独裁者と悪代官

鹿児島県の辺鄙な二つの町で、最近とても「恐ろしい」ことが起こった。
目立たない辺鄙な処というのも、こうした出来事の背景の一つに数えられるが、その「恐ろしさ」はモット大袈裟に認識されるべきものだと思う。
その「恐ろしさ」とは、法治国家で長期間「無法状態」がマカリとおったこと、平凡な人間でも権力を握るとオカシクになること、もし日本が悪い方向に走るならば、キット二つの町で起きたような出来事がバージョンアップして起きそうなところにある。
つまり二つの町で起きた出来事は、この時代の悪しき「縮図」であり「予兆」だということである。
ところで「地方自治」の特徴として、市長と市会議員は互いに独立した二つの選挙が行われるため、「民意」は二つのカタチで表明されることになる。
最近では知事や市町村長はマニフェストを掲げて選挙を戦うことが多く、その政策の実現に責任をもって就任する。
そこで政策をめぐって長と議会との方針がクイチガウことはイツデモ起こり得ることで、実際にそれは多くの自治体で起きてきたことではあった。
ただし、自治体の制度は、基本的に議会での「議論」を通して、そうしたクイチガイを正しうることを想定している。
ところが最近、土俵を議会の外に移して「決着」をつけようとする傾向が強い。
その代表例が、リコールや住民投票で物事の決着をつけようとする動きで、そこに公開説明会などで「ヤラセ」の種がまかれる。
ところで、鹿児島県の西に位置する阿久根市は日本有数のイワシ漁の拠点で、最盛期には年間75億円を生み出した豊かな町であった。
しかし近年、温暖化のせいか漁獲高の落ち込みとともに、町は一気に沈み込んだ。
そして閉塞感にあえぐ市民は、「官民格差」の解消を訴える一人の男の「改革」に期待を寄せた。
市民の平均年収188万円に対して公務員の年収は633万円という3倍以上の格差があったのだ。
その改革を訴える男とは、市議会議員一期半ばの竹原信一氏(当時49歳)であった。
選挙選で、市の職員や議員たちの給与を大幅にカットし、市民のために予算を使うと公約した。
そして竹原氏の改革は大きく市民の心をつかみ、2008年8月に新市長が誕生した。
、 だが、最初の議会冒頭に、議員定数16人を6人に減らすと公言し、すべての市会議員をアゼンとさせた。
そして阿久根市のホームページには、全市議議員の給与を一円単位で表示し、市役所の窓口には官民の給与格差を書いた紙を貼り出した。
では一体、この竹原氏とは何者なのか。
防衛大学卒業後、航空自衛隊に幹部候補生として入隊するも、1988年に二等空尉で退官している。
帰郷して、実家の親族が経営している地元の小さな会社に就職した。
市営住宅の建設を請け負った時に、設計の変更を提案したところ、市の職員は自分達が住むわけでないので変えなくていいと答え、公務員に対する怒りを覚えたという。
この「怒り」を原点に市議から市長へと立候補するのだが、市長就任当初、山間部の老人の便宜のために、200円タクシーを走らせるなどをして、高齢者の支持を集めた。
一方で、竹原氏の政策は「ゴミ袋半額」に見るように、「思いつき」と批判されることもあった。
ゴミ袋代にはもともと、「ゴミ処理費用」が含まれていたため、ゴミ袋を半額にしたのは良いが、結局、市の財源から年間一千万円近くにもなるゴミ処理代を捻出しなければなり、結局、住民の税金が増すだけだった。
さらに、漁獲高が減少する町で燃料費は高騰しており、そうした課題に対して何の対策も考えられていなかった。
市民の中には市政から置き去りにされていることを感じ、竹原改革への疑問を感じる者もいた。
市議会は、竹原氏の改革をことごとく否決し、「不信任」をつきつけた。
