敗れざる者達

ごく最近、実家の押入れを整理していると「若宮三十六歌仙」という本がでてきた。
本というより、A4版の大きさの18枚(左・右36枚の絵の復刻版)がまとめてひとつの段ボールに入れられた装い艶やかな大型本(?)である。
作者は「岩佐又兵衛」という聞いたことのない名前である。
「いったいコノ本、何っ?」という疑問を抱きつつ古本屋にもっていくと、一冊の普通本になっている今となってはそれほど価値はないものの、今から30年前にこの本の「作者」が判明した時は、ちょっとしたセンセーションを巻き起こしたという。
美術史学会でも注目され、新聞報道を通じて若宮本はひろく一般の関心を集めるものとなった。
作者の岩佐又兵衛を調べてみると、ナント昨年のNHK大河ドラマ「黒田官兵衛」の中で登場した荒木村重の子として、ドラマの中では「絵が上手な子供」としてチャント登場している。
そして戦国の武将・荒木村重という武将の子供が「絵師」となっていたこと、ソノ絵が空き家状態の我が実家に、復刻版(コピー)とはいえ眠っていたとは、サプライズ。
それと同時に、歴史上において一度は流罪や敗者の憂き目にあいながら、様々なカタチで「家門の命脈」を保った者が少なからずいたことに思い至った。
画家・英一蝶(はなぶさいっちょう)は、江戸元録時代に「多賀朝湖」の名前で名声を博した人物であった。
面白いのは流人生活の中で絵を描いたことで、美人画も描いたが、出色は、庶民をいきいきと描いた絵だった。
吉原では花魁の太鼓持ちをし、裏方の世界まで知り尽くした。「吉原風俗図巻」では、客と遊女の喧嘩で、女が大泣きしているかとよく見ると嘘泣きで客をたくみに引き止めている駆け引きを描いている。
ソレモ、ある日突然、三宅島への島流しを申しわたされたのが、絵を描くキッカケとなった。
「島流し」の名目は馬を虐待した「生類憐みの憐みの令」違反だが、実際は吉原で大名・武士に多大の散財をさせたというものであったようだ。
どんちゃん騒ぎの太鼓持ちから突然追いやられたのは、死だけが待つ極限の生活だった。
それでも一蝶は、毘沙門天、恵比寿様などの絵を安く描いて漁民に渡したりした。
そのうち江戸から注文がきたのが、救いとなった。三宅島に流されていく途中に風待ちのため寄った新島の梅田家には一蝶の絵が数点残っている。
梅田家は一蝶がその家を通じて絵を売ることのできる、いわば「地獄に仏」という存在だった。
そして、せいいっぱいの力をふるって懐かしい江戸での遊興の日々を描いた。
その時に描いた「布晒舞図」の躍動感にみちている。絵の中で太鼓持ちは右ひざをたて踊り子を囃している。江戸のはるか遠くの島で描いたとはとても思えないものだった。
先述の「吉原風俗図巻」は、実は三宅島で描いたもので、「四季日待図巻」では 眠ることなく朝日をおがむ神事で、庶民の表情を生き生きとえがいた。
永久に生きては帰れない流人生活の中で、島民のために「七福神」などを描いていたが、天神様つまり菅原道真の表情がかなり怒っているのは、一蝶の気持ちを反映していたのかもしれない。
そして1709年奇跡がおこる。将軍代替わりで、「生類あわれみの令」に関する流人が赦免となる。流人生活はあしかけ12年。58歳になっていた。
深川寺前に居を構える。豪商に取り入り、英一蝶として再スタートした。その後も名作を数多く残し、73歳で大往生した。
さて、宮本武蔵は江戸時代初期に実在した「剣豪」だが、生涯で60回以上の一度も負けなかった。
つまり生涯無敗だったわけだが、逆にいうと武蔵に敗れた者達がそれだけ数多くいたということで、敗者達はその後どんな人生を歩んだのだろうか。
彼らは、剣の道では敗れたものの、別のカタチで家門を保ったという意味で「敗れざる者達」といえる。
