扉を開いた少女

若かりし頃、高橋洋子主演の「サンダカン八番娼館」(山崎朋子原作)を見た。
ある女性史研究家が明治時代末期から昭和初期まで南洋の島々に売られていった「からゆきさん」の実態を調べていた。
そして天草で出会った老婆サキと出会い彼女の「重い過去」を知る。
ラストシ-ンで女性史研究家がインドネシアの山中にある彼女達の墓を訪れわかったことがあった。
草むらに見捨てられたようにある彼女らの墓の幾つかが、日本に背をむけているということであった。
今にして「棄民」という言葉が思い浮かぶが、忘れ去られた者達が放つラスト・メッセージが「墓」ともいえる。
新潟県佐渡相川は「墓の町」といっていいほど多くの墓がある。ココは江戸時代に佐度の金山に島送りとなった人々が、故郷に帰ることなく葬られた場所である。
女流作家の故・津村節子は、時々この町を訪れ墓石の一つ一つが語る言葉を聴きに行ったという。
ひとつひとつは風にカキ消されるようなカ細い声でも、多くの声がひとつとなると「叫び」となって響きあうようにも感じられたことだろう。
しかしもしも、アメリカの地の人影もまばらな草むらにポツネンと立つ墓に日本人の名前が書いてあったら、いかなる感慨が湧き上がってくるだろうか。
1915年在米邦字紙記者・竹田雪城によってカリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの草地に人知れず眠る少女の墓が発見された。
竹田はこの墓を調査するうちに日本で最初の海外移民団といってもよい「若松コロニー」の存在と出会うのである。
ちなみに、この若松は、福島県の会津若松をさしている。
幕末に薩摩長州に武器を売り込んだイギリス人グラヴァーが有名であるが、対する幕府側についた会津藩にもお抱えの武器商人ジョン・ヘンリー・シュネルという人物がいた。
彼は、戊辰戦争に敗れた藩を見限り新天地アメリカに日本人の村を建設しようとした。
日本の茶と絹を金鉱発掘の好景気に沸くカリフォルニアで作ればきっと成功すると考えたようだ。
敗戦によって前途を失った武士とその家族たちを説得し、1869年にたくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗ったのである。
しかしこの渡航は新政府の正式な許可は取っておらず、そのことが「若松コロニー」と呼ばれた日本人の村の存在を埋もれさせる結果となった。
旧会津藩のサムライとその家族たちは勤勉に働き茶の木は育ち、シュネルは1870年のカリフォルニア州フェア(見本市)にこれを出展する計画まで練っていたという。
約1年間と少しだけこのコロニーは持続したが何らかの原因で崩れた。日照り、資金不足、あるいは病の流行によるものとも言われている。
1871年4月、行き詰まったシュネルは日本で金策をして戻って来ると言い残しこの地を去り、二度と戻ってくることはなかった。
あとに残ったものは言葉もわからず、生きる糧もないママ途方にくれる日本人入植者達だけだった。
記者の竹田は墓に眠る少女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。
この家の子孫は少女を覚えており、そればかりではなく歴史に埋もれていた「若松コロニー」の存在を明らかにしたのである。
少女はシュネル家の子守として彼らについて渡米したらしい。コロニーの経営失敗後にヴィーアキャンプ家に引き取られ使用人として働く。
しかし1年足らずで彼女は体を崩しこの地亡くなってしまう。
少女の墓には日本語で「おけいの墓」と書かれていた。そしてその下に、英語で「1871年没、19歳、日本人の少女」とも記されていた。
この地で「おけい」と共にあった他の入植者達の行方はほとんど知られていない。

ひとつの「名前」の記載が、未知の世界への扉を開くことがある。
2010年、松山城の二の丸にある防火用水を兼ねた古井戸より、表面にロシア語とカタカナが刻まれたコインが見つかった。
というのも、1904年3月この地に日本の最初の俘虜収容所が設立された場所だったからだ。
当時の人権擁護の世界的潮流にあって、日露戦後、日本赤十字社はロシア人負傷兵の救済に尽力した。
また、愛媛県が県民にあてた勅諭には「捕虜は罪人ではない。祖国のために奮闘して破れた心情をくみとって、一時の敵愾心にかられて侮辱を与えるような行為はつつしめ」というものもあった。
さて、冒頭に書いたコインは1899年製造のロシアの10ルーブル金貨だが、この金貨の発見が思わぬ事態の進展を呼び起こした。
ロシア語は人名で「M・コスチェンコ」、カタカナは「コステンコ・ミハイル」それに「タチバナカ」と読める。
さらに調査が進められ、「コスチェンコ氏」は、当時24歳のロシア人歩兵少尉であることが判明した。
それでは「タチバナカ」も名前だが、「橘 力」ならば日本人の男性である。当初このコインは、「日本人男性と将校との友情の証ではないか」という推測がなされていた。
