ジャパンクール

東北の震災で、海外からも「負けるな」「頑張れ」の声がとどいている。
日本からも人々が随分、世界の被災地の救援に出たので、それに対する「お返し」の意味も あるだろう。
また日本企業とのツナガリの深い外国企業の多さという「実利」があるかもしれない。
1980年代、日本経済は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」ともてはやされ、「日本的経営」が注目された。
一方で、「エコノミック・アニマル」や「ウサギ小屋の住人」と揶揄されることもあった。
そしてヨーロッパでは日本車の「集中豪雨的輸出」、アジアでは「大東亜共栄圏」の復活とまで いわれていたこともあった。
つまり日本は、世界で「敬意」を表されつつも好かれていなかったし、欧米では「黄禍論」まで渦巻いていた。
もし、あの時代に「東北大震災が起こったら、世界はどう応えたか?」と思ったりする。
個人的印象では、海外におけるあの時代の日本のイメージと今の日本のイメージには、かなりのヒラキがあるように思う。
あの時代頃まで、日本は「製品の輸出国」であり、「文化の輸入国」にとどまっていた。
しかし今や、日本は「文化の輸出国」に転じており、そうであるが故に、日本に対するイメージが予想以上に変わっていったのではないかと思う。
つまり本当の日本人は、「エコノミックアニマル」などとは、違う側面を持っていることが、世界でようやく認知されるようになったのだ。
ここ20年ほど、日本が細々と世界に発信し続けた文化は、もはや「ジャパン・クール」(=「日本はカッコイイ」)として、世界に定着しているといっていい。
我々が韓国ドラマによって、韓国へのイメージを一新したのと少し似ている。
ところで日本文化の「輸出」は、オタクやマンガといった「サブカルチャー」分野がキッカケであったが、その領域をはるかに超えてえ、広がりつつあるように思う。
我々は誤認しがちだが今や、日本は経済的「優位性」よりむしろ、文化的「優秀性」をもって世界に浸透しつつあるのだ。

「広がり」という点で、ドラえもんは恐らく世界で最も国際的影響力を持ったアニメといってよい。
特に発展途上国、東南アジア、韓国や中国では日本人として見ても信じられない程の影響力である。
日本語を専門にする学生に聞くと、初めて日本という国を知ったキッカケが、幼少期に見た「ドラえもん」という若者が実に多いという。
そればかりではない。大学で電子工学を学ぶキッカケ、日本留学のキッカケ、今の仕事につくキッカケなど、「ドラえもん」によるものなのだ。
「ドラえもん」現象とよく似たものとして、キャラクターとしての「キティちゃん」の世界展開はスサマジイものがあるという。
キティちゃんの自己主張のなさは、「無心」とか「無我」とかいった「禅的」な境地を思わせるものがある。
自己主張がない点で誰にも受け入れられ、「癒し」を与えるものかもしれない。
古くは鉄腕アトム、そしてドラエモンやキティちゃんのイメージが、若い層を中心に日本のイメージを少しずつ変えていった。
ドラエモンやキティちゃんのヒーリングに対して、インパクトという点で、ドラゴンボールは、「変革」というほどの影響力をもったという。
パリで1993年頃に、ドラゴンボールの草履が評判となり、「トング」とよばれるようになった。
2003年アカデミー賞授賞式で、サンドラ・ブロックが黒いイブニングドレスにゴム草履というイデタチで登場して、人々を驚かせた。
日本の憲法の枠組みをはるかに離れた感のある自衛隊の活動だが、国連旗ならまだしも、「日の丸」への悪いイメージが払拭されていない地域はいまだにある。
自衛隊の海外派遣に際しては「ポケットモンスター」のキャラクターが大いに役立っている。
まずは航空自衛隊の飛行機(C-130 ハーキュリーズ)はポケモン塗装で物資を運び、陸上自衛隊はポケモンの着ぐるみとサトシ、カスミ、タケシのコスプレで派遣され、イラクの子ども達に大人気で受け入れられ、支援活動を行っているという。

