時代を映す美容室

ある一家の歴史を追うと、それが「歴史全体」を映しこんでいるかに思えることがある。
そういう意味では、斉藤茂吉の一族を描いた北杜夫「楡家の人びと」(1962年)が圧倒的に面白かったし、安岡章太郎の「流離譚」(1981年)も壮大なファミリーの物語となっていた。
「流離譚」で面白いのは、安岡家の一族の中に東北ナマリの言葉を話す家があり、その謎を文献・書簡や現地への旅を通じて探っていくうちに、ファミリーの歴史が明らかになっていく過程である。
ちなみに1980年代に一世を風靡した或るアフリカ系黒人の家族の歴史を描いた「ルーツ」(アレックスヘイリー著/1977年)の翻訳者が安岡氏である。
さて、安岡章太郎氏には、「やせがまんの思想」「へそまがりの思想」「なまけものの思想」などの軽妙なエッセイがあるが、その中に同じ「第三の新人」と呼ばれた吉行淳之介との交友が頻繁に登場すると同時に、東京の市ヶ谷という地名もしばしば登場する。
というのも吉行の家は東京・市ヶ谷にあり、そこには「落第生」安岡が何年間が通っていた城北予備校もあったからだ。
市ヶ谷のお堀端といえば魚釣り、その土手といえば桜の名所であるが、ソコこそ我が大学時代の贅沢すぎるパーソナルな通学路であったのだ。
そして、この通学路に「吉行あぐり美容室」という看板が立っている建物に遭遇したのである。
「吉行一家」がコノ辺りに住んでいたのかと感慨にふけると同時に、なおも「営業中」の気配に驚きを通り越してアキレた。
ところで「吉行あぐり」とは、NHKドラマ「あぐり」のモデルともなった美容師で、1997年そのモデルとなった「吉行一家」とは、あぐりの息子である作家・吉行淳之介、女優の吉行和子、詩人の吉行理恵のことである。
吉行あぐりは、1907年に岡山の弁護士一家に生まれたが、美容師になろうとしたきっかけは、当時の「スペイン風邪」の流行で、父と姉を失い事業を興すも失敗し、一文無しになったためである。
岡山の高等女学校在学中15歳で三文作家の吉行エイスケと結婚するが、その若さでエイスケという風来坊に嫁いだのも、学校に行かせてくれるという好条件の故だった。
それでも、15歳の結婚は結構世間の噂になったという。
また、あの当時女性が働くことはほとんどなく、義父に「女髪結いになるのか」とたいそう怒られて、こわくて義父の顔サエ見ることもできなかったほどだった。
とはいえ、夫に淳之介が作家になったのは、早くして亡くなった父エイスケの影響ではなかったかと思われる。
ところで、吉行あぐりは美容師・山野千枝子の内弟子を経て、1929年東京市ヶ谷に「山の手美容室」を開店する。
1940年に、夫エイスケと死別するが再婚し、戦後、店名を「あぐり美容室」に改名した。
私が、市ヶ谷の土手で遭遇した「あぐり美容室」では、馴染み客「限定」で店を開いていたようだが、テレビで百歳を超えても現役として働かれていたことを知り驚いた。
なにしろ息子の淳之介、娘の理恵は、すでに他界していたからだ。
その吉行あぐりも1993年に亡くなり、モハヤ「吉行あぐり美容室」を市ケ谷の土手に見ることはできない。

吉行あぐりが美容師として師事したのが、山野千枝子というアメリカ帰りの美容師であった。
山野は、日本の近代における美容の創世を飾った女性であるといってよい。
山野は、1895年生まれで1913年に神戸高等家政女学校を卒業する。
この年結婚し、渡米して美術雑貨商などをしながら、ビューティースクールに通いながら美容技術取得する。
1922年に帰国し、翌年東京駅前に出来て間もない丸の内ビルディング内に「丸の内美容院」を開店している。
さて、美容界にはもうひとり「山野」の名で知られる大功労者がいる。「山野愛子美容室」を開業した山野愛子である。
山野愛子の家は、もともと東京向島で洋食食堂を経営していた。ところが山野の父親は愛人のもとに入りびたりで、そんな父の姿に、母親はことあるごとに「これからは女も自立する時代」と説いていたという。
山野の美容に対する思いの原点は、自らが体験した関東大震災にあった。
関東大震災の女性被災者のアマリにみすぼらしい姿をみて、美容の大切さを痛感するに至ったという。
そして母親は、関東大震災で店を失ったため、「髪結い」になりたいという愛子の夢に賭けようと考え、残った店の厨房道具をすべて処分する。
愛子はその資金を元に、上野に出来たばかりの美容学校に入学し、苦学しながら卒業することができた。
そして、店の焼け跡で花街の芸者や女達を客に仕事を始めた愛子は、持ち前の巧みな話術と腕前でお客を集めた。
そして「髪型」の練習台になってくれる人など、様々な人々の協力を得て「髪結い」としての実績を築いていった。
同時に新しい技術を積極的にとりいれ、アイロンごてを使って仕上げる「マーセルウエーブ」が流行するや、この技術の第一人者であるアメリカ帰りの美容師の店に無給の助手として入店させてもらう。