例えば、柳生一家は他流派と戦うことを禁じ徳川家の「剣術指南役」となり、吉岡一門は剣とは異なる道「染色」で天下に名をあげた。
京都で宮本武蔵が実力を腕を試すため吉岡道場の剣豪吉岡兄弟と一乗寺下り松で決闘をするものの、武蔵に敗れる。
その後兄弟の父剣術家吉岡直綱(号:憲法)は染色に携わり、「吉岡憲法染」と云われる黒・茶の染物を得意としたと云われている。
そして、武蔵に負けたことで学び、新たな術に目覚めた「夢想権之助(むそうごんのすけ)」という男がいた。
夢想権之介は宮本武蔵と戦った際に120センチの長い木刀で挑んだのに対して、武蔵は短い「木切れ」で受けてたち撃退したとされる。
夢想権之介は数多くの剣客と試合をして一度も敗れたことはなかったが、宮本武蔵と試合をして、二天一流の極意「十字留」にかかり押すことも引くこともできず完敗する。
権之介は、この武蔵の剣術に目覚めさせられたのである。
以来、武者修行の為諸国を遍歴し、筑紫の霊峰・宝満山に祈願参拝し、「丸木をもって水月を知れ」との御信託を授かった。
夢想権之助は、宝満山を拠点にして修練を重ね「神道夢想流杖術」という流派を築いたが、その特徴は剣よりも「杖」をつかった変幻自在な戦法で相手の急所(ミゾオチ)をツくものである。
そして福岡藩に抱えられ、術を広め「神道夢想流杖術」という武術一派を確立したのである。
「神道夢想流杖術」は当初「黒田の杖」といわれ無頼の徒に恐れられたが、廃藩置県で庇護者を失い急速に衰えた。
しかし、白石範次郎なる人物が道場を開き流派の継承に尽力した。そして昭和のはじめ白石の高弟が「杖術」普及をめざして上京し、頭山満、末永節などの玄洋社社員の後援をうけて普及発展をはかった。
その後「大日本杖術会」を発足させ、それをもって柔道の講道館、警察の警杖術を指導した。つまり「神道夢想流杖術」の流れは、日本の警察で「警杖術」として採用されている。

戦国の戦いに敗れ武将としてではなく「商人」として生き残りをかけたものもいた。
博多の町には、「大友くずれ」「大内くずれ」「原田くずれ」などと称する武士出身の町人が含まれていた。
彼らが博多商人の上層部をしめており、岩田屋デパートの祖先・中牟田家などもその一例だが、博多に大きな足跡を残した者の中に、あの戦国の松永久秀の末裔達がいた。
  江戸時代の博多において、袖の湊の波打ち際にあり店が軒をならべていたために「店屋町」という名がついた町があった。この店屋町を代表する豪商が松永家である。
その祖・松永久秀といえば、三好長慶の子・義興を毒殺し、また将軍・足利義輝を襲って自害させるなど斉藤道三・北条早雲などとともに、「戦国時代の梟雄」といわれている人物である。
ところが松永久秀はそうした強面の武人の面ばかりではなく、意外にも優れた文人、風流人としての側面をもつ人物でもあった。
著名な連歌師・松永貞徳の父と久秀は又従兄弟であり、三好長慶の右筆をつとめるほどのすぐれた文筆の人。茶人でもあり早い時期から今井宗久はじめ堺の有力商人達との交流があった。
ところで、当時一流茶人として認められるためには、「名物茶器」を所持していることは一種のステイタスシンボルあった。
そして松永久秀自慢の茶入れは当時の茶人達の垂涎の的であったのだ。松永久秀が保有する数々の名器の中でも「平蜘蛛釜」と「つくも茄子」が有名である。
松永久秀は、1568年織田信長の入京の際には一度旦はそれに降るものの、信長に滅ぼされるのをよしとせず、大和信貴山城で茶器「平蜘蛛釜」をしばりつけて壮絶な爆死をとげている。
「平蜘蛛釜」は松永の爆死によって失われたが、もうひとつの茶器「つくも茄子」は今日にいたるまで生き延びた。