さらに資料が調べられたが、当時の俘虜収容所の関係者に該当しそうな人物は見つからなかった。
その後、「チ」と思われていた文字が、「ケ」ではないかとの 指摘があった。
そうなると刻まれていたカタカナは「タケバ ナカ」、つまり女性の可能性がある。
そしてその名前で探したところ、「該当者」がいたのである。
松山市の調査でタケバ・ナカさんは日露戦争当時この場所にあった陸軍病院に勤めた日本赤十字社の看護婦であった。
また一方のコステンコ・ミハイル氏は貴族出身のロシア軍少尉で、捕虜になって陸軍病院に入院したことが判明した。
松山城の古井戸で見つかったコインは、どのような状況で投げ入れられたのか。コインにはペンダントにしたと思われる「溶接跡」もあった。
映画「タイタニック」のラストで、ペンダントを海に落とすシーンなど思い浮かび、 イマジネーションが膨らんでいく。
二人がどんな関係にあったかは知るよしもないが、当時の松山市長であった中村時広氏は、このエピソードをもとにした作品の提案を受けた時に、出来たばかりの「坊っちゃん劇場」の次のテーマはこれでいくと決めたという。
この話をテーマにしたモニュメントが作られ、地元の劇団「わらび座」によって発見されたコインをもとにミュージカルが上演された。
その後、ロシアでの上演も実現して、喝采をあびたという。

「おけい」や「タケバ・ナカ」の名は未知の扉を開いたが、それは必ずしも「夢の扉」というわけにはいかなかった。
自分で道をつくらねばならぬ者にとって、いちはやく模索するのは自分で人生の「方向性」、あるいは「系統性」ではなかろうか。
そんな類の人の中に、たったひとりの少女との出会いによって人生を導かれた芸術家や学者がいる。
その出会いは、彼らにとって「邂逅」とよぶにふさわしいものであったであろう。
ゴーギャンは1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであり、ゴーギャンが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。
しかし父はゴ-ギャンが1歳になる前に急死し、残された妻子はペルーで数年を過ごした後、1855年フランスに帰国した。
こうした生い立ちの中で、特に黒人女性に添い寝してもらって育った体験などは、彼が後年タヒチの女性達を描くようになることと関係があるかもしれない。
フランスに帰国後、ゴ-ギャンはスペイン語しか話せない自分が異邦人のように感じたという。
神学校、航海士、海軍に在籍し普仏戦争に参加後、パリで株式の仲買人をすることになる。
デンマーク出身の女性メネットと結婚したが、メネットはこの時、生活力のあるゴーギャンが芸術ナンゾという「呪縛」に染まっていくなど予想だにしなかったに違いない。
この頃のゴーギャンはごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、絵を印象派展には出品するだけの一介の日曜画家にすぎなかった。
株式相場が大暴落して勤めを辞め、突然画業に専心しだすが、株式仲買人を相談もなくやめたことに妻は激怒しデンマークに帰ってしまう。
その後、ブルターニュの町にある安宿で画に没頭する。
40歳の時に「説教のあとの幻影ーヤコブと天使の戦いー赤い大地」を描くが、タヒチの美術館ではなんとそれが日本の「相撲絵」と並べてあり、その構図がまったく同じことに驚かされる。
ゴッホと並んでゴーギャンがいかに日本の浮世絵の影響を受けたかがわかる。
遺作となった「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」では人の一生をタヒチの風景を背景に右から左へと描いている。そういう時間の流れの描き方こそ、日本の「絵巻物」の手法である。
ゴッホは浮世絵にあるような光を求めてアルルにいくが、ゴーギャンを呼びよせて共同生活をしたことがある。しかしゴーギャンにとってペルーの光に比べてアルルの町はなんということはない町だった。
そして個性的な二人は2か月後にはげしくぶつかる。
ゴーギャンは「ひまわりを描くゴッホ」を描くが、ゴッホはそれを「狂気の自分だ」と激怒し耳を切り落とした。
しかしゴ-ギャンのタヒチ行きをすすめたのはゴッホであり、ゴーギャンはその勧めに従い43才でタヒチに渡った。
その意味で、ゴッホはゴーギャンの生き方を決定づけたともいえる。
さて「赤い月」など自らの満州引き揚げ体験を描いたドラマで知られる作詞家・なかにし礼氏はゴーギャンの遺作となった大作「我々はどこからきたのか、~」に、自分の「異邦人」体験を重ね合わせ、ことのほか強い思い入れがある。
なかにし礼氏はある時期、自ら「どこから来たのか」を明確にしなければ一行も詞が書けない状況に陥ったという。
そんな時、ゴーギャンの「我々はどこから来たのか~」とボストン美術館で出会い圧倒される。
