「伝記」を書く動機

 伝記または自伝を読む面白さの一つは、人(家)と人(家)との意外な関係を知る「発見」にある。
例えば、渋沢栄一の伝記「雨夜譚」を読むと渋沢家と音楽一家で知られる尾高家(NHK交響楽団指揮者)との関係を、また安岡章太郎の伝記「流離譚」では、安岡家と寺田寅彦を生んだ寺田家の関係を知ることができた。
また西園寺公望の「自伝」では、自由民権運動の中江兆民との交流や「高橋是清自伝」では、唐津における建築家・辰野金吾などとの師弟関係などを知ることができた。
しかし「伝記」のもうひとつの面白さは内容もさることながら、なぜある作家が或る人の伝記を書こうとしたかという「動機」の点である。
もちろん様々な事情から、偶然に資料が手に入ったということもあろう。
例えば、大佛次郎賞をとった「中村屋のボーズ」を書いた政治学者・中島岳志は、インドの革命の志士ラス・ビハリ・ボーズと中村屋の娘との間にできた娘と知り合ったことが書くきっかけとなったそうだ。
しかし或る作家が伝記を書く一番の理由は、対象となる人物に己のアイデンティティと関係する要素を多分に見出したからにちがいない。
例えば、トルーマン・カポーティの代表作「冷血」を書いたそうだが、映画「カポーテイ」では、ある殺人事件を読んだカポーテイが、その事件の犯人につき「これは自分だ」とつぶやくいうシーンがあった。
、 また松本清張が「或る小倉日記伝」で、森鴎外の失われた日記を探した青年を描いたように、また江藤淳が幼くして母を失い英文学に秀でた「夏目漱石」を描いたように、作家は作品の中に自分を「投影」できる対象を探しているといってよい。
それは「伝記」のカタチを借りた作家の自己激白であり、作者のルーツとの関わりを含めて己のアイデンティティと深く関わっているからに違いない。
ただし、昨年「評伝・吉田健一」で大佛次郎賞をとられた長谷川郁夫氏は「評伝文学は、筆者が思い入れのある対象を取り上げるだけに、筆が踊ってしまいがちなので、根拠のある記述を重ね、抑制を利かせ続けることが難しい」と自戒しておられた。
最近、哲学者の鶴見俊輔が、「夢野久作」や「高野長英」という伝記を書いているのを知り、そのことがとても意外に思えた。
鶴見一家といえば学者一家で、鶴見俊輔もハーバード大学でパースやデユーイのプラグマティズム(実用哲学)を学んだ哲学者であり、歴史家でも伝記作家でもない。
その鶴見氏がどうして、伝記の対象として高野長英や夢野久作を選んだのか。学者一家・鶴見家と高野長英や夢野久作との「接点」でもあるのだろうか。
それとも鶴見俊輔の人生には彼らの人生に映すべき「何か」があるのだろうか。
それを調べるうちに、鶴見家という学者一家とは結びつきようもない、異色もしくは怪人とでもいうべき人々の繋がりがあるのを見出した。
さて、東京高輪の泉岳寺といえば、赤穂義士ゆかりの寺である。その泉岳寺の裏手に、義士切腹の地があることは、あまり知られていない。
泉岳寺の裏を走る二本榎通りを挟んで、高松宮邸を擁するこの閑静な一帯が、肥後熊本藩五十四万石の細川家下屋敷のあった場所で、「大石良雄外十六人忠烈の跡」と記された案内板が立っている。
1702年、主君浅野内匠頭の仇を討ち、本懐を遂げた赤穂浪士一党は、大名四家に分散しお預けの身となったが、大石内蔵助以下17名は、この細川家に預けられたのである。
藩主・細川綱利は、義士に対し並々ならぬ肩入れがあったようで、自ら二度も義士の助命嘆願の訴えを行い、17名全員を自藩に召し抱える腹積もりでいた。
しかし元禄16年2月4日、幕命を帯びた使者による切腹の申し渡しが行われ、即日執行された。
家臣の中から介錯人を出すよう命ぜられた綱利は、「軽き者の介錯では義士たちに対して無礼である」として、17人の切腹人に対し、17名の介錯人を選定した。
大石内蔵助に対しては重臣の安場一平を当て、それ以外の者たちも小姓組から介錯人を選んだ。
安場家では大石良雄介錯の刀を伝承しており、現在の安場家の当主安場保雅は全国義士会連合会の会長をつとめている。そして、明治時代に愛知県や福岡県の知事を務めた安場保和という人物がでた。
