談合と相撲

大相撲の八百長問題で23人の力士の処分が発表された。
この「八百長問題」をずっと見ていると、だんだん日本の「談合体質」に行きつくように思えるようになった。
力士にとっての「8勝7敗」と「7勝8敗」という成績の待遇は天と地、幕内とそれ以下は雲と泥である。そのちょうど狭間にいる力士が、今困った時なんで「星を貸して」ください、同じように相手が困ったら 「星を返して」あげるから、というわけで「共存共栄」を図ったということだ。
相手が助けを求めた時になんとかしてあげよう。そういう温情に基づく行為が相撲界に全体に広がっていたということで、星で助けてもらう方も、それに値する位の「人徳」があったということならば、絶対に許されないということでもないと思う。
(人徳がない場合には、金銭の力によることになる) 観客には、失礼ではないかとみるムキもあるかもしれないが、国民(相撲ファン)の大多数がある方を勝たせてあげたいという取り組みはアルハズ。
それを察して負けてあげるのも相撲人気を盛り上げるのに一役かうことだってあったハズ。
例えば、相手がこの勝負に負けたらいよいよ引退が決まるとか、逆に相手に勝たせたら相手は大関昇進とか大関転落とかいう時に、戦う力士の側に「惻隠の情」がはたらき少し力を抜いたというのは、むしろあってしかるべきだろう。
むしろ日本人の美徳にかなったものであろう。
子供の頃、相撲を純粋な勝負とばかり見ていたら、 親が横で「今のは負けてあげのよ」とつぶやくのを聞いて憮然としたが、大人になってからは相撲とはそういうもので、力士の「情け」なんかも読み取るのも相撲を見る面白さの一部であり、それを自然なものと思うようになった。
昔、双葉山という強い力士がいたが、スグに勝負がついては客が面白くはないので、わざと土俵際まで追い詰められるなどして、観客を喜ばせたりもしたという話を聞いたおぼえがある。
しかし、何事も限度がある。
特に星の貸し借りに「金銭の授受」が常態化していたというのは、 塩で浄めて戦う「土俵」に対してやはり冒涜ではないか。
相手に「負け」をたのむならば、せいぜい土俵上で仕切りの最中に頻繁にマバタキするとか、やたらと胸に手をあてるとか、土俵に手をおいたまま頭をもたげないなどして、その意思を伝えるぐらいにしよう。
しかし、こんなことあまり頻繁にしていたら立合い直前まで、力士と力士の間に「八百長」防止のための幕をもうけたりする必要もでるが、いっそ立会いまで相手が誰かわからない「お楽しみ」相撲も、結構面白いかもしれない。

日本人は伝統的に白黒はっきりつけない。
勝ち負けを「星数」であらわすし、勝負事においても敗者に対するいたわりがあり、かつてのモンゴル出身の横綱のようにガッツポーズしたりしない。
こういう日本人の「抑制」された気持ちがなぜ生まれたかを説明するのは難しい。
一つの説明は、恒久的な協力関係によって生産(稲作)を維持していかなければならない「村落共同体」の伝統と文化から説明することもできるだろう。
しかしながら、日本人のこういう心性はもっと「奥深い」ところで養われてきたような気がする。
勝負事には「勝ち」「負け」が生じるが、勝者は「負け」た側の気持ちを恐れるところがあるのではないだろうか。
その気持ちを延長したところに、生死が関わる勝負ごとならば、「怨霊信仰」が横たわっているのである。戦乱や謀反における勝者は、敗者の側を厚く「鎮魂」したのである。
だから井沢元彦氏が「逆説の日本史」で指摘した如く、「聖」とか「崇」という名をオクリナされたものは、不遇の死を遂げたものが多い、ということになる。
結局、負けた側に残る「うらみ」や「そねみ」はある部分、その社会にとっての一種の「ケガレ」(気枯れ)であり、そういうものが強く残った状態は、鏡のように済んだ「直き」「清らかな心」で神を拝しようという日本人の信仰心に反することなる。
私は「けがれ」とか「きよめ」についてしばしばユダヤ人社会との共通点を見出すのであるが、「土俵」を塩できよめるという行為もその一つである。
イエスの「あなた側は世の光、地の塩である」という有名な言葉にあるように、「塩」は「きよめ」の役割を果たすものとうけとめられていたのである。
また、ある一定の社会の中での「うらみ」や「そねみ」などの「一点の翳り」が、その社会の「穢れ」の存在として、神への「願い」や「祈り」が通じるのをさまたげるという信仰面での「共通性」を見出すのである。
例えば、マタイの福音書5章にイエスの次のような言葉がある。
「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受 けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されま す。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思 い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟 と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」。
あまりに大きな富者や勝者を生むことは、逆に「うらみ」や「つらみ」を大量に生むことになるので、結局は「平等な社会」で共存共栄をはかるのが望ましい、というのが日本人の本来の信仰にもとづく社会観なのである。
そして「利益」が皆にいきわたるような「談合」という仕組みがうまれてきたのだと思う。
そういう意味で、「談合」は本来「きよめ」の産物でなのである。

