カイザルの通貨

経済学の古典派は、「アダム・スミス→リカード→マルサス」という系譜ある。
いずれもイギリス人だが、アダムスミスの「市場経済」に比較して、「比較生産費説」(リカード)や「人口論」(マルサス)が言及されることが少ない。
しかしリカードは、その「政策提言」が大きな影響力をもった点で後のケインズと、大富豪になった点でネイサン・ロスチャイルドと比肩できるほどの人物であった。
リカードは、ポルトガル系ユダヤ人の株式仲買人で、学校教育をほとんど受けていない。
キリスト教・クェーカー教徒の美しい妻と結婚するためにユダヤ教を捨てる。
父親はそのことにいたく失望するが、当時クェーカー教徒は金融コネクションがあり、事業で大成功を収め大富豪となる。
一方、アダム・スミスは学究一点張りの学者と思われがちだが、「国富論」の中に記された驚くほどの広範な知識からして、特別な「情報源」があったはずである。
実はスミスは、貿易で栄えたグラスゴーの商人、企業家と幅広い交友関係を有し、蒸気機関の開発にいそしむジェームズ・ワットのために施設を提供など現実世界にも通じた人だった。
ちなみに、リカードが経済学に目覚めたのは、若くして豪邸を建てて引退し、妻の病気療養につきそってやってきた保養地でアダムスミスの「国富論」を読んでからである。
リカードが生きた時代は、ナポレオン戦争が終結した時代、つまり、軍事経済から平和経済へ移行する時代であった。
歴史を振り返れば、戦争が起きると「金本位制」は停止されているが、イギリスで最初に「金本位制」が停止されるのは、ナポレオンの軍隊がウエールズの海岸に上陸した時である。
人々はパニックに陥り、安全資産としての金貨を求めて地方銀行に殺到し、あるいは大陸への遠征軍や同盟国への送金のために金貨を調達しようとした。
助けを求められたイングランド銀行の準備がみるみる減少し、慌てた政府は「一時的」にポンドと金との兌換(交換)を停止し、金本位制から離脱したのである。
そして、この「一時的」が実に1821年まで続くことになる。
金からの離脱は、明らかにインフレをもたらした。ただし当時は物価統計などなく、人々は為替相場でポンドがどう推移しているかを推計したのである。
インフレの原因につき、貨幣の「過剰発行」が物価上昇を生み、輸入増大、輸出の減少を通じて貿易赤字、ひいてはポンド安という筋道が考えられる。
それ以外にも、凶作・戦争送金・対外援助などの「非貨幣的要因」も考えられる。
それでは金本位制からはずれると、なぜ貨幣が過剰発行になるのか。
仮に企業の期待する収益率が金利より高く貸し出しが(マネーサプライ)が増え物価があがったとしても、金との「兌換」を前提にしているので、正貨の減少を食い止めようとするため金利を上げざるをえず、いつまでも物価上昇は続かない。
結局、金本位制の下では、自動安定装置が働いてインフレがとめられるが、金本位制からはずれるとその装置が働かなくなるのである。
当時、民間銀行でしかなかったイングランド銀行とて自らの準備金を防衛しようとする誘因が働くが、地方銀行が頼ってきているときに貸し出しを拒否しては、パニックは広がるばかりである。
そこで、イングランド銀行は自然と「中央銀行」としての役割を期待されるようになっていく。
そしてイギリス銀行がその役割を自覚することなく充分には果たしていないと批判し、「国立化」を主張したのがリカードである。
まずイングランド銀行は、1810年ごろにインフレの加速に対して、貨幣の過剰供給なんてありえないと反論した。
なぜならイングランド銀行は、民間からの健全かつ旺盛な資金需要に応じて貨幣を供給して(貸し出して)いるにすぎないからだという。
どこか、日本銀行が金融政策につき自らを弁護する際の反論と似ているが、イングランド銀行の反論が明らかにおかしいのは、イングランド銀行は貸し出し金利を設定しているのだから、貸出量つまり貨幣の供給量に影響を与えているのだ。
さて、世に「日銀理論」というものがある。そのキモをいうと、中央銀行はハイパワードマネー(現金および日銀当座預金)、マネーサプライ、物価について統制することができず、それについては「責任がない」という考え方である。
これがもう少し洗練されると、日本銀行はハイパワードマネーは管理できなくとも、コール・手形レートを直接変化させることによって、市場金利を変化させてマネーサプライを変化させることができる。
しかし、実はマネーサプライの変化自体が経済活動の結果であり、日本銀行の金融政策と関係ないという論である。
近年では預金準備率操作はほとんど実施されおらず、マネーサプライは現金通貨と預金通貨を合わせたものだから、預金通貨の創造は民間の経済活動の「結果」にすぎないという見方もでき、日本銀行が主導的にマネーサプライをコントロールできない面もある。
