一見さんの壁

今年3月津波が東北を襲って以来、30年ほど前にブームとなったアルビン・トフラーの「第三の波」を思い出した人はほとんどイナイかもしれない。
別に「波」という言葉から今を連想したわけではないが、出版当時感じた「第三の波」の未来像の「極端さ」が、なんか現実味を帯びつつあるようにも思えた。
トフラーは、第一の波である農業社会、第二の波である工業社会で、その当時が第三の波にあたるの情報化社会の「入り口」にあることを提言していた。
そして、第三の波の特徴は、産業社会(第二の波)で分離した生産と消費が、「再び」統合する社会のことである。
トフラーは、それをプロダクションとコンシューマーを合成した「プロシューマー」という言葉でアラワし、家庭が「外在化」してきた機能を取り戻して「家族ベース」の社会がヤッテクルことを予言したのである。
しかし、トフラーの予言で一番外れてきたように思えたのが、マサニこの「家族ベース」の定住社会というものである。
ただ311大震災以後、それもアルと思えるようになった。理由は食糧生産と自然エネルギーの安定したコミュニティが、これから求められる社会像になっていくように思えるからだ。
今後、トフラーのいうような「プロシューマー」が登場してくるかもしれない。

ところで今までのところ、トフラーの予言で「外れた」と思えるのは、当時トフラーの頭にはホボなかった「携帯」という「個人メディア」の普及によるものある。
トフラーは情報化がすすめば、人は会社にゆかずとも家庭の中でコンピュータを使って仕事ができるので「在宅勤務」が増えると予言した。
確かに、最先端の情報機器を備えつけた自宅で、店に行かずとも銀行に行かずとも、オンラインで繋がるので外出の必要がないし、「家庭」で過ごす時間は増える可能性がでてきた。
人々は、会社通いで満員列車の揺られることもなく「エレクトリック・コテッジ」(電子小屋)と化した家庭で「快適」な生活を営むことができる。
出社の必要もなく人々の移動は少なくなり、交通ラッシュが解消され、公的交通機関のコストも軽減するといった未来像であったように思う。
トフラーが「在宅勤務」の拡大を唱えた部分は、可能性として正しかったかもしれないが、現実に「在宅勤務」が増したようには思えない。
それは、トフラーが当時知らなかった「技術」の普及というのは、「携帯電話」であり「スマート・フォン」であり、こういう「個的」な情報機器の発達は人が家にジットしている方向に社会を向かわせたのではなく、ますます「移動する」可能性を高めていったように思えるからだ。
つまり「エレクトリッジ・コテッジ」でコンピュータ端末を操作する姿より、個人メデイアである「携帯」をイジッテイル姿のほうがハルカに一般的である。
これは人々を家庭に留めるよりもむしろ、外に向かわせる結果になったように思う。
若者の「遊び」ひとつをとっても、昔は相手の連絡が来るまで自宅でジット電話を待っていなければならなかった。
今は、携帯のおかげでイツドコでも相手をつかまえることができるので、家にいなくてもいい。
ヒット曲の歌詞をみても、「携帯で君の名前が光るたび」(Dear...)とか「着信気にする」(Esperannza)とか、そういうケータイ言葉に溢れていて、人々はいつでも「待ちうけ」状態にいる。
30年も前には、「私鉄沿線」の駅の掲示板に、遅刻した友達にチョークで「先に行っとくけん、かおり」とか書いてあったりしたのが懐かしい。
トフラーが予言したごとくに人々は、家庭に居住する時間が長くなって自然に「地域コミュニティ」が育っていっているようには思えない。
少なくとも3・11以前はそうで、後述するとうり多くの人々は「会社」でもなく「家庭」でもない「中間」の処に憩いや安らぎを見出している。
予測が外れたといえば、コンピュータ社会は電子で処理されるために「ペーパーレス社会」となって資源が節約される社会なんて予測されていたが、我々の前ではあまりにも多くの「紙」に溢れており、印刷ミスをした膨大な紙がシュレッダーにかけられているのと、少し似ている。
あの紙切れを世界陸上選手権「棒高跳び」のクッションに寄付したいくらいだ。
「ペーパーレス社会」の予測の誤りと同じく、家庭で仕事ができるようになったからといって、人々が「家族時間」を増やし、地域の紐帯を強めるようになったとはイイキレナイ。
今、家族をもつだけの所得をえることのできない「ワーキング・プア」の存在も大きな理由だといえる。
ココまでを総括すると、トフラーの未来像とは異なり情報化すればするほど、人々はかつてよりさらに頻繁に移動するようになったということだ。
企業の方でも「外ビジネス」やアウトソーシングの志向が強まり、ひとや物資の移動は激しくなり、円高においては「海外移転」も増えている。
正社員に対して派遣労働者が増加していることも、人々の「移動」傾向に拍車をかけているのかもしれない。
人々が生涯一つの会社に限定されて生きるにしても、異なった会社、異なった業種、異なった地域の人々が集まり、多様な情報の交換や刺激を受けあったりしている。
動きまわるために便利なカーナビや携帯やスマートフォンなどの「個メディア」が生まれたことにもよるが、これは人間の身体における「ハイ・インテリジェント化」といえるかもしれない。
つまり「身体性」の拡大、すなわち「見る」、「聞く」などの人間の「身体」は、飛躍的に拡大・延長していると捉えられる。
そしてそうした「個メディア」は、日本社会の伝統的な人間関係である「血縁」「地縁」によるものではない、別のカタチの「結びつき方」を生み出していったのである。
また、会社を中心とした近代の人間関係「社緑」によるものでもない。時間と空間を越えて、個メディアによって自由に結ばれる「情報縁」つまり「情緑」である。
例えば東北大震災の被災地で政府の復興支援が後手にまわる一方でのボランティア活動には、全国から何千人もの若者がすすんで駆けつけさせることになった。
情報で結ばれた縁は、今日では金がからむ縁ではなく、情に絡んだ縁であり、その意味では「情で報いる」という意味での「新定義」の情報社会ともいえるかもしれない。
震災直前にそれとは知らず、大学入試の真最中に解答を送った人もそうした「情で報いる」社会の典型的人物といえるかもしれない。
ネット上に表れたこの受験生の「要求」対して即解答をメールでオクってくれる協力者がいつでも表れるわけだ。
また、東北の震災では家を流されて、かつて引きこもりだったような若者の中からインターネットやミニFM などの情報メディアを駆使し、自分たちで情報を受発信しながら、外の社会とのつながりを広げ、自ら社会的参加を果たしたいという人々が現れた。
またフェイスブックで、何月何日にどこそこの噴水の前にいると出せば、同じ学校の卒業生などと会えることになる。
こういう関係は「揮発性」が高い関係といえようが、前述の受験生のような場合には「人生の進路」をサエ左右しうるものなのである。
このように今、人々がそれぞれの時の関心や必要におうじてすぐに「結びつ」く社会なのだ。
それは一回きりの関係かもしれないが、それがキッカケで新たな「NPO」に育っていたりもする可能性がある。
ちょうど大航海時代に商人が「株」に分割した資本を船を出して、それに応じて「利益」を得る「一回きり」の儲け話が、いちいち人と資本を集めたりするのではなく「恒久的」に組織化しようということで、「株式会社」というものが生まれたのと似ている。
イギリスにタウンゼント渓谷は、その産業革命の「発祥の地」となり、紡績機を動かすのが「水力」であったことから、工場は渓谷につくられることになった。
アダムスミスは、イギリスの産業革命後、「分業」と「協業」による生産性の飛躍的な拡大を唱えた。
それは同じ場所に人が「恒常的」に集まるということによって生まれた画期的な「場」であった。
社会学でいう「機能集団」はそこに「永続性」とまではいわなくてもある程度の「恒常性」前提として「機能」する集団なのである。
しかし今や何事かをなそうとする際に、その必要と能力をもつものが「一回きり」で集められて能力を結集して何かを生み出したり、何事かを達成できたりするのである。
しかしこうした「組織化」は生産的行為であるよりも「犯罪行為」にむしろ適合しているのかもしれない。
顔もしらない者どうしが集められ、自分が犯罪全体の中でどういう役割を知らぬうちことが「成就」される。
解散された後は、「主犯」の姿がワレヌまま「逃げ」おおせるである。