そしてこの安場保和なる人物が福岡県令になるにあたっては、その人脈の起点を福岡とは遠く岩手県水沢にもとめなければならない。

岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)には、「三偉人」とよばれる人物がいる。江戸蘭学者・高野長英、満鉄総裁・後藤新平、海軍大将・斎藤実の三人である。(そのほかに小沢一郎もいる)。
1873年、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。
この際長英は、渡辺崋山らとともに幕府の対応を批判し、そうした意見をまとめた「戊戌夢物語」を著し、内輪で回覧に供した。
1839年、長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監された。いわゆる「蛮社の獄」の勃発である。
牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。
これらの行動と親分肌の気性から「牢名主」として祭り上げられ、「わすれがたみ」という獄中記まである。
1844年、牢屋敷の火災に乗じて脱獄し、脱獄の際、三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すとの警告を牢の役人から受けたが、長英はこれを無視し、再び牢に戻って来ることはなかった。
この火災は、長英が牢で働いていた非人をそそのかして放火させたとの説が有力で、脱獄後の経路は詳しくは不明ながら、逃亡生活を続けている。
一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死したため、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主・伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事したという。
逃亡の身であるゆえこの生活も長くは続かず、江戸に戻って沢三伯の偽名を使って町医者を開業した。
医者になれば人と対面する機会が多くなるため、その中の誰かに見破られることも十分に考えられた。
そのため硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。
ところが1850年10月、江戸の青山百人町(現在の東京・南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に踏み込まれて捕縛された。
何人もの捕方に十手で殴打され縄をかけられた時、既に半死半生だったため駕籠で護送するがその最中に絶命したという。
高野長英の波乱の生涯が興味深いのは間違いないとしても、なぜ鶴見俊輔は長英の「伝記」を書くほどに入れ込んだのだろう。
それは前述の安場保和と後の台湾総督民生長官や満鉄総裁や東京市長を勤めた後藤新平の「出会い」に遡らなければならない。
1870年ごろ、安場がが胆沢県(岩手県)大参事として在勤中、県庁の給仕に後藤新平や斉藤実らがいた。
後藤は、1857年仙台藩支藩の水沢藩の藩医の子として生まれ、新平の家は蘭学者・高野長英の「分家筋」にあたる。
質素ながらも学識高い武家に生まれた後藤新平は、遠縁の高野長英の存在を心に抱きながら、幼少時から漢学を学んでいる。
後の海軍大将・斎藤実とともに13歳で書生として引き立てられ県庁に勤務したのち、15歳で上京し東京太政官少史のもとで門番兼雑用役になる。ここで安場保和に見出されている。
安場が岩倉使節団に参加して帰国後、胆沢県大参事となった安場保和について17歳で須賀川医学校にはいっている。
後藤にとって、親族の高野長英への弾圧もあり気の進まないままの入学であったたが、同校では成績は優秀であった。
1876年安場が愛知県令をつとめることになり、それに従い愛知県医学校(現・名古屋大学医学部)で医者となっている。