しかしソノ技術はなかなか伝授してもらえず、見よう見まねで盗み取るように練習した結果、1年ほどでマーセルウエーブの技術を習得してしまった。
1925年、愛子は日本橋に「山野美装室」を開店し、モダンな建物と派手な看板、そして、マーセルウエーブをウリにした愛子の店は大繁盛していく。
そして弟子達にマーセルウエーブの手法を教えつつ、自らはサラニ新しい技術に挑戦していった。
店の経営が軌道にのると「子ども欲しさ」に、逓信省に勤務する中谷治一と見合いをし、養子にもらう形で結婚する。
結婚から1年、東京の街にアメリカで開発されたパーマネントが登場した。
それも1932年、日本橋にあった白木屋百貨店の火災によって、和服姿の女性が逃げ遅れ、その惨事がきっかけとなり、洋装が普及し洋髪を専門にする美容院が台頭するようになった。
その後、逓信省を辞めた治一は、自分の退職金と質屋からの借金で、愛子にパーマの機械をプレゼントする。
治一はもともと琵琶演奏にウツツをぬかす道楽者でアマリ期待していなかったのだが、美容室がパーマネントを取り入れるや、第三種電気主任技術者の資格を取得し、愛子の美容室の経営に協力することになったのである。
それどころか、治一は中古のパーマ機を分解してその構造を調べ、国産パーマ機1号「ヤマノスター号」を開発することに成功した。
さらに山野愛子と治一は、美容院経営のほか、それまで洋髪の手法を知らなかった「髪結い」たちにパーマ機を売り、合わせてその技術も教えることを始める。
そして1934年、東京・中野の地に山野美容講習所(現在の山野美容専門学校)を開設した。
結婚して10年、パーマが日本社会で市民権を得るようになる中で、山野愛子と夫の治一は、愛弟子達にもそれぞれの店を持たせ、たくさんの子供にも恵まれ、ナニ不自由のない前途が待っているかに思えた。
しかし二人の生活は、まもなく始まった戦争で大きな打撃を受けることになる。
空襲で店を破壊された愛子に追い討ちをかけるように、自分を実質ひとりで育ててくれた最愛の母を亡くす。
1937年頃から「パーマネントはやめましょう」という標語が早くも使われ、パーマネントは「電髪」と呼ぶよう強制されるようになる。
1939年には、国民精神総動員委員会(戦意高揚の全国運動組織)が、学生の長髪とパーマネント廃止を決定する。
1943年10月からの電力消費規制で、いよいよ長髪用電熱器の使用が禁止となり、パーマ機も軍に供出せざるを得なくなっていく。
こうした戦時色が濃いくなる世にあって、それに抵抗した歌手・淡谷のり子のエピソードを思い起こす。
淡谷のり子が日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒットし、スターダムへ登りつめていた。
淡谷はブルースの情感を出すために、吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌った。
そして、その後も数々の曲を世に送り出しその名を轟かせていた。
そして戦時下で兵士を励ますために数多くの「慰問活動」を行った。
第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を「歌で慰め」つつ戦地へと送った。
しかし淡谷の慰問中における数々の「非行」行為は数しれなかった。それは積み重なっていく「始末書」の厚みが物語っている。
例えば、英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する、あるいは恋愛物を多く取り上げるといった行動および発言で「始末書」を書かせられる羽目になり、それがヤマとなったという。
淡谷の言い分は、モンペなんかはいて歌っても誰も喜ばない、化粧やドレスは贅沢ではなく、歌手にとっての「戦闘服」というものだった。
さて、山野愛子・治一夫妻は、終戦後ガレキの中から再び立ち上がり、店を再興しかつての繁栄を取り戻していった。
そして山野愛子は、1954年に日本美容師総連合会会長に就任し、1984年には2代目として孫にあたる山野愛子ジェーンに継がせる。
ちなみに、次男の山野凱章(ヤマノ取締役)の息子がお笑い芸人「品川庄司」の品川祐である。
1992年、山野美容芸術短期大学を設立し、初代学長に就任した。1995年死去。享年86。

街角で時折見かける広告や看板に「ハリウッド美容学校」というものがある。
このハリウッド美容学校を率いるメイ・ウシヤマという女性は、六本木ヒルズの中にあるハリウッドビューティサロンをとりしきる「六本木ヒルズの女帝」とも称される人であったが、2007年96歳にして他界している。
この「女帝」の経歴を調べると、意外や我が福岡が生んだ「元気印」川上音二郎との「接点」に遭遇することとなった。
大正時代に、チャップリンと並び称されるほどのハリウッドスターとなった早川雪洲は、アメリカで川上音二郎の姪で画家の養女となっていた青木鶴子と知り合い結婚することになる。