そこには土色にかがやく人間の肌を描かれている。それぞれのポーズの中に暗示的なものがあり、中央には知恵の実をとろうとする人間の姿が描かれている。
そして人間の知恵がいかに大地を犯してきたのか示しているように思えたという。
満州で「赤い月」と黄砂を見たなかにし氏の体験と根源的に響きあうものがあった。
なかにし氏はゴーギャンの絵と「邂逅」し語りあうことで新たな一歩踏み出すことができたという。
実はゴーギャンの絵の背景には13歳の少女テフラとの出会いがあった。
ゴーギャンは褐色だが黄金のような肌に無垢の美しさを見た。
そこに装飾のないまぎれもない美しさを見出し、彼女の一瞬一瞬の表情やしぐさを燃え立つような色づかいで描いた。
しかし、絵は依然売れるほどのことはなく一度は貧窮のためにフランスにもどり、再び訪れたタヒチでは、海岸に掘立小屋をたてて現地の女性と同棲したりもした。
貧窮は相変わらずで、最愛の長女が20歳の若さで亡くなった知らせをうける。
フランスで乱闘した時の傷の痛みや病も進行し、死を決意して最後の一枚ときめて書いたのが「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」である。
ゴーギャンが死を決意し人生の総決算として書いたその絵は、大地の生命力に引き込むような強い力で迫ってくる。

日本語学者・金田一京助と15歳の少女・知里幸恵(ちりゆきえ)との出会いは、日本人にとっての真の意味での「アイヌ発見」であり、「邂逅」とよぶべき出会いであった。
知里はアイヌ酋長の家柄で、1903年登別市で生まれ母の姉である金成マツの養女となって旭川に移った。
1918年のある日、アイヌ語研究をしていた金田一京助が旭川の幸恵の家を訪れ、幸恵の言語能力の素晴らしさに驚く。
幸恵はアイヌの口承叙事詩ユーカラの伝承者であった伯母の金成マツの養女となり、十代の少女であるのにもかかわらず多くのユーカラを諳んじていた。
幸恵はアイヌ女性としてはめずらしく女学校を卒業しており、当時においてもほとんど老人しか話せなくなっていたアイヌ語をよどみなく話し、さらにそれ以上に美しい日本語を操った。
金田一は幸恵を「語学の天才」と評した。そればかりではなく、「天が私に遣わしてくれた、天使の様な女性」と言わしめる存在だった。
金田一と出会う以前の幸恵は、明治期の政策で、アイヌの人々は文化を否定され民族の誇りを失いかけていた。
学校では日本人教師たちから「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い頃から疑うことなくそのまま信じ込み、幸恵も「立派な日本人」になろうと、自らがアイヌであることを否定しようとしていた。
しかし金田一から直接「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と諭されたことで、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌとしての自信と誇りに目覚めたのである。
知里幸恵は「アイヌ神謡集」の「序」に次のようなことを書いている。
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう」。
アイヌ研究者金田一京助にとってみれば、幸恵は願ってもない存在であり、幸恵は金田一の熱意に応じて上京し、そのユーカラ研究に身を捧げた。
金田一京助のアイヌ語研究が、やがてアイヌ学の代名詞にまでなるのに、幸恵の存在ぬきに考えることはできない。
その後、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心からユーカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。
やがて、ユーカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの要請を受け、東京の金田一宅に身を寄せて心臓病を患い絶対安静を告げられていたにもかかわらず、病気をおして翻訳・編集・推敲作業を続けた。
「アイヌ神謡集」は1922年9月18日に完成したが、幸恵は同日夜、心臓発作のため19歳の短い生涯を終えた。
金田一にとって知里幸恵との出会いはアイヌ学者としての将来を約束したかに思えたが、突然訪れたその死は深い罪責の念を与え、金田一は19歳の墓石にすがって泣いたという。
それからの金田一京助は、まるで「償い」をするかのように幸恵の弟の知里真志保に大学教育の機会を与え愛弟子として育てた。
知里真志保は東大に進み、アイヌ初の北海道大学教授となったものの、結局、金田一とは決別している。
南太平洋におけるゴーギャンとタヒチの娘の出会い、北の大地における金田一と知里幸恵との出会いは、広くいえば前近代と近代の相克の一断面をみせており、自ずから悲劇性をはらんでいたともいえよう。