であって差別され続ける朝鮮人、そして北朝鮮への帰還事業、等々、その当時の社会的な背景がこの作品に大きく影を落としている。
1958年8月、神奈川県の在日朝鮮人達が、北朝鮮に集団帰国を求める運動を始める。
この運動に対して、翌月、金日成首相が「在日朝鮮人の帰国念願を熱烈に歓迎する」と表明した。
この運動の中心になったのは、在日朝鮮人の団体である「朝鮮総連」(在日本朝鮮人総連合会)であった。
「朝鮮総連」は、日本人に住む在日朝鮮人の組織で、在日朝鮮人の帰国運動を展開した他、各地に朝鮮人子弟の教育のための「民族学校」を建設してその運営に当たってきたが、在日朝鮮人の日本国内での権利を守る活動を続ける一方で、「北朝鮮政府の代弁者にすぎない」という批判もある。
2002年9月、金日成が日本人拉致を認めたことで、これまで拉致を全面否定してきた朝鮮総連に対して、在日朝鮮人からの批判も上がった。
この朝鮮総連が1950年代に始めたプロパガンダ、「北朝鮮は教育も医療も無料の社会主義国」「地上の楽園だ」と信じた人々が、帰国したのである。
映画「キューポラのある町」には、吉永小百合演じる中学生のジュンが、北朝鮮に帰るヨシエちゃんを見送り行くシーンが出てくる。
大勢の人が見送りに来て、北朝鮮の旗を振りながら「マンセー(万歳)」を何度も叫んでいた。
当時の日本の雰囲気は、ジャーナリズムを中心とした左派的傾向からこのプロパガンダにすっかり乗ってしまい北朝鮮「地上の楽園説」は増幅された。
稲垣武の「悪魔祓いの戦後史」(1995年/文芸文庫)は、スターリンや毛沢東、金日成らに幻惑され、彼らを熱狂的に支持しミスリードしたいわゆる「進歩的知識人」やジャーナリズムの言論を検証し、その責任を追及した労作である。
ところで、北朝鮮に帰国した人々は北朝鮮の現実を目の当たりにして、肉親が帰国しないように知恵を絞った。
北朝鮮に帰国した人が日本国内に残った家族や親族に送る手紙は、すべて検閲され、不平不満が書いてあるとその手紙は日本には届かなかったからだ。
そこで、肉親が自分と同じように帰国しないように次のようにして当局の目をごまかした。その手紙には、本人と自分しか知らない、どん底生活を示す場所「○○」と次のように記入したのである。
「金日成将軍様と朝鮮労働党の深い御配慮により、生活は○○で私達が暮らした時と同じですから御安心なされまして、必ず△△子が結婚後には、ご帰国して下さるようお願い申し上げます」。
この手紙の意図は、ここはどん底生活だから来るな。来るとしても△△子が結婚する年頃になるまで、つまり20数年後まで来るな」という暗号だったのである。