英語~憧憬と屈折

太平洋戦争の勝者アメリカへの憧れと劣等感は、ある意味で戦後の日本を導いた心理的誘因だったといえる。
そして英語力を仕事の武器としてナンノためらいもなく使う人もいる一方で、アメリカ占領に「協力」するカタチで使った人もいる。
また1人で生きるために、片言の英語でも使わざるをえない立場の女性達もいた。
小島信夫の小説「アメリカン・スクール」(1954年)は、日本の終戦間もない頃、「英語」を使うことへの屈折感を見事に描いている。
戦争が終わった途端に、アメリカ文化へと「滑稽」とも思えるくらいに迎合するの者達がいる一方で、「圧倒的な支配者」の言語を語ることへの複雑な感情を抱く者もあった。
。 小説では、そうした気持ちが、「アメリカン・スクール見学団」を構成する英語教師たちの「思い」として描写されていた。
この見学団に参加した伊佐という男は、英語どころか日本語さえ発しないと硬く決意していた。それは、自国のプライドを賭けた、まるで小さい子のするような幼稚で頑なな「拒否」ではあった。
その伊佐は、授業の始まりに思い切って「グッド・モーニング、エブリボディ」と生徒に向って言った時に、血がノボッテ谷底へ転がり落ちて行くような気がするほどだった。
それでも、アメリカン・スクールの生徒たちが話す英語が、小川のセセラギのように清く美しく響いてくるのだから、そんなに美しく響く言語をどうして恐れる必要があろう、とは思うのだが。
また山田という男は、伊佐とは対照的に、米軍とのあらゆる交渉に興味をもち、チャンスをつかんでアメリカ留学したいと願う「野心家」である。
そこで山田にとって、このアメリカン・スクールの見学も、自分の英語力を誇示するチャンスなのだ。
この伊佐と山田の「中間」に、ミチ子という唯一の女性がいる。
英語は間違いなく堪能だが、心底アメリカ精神に馴染もうとしていいるわけでもない。その本領は、スクール内では運動靴をハイヒールに履き替えることに現われる「切り替え」の素早さにある。
しかしそれにしても、英語教師になって「英語」を話すことを拒否する心理とは何なのだろうか。
少なくとも、単なる英語の技量の問題ではなく、自分より優越する文化に取り込まれてしまうことへの本能的な「怯え」か。
または、中途半端な言語力で、イッパシの外国人みたいな気になって話すことに対する「羞恥心」か。
もっと根源的に「自分が自分でなくなる」違う人間になることへの恐れと戸惑いか。

日本の終戦期には英語ができる、それも「和文英訳」となると、ヨホドのインテリとか高い教育を受けた人々に違いない。
ごく最近GHQが彼らの「英語力」を使って、手紙の「検閲」をさせていた事実が明らかになった。
GHQの秘密機関は、終戦直後から1949年まで、日本の世論、「反米」の思想や動き、占領政策の効果などを知るのが目的であったらしい。
そしてGHQはこの事実を「徹底」して秘匿し、検閲に関わった多くの日本人たちも、「敵国へ協力」という「負い目」から、そうした体験は全く表に出ることはなかった。
しかし大学やマスコミなどから発見された「名簿」を元に当事者の証言を収集していった結果、アメリカの秘密機関による諜報活動の実像と、検閲を手がけた人たちの「苦渋」の思いとが明らかになった。
それによると、GHQの「民間検閲」部門は、占領下の情報統制のため新聞や雑誌のメディア検閲の一方、大規模な「郵便検閲」が実施されていた。
東京、大阪、福岡の検閲所などで4000人が従事し、その大半は日本人であった。
GHQ側は、日本人検閲官に「日本人の生活や考えを知るため」と目的を説明し、業務を「口外」しないよう指示していた。
ある人物は大学在学中に、生計や学資のため「公募試験」を受け、検閲官となった。トランスレーターになってから、ジュニア、ミドル、シニアと三段階を上がっていった。
入学試験のように長文の「和文英訳」の試験があり、その結果で分けられた。レベルによって待遇は違うが、仕事内容に大きな差があったわけではない。
給料は一般企業の倍以上で男女平等だった。
アトランダムに選ばれた手紙を「検閲」するので、英訳が難しいもの、易しいものという区別はなかった。東京駅前の中央郵便局の中に検閲局があり、三階、四階、五階と三フロアを使っていた。
彼らは、占領軍への批判や意見、米兵の動向のほか、復員、物価や食料難、公職追放、労働組合、企業の経営状態、政治や共産党の動きなどの事項を英訳した。
開封した手紙は「検閲済み」の文字入りテープを張り、郵便局に戻した。
ピーク時で約8700人いたとされるが、国立国会図書館所蔵の米国陸軍省関連資料によると、当時年間24億~30億通だった手紙などの国内郵便物は、年間で最大1億5000万通が「検閲」されたとみられる。
ある元検閲官は、人の信書を開封した痛みはずっと残っていて、生きているうちに敗戦の現実を伝えたいという思いから証言をす決意をしたと語っている。