しかしだからといって、今日の社会でうごめく利権構造の中で、「談合」が「きよい」ものだと思う人はほとんどいないであろう。
しばしば話題となる建設業界の「談合」の問題点は次のとうりである。
日本の公共事業の入札制度は、「指名入札制度」が一般的である。
これは国や地方公共団体などの工事発注者の指名を受けなければ、「入札」に参加できない制度である。
建設省は、実力以上の工事を安値で落札し、粗雑な工事をするといった業者を排除するためには、発注者が業者を資格審査して「指名業者」を選択することが不可欠であることを主張してきた。
しかし、こうした「指名入札制度」では、業者が指名を受けるために政治家に「口利き」を期待して、 資金提供にはしり、政治家は建設業者を「資金源」、「票田」として利用するという「持ちつ、持たれつ」の関係がうまれてきたのである。
そして、入札価格を操作して業者の発注先を「回す」旗振り役的な政治家までもが登場するのである。 そして莫大な「コミッション」がその政治家に流れることになる。
そして、建設業者間の「健全な」競争が行わなければ、公共事業は割高となり、その分国民が高い税金を払わせられるハメになるのである。
さらには、こうした建設業界の「談合体質」は、「工事完成保証人制度」で補強されることになる。
これは、公共事業の出来上がりを同業者が保証するという制度で、これに「指名入札制度」が加わると、指名さえた「業者間」での談合を生みやすくなる。
なぜなら、「談合破り」をする業者は同業者の誰からも工事完成保証を受けられないために、工事を請け負えなくなるからである。
こうした「談合」は、日本市場の「閉鎖性」としても受けとめられ、大型建設プロジェクトへの参入をはかるアメリカから、「構造の改革」を求められてきた。
では海外では公共事業の「公正さ」がいかに保たれているのか、いないのかが興味があるところであるが、アメリカの公共事業では「一般入札制度」が採用されている。
その特徴は、入札参加を希望する業者は民間の損害保険会社から「資金力」や「技術力」について「お墨つき」をもらい、入札時に「ボンド」と呼ばれる「入札保証書」を提出することが義務付けられている点である。
そして、民間のボンド会社が「発注者に代わって」業者の技術・財務状況などを審査し、保証した業者が施工できなくなった場合には全責任を負って、自ら「下請け」を組織して施工するか、他の業者に任せるかなどして、工事を完成させなければならない。
このように、「ボンド会社」という第三者が建設業者の「品定め」をする点が、公共事業の「公正さ」がある程度保たれている理由である。
そして、ボンド会社の競争が激しいために、いい加減な業者にボンドを発行すると、自分の首を絞めることになるので、結果として「不正」は起こらないのだという。
日本でも、「一定の条件を満たせば自由に入札できる」条件付き一般競争入札を導入しようという動きが出ているが、「一定の条件」を発注者が審査する限り、「指名入札制度」と実質的にはかわらないのである。
またこういう「一定の条件」が、「一級建築士」の数などが条件となっており、会社に必ずしも必要もない数の「一級建築士」が雇われて働いていることを付言しておこう。

ユダヤ人ラビであるM・トケイヤーが書いた本にドキリとした言葉があった。
「日本人が真に”弱体化”することがあるとしたら、それは生産力が低下することでもなく、外貨が減少することでもなく、すべての日本人の心の中 にある”日本人でありたい”と思う強い心が消えかかったときなのである」という言葉である。
欲と利権が絡んだ談合のことも、大相撲に見られる金銭をともなう八百長のことも、最近のハイテク・カンニングも、成人式の乱れも、すべてそういう警鐘と無関係ではないように思えるからである。
ただし、トケイヤー氏は、世界に散ったユダヤ人が「ユダヤ人でありたい」という強い思いが消えた時に、ユダヤ人は民族の大海に溶け流れていっただろうことと、結びつけて語っているような気がしないではない。
ところで、日本では今「原発事故」の危険性や「計画停電」の不自由が、人々にあらためて文明というものを振り返る機会を与えているように思えるが、そもそも世界でははるか以前から「文明」