伊藤家の歴史から

東京・築地の場外市場には、何軒かの老舗「玉子焼屋」がある。中でも「山勇」と「丸武」が近年とみに有名となった。
というのも、フリー・アナウンサーの山岸舞彩の実家が「山勇」、テリー伊藤の実家が「丸武」と知られたからだ。しかも両店、わずか100メートルしか離れていないらしい。
ではなぜ、魚市場に「玉子焼屋」なのか?
築地にある玉子焼屋のほとんどが、もともとは寿司屋であったという。
戦前までは、各々の寿司屋で玉子焼きを作っていたのだが、手間がかかって高度な技術がいる玉子焼はだんだん作られなくなった。
それで、プロを相手に「高級玉子焼」に特化した店ができたのである。
というわけで、築地の「高級玉子焼屋」は、寿司屋がたくさんある築地ならではの商売なのだ。
さて、1カ月ほど前にNHK番組「ファミリー・ヒストリー」で「テリー伊藤」の回を見たのだが、そこにとても興味深い事実を知った。
テリー伊藤のご先祖は千葉県山武郡横芝光町の出身だという。横芝光町の伊藤家といえば、小説「野菊の墓」を書いた伊藤左千夫が有名である。
それはさておき、番組の取材はテリー伊藤の母親の実家がある南房総市の「鳥海(とりうみ)家」に向かう。
そして鳥海家が、村の人々から屋号「ねぎとん」と呼ばれており、テリー伊藤を含めて誰もその理由や由来を知らないことを明らかにした。
そこで、神棚の奥の一度もあけたことのない扉を開くと、そこから約250年前の古文書が出てきた。
そこには「陰陽(おんみょう)家」を意味する言葉が書かれていた。
陰陽家といえば、古代中国の「陰陽五行説」を用いて吉凶を占った人で、古くは安倍晴明が有名である。
京の朝廷には「陰陽寮」という陰陽道を統括する役所があり、そこの長官は明治維新まで晴明の子孫である「土御門(つちみかど)家」が務めた。
この土御門家を頂点にして、江戸時代には全国各地に陰陽師がいたことが知られている。
そして、テリー伊藤の母親の実家「鳥海家」も土御門家から認可を受けた陰陽師であった。
その名残が鳥海家の屋号「ねぎどん」で、神社の神主を「禰宜(ねぎ)」とよぶことからきているらしい。
また、鳥海家がある南房総市白間津には日枝神社があり、その祭りは「白間津のオオマチ」(国指定無形民俗文化財)といわれ、陰陽道の思想が反映されているといわれている。
天保年間、村人は農業のほかにイワシやアワビ漁をし、テリー伊藤の母・なみ子さんの父・米吉さんのように、カジキ漁をする人もいた。
陰陽師だった鳥海家はこの村で、「白間津のオオマチ」と関わりながら、住民の求めに応じて吉凶を占っていたにちがいない。
以上が番組「ファミリー・ヒストリー」の内容である。

千葉県・房総という地は、中臣氏とともに天皇家の祭祀をつかさどった「忌部氏」と深い関わりをもっている。
ではなぜ、「忌部氏」がこの房総の地にやってきたのか。
房総の中心的な町といえば、戦国期の「里見八犬伝」の舞台である館山(たてやま)だが、 この地には古代に遡ると面白い事実がある。
記紀によれば、縄文時代の終わりごろ天皇家の親戚「忌部」(いんべ)氏が現在の徳島県(阿波)から海を渡って館山に辿り着いたと記されている。