要するに、リカードの「今日的意義」は、最初に中央銀行の意義と責任を問うたことであり、それは今日の金融政策においても最もホットな議論なのである。
前述のように、19世紀のイギリス経済が抱える問題は、金本位制という自動安定装置がない場合に生じるインフレーションだが、1815年ナポレオンがワーテルローで破れ平和が訪れると、「金本位制への復帰」が議論されるようになった。
リカードは、支払いの保証のない紙幣はまちがいなくインフレに繋がるとして、平和が訪れるといち早く金本位制復帰にむけての運動を開始した。
ただ、イングランド銀行が紙幣をすべて交換するだけの金貨を保有していないとしても、少なくとも商人が外国で金による支払いを必要とする時、金を規格に基づく地金(金の延べ棒)に変えて使えるようにすべしと提案した。
イングランド銀行はその提案を受け入れ1820年2月に発行された延べ棒は、「リカード印」と呼ばれるようになった。
そして、金の延べ棒の成功は、世界的な金価格の上昇を生み、さらにその採掘を促し、イギリスは金本位制復帰をいちはやく実現することになる。
それがイギリス経済に対する信頼が高まり、やがて国際経済が拡大するのである。

ところでリカードは、もうひとつ重要な提言をしている。
実は、リカードは「金本位制離脱」によるインフレばかりではなく、戦後不況のなかでの「金本位制復帰」の際に国内経済にデフレ圧力がかかることにも懸念を示したのである。
なぜかといえば、インフレによって金本位制下の固定相場に比べて、金に対するポンドの価値は下がっているから当時はポンド安であった。
ここから以前の平価(旧平価)で復帰するためには、ポンドの価値を大幅に切り上げなければならない。
それは、輸出の激減と輸入の増大を生み、国内物価の急落つまりデフレーションを伴うことになる。
リカードは一時的にはポンド安を前提とした「新平価」での復帰を提言したのだ。
しかし、政府は「旧平価」で復帰を行ったために戦後不況は長引き、第一次世界大戦の勃発とともに「再離脱」する。
結局リカードの懸念は裏付けられるカタチとなった。
さて第一次世界大戦後、再び金本位制への復帰が議題となったが、チャーチルは面子に拘ったのかケインズの提言を退け、「ポンド切り下げ」という新平価を選択せず、旧平価での復帰を行いデフレ不況に陥っている。
日本でも第一世界戦後に それでは、浜口雄幸首相・井上準之助蔵相が行った「金本制復帰」(=「金解禁」)が議論されたが、「新平価」での復帰論者は、石橋湛山ら少数派にとどまり、大不況に陥っている。
では大不況はどうして起こったか。
日本は1897年に金本位制を確立させ、金の輸出が行われていたが、、第一次世界大戦中に欧米諸国が相次いで金の輸出を「禁止」したため、日本でも1917年に禁止していた。
ところが大戦後、欧米諸国は相次いで金本位制に復帰、日本もこれに続こうとしたが、関東大震災や金融恐慌といった混乱のためそれが外国よりも遅れてしまった。
金解禁の主な目的は「為替相場」の安定と、「輸出拡大」による国内産業の活性化であるが、1930年1月、浜口内閣は、ようやく政策の目玉である「金解禁」を断行した。
金解禁とは、金(貨幣や地金)の輸出を解除することであるが、問題なのは「新平価」ではなく、「旧平価」(1917年の金の輸出禁止以前の平価)で金解禁を行ったことである。
その結果、「金解禁」は事実上の「円の切り上げ」になり、「輸出拡大」による景気浮揚効果が期待できなくなった。
浜口内閣は、アメリカは空前の「好景気」を謳歌していたように見えたこともあって、円が多少上がったところで、それほどに輸出に影響は出ないだろうと考えていた。
そして実際にも、金解禁は国民に「不景気打開策」として売り込まれていたのだ。
金解禁に備え、円高でも輸出が伸びるように「緊縮財政」を進めて物価を下げた上で、宿願の「金解禁」を行った。
それにより株価もあがり、浜口内閣は得意の絶頂にあり、「衆議院」を解散し総選挙を行った。
その結果は浜口率いる与党・立憲民政党の「圧勝」となった。
昨年末の「大儀なき解散」を思わせられるが、あてにしていたアメリカは、その時すでに「恐慌」という名の底なし沼に足を踏み入れ、輸出はまったく伸びなかったのである。
、 英国が債務国に転落する一方で、第一次世界大戦でアメリカは好景気にわき、世界大国としての位置を占めつつあった。
しかし、黒字に伴う金の流入にもかかわらず、米国はそれに対応する金融緩和を行わず、金融政策を「引き締め」気味に運営する。
他の国々は、金本位制にとどまる限り、為替レートを米ドルに対して「固定的」に維持しなけならず、他国々も引き締め的に運営せざるをえなくなる。
結局、金本位制を通じてデフレ圧力が世界経済を伝播されていた。
1929年の10月、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、「暗黒の木曜日」となったのである。