日本人があまりいい意味で使ったことがない「ボロ」という言葉が注目されている。
文字どうり「寒村」としか結びつかない衣料が、世界の中で「COOL」となりうることを証明した。
きっかけは、使い古され破れたかのようなファッションが、パリのオートオクチュール界に登場したことによる。
1981年4月、当時無名に近かった川久保玲、山本耀司は、体のラインとは関係のない無彩色の服を、蒼白い顔に口紅も引かないモデル達に着させ、ブッキラボーに歩かせた。
それは、周りの高級志向のブランドとはあまりにも「対照的」で、「ボロ服」を際立たせた。
また二人の特徴は、「黒」を多様した点でもある。山本は黒は「知的な色」というが、中には「第三次世界大戦の生き残り」と評するものもあった。
しかし、あのワシントンポストが、「モダンで自由、新鮮な新しい美」と評した。
欧米のデザインが装飾を付け加えるのに対して、アンチテーゼをつきつけてかのように、二人のデザインは穴をあけ、削ぎ落とすというものである。
そういえば、かてつての三宅一生が「布一枚」の民族衣装にこだわったが、川久保や山本ファッションは「一」ではなくて、ゼロまたはマイナスにするのだ。
そこには、ワビやサビの精神を想起させるものがある。
そして二人のファッションを支持する若者の輪はマタタクマに広がり、ジーンズなどに穴をあけるなどの着方が、一般に見られるようになったのである。
スポーツ用品のアディダスの二代目も、ヤマモトの信奉者となり、スポーツウエアと街着との「境界」を取り払った。
こうした「破れ」ファッションをさらに追求したのが、森南海子(もりなみこ)というデザイナーである。
森は、昔から日本の農村に伝わる手縫いの野良着や作業衣に着目した。
青森の角巻き、函館の丹前、奈良の作務衣(サムエ)などといったものであった。
彼女は、修繕という言葉ではなく「リフォーム」という言葉で、古い衣料を新たな息吹で蘇らせることに成功した。
そのファッションの自由度や応用範囲は広く、障害者用の衣服のデザインとしても活用されているという。

高級ホテルは洗練されたマナーが要求されるので敬遠する、というよりも行けないのだが、石川県七尾市の老舗旅館が台湾にオープンした。
台湾にあっても、そして畳敷きの宴会場など、雰囲気は和風旅館そのものである。
建物は地上14階、地下4階で、90室ので、台湾には珍しい大浴場や家族風呂を備え、館内には石川の伝統工芸の輪島塗や九谷焼、蒔絵などが飾られている。
ポイントはそういうハード面ではなく、むしろ「おもてなし」というソフト面である。
オープン前に、現地の女性にも着物姿での接客「おもてなし」術をタタキこんだ。
そして、台湾女性達がオープン当日、宿泊客らを「いらっしゃいませ」と着物姿で出迎えた。
さてこの老舗旅館のオモテナシはどれくらい現地の人々の心を掴めるかが、注目である。
少し前から「江戸のしぐさ」ということも注目されるようになった。
「江戸しぐさ」は元々「商人しぐさ」と言われていたようで、商人の振る舞いをカッコイイと思った庶民達が真似をするようになり、江戸全体に広がり、それを「江戸しぐさ」とよんだそうだ。
江戸に暮らした人々のちょっとした心意気や振る舞いの数々、そしてさりげなく話し相手のことをタテ、円滑に物事をすすめる「江戸しぐさ」が今、見直されている。
江戸文化の「粋」(イキ)が根底にあるからだろう。
例えば、江戸における年賀状は、仲をこじらせた相手などにはまっさきに送った。
気まずい関係も、めでたい新年にカコツケテ「清算」できるというわけだ。
「読み 書き ソロバン」にしてもあくまでも実用に即したもので、この割り切った態度で、子供へ教育するのも悪くないではないか。
江戸のシグサは、「ジャパンクール」が凝縮されているといってもよい。

最近、「接遇」という言葉があらためて注目されている。
接客業に従事する者は、「お客様」に対し、適切な態度、言葉遣いで接しないと、苦情の元となったり、利用客に逃げられたりしては、最終的に「不利益」に繋がるのだから、以前から「接遇」は重要視されていた。
再注目の理由は、鬼のマナー講師・平林都氏のテレビ出演によるところが大きい。
最近「金曜日のスマたちへ」に登場し、彼女がその過去を語った。
幼い頃に母親を亡くし、父親も家に寄りつかなかったため、高校卒業まで叔父夫婦の元で育った。
生き延びるためには、「いかに気にいられるか」が大切で、相手が喜ぶことばかりを考えて育ったという。
高校卒業後、兵庫県の信用金庫に就職し自らの給料で、茶道、着付け、華道などの習い事を12ヶ所も通った。そのうちに彼女が担当する受付窓口には、待ち時間にもかかわらず「列」が出来上がった。
彼女が、「習い事」の中で最も魅力を感じたのが、「マナー講習」の中の「接遇」であったという。
そして、27歳の時に、経営者兼講師としてマナースクールを開業した。
このマナースクールが評判になり、病院・銀行・自動車販売店など数多くの研修を担当、受け持った企業の業績を確実に伸ばし、現在では年間で300件以上の研修をこなしているそうだ。
「接遇」の指導では研修生に対して、関西弁で叱責し遠慮のない怒声を浴びせるかける。
なんでこれが「接遇講師なの」といいたくなるが、基本は日本文化のOS(オペレ-ション・システム)に、人々をいかに乗っけるかだ。
そこが妥協を許さぬスパルタ指導として表れるのではないかと思う。
また、自ら研修先のユニフォームを着用して働きながら、指導していくやり方も注目していい。