そういうわけで、「阿波」(徳島)と「安房」(南房総)の地名のよみ「あわ」と共通しているのだ。
そして館山周辺の多くの神社には、安房神社、洲崎神社、下立松原神社など忌部氏の神々が祀られている。
ちなみに、この忌部氏が流れ着いた地点が館山市の「布良(めら)海岸」で、この風景こそ青木繁が「海の幸」という名画を描いた場所なのだ。
東京美術学校を22歳で卒業した青木は、1904年7月に福田たね、坂本繁二郎、森田恒友らと共に制作旅行に向かう。
向かう先は千葉県館山市にある布良海岸。
青木は、同じ久留米出身の詩人から、布良海岸の素晴らしさを聞いて、踊るような心持でやってきた。
当時の青木繁が作品のテーマとしたのが「神話」であり、作品「海の幸」は古事記の物語「海幸彦、山幸彦」をモチーフとして描こうとしたものであった。
ただ、実際には漁の様子を見ていない青木が何を参考にして「海の幸」を描いたのかは謎だが、最近の研究では布良・相浜地区の祭りにおける神輿を担ぐ姿が関係しているのではないかと提起されている。
余談になるが、青木は「海の幸」の獲物を担いで引揚げる男達の中に、ちゃっかり自分の恋人である「福田たね」の顔を描きこんでいる。
さて、この館山周辺に住み着いた「忌部族」とはどんな氏族であっただろうか。
古代朝廷にて祀りごとを司り、神事・麻栽培/加工・農業・鉄・織物・養蚕・製紙など多岐に渡って新しい産業を生み出しているため、「渡来系」の職業集団であることが想像できる。
ちなみに、忌部の「忌」は仏教などの影響で不吉な言葉のように言われているが、森羅万象に対して畏敬の念を表わす、むしろ「敬意」の込められた言葉であったという。
そして忌部氏の最も注目すべき点は、独自の「麻」文化を持っていたことである。
神事の占いや祭祀から、衣服や紐などの日常生活に至るまで、「大麻」(おおあさ)は彼らの生活には欠かせないものであった。
天皇が儀式の際に着る神衣や神社の鈴縄には今でも麻が用いられるなど、「麻」文化は今も生きている。
そして天皇家にとって麻は特別な意味をもつものであった。 記紀によれば、忌部氏はまず麻がよく育つ阿波(徳島)に住み着くようになったのだが、忌部氏はさらに「麻」が良く育つ土地を求め、黒潮に乗って旅を続けた。
その際に、上陸した土地が黒潮の北限、布良海岸だったのである。
布良という言葉にも麻との関連が秘められていそうだが、房総の「総」は「麻」の古語なのである。とすると房総とは「麻の房(ふさ)」とかいう意味になるのかもしれない。
忌部氏は上陸した館山を本拠地としてここから北上したため、南ほど都に近く、北に行くほど都から遠ざかることになる。
「上総」が南に「下総」が北にあるという、地図のうえでは上下が「逆さま」になった理由は、そこにあるようだ。

天皇家と稲作・養蚕(絹)との関係はしばしば聞くところであるが、天皇家がそれに等しく特別に重きをおいたのは「大麻」ではないか。
そして天皇家の祭祀を務めた忌部氏が「麻の産地」を求めて大旅行をしたのも、天皇家と大麻との関わりによるものでは?