産業革命すなわち「第二の波」の到来以降、それまで家庭の中で担われていたさまぎまな機能、つまり衣食住、出産、育児、教育、介護、冠婚葬祭などの機能の大半が「外在化」され、それらが産業社会のビジネスになってきたといえる。
しかし、最近は家庭内の「憩い」や「安らぎ」まで「外在化」し、恒久的な家族関係から逃れようとしている傾向さえあるのかもしれない。
だが、もっと積極的なメンからとらえれば、社会から流されてくる情報量の飛躍的な増大と、情報コンテンツの多様化により、人々は家庭外にもっと楽しく豊かな心やすまるライフがあることを知ったかもしれない。
女性の社会進出やノーマライゼーショの考え方、「バリアフリー」の広がりにより、家庭内に閉じこもるより、「外」で活動したり学習したりする環境が生まれ、その魅力に気がつき始めたといってよい。
、 「朝活」といって、出社前に有料の学習室にかよい「資格」を取得しようとする人もいる。
トフラー「第三の波」で予言したのとは違い、(少なくとも311までは)いまだ人々の向かう「矢印」は家庭に向かってるようには思えない。
今多くの現代人がネットカフェやカラオケボックスやメディアルームなどで時間過ごす人が非常に増えてきている。
「エレクトリック・コテッジ」という名前を使うならば、家庭よりもむしろこうした「避難場所的」「隠れ家的」空間に使うのが相応しいのではなかろうか。
かつてのカルチャーセンターにみられる各種のお稽古事教室、大学の公開講座など「恒常的」なもので顔見知りになったりしたが、今流行のフェイスブックなどによって出した個人情報に興味をもって「この指とまれ」で、ホテルのロビー、駅前、病院の待合室などに集まり、即席の「同窓集団」が生まれたりする。
人々は従来の会社や家庭での役割から離脱し、より自由な存在として、自分の関心、興味や感性にしたがって行動し、新たな人間関係を簡単に構築できるようになっている。
いつでも自分の好きなときにつながることができるネットワークの特性であるから、「チャット」などは物理的な場もなければ、お互いが対面接触することもない。
その意味で、そうしたツナガリ方の「究極の姿」と言えるかも知れない。
この「社会」での人間関係の密度は濃密である必要はなく、濃密でナイ方がむしろ「快適」で、人々はそこで楽しみ癒されればそれでイイのだ。