そして、次のような実態を明らかにした。初めに仕事の説明を受けて「この廃墟の中で苦しんでいる日本人をの生活を復興させるために、進駐軍が日本人の生活を把握するための大切な仕事だ」と言われた。
しかし、ここでやっている仕事のことは口外してはイケナイと言われた。
一人の検閲官は1日300通見た日もあると証言した。
しかしそれは「裏切り行為」だという思いがつきまとった。手紙を「開封」してみると、内容は田舎の人に東京は今こんな状態だとか、物価はどうだとか、そういうことを知らせる手紙が多かった。
なかには、皇室の方が女優に出したファンレターとかもあった。ただし「皇室関係」は開けてはいけないことになっていた。
また結構多かったのは、進駐軍のことを批判しながらも、マッカーサーへ感謝の言葉を書いた手紙であった。 また、もの凄く濃厚なラブレターを読んで腰を抜かしたこともあったという。
検察官達は、自分たちのプライバシーがゼロになっても何も言えないこと、ソノコトにより「敗戦」というものを身にしみて感じたという。
2015年8月には、福岡を拠点にする劇団二つが協力して「福岡民間検閲局~奪われた手紙~」が西区唐人町の甘棠館Show劇場にて上演された。

松本清張の「ゼロの焦点」では、新婚の恋人が突然失踪し、フィアンセが恋人の過去を調べるうちに、「別の名前」で生きていた夫のもう一つの「素顔」を知る。
そして妻は、夫が若き日に警察官であったこと、そして今華やかに脚光を浴びる1人の女性実業家との間に、「ある接点」があったことをつきとめる。しかし、その後に次々におきる殺人事件。
そして映画の舞台は、終戦間もない混乱期に移る。
GHQの兵士たちが東京の町を闊歩する中、役所に「英語を巧みに操り」アメリカ兵と語る一人の女性が居たことが、この事件のナゾを解明するポイントとなる。
つまり当時、アメリカ人と対等に会話できる語学力と気構えをもつ女性は滅多にいなかった。
しかし、「三国軍事同盟」時の外交官であった樺山資英(かばやますけひで)の妻である樺山米子やライシャワー駐日大使の妻である松方ハルは、そういう意味で稀有な女性であったといえよう。
先日のNHKの番組「ファミリー・ヒストリー」で、樺山家の祖先を調査したところ、資英の父・可也(かなり)は、鹿児島市長を務めていたことが判明した。
番組では、樺山家があったのは薩摩摩川内市藺牟田(いむた)の山中で、現在はゲートボール場になっていることをつきとめた。
なんでこんな辺鄙な処にという思いが起こるが、樺山可也は医者の次男として生まれたが、軍医である父は翌年西南戦争で戦死したため、この山間の家で貧しい少年時代を送っている。
可也は海軍兵学校を目指し、一人前の軍人となり資英を授かった。可也は海軍少将まで昇進し、政界へと転じて1929年に鹿児島市長に就任した。
その子・樺山資英は勉強熱心な子供で、東京帝国大学に進学し、1935年に外務省に入省した。そして資英は薩摩出身の松方正義の孫・米子とお見合いをすることとなった。
子供達によれば母はハンサムな父にかなり入れ込んでいたようで、2人が結婚したその翌月に、資英はイギリス大使館勤務となった。
当時の日本は満州事変をきっかけに英米との対立を強めており、イギリス大使は後の総理大臣・吉田茂だった。
日本国内では枢軸派の軍部の方の圧力にさらされ、イギリスとの関係を改善したいと思ってもそれがなかなか出来ない状況に直面していた。
ただ、イギリスで現在の女王エリザベス2世の父にあたるジョージ6世の戴冠式行われ、このパレートの日本中継を担当した資英は、新聞で「名調子」と評価された。
1938年、資英は当時のイタリアはムッソリーニの独裁化にあったイタリア大使館勤務となった。
その年に長男英利が生まれ、長男が持っていたフィルムには資英と米子がイタリアで夫婦仲良く暮らす姿が収められていた。
1950年4月に樺山資英は帰国し、外務大臣の松岡洋右の秘書官に抜擢されて、軍事同盟締結のために働いた。
樺山資英の遺品から松岡洋右とドイツとの会談のメモが見つかり、樺山資英は歴史の瞬間に立ち会ったことが判明した。
1940年9月に日独伊三国軍事同盟が締結され、その翌年に太平洋戦争が開戦した。
吉田茂同様に「英米派」の樺山資英は、この戦争が「負け戦だ」と周囲に言っていたという。
1945年の終戦後、吉田茂が首相になった。
樺山資英は情報部に配属されたが、その後に末期がんであることが判明した。
そのため自宅で闘病生活をしたものの、1947年に39歳の若さで死去した。

外交官・樺山資英の妻・米子は、内閣総理大臣・松方正義の孫にあたる。
松方正義には妻の他、3人の女性との間に22人の子供がいて、子孫は600人にもなる。
そして毎年、子孫たちの親睦会「海東会」が開かれている。