あるニュース番組で、日本からの焼き物・陶磁器が、原発事故の風評被害としてそうした焼きの売れ行きが落ちていると聞いた。
残念だが反面、日本の焼き物がヨーロッパでいかに愛好されているかを知ることができた。
そして日本の和家具もこうした置物にならんで高い評価をうけている。
江戸時代には「指物師」というのがいた。
「接ぎ手」という木材をつなぐ工夫により、釘を一本も使わずに家具を組み立てることが可能になった。
板と板、棒同士をつなぐ場合に、片方の板に突起、もう片方の板に穴をつくり、その両方を組み合わせて一体化させる技術だ。
繋いだ板や棒の間には隙間がなく、髪の毛一本すら入らないという。板や棒が細くて繊細に見えても、この接ぎ手の技術で堅牢で美しい家具ができあがる。「木のみ木のまま」の家具である。
そういえば、「プロジェクトX」でポルポト政権によって破壊されたアンコールワット石窟寺院の復旧が日本人の職人によって行なわれていたのを見た事があるが、石を組み合わせていく時の「隙間」に、紙一枚さえ通らないほどの「密着度」なのだ。
こうした技術ソノモノに驚くというよりも、そうした技術を可能にした「感性」に驚きを感ぜざるをえない。
世界のスーパーカー・フェラーリのデザイナーの一人は、奥山清行という日本人である。
奥山氏は山形県出身であるが、地元に戻って旧南部藩の鋳物でポットや、山形の木工で椅子や衣文掛けなどをデザインしてきた。
そうして、岩手県の中小企業と一緒になってスーパーカーのデザインに取り組んだ。
奥山氏のネライは、東北だけではなく、日本中に価値のある工芸品、匠の技がたくさんあることを示したかったのだという。
優れた匠がいるのに、後継者が育たずに廃れていくケースが多いのは、消費者のニーズや販売方法を考えずにモノ作りに没頭しているからだという。
そして自らの17種類の作品をパリやミラノなどの国際見本市に出展した。
そえらが評判となり、注文が相次いでいるという。

トヨタ、ホンダとならんで、世界の知られた企業とはニンテンドーである。
任天堂の創業は1889年、現社長の曾祖父にあたる人物が「大統領印」の花札の製造を開始したのが始まりである。
この花札は、明治37年から専売制をしいたタバコ屋のルートにものり、全国的に広まっていた。
1907年には、日本で初めてトランプの製造にも着手している。
花札とトランプという日常的な遊びのグッズの人気に乗って成長した会社だが、花札といえば「任侠道」とつなげてしまいがちだ。
社長(二代目)は、自社の製品など絶対必要なものでもなく、人を感動させ続けない限り、売れ行きが伸びるわけがないといい続けた。
運は天に任せて全力をつくそうという、どこか「達観」した思いから「任天堂」という社名にしたという。
そして現社長(三代目)が、トランプにディズニーにキャラクターを入れて大ヒットを飛ばした。
その後いくつかの「室内ゲーム」でヒットをとばし、1983年カスタムCPUを使ってのファミリーコンピュータにたどりついた。
それがテレビゲーム機の代名詞ともなり、世界的な企業ニンテンドーとしてしられたのである。
日本は、今や単なる「製造」では、中国や韓国などの「世界の工場」に対して「優位性」を失いつつあることは確かにある。
伝統文化と一体となった「精度が高さ」こそ、日本人の「原点」であり、真骨頂であることに変わりはないと思う。
個人的には、日本の物作りの原点とも思われるのが、江戸時代の「からくり人形」ではないか、と思う。
福岡県久留米で「からくり人形」を生んだ田中久重は、何らかの「原理」を身につけて応用・製作したのではなく、ひとつひとつ工夫に工夫を重ねたうえで作ったのだ。
この人形の製作を、現代の「匠」と工学士が組んで挑戦してもそう簡単にできるシロモノではない。
この「からくり」はとても複雑な連立方程式で動いているかのようで、その動作の「解」または「謎」は解けているのだろうか、という気がしてくる。
殿様の玩具ごときと馬鹿にするなかれ。テレビで詳細を見る限り、あの人形はバケモノだ。
ところで、この田中久重が1875年に東京新橋につくった電信機の工場「田中製造所」がマツダランプの白熱舎を前身とする「東京電気」と合併して、「東京芝浦電気」となり、1884年「東芝」と名前を短縮した。
現在、福島第一原子力発電所で稼動する原子炉が、この「東芝」製である。
欧米のマニュアルや設計図ばかりにたよっていると、かえって「モラル・ハザード」がおきる。
つまり、「想定外」には、オテアゲで対処できないということだ。
創業者・田中久重の「カラクリ」の精神に戻れば、幾重にも「安全」への道が補強されそうな気がする。
あの想定外の「カラクリ」をもってすれば。