ここで後藤はめざましく昇進し24歳で学校長兼病院長となり、病院に関わる事務に当たた。
1882年、岐阜で暴漢に襲われた板垣退助の治療のため県境を越えて急行した後藤に対して、板垣は「医者にしておくには惜しい」と呟かせるほどだったという。
以後、後藤は板垣の予言に沿うようにしてその活躍は続き、内務省衛生局に入り、ここで安場保和の娘を妻としている。
1890年、ドイツに留学し帰国後に医学博士号を与えられた後、後藤の目は次第に、個人を対象とした医療を超えて、社会全体の「衛生」に向けられていった。
1892年12月にはで内務省衛生局長に就任し、医者としてよりも官僚として病院・衛生に関する行政に従事することとなる。
ただ、情に流されて弁護に回った相馬事件とのに関わりにより失脚するものの、かつての上司が陸軍・児玉源太郎少将に後藤を推薦し、1895年4月、日清戦争の帰還兵に対する検疫部事務官長として官界に復帰することになった。
1898年3月、児玉中将が台湾総督となると、後藤を抜擢し、自らの補佐役である民政局長(後に民政長官)とした。
そこで後藤は、徹底した調査事業を行って現地の状況を知悉した上で経済改革とインフラ建設を強引に進めた。
それは「社会の習慣や制度は、生物と同様で相応の理由と必要性から発生したものであり、無理に変更すれば当然大きな反発を招く。よって現地を知悉し、状況に合わせた施政をおこなっていくべきである」という考えに基づくものだった。

さて前述のとうり後藤新平は、安場家の娘を妻とするが、その後藤新平の娘は岡山選出の衆議院議員・鶴見祐輔に嫁ぎ、そこに生まれたのが鶴見俊輔である。 結局、鶴見俊輔氏は安場保和の曾孫であり、後藤新平の孫ということになる。

というわけで、鶴見俊輔が母方の祖父後藤新平の一家に高野長英がおり、そこに伝記「高野長英」を書く動機の一端を窺がいしることができ。
それでは一体、鶴見俊輔が福岡の作家・夢野久作の存在を掘り起こす「伝記」を書いたのはなぜであろうか。
見えにくいが、後藤新平の幅広い人物交流のなかで欠かすことのできない福岡出身の人物がいる。明治・大正・昭和を通じて「政界の黒幕」と呼ばれた杉山茂丸(しげまる)である。
歴史の教科書や参考書には、まず名前が出てこない人物である。
生涯官職につくこともなかった「壮士」は、後藤より7歳年下になる。
杉山茂丸は山県有朋、井上馨らの参謀役を務め、とりわけ、台湾統治、満鉄経営などの施策は、杉山が立案、後藤が実行者だとする見方さえある。
台湾総督府民政長官になったのは後藤は42歳で、杉山は35歳の若さである。
1864年福岡藩の武士の家に生まれた杉山茂丸は、若きころから政治に目覚め、国内を巡遊している。伊藤博文暗殺を企てるも、本人に説得されて断念したという経験もある。
この杉山は、前述した当時元老院議官・安場保和を福岡県令に迎えるため「直談判」したといわれている。
安場は東北における鉄道敷設計画の実績があり、郷里・福岡の発展のために鉄道が必要だと杉山は訴え、安場は福岡県令(知事)となり、鉄道をはじめとする北九州開発が推し進められていった。
この安場の娘が後藤新平の妻であり、「大風呂敷」とよばれて気性が近い、後藤新平と杉山茂丸の出会うのは自然で、事実二人は朋友となっていく。
杉山はその後日本興業銀行の設立、さらには台湾鉄道の敷設の準備に奔走し、1898年に児玉が台湾総督着任の際には、杉山に意見を求めている。
当時31歳の杉山は「砂糖を以て、台湾の経済政策の基礎におくよう」述べ、1900年の台湾製糖の設立に自ら関わっている。
児玉と後藤の名コンビに加え、利権うずまく台湾統治にわっていたのが杉山茂丸であった。
1906年、後藤新平は南満洲鉄道初代総裁に就任するが、さほど乗り気でない後藤に総裁就任を承諾させる画策をしたのが杉山であった。
そして台湾統治に、児玉・後藤・杉山に加えもう一人、星一(ほしはじめ)という人物が絡んでくる。

さてこの杉山の書生に星一(ほしはじめ)という人物がいた。1873年、福島県磐城郡に出生し、幼名を佐吉といった。父親は村長や郡議会議長などを務めた知識人であった。