というのも、天皇即位時に行う「大嘗祭」では、平成元年に四国でわざわざ1年だけ大麻を育て、儀式の服である麁妙(あらたえ)を捧げた。本来の日本は麻の国であり、大麻は五穀の一つだったのである。
神道では「清浄」を重視しており、大麻(おおあさ)は穢れを拭い去る力を持つ繊維とされ、1948年にアメリカの占領政策によって大麻取締法が制定されるまでは、日本では大麻(おおあさ)の成分を抽出した薬が漢方薬として市販されていた。
また、昭和天皇の即位に際して行なわれた大嘗祭までは、大麻取締法という法律がなかったが、「平成天皇の即位」の大嘗祭では、わざわざ大麻草の栽培免許を徳島の木屋平村麁服貢進協議会で取得したという。
実は、神道においては大麻は罪穢れを祓うものとされている。
そして、伊勢神宮のお札のことを「神宮大麻」と言い、大麻(おおあさ)とは天照大神(あまてらすおおみかみ)の御印とされている。
それは、強い生命力は魂の象徴であり、神の「依り代」と見られていたからである。
しかし麻がなんらかの霊威をもつことは日本にかぎらず世界的にも認識されており、エジプトのミイラを包んだのも麻、またイエス・キリストの遺体を覆った「聖骸布」も天然素材の麻であることが聖書に記されている。
そして、神道における大麻(おおあさ)の使用は、その美しい繊維の束を棒の先にくくりつけ、参拝する者の頭上や特定の場所などの穢れを祓う大麻(おおぬさ)や御幣(ごへい)であったり、聖域を囲む結界のための麻紐であったり、注連縄や神殿に吊るしてある鈴の縄として、現在も使用されている。
忌部氏は、祭祀職としてこうした「御弊」をつくるために、麻の生産に携わり、阿波徳島や房総の地を拠点にしたのであろう。
しかし、ひとつの疑問が湧く。忌部氏は大麻を求めてわざわざ黒潮に乗って東国にいく必要があったのだろうか。
大麻の産地は、そんなに遠くにいかなくとも、もっと近くにもあるはずである。
この謎に挑んだ「大麻と古代日本の神々」(山口博著)という本がでており、以下の記述は、この本を参考にしたものである。

このたびアカデミー賞作品賞候補のひとつに「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」という映画であった。
かつて「バードマン」というヒーロー映画で一世を風靡した俳優が、再起をかけてブロードウェイの舞台に挑む姿を、「バットマン」のマイケル・キートン主演で描いた。
この映画のワンシーン、鳥の羽が生えてくる場面に、何かの写真で見た古代における鳥の格好をした「シャーマン」のことが思い浮かんだ。
実は、中央アジアの草原の路が幻覚剤大麻を用いたシャーマン文化があったことを様々の史料や考古学的資料が明らかにしている。
スキタイのパジリク古墳からの麻を燻す器具の出土、楼蘭の大麻草を持つシャーマンのミイラなどである。
そして、シャーマンが鳥になる地域がある。
シャーマンは、弦楽器を奏で、夢幻の中に神の声を聞き、「託宣」として語った。
神憑り状態になったシャーマンは、祖霊や死霊の存在する異次元の世界、あるいは天上の神の世界を語る。
ササン朝ペルシアのマギ(マジックの語源)は、麻酔剤の入った酒を飲み 長い眠りに入ったが、目覚めると彼の昇天旅行と天神との会談の模様を語った。
北方ユーラシアのシャーマンがテープ状布を肩・腕・腰に垂らし、猛禽類の翼を腰につけ「バードマン」と化するのも、天界への飛翔のためであり、シャーマンは天界に旅する途中で目にする光景、遭遇する人物などを人々に語る。
ところで、前述のとうりNHKの番組がテリー伊藤家の屋号は「ねぎとん」とよばれる「陰陽家」であることを明らかにした。
また「記紀」や「古語拾遺」などの資料によって、伊藤家の母親の実家が南房総の館山に近く、そこは「忌部氏」ゆかりの地であることがわかっている。
そうすると最後の問題は、「陰陽家」と「忌部氏」には、いかにも繋がりそうでありながら、どう繋がるかということになる。
そして両者を繋ぐひとつのキーワードが見つかった。それが「鳥」である。
実は陰陽師としてしられた安倍晴明の出身地はいまひとつわかっていない。
候補地のひとつに、茨城県真壁郡明野町がある。問題の安倍晴明の邸宅があったという場所は、現在、猫島という地名となっている。