雪洲の立派な自宅は「宮殿」とよばれれ、西海岸の名物となっていた。
そして世界中から弟子入り志願者は数知れず、一切断ったが一人だけ許された人物がいる。
それがハリー牛山という青年で、門前に座り込み、願いがカナワないなら切腹すると、本当に刀を出したものだから、雪洲も鶴子も驚いた。
そして、弟子入りがカナイ「第二の雪洲」ともちあげ、ロサンゼルスの新聞は彼を応援した。
ところが雪洲夫妻は突然牛山に、俳優を諦めて日本にパーマネントを広め、アメリカの女優のように美しくせよと命ずる。
降って湧いたような話だったが、牛山の脳裏に、髪を短くしてパーマをかけて軽やかに闊歩する女性の姿が浮かんだ。
その頃、日本の髪型といえば長い髪を引っ張り挙げて結う日本髪で、大変手間がかかるうえ、頭皮の健康にとっても不健康なものだった。
進路変更したハリー牛山は、牛山春子という女性とアメリカで結婚し、1924年に使命感に燃えて帰国するが、そのタイミングも絶妙であった。
折りしも日本は、アメリカ映画を手本にしたモガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)の時代であった。牛山は1925年に 神田三崎町に美容室を開店し、美容師養成・化粧品の製造開始し、 日本に初めてパーマネント技術と機械を導入する。
1925年、メイ牛山(牛山春子)は日本で初めての美容室「ハリウッドビューティサロン」を創立し、「美は命の輝き」というコンセプトのもと、効率や生産性以上に、美意識や感性の教育を何より大切にしていった。
翌年には 軽井沢に美容室を開店し、新しい美容法を広め1927年に 銀座7丁目に「ハリウッド美容室」を開店する。
アメリカでパーマ技術を学んだメイ牛山(牛山春子)のヘアメイクは、パーマネントが日本全体に普及していく時期とも重なり、牛山の店は大当たりして女優や上流階級の婦人や令嬢「御用達」のサロンと化していく。
著名な美容家となった初代メイ牛山だが、なんらかの事情でハリー牛山と離婚して店をやめ、ロサンゼルスに行ってしまう。
ところで牛山にとっての恩人・早川雪洲・青木鶴子夫妻は、東京神楽坂に居をかまえていたが・早川雪洲の方は国際派俳優としてフランスへ行ったきり戻ってこない。
しかも鶴子は、早川が二人の愛人に生ませた一男二女を引き取る羽目になり、鶴子は神頼みをする時には赤城神社に御参りしたという。
何しろ、アメリカ育ちの鶴子に働き口はなく、恩返しにと「顧問料」という名目で生活費を渡したのがハリー牛山であった。
早川が日本に帰国したのは、日本を出てから13年後の1949年で、羽田空港の出迎えで初めて家族全員が顔を合わせたことがある。
以前、早川雪洲の成功の陰に、博多の芸人一座が育てた青木鶴子の存在があったと書いたことがあるが、その背後にハリー牛山というもうひとり人物の存在があったことを知った。
そういう意味でも、ハリー牛山は終生、早川夫妻の恩に報いたことになる。
実はハリー牛山は、長野県諏訪の出身でもともと教育者の血をひいていたこともあって、銀座に講習所を同時にスタートさせ「パーマネント術」の講義を担当した。
メイ牛山(2代目)は1911年山口県防府市生まれ、18歳で上京しハリー牛山が設立した「ハリウッド美容講習所」に入り、初代メイ牛山に師事し美容家として頭角をあらわし、1935年には銀座の店を任されている。
この女性(牛山マサコ)は、1939年に17歳年上のハリー(牛山清人)と結婚し、「メイ牛山(二代目)」名乗ることになったのである。
結婚以来「メイ・ウシヤマ」の名前で欧米の最新技術を取り入れながら日本の美容界を作り上げる一翼を担うことになるが、この女性こそが冒頭に書いた「六本木ヒルズの女帝」とよばれたメイ・ウシヤマである。
、 メイ・ウシヤマはニューヨークではローマの休日等を担当したエディ・センズに「メイク」を、レオン・アメンドラーに「ヘア」を師事している。
その後、日本でも酵素の働きを日本で最初に化粧品に取り入れるなど化粧品の開発も行う。
また、女優の稲垣美穂子、司葉子、藤村志保、久我美子、岩下志麻、岸惠子、芳村真理等はハリウッドと供に育ってきた女優陣であり、写真家秋山庄太郎とはお互いデビュー当時からの盟友である。
1991年創業者牛山清人が他界し、 メイ・ウシヤマが会長になり息子の牛山精一が社長に就任する。
ハリー牛山こと牛山清人、メイ・ウシヤマが築いた「ハリウッドビューティグループ」は、映画の都ハリウッドにおける最先端のトータル・ビューティを日本に広めたパイオニアであり、六本木に本拠地を置き今もナオ最先端であり続けている。
その原点に、博多の旅芸人・川上音二郎がアメリカに置いてきた姪の青木鶴子とその夫・早川雪洲の「帰国命令」があったのだから、人生何がどう展開するかわからぬものである。