「つくも茄子」は室町幕府・三代将軍足利義満秘蔵の唐物茶入れで、その後将軍家に伝えられ愛用されていたが、十五世紀末になって足利義政の茶道の師であった村田珠光の手に渡った。
村田珠光がこれを九十九貫文で購入したことから「つくも」という名が付いたという。
「つくも茄子」は珠光の手を離れてから後に所有者を転々とし、松永久秀は一千貫もの大金を投じて購入した。
彼の経済力が既に大名の家老クラスをしのぐものであったことを示している。
しかしさすがの松永久秀といえども足利義昭を擁して上洛した織田信長の前には抗すべくもなく、久秀は断腸の思いでこの茶入れを信長に献上し、その配下となったのである。
「つくも茄子」は信長から羽柴秀吉さらに秀頼に伝えられて大坂城で愛蔵されていたが、大坂夏の陣後、徳川家康の命で焼け跡から探し出された。
さて、この松永家の出自ははっきりしないが、博多に勢力をはっていた大内・大友に仕えたところから、もともと博多と縁が深かったのかもしれない。その後は京都に移り、三好家に仕えたのである。
ところで松永久秀爆死後、久秀の孫にあたる「一丸」が乳母によって助け出され博多に隠れ住んだ。
一丸は成人して質屋を開いて成功し、松永氏の子孫は博多の代表的な豪商として活躍し、松永久秀の子孫が開いた松屋は、銘菓「鶏卵素麺」でよく知られ、博多の人々に愛された。
ともあれ焼け跡から探し出された愛用の「つくも茄子」ばかりではなく、松永の血統も焼け跡から助け出され博多の地に「命脈」を保った。

平安時代の半ばに、歌人の肖像画に、その歌人が詠んだ和歌を書き添えたものが盛んになり、室町時代末期ごろから、神社やお寺に扁額として奉納する風習が始まった。
その中でも、「三十六歌仙絵」といえば、似絵の名手・藤原信実(1176~1265)の作が学校の教科書にのるほど有名で、傑出した歌人を尊称して「歌仙」と呼び、その姿を表す歌仙絵は信実以後も多くの絵師がてがけて名作を生みだしてきた。
福岡県・宮若市の若宮八幡宮にも「三十六歌仙絵」が、長い間若宮八幡宮に所蔵され伝わっていた。
1960年から当時の若宮町役場の金庫に保管され、1985年の「鎮座八百年祭」のおりに初めて公開された。
その時、その画風に注目した人物が、福岡市美術館学芸員中山喜朗氏に調査を依頼したところ、江戸時代初期の風俗画家・岩佐又兵衛勝以の作であることが判明した。
又兵衛の作と断定した理由は、「勝以」の丸印と「道薀」の角印が他の又兵衛の作品と一致していることと、ほほが豊かで、あごが長いという「又兵衛特有の作風」だったからだという。
以前は「折本」として表と裏に表装されていたが、現在では一枚ごとに表装されており、大きさを平均すると、縦21.6cm、横33.1cmで、左右18枚それぞれ歌合わせの方式をとっている。
歴史的、美術的、さらには作者岩佐又兵衛を知るうえでも貴重な発見であり、現在、宮若市の「指定有形文化財」となっている。
とはいえ、宮若市内でも山口八幡宮、黒丸の六社八幡宮、高木神社に「三十六歌仙絵」が掛けられているので、それほど珍しいものではない。
前述のように「三十六歌仙」といえば平安中期の歌人で歌学者だった藤原公任の「三十六人家集」の歌人たちをいうが、「若宮本」は全くことなった三十六人の組みあわせで、「中古三十六歌仙」と呼ばれている。
若宮本は1673年に京都で、ふたりの軽師によって「折本装」に仕立てられ、約190年後の1860年に「筑篠栗」(現在の福岡県糟屋郡篠栗町)の幸平という者が再度仕立て直したことがわかる。
若宮本が、その後どのようなかたちで誰の手元にあったかについては、文献記録がない。
ただ「若宮三十六歌仙」の場合は、その作者である 岩佐又兵衛という人物が、戦国の武将・荒木村重の子であるだけに興味をソソラレる。