ところで、こういう「個メディア」を通じた人々の出会いや結びつきとはマッタク異質の世界が、京都の「花街」である。
。世のの中で色んな「壁」が溶け出している社会だからこそ、こういう「頑とした」社会は、むしろ「希少価値」を増していくのではないか、と思う。
匿名化して自由な出入りのある「即席的」社会とは対照的な世界である。
人々と花街との接点が「お茶屋」であるが、そこには「一見さんお断り」という大きな「壁」が立ちはだかっているのをご存知でしょうか。
「一見さんお断り」は、しばしば京都の「排他性」を物語る悪口として一番最初に出てくるものでもある。
「一見さんお断り」(いちげんさん)とは、あるお店に何らの面識なく初めて訪れた人のことであり、初めてのお客は受け入れないというシステムである。
10年ほど前に見た映画「舞妓Haaaaan」は傑作中の傑作であったが、この「一見さんお断り」がサブ・テーマであった。
食品会社の社員である鬼塚公彦(阿部サダヲ)は、修学旅行で迷子になった際に舞妓さんに助けられたことがキッカケで、京都祇園の「舞妓さん」と遊ぶことを夢見るようになる。
いわゆる「お茶屋遊び」のことだが、高校生らしいのは、祗園の舞妓さん「野球拳」をしたいという夢(妄想)を追い求めるところである。
鬼塚君は実際にお座敷に上がるその日を夢見て、舞妓を応援するサイトまで運営したりするほどである。
そんな折人事異動により、会社の京都支社に転勤となり、念願の「お茶屋遊び」ができると意気込んでいくのだが、そこに立ちはだかったのが「一見さんお断り」の壁であった。
「一見さんお断り」では、初めての人は入店を断られることを意味する。
ではどうしてそうした「お茶屋」で遊べるのかというと、その店に「面識」のある人物からなんらかの「紹介」をされる必要がある。
しかしいまだにナンデこんな「非民主的」と思えるシステムがマカリ通っているのだろうか。
よく聞く理由としては、「支払いはツケが原則なので、身元のわからない一見さんだとトラブルの元になる」とか、「好みのわからない一見さんだと、もてなしの仕様がわからない」とか、「秘守性が求められる場所に、身元不明の人は入れられない」といったものがある。
しかし最大の理由は、馴染みのお客さんに、気持ち良く過ごしてもらう為である。
酒場は、雰囲気が大切で、そこに通う人は、その雰囲気が気に入ってそこにいる訳だから、雰囲気を壊す人が入ってきてもらってはこまるわけだ。
それで思うことは、京都人が辿った歴史である。
幾多の戦士が「王朝」であるこの都を目指し、「玉」すなわち天皇の争奪戦を繰り広げた。
そのたびに被災したのは、町人であり、外部から侵入者に対しては、ソレナリノ態度で望むことになった、ともいえる。

インターネットの世界では「一見さん」の抵抗感はマルデ不要である。実際の人間関係に見る「壁」がほぼなくなっているのが魅力である。
ところで、人間関係が社会の様々な「壁」がとけだしている時に、京都の「花街」にもこういう「壁」がイマダ設けられていることに興味をソソラレルところである。
人間はいつも「非日常性」を求める存在で、海外旅行までせずに比較的簡単に手にいることができる「空間」を欲しているのだといえる。
そこで「スターバックス症候群」なるものを思い出した。
スターバックスは、それほど贅沢できない沢山の人々に、かすかな「ぜいたく」な時間と空間を味あわせてくれるのがセールスポイントである。
そこでは「お茶屋」の「壁」ほど高くはないにせよ、少しばかり「壁」を高くすることをポイントとしているようにもみえる。
初めて行ってみて、つまり「一見さん」では品物を注文するのに困惑を禁じえない。あのメニューの呼び方は一体ナンナンダだといいたくなる。
一人では注文ができない、システムが把握できずにオドオドする、何を頼んでよいかわからず結局“コーヒー”にしてしまう、値段を見てビビる、などなどが「スターバックス症候群」だという。
店員にドリンク、サイズ、オプションの3つを聞かれるのだが、前に並んでいる客が「ダブルトールヘーゼルナッツラテウィズホイップ」などと注文した日ニャー、その場を去りたくなる。
いっそあらかじめ「注文」を覚えこんで、 「ベンティアドショットヘーゼルナッツバニラアーモンドキャラメルエキストラホイップキャラメルソースモカソースランバチップチョコレートクリームフラペチーノ」と唱えて、店員および周囲をギャッといわせたいところですが...。