一方で、「竹原氏でなければ何も変えられない」と考える高齢者を中心に、その「根強い支持」は消えてはいなかった。
そして出直しとなった市長選に立候補して再選を果たし、「絶対的な信任」を得たと思ってか、竹原氏の市政は次第にオカシナ方向へと走りだしていく。
一度否決された、議会の定数削減に加えて職員の給与引き下げ、生活保護世帯の市営住宅の賃貸料を無料にすることなどの政策を次々に打ち出した。
またリコール成立後の失職中に、窓口に貼っていた官民の「給与格差」の紙を剥ぎ取った職員を、イキナリ懲戒免職にした。
その後、裁判所はこの免職が無効であり、市長に職員の職場復帰を命じたが、それを無視しつづけた。
そのうち市役所内では、何か言ったならば「首を切られる」という異様にハリツメタな雰囲気につつまれるようになる。
ソンナ中、市長は市民との「懇親会」と銘打って市民800人を前に、竹原改革に「消極的な」職員を壇上に並べさせ、改革に協力するつもり否かコメントを求め、イワユル「人民裁判」の様相を呈した。
その壇上で、職員達は「答えるべきものは何もない」とノーコメントの姿勢を貫きセイッパイの抵抗を示した。
会場は様々な感情が入り乱れドヨメいた。
中には裁判所が命じた職員の復帰をナゼ認めないのかという質問もでた。
竹原氏はソレに対して、市長の命令をきかない職員をおいておくことはできない。裁判所は神様ではナイと答えた。
竹原改革の象徴として「シャッター・アート」(竹原壁画)がある。
元気のない商店街に元気を与えるという名目で500万円をかけて、商店街のシャッターすべてに一人の画家に絵を書かせたのである。
街が「竹原一色」に染められようとしたワケだが、これが果たして改革といえるかという「疑問」も渦巻いていった。
そんな中、竹原氏が日々の感情をブツけるようにブログに書いた「一文」が大きな波紋を巻き起こすことになる。
それは、「高度医療のおかげで自然淘汰されていくものや機能障害のものを生き返らせている。結果、養護施設にいくものを増やしている。センチメンタリズムでは社会をつくる責任を果たすことはできない」という一文であった。
全国から「障害者差別」だと抗議が殺到し、県内外の障害者団体が謝罪を市長に要求したが、竹原氏は、謝罪をすればこの問題にふれることはタブーとなり、議論する場がもてなくなると謝罪を拒否した。
こうした抗議運動の中心にいたのが、5歳の障害児を持つ西平良将氏であり、後に竹原氏の「対抗馬」として市長選に立候補する人物である。
連日マスコミも押しかけるようになり、市長室には目隠し用のフィルムが貼られていたが、マスコミがいるかぎり、市長は議会には出席しないと宣言した。
また県知事に呼ばれ事情を聞かれた際には、集まるマスコミに対して、時には撮られる立場にたってみろ、とカメラをかまえながら取材陣を映して歩いた。
次年度の予算も組めない状況の中で、議会を召集もせず、出席をしない市長に対して、市職員200人が意を決して「議会召集」を直訴したが、市長はそれには一切目を通さずにシュレッダーにかけさせた。
この時、竹原氏にはスデニ「ある考え」が芽生えていた。それは日本の地方自治を揺るがす前代未聞のことであった。
地方自治法では、災害などのキワメテ緊急の時に、市長が議会に諮らずに「専決処分」ができるという規定があった。
竹原市はこれを全てに適用できると解釈した。
2010年4月27日、「専決処分」として、市役所前に一枚の紙がはられた。
職員のボーナス半額カット、固定資産税減額、職員報酬を月額制から一日一万円の日給制にするという内容だった。
副市長も勝手にきめ、その後も専決処分をクリカエシ、合計19件にも達した。
そのほとんどが、議会で一度否決されたものであった。