松方正義は鹿児島の城下町に住む下級武士の4男として生まれ、その屋敷跡は公園として残されている。
13歳から造士館に通い秀才でしられたが、この頃父が他界し生活は困窮する。
18歳の時ペリー来航、松方にとって「生麦事件」が大きな転機となる。
当時、松方は「駕籠脇」として護衛にあたっていたが、6人の護衛の内、5人が襲撃現場に行き、松方だけが久光公を守ったことが大いに評価を高めた。
その後長崎で軍艦や武器を買い付ける任務に就き、戊辰戦争に貢献した。
明治維新後、大蔵卿として日本銀行の設立や金本位制などを実現し、明治20年代に、2度内閣総理大臣に就任している。
また松方正義は奨学金を設立し、鹿児島奨学会(旧・島津奨学会)は鹿児島から上京してくる大学生に寮や学費の援助をしている。
2014年、青色ダイオードの開発でノーベル賞を受賞した赤崎勇も奨学金をもらった1人である。
松方正義の三男は「松方コレクション」を築いた松方幸次郎で、大学予備門からアメリカに留学して、エール大学で法律の博士号を取得した。
ヨーロッパ遊学を経て帰国後、父親の秘書官などを務めたが、神戸の川崎造船所の創業者である川崎正蔵に見込まれ、1896年、同社の初代社長に就任した。
松方幸次郎が美術品の収集を始めたのは、第一次大戦中のロンドン滞在時のことである。
大戦により造船で多大な利益を上げた松方は、1916年から約10年の間にたびたびヨーロッパを訪れては画廊に足を運び、絵画、彫刻から家具やタペストリーまで、膨大な数の美術品を買い集めた。
現在は東京国立博物館が所蔵する、パリの宝石商アンリ・ヴェヴェールから買い受けた浮世絵コレクション約8千点を含め、彼が手に入れた作品の総数は1万点におよぶと言われている。
松方が美術にこれほどの情熱を傾けたのは、自らの趣味のためではなく、自分の手で日本に美術館をつくり、若い画家たちに本物の西洋美術を見せてやろうという気概をもって、作品の収集にあたっていた。
また、松方の9男正熊(十勝鉄道会長)の娘が駐日大使エドウィン・ライシャワーの夫人となる松方ハルで、ハルは冒頭の小島信夫の小説で描かれた「アメリカン・スクール」におけるライシャワーの後輩である。
ちなみに、ライシャワーは宣教師の子として日本で育ったが、最初の妻を病で亡くし、日本女性ハルと再婚し1961年に彼女を伴いながら「駐日大使」として日本に赴任している。
大方の報道では、ハル夫人をライシャワー大使の陰でひっそり咲いた「大和撫子」などと伝えたが、それは真実を伝えていないようだ。
ハル夫人は、その「英語力」と情報力においてライシャワーにひけをとらず、二人が真っ向からディベートの火花を散らし、お互いに一歩も譲らないほどのものだったという。
子どもは父ライシャワーについて、自己の教えと、書いていることが論理的で正確であり、実際に起きることによって正当化されるという確信はユルガなかったと書いている。
そうしたライシャワーを負かすほどの日本人論客は、ハル夫人以外にはおらず、ライシャワーを育てたのはハル夫人だったかもしれない。
また、松方の8男の乙彦はハーバード大学に留学、ルーズベルトと親交を結んだ。
そして結婚相手が後の総理大臣で海軍大将の山本権兵衛の五女の登美だった。
乙彦は4人の子供を授かり、長女の米子は語学の才能があり前述の外交官・樺山資英に嫁いだのである。
その娘・八木沼東洋子(とよこ)は、夫・樺山資英の死後、母が泣いたという印象が残ってないと語っている。
夫の死亡後に米子は早速二人の子を育てるために仕事を探した。
そこで「得意の英語」を活かすために現在のシティバンクに就職し、外国人に対しても物怖じしないソノ働きぶりは評判だったという。
米子は、子供たちに海外での生活を体験させたいと思っており、それは亡くなった夫との約束であったようだ。
そして、長男の樺山英利はドイツで働かないかと誘われてドイツ行き、長女の東洋子もイタリアへの留学を希望して、米子も留学を積極的に後押し、夫との約束を果たしている。
さて、この樺山米子の長女・東洋子の娘がフィギュア・スケートで、1988年のカルガリー・オリンピックに出場した八木沼純子である。
八木沼純子からすれば、樺山資英と米子は、祖父・祖母にあたる。
八木沼は番組で、イタリアで撮られた祖父母の姿を見て、「祖父の若い時の顔を見たことなかったので、すごくハンサムな祖父でびっくりした。どうやって生活をしていたのか知らなかったのでこうやって見ることができてすごく驚いています」と語っている。
そして、米子にとって孫娘にあたる八木沼純子がフィギュアスケートを始めると、米子は試合会場に駆けつけて応援し、カルガリーオリンピック代表に選ばれたことを誰よりも誇りとしていた。
米子は、銀行を退職した後も、ホテルのコンシェルジュとして69歳まで働き続け、1992年の82歳で死去した。