岩佐は、当時の職業画家のなかでは古典にたいする教養が深く、岩佐は「歌仙絵」の絵き手として他に抜きんでた存在だった。
それにしても、戦国の摂津(兵庫)の荒木村重の子の絵が、福岡県の宮若市の若宮八幡宮にどうして収められているのか。
ただ、昨年のNHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」で印象的に描かれていたのが、荒木村重と黒田官兵衛の関係であり、そこにソノ「謎」に繋がるものがあるのかもしれない、と思った。
摂津1国(大阪府北部)を治めていた有岡城の城主・荒木村重は、石山本願寺攻めなどで手柄を立て、織田信長から信頼を得ていた。
ところが1578年10月、織田信長に反旗を翻して毛利側へと寝返った。
風流人でもあった村重は、勝手に茶会を開くなど独自の動きをすることが多く、猜疑心の強い信長の疑いをぬぐうことは困難と判断したようだ。
荒木村重は摂津で大きな影響力を持っていたため、荒木村重が織田信長に反旗を翻すと、周辺の豪族も荒木村重に呼応して織田信長に反旗を翻し、摂津1国(大阪府)が毛利側に寝返った。
さすがの織田信長も荒木村重の「離叛」に驚き、「母親を人質に差し出せば、離叛は無かったことにする」という条件を出し、明智光秀らを遣わせ説得に当たらせたが、荒木村重の意思は硬かった。
さらに1578年10月、荒木と旧知の官兵衛を荒木説得の使者とし、篭城する有岡城を訪れるが、官兵衛を生け捕りにして、牢屋に閉じ込めてしまう。
さて、荒木村重に呼応して毛利方へ寝返った豪族の中には黒田官兵衛が最初に仕えた小寺政職がいる。
小寺政職は、1517年赤松氏の重臣・小寺家に生まれ、祖父の代までは姫路城を本拠としていたが、政職の代には御着城に居を構えた。
黒田政職は黒田家に目をかけ、黒田家を「家老」に引き上げ、官兵衛も小寺を名乗り姫路城を与えられた。
官兵衛も父祖の後を継ぎ、家老職に就任するが、その際、小寺政職は自分の姪にあたる光姫を嫁がせ、官兵衛と光姫との間に生まれたの子が黒田長政である。
そうした間ながら毛利方についた小寺政職は荒木村重に「小寺官兵衛を殺して欲しい」と依頼していたが、荒木村重は官兵衛の殺害までは出来ず、生け捕りにして牢屋に閉じ込めた。
これは小寺官兵衛(黒田官兵衛)が33歳の事であったが、幽閉されること1年、全身をシラミと蚊にくわれ、肉落ち骨枯れ、つには左足が伸びなくなってしまう。
その間、織田信長はいつまでも帰らない官兵衛を荒木村重方についたと判断。人質として差し出されていた松寿丸の処分を申し付けた。しかし実際は松寿丸は殺されず隠匿された。後の長政である。
荒木村重は、友情が邪魔したのか、何かに利用しようとしたのか、官兵衛を殺すことはせず、密かに有岡城を抜け出す。
茶道具と小鼓を携え、向かった先は毛利家であった。
荒木村重の脱出から2ヶ月、有岡城は落城する。
その際、戸板に乗せられて救出された官兵衛の姿があった。
ただし、荒木村重の妻子・家臣らは信長の命令により処刑され悲惨な最期をとげている。
ところが、有岡城に残された村重一族の多くが処刑される中、乳母の機転で落城寸前に1人の「乳飲み子」が城を脱出する。
その後、石山本願寺で匿われ母方の姓を名乗って生活した。この乳飲子こそが岩佐又兵衛で、京で暮らし「絵師」として活躍するようになる。
40歳くらいの時、越前福井藩に召し抱えられ、60歳くらいのときには三代将軍徳川家光に請われて江戸に出仕した。
福岡の若宮八幡宮に所蔵されることになる「若宮三十六歌仙」など多くの名作を残し、1650年に江戸で没している。
そして岩佐又兵衛は、いつしか「浮世絵の元祖」とも称されていく。