一人の人間が誰の意見も聞かずに物事を決定していた。専決処分をめぐって議会でもみ合いや乱闘にまで発展して、市民をアキレカエラセた。
そしてついに、竹原氏の「独断政治」に若者が立ち上がった。
若者50人を中心に「阿久根の将来を考える会」が結成され、竹原市長に対するリコール運動を行った。
リコールは賛成7543、反対7145で僅差で成立し、竹原市は再び失職したが、次期の市長選(三選)にも出馬することを発表した。
そしてアノ西平良将氏が友人達のオシによって、この市長選に立候補し、2011年1月16日が西平氏が勝利し、竹原市政は終わった。
西平氏は阿久根市脇本出身で37歳、九州大学農学部卒業し、養鶏場を営んでいた。
竹原氏ブログの障害者についての発言をうけ、反竹原の立場で活動をはじめた。
西平氏はモトモト竹原氏の支持者であり、竹原氏の人件費削減などの施策を支持する市民が数多くいることも理解していた。
西平氏は、問題はその「手法」であり、市民との「対話」を重視することを強調した。
阿久津の人々は、およそ840日におよぶ竹原市政の下で、「改革」を夢見て「改革」に踊らされた感がある。
シャッターが降りたままの街は今、全国いたるところにある。
阿久津のシャッター街の「竹原壁画」は、新市長誕生とともに白く塗りつぶされた。

鹿児島県の大隅半島の一番東に、宮崎県に接する小さな町、志布志町(現在は志布志市)がある。
2003年4月に行われた県議会選挙で中山信一氏が初当選した。
ところが中山信一県議会議員の陣営が、曽於郡志布志町の懐集落で住民に焼酎や現金を配ったとし、その家族、住民らが「公職選挙法」違反容疑で逮捕され、連日の過酷な取調べで虚偽の自白を強要されるという出来事が起こった。
志布志市の中心部からさらに山間を縫って50分の処ある戸数わずか6戸、20人が住む「懐集落」がある。
こんな山奥にある集落の十数人の有権者のために候補者が4回も会合を開き、10人余りに191万円もの金を配ったというのだ。
2003年当時、鹿児島県議会曽於郡選挙区は定数3で、自民党公認の現職3名が「無投票」で再選される見通しとなっていた。
ところが、志布志町議会議員であった中山氏が無所属で出馬したことにより一転、4名による激しい選挙戦が繰り広げられた。
中山氏は3位で当選したが、その結果、自民党現職の市ヶ谷誠氏が「次点」となり落選した。
ところが、中山氏と姻戚関係にあり陣営の運動員をしていたホテル経営者の男性が志布志町内の集落において中山氏への投票を依頼して缶ビールを配った容疑があるとし、志布志警察署より出頭要請を受け、任意で取り調べを受けた。
この集落は、自民党所属で当選7回(当時)の県議会議員M氏が強固な地盤を築いていたことで知られていた。
このM氏は、一度は「県議選」で中山信一氏と同じ選挙区で争ったこともあり、その中山氏が市議に当選したことにより、自分の地盤が荒らされた感があった。
またM氏は捜査を指揮した警部と20年来の親交が有り、捜査開始前に警部がM氏を訪ねただけでなく、度々情報交換を行っていたことが後に判明している。
ホテル経営者はこの容疑に全く心当たりがなく、全面的に否認した。
しかし、捜査担当者は連日にわたりホテル経営者を署で取り調べた。
そして取調べの3日目の4月16日に「踏み字」事件がおきたのである。
取調官は、ホテル経営者の父・義父(妻の父)・孫の3名からのメッセージに見立てた文字を書いた画用紙を三枚用意した。
そして、「お前をそんな息子に育てた覚えはない」「こんな男に娘を嫁にやった覚えはない」「早く正直なじいちゃんになって」と書いた紙をホテル経営者の座る椅子の前に置き、警部補が男性の両脚をモッテ、それらの紙を無理やりフミツケさせる踏み絵ならぬ「踏み字」を強要したのである。