伝説によると、唐から帰ってきた吉備真備が筑波にやってきたときのことである。突然、数千匹の猫に囲まれてしまった。困惑していると、そこへひとりの童子が現れた。
童子を見た猫は、みな一目散に逃走してしまった。
不思議に思いながら、吉備真備は童子に名を聞いたところ、なんと彼こそは同志、阿倍仲麻呂の子供、安倍晴明だった。
狂喜した吉備真備は安倍晴明に陰陽道の奥義書を伝授。
さらに、安倍晴明は鹿島神宮で婆伽羅龍王から鳥薬を授かるに及び、鳥たちの言葉がわかるようになり、「陰陽師」として成長していったという。
そしてまた忌部氏も「鳥」と関わりの深い氏族であり、陰陽家との関わりもありそうだ。
テリー伊藤の母親の実家が「鳥海家」であることを思い出して頂きたい。もともと忌部氏であったものが後から「陰陽道」をとりいれたのかもしれない。
忌部氏の後裔にあたるその斎部広成が807年に「古語拾遺」を著した。
この本に、「忌部氏の祖先である天日鷲神」や「天富命(太玉命の孫)」と書かれてあるが、一体これはどういう神であろうか。
記紀神話の最も有名な話に天照大神の「天岩戸隠れ」ある。
ある日、素盞鳴尊(スサノオウノミコト)が暴れ回ったために、怒った天照大神は天岩戸に隠れてしまう。すると、世界中が真っ暗闇になってしまった。
困った神々は、天照大神の気を引こうと、岩戸の前で詔を唱えたり、踊りを踊ったりした。
その中の一神に、忌部氏の祖である天太玉命(あまのふとだまのみこと)がいた。
天太玉命は、天照大神の気を引くために、大麻の先にいくつもの勾玉を綺麗に飾り付けて捧げ持っていた。
岩戸の前に集まっていた神々によるパフォーマンスが最高潮に達し、まさに岩戸が開かれようとしたその時、天太玉命が捧げもっていた大麻の先に、一羽の鳥が舞い降りた。
神々は、これを吉兆と見て大変喜び、この鳥は「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」という神となったと言われる。
「記紀」では、天照大神出現後、再び天照大神が天岩屋戸に籠もらないように、天岩屋戸に注連縄を張ったが、忌部氏の伝承「古語拾遺」では、天照大神を神殿に移し、神殿に注連縄を引きめぐらしたとしている。
このことから忌部氏は、大麻を扱う職業集団として「注連縄」つくりにも関わったことが推測される。
そして「天日鷲命」こそが忌部氏の祖神となり、この「天日鷲命」に導かれて、忌部氏は麻を求めて旅をしたのである。
忌部氏は、周りが木の実を食べていた時代に多岐に渡る産業を生んだ氏族であるため、京都を開拓した秦氏などと同じく「渡来系」の集団だったにちがいない。
それでは「忌部」氏はどこからやってきたのであろうか。
「鳥」をキーワードとすると、北方ユーラシアあたりのシャーマン文化との関わりが推測される。
そして実際に忌部氏は実は「天語連」(シャーマン)として古代朝廷に仕えたのである。
とするならば、忌部氏は大麻から単に「御幣」を作っていただけではなく、「幻覚剤」に使っていた可能性がある。
繊維を採る麻と麻薬になる麻はまったく同じ植物で、現在はひっくるめて「大麻」とよばれる。
ただし向精神作用を有するTHC(テトラヒドロ・カンナビノール)と向精神作用のないCBD(カンナビジオール)の含有率の比率により、「幻覚性」大麻になったり、「繊維性」大麻になったりする。
つまり大麻には幻覚作用の強い亜種と作用のない亜種があるのだが、西日本の麻は弱く、東日本の麻は強いのだという。
忌部氏が阿波徳島の大麻ではなく、安房(千葉南房総)の大麻を求めた理由は、彼らが単なる繊維としての大麻を求めたのではなく、シャーマンとしてより「幻覚性」の強い大麻を求めたのかもしれない。
さて、大麻の未熟果実と葉から取れるのがマリファナ、花序から採取される樹脂がハシッシュ、マリファナの中でも最高の効力をもつシンセミアは、成熟した大麻の雌株にできる種無しの花である。
ちなみに、マリファナの樹脂を意味するハシッシュからアサシンになり、アサシネーション(暗殺)の語を生んだという。
日本には「禍福はあざなえる縄のごとし」という諺があるが、それは大麻のもたらす禍福をも物語っているようである。