イギリスが金本位制を離脱し、ヨーロッパの金融恐慌が深刻化し、日本で金輸出が「再禁止」になるのは時間の問題だった。
日本で「金解禁」が行われそうだというニュースで、紙くずになりそうなドルから、ナショナルシティ銀行は日本から「金貨」を輸入しまくり、他の銀行もこれに追随した。
日本の「金解禁」後わずか2ヶ月で1億5千万円(今に換算すると、9兆6千億円)もの金貨が外国に流出したのである。
井上準之助は、金の流出は物価下落により)、輸出が増えていく前兆だと強気だったが、アメリカの不況はヨーロッパにも波及し、各国とも輸入を増やす力は失せ、日本の輸出が増えるはずもなかった。
そして日本でも株価や物価が下落し、中小企業が次々と倒産、完全失業率も増えていった。
円高(旧平価)で解禁したため、「再禁止」を実行すれば「円の暴落」は目に見えている。
米国のナショナルシティ銀行は、今度は「ドル買い」を開始し、これに三井・三菱・住友・安田といった日本の財閥も追随したのである。
こうして、イギリスの金再禁止後わずか1週間で二億ドル(約13兆円)もの「ドル買い」が行われたという。
政府は、三井財閥は金輸出再禁止を見越して、円売りドル買いをし、正貨準備の流出に拍車をかけた、これは売国行為であると糾弾した。
これによって、政府の「金解禁の失策」を「財閥批判」にスリ替え、政府の失政の責任を逃れようとしたのだ。
三井銀行はイギリスの金輸出禁止に伴い、ロンドンに持っていた資金を凍結され「決済」ができなくなるので、ドル買いを行っただけなのだが、「国賊的行為」といわれ、三井財閥総帥の団琢磨(作曲家・団伊玖磨の父)の暗殺までもが起きた。
1931年、政友会の犬養毅内閣発足とともに「金輸出再禁止」が決定され、株式・商品市場は大幅に下落した。
加えて東北地方の大冷害と生糸・米穀相場の暴落により、不況はさらに深刻なものとなったのである。
民政党・浜口雄幸首相・井上準之助コンビの「旧平価」での金本位制復帰問題は、リカードの時代からの問題でありそれが理解されていれば、昭和恐慌というデフレ不況は防げたのである。
「金本位復帰」についてリカードやケインズらの「通貨切り下げ」(新平価)という現実路線はどうして退けられたのか。

東京駅構内にはポツリと四角い黒マークのあるポイントがある。昭和初期の首相・浜口雄幸の暗殺のポイントである。
またコンビとなった井上準之助は、1932年に血盟団員・小沼正よって射殺されている。
作家の城山三郎は「男子の本懐」という本で、昭和の時代に軍部と戦い「予算削減」を断行した浜口雄幸首相と井上準之助蔵相コンビ を信念を貫いたものとして評価している。
しかし、「旧平価」での「金解禁」つまり「金本位制復帰」は国民の犠牲を強いるたばかりではなく、昭和恐慌から軍部台頭をまねいたことを鑑みれば、歴史的な「大失策」であったといって過言ではない。
では、一体何がこの失策をまねいたのか。
歴史的にみて貨幣の発行券は、王にある、王にそれが集中することに近代国家が成立する。ちなみに、イギリス硬貨のイメージは、エリザベス女王である。
日本の金本位制は貨幣法(1897年)に始まるが、法律は天皇の名で制定・発布されるため、日本の通貨は、究極的に「天皇の名」で発行されたといえる。
ところで聖書にローマに税金を払うべきかという点で、イエスは貨幣をもってこさせ貨幣の像をさして「この貨幣は誰のものか」と問い、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに 神のものは神へ」と答えた。
これこそが、キリスト教社会の「政教分離」の根拠となった言葉だが、コインに王の像があることそれは、究極的に「カイザル(天皇)」の名のものであることを意味する。
こうした意識こそが対外的に円の価値を下げることに、心理的な「抵抗感」をよんだのではなかろうか。
ちなみに、遠く平安時代の末期、「驕る平氏」の一面は、平家が中国銭(宋銭)を日本国内で流通させたことも、その一面であった。
昔、小学生達は天皇の「御真影」が載った新聞をできるだけ集めて担任の先生に持っていくと、担任が褒めてくれたという。
天皇の顔が載った新聞紙を焼いたり、ゴミ箱に捨てたりすることを「不敬だ」と意識されたからだ。
「天皇陛下の通貨」ならなおさらである。
結局、昭和不況の原因は、天皇陛下(カイザル)の貨幣を「切り下げる」ことに対する「不敬意識」ではなかったか。
さらに浜口首相・井上蔵相の経済政策には、第一次世界大戦期の好景気を「空(カラ)景気」つまりバブルとみなす傾向があり、不景気によってこそ健全な経済がもたされると考えたフシさえあるのだ。
つまり、不良企業は退場すべしというある種の「清算意識」である。
さて浜口・井上の緊縮財政は軍の縮小を意味し、軍と対決することを余儀なくされ、浜口も井上もそれぞれ銃弾に倒れる。
浜口雄幸首相、最後の言葉が「男子の本懐」であった。