強く引っ張られたアマリの痛さに男性の足が踏み字につくと「この人でなし。お前は親や孫を踏みつけるのか」と大声で罵倒されたという。
結局、ホテル経営者の取り調べは証拠不十分のため打ち切られたが、ホテル経営者はその時の精神的苦痛から体調を崩し入院した。
また県警は、中山陣営の運動員から焼酎2本と現金2万円の入った封筒を受け取った容疑で、志布志町内在住の女性ら13名の取り調べを始めた。
一人の女性はしばしば任意で取調べをうけ、捜査担当者が「認めれば逮捕はしない」として交番の窓を開け、女性を窓際に立たせて焼酎2本と現金を受け取ったことを認める旨を「表通りに向かって叫ぶ」ことを強要した。
女性は命令に従ったものの、有力な物証がないことから起訴には至らなかった。
さらに、県警は現金と焼酎を配ったとされる別の女性を逮捕した。
この女性は出頭要請時に、容疑を認めなければお前の家族も全員まとめて逮捕すると脅され、やむなく出頭に応じるが、以後115日間にわたる長期間の勾留を強いられている。
その結果、身に覚えのない買収行為を認める旨の供述調書にサインし、それによりこの女性の夫も逮捕され181日間にわたり勾留され、「お前以外はみんな自供した。お前一人のせいでみんなが村に帰れない」などとオドサレている。
なお、公選法第97条の規定では、選挙当日から90日以内に当選者が死亡・辞職などの理由で欠員となった場合、次点の候補者が繰り上げ当選となる。
しかし中山氏は90日を超過した7月20日に弁護士を通じて県議会議長に辞職を届け出たため、次点であった元職・市ヶ谷の繰り上げ当選にはならず、翌2004年7月に補欠選挙が実施された。
この補欠選挙には中山氏と市ヶ谷氏の2名が出馬したが、市ヶ谷氏が当選し、中山氏の県議復帰はならなかった。
最終的に、有権者に会合を開いて焼酎や現金191万円を配ったとして、贈賄側として中山とその妻、収賄側として住民11名の合計13名が、焼酎・現金供与事件と買収会合事件の公選法違反2件で起訴された。
鹿児島地方裁判所における公判では、取り調べに際して容疑を認めた6名を含め、全員が容疑を否認した。
一方、検察側も物証を欠いたまま供述調書を「唯一」の証拠として争ったが、中山氏が総額191万円配ったとされる会合では、鹿児島地裁は、中山氏側のアリバイが成立することを認めた。
わずか20名程度の集落に多額の現金や物品を供与する行為が、全体としてどれほど「集票」効果がでるか、子供にでもわかることである。
結局、裁判所は唯一の証拠とされた「供述調書の信用性」を否定し、主犯とされた中山氏を始め被告人全員に無罪判決を言い渡した。
検察側が控訴しなかったため、そのまま無罪が確定している。
裁判で無罪になって事件は一件落着したわけではない。 当事者は失職するし、生活面は回復していない。
ある被告人は、中山さんという面識もない人の運動員とされ、白い目でみられ、一日も苦しくない日はなかったと語った。
警察の内部文書では、県警も地検も早い段階から票の買収事件はなかったと認識していたことがわかっている。人間関係もズタズタにされ、元通りにはナッテいない。
そして事件をデッチ上げた警察・検察の責任は本格的には問われてはイナイ。
志布志事件は、地域の「ボス的存在」が地元の警察権力と結託し、人里はなれたところに住む最も純朴で優しい人々をターゲットにした「悪代官物語」ソノママの話である。
ちなみに、地元に強力な地盤を築いていた県議のM氏は、2007年6月24日に交通事故で亡くなっている。
志布志事件は九州の最南端で起きた出来事であるが、中央で「検察のストリー」のままに事件がデッチあげられる「国策捜査」ナドを連想させる事件でもあった。
独裁者と悪代官は、いつどこでもスット現われる。