杉山茂丸の書生が星一であり二人ははいわば師弟関係となっている。
師弟の接点は星が学んだ東京商業高校(現・一橋大学)に杉山の甥・安田作也がいたことにある。
星一とこの安田作也はともに渡米を志して英語を学び、二人は別々に渡米するもののサンフランシスコで再会している。
この安田との再会の折、鹿児島県人の安楽栄治とも知り合う。後年、米国にあっては「ジャパン・アンド・アメリカ」誌の経営に、帰国後は星製薬の経営にと、三十年にわたり星と苦楽をともにすることとなる人物である。
さて、渡米した星一は、サンフランシスコで職を転々としながら英語の勉強をし、ニューヨークへ移りコロンビア大学に入学する。
星は苦学しながら統計学を学び、後に微生物学者として名を馳せる同郷人、野口英世とも知り合い、新渡戸稲造とも知遇を得ている。
1901年コロンビア大学卒業の年、星一は折から渡米した杉山茂丸をニューヨークのフィフス・アベニュー・ホテルに訪ね、再会を果たすが、星一は雑誌経営に苦心し資金調達のために一時帰国する。
杉山に相談を持ちかけたところ、その紹介で台湾総督府民政長官の地位にあった後藤新平を知ることになる。
後藤の好意によって資金を得た星は、米国に戻る前に後藤に伴われて台湾へ渡った。
ここに至って、児玉・後藤・杉山らの台湾統治に星一が加わるのである。星一は、伊藤博文の誘いを受け一時韓国に渡るものの官吏になることを望まなかった星は、3ヶ月で帰国している。
韓国から帰国した星は自ら事業を始めることろして製薬会社を創業し、アルカロイドの国産化に成功し台湾でそれをはじめた。
モルヒネの精製についても、元台湾民生官の後藤新平が色々と便宜をはかり、第一次世界大戦でドイツからの薬品輸入が出来なくなると、星製薬は驚異的な成長をみせた。
東京の京橋に本社ビルを建て、大崎に工場をつくり、当時の人々の目を見張らせるほどの発展したのだが、星自身は、自らの利欲を顧みず事業の発展とそれによってもたらされる社会への貢献ということに全精力が費やされていたといってよい。
50歳を過ぎるまで妻帯もせず、ひたすら事業に打ち込んでいたのである。
しかし1925年東京帝大で解剖学の教授であった小金井良精の次女と結婚する。
小金井良精の妻は森鴎外の妹であったから、そこに文才の血がはいったのかもしれない。
星一はそのとき52歳で、翌年出生した第一子の長男親一(星製薬のモットーが『親切第一』であったことからの命名である)は、長じて星新一の名でSFショートショートという分野を開拓することとなる小説家となった。
さて、大正末期に後藤新平の「政敵」が政権につくと、その資金源らしい「星をつぶせ」との陰謀が進められ、事業は妨害された。
でっち上げの事件による第一審で有罪とされて信用を失い、金融の道を閉ざされ破産するに至る。
さらには、米国在住時以来の盟友で星の片腕であった安楽栄治が病死するという衝撃も加わった。
やがて政権が変わって、台湾で解熱剤キニーネの原料であるキナの樹の植林事業が軌道に乗りつつあるころ、日本の敗戦によって領有権を失い、東京の工場も戦災で焼けてしまった。
そこで星一は、復興のために新事業を行おうとアメリカへ渡り、そこで客死している。
ちなみに、星新一が著した父の伝記ともいうべき「人民は弱し 官吏は強し」のには、鶴見俊輔が解説を書いている。
その鶴見俊輔が1962年10月号に発表した「ドグラ・マグラの世界」で夢野久作を掘り起こし再評価を得るきっかけをつくった。
夢野久作は、鶴見の母方の祖父・後藤新平の朋友・杉山茂丸の長男である。
結局、鶴見俊輔のように「伝記」を書く動機というものは、一族係累にその関係が及んでいる、それによって自身の人格形成に何らかの影響を見出すことができるからといえよう。
また「伝記を書く」動機として、実際に関係者の「謦咳に接した」という要素も大きいに違いない。
自分がこの稿を書こうと思った動機の一つとして、大学時代に鶴見俊輔の姉にあたる社会学者・鶴見和子の講義をうけた経験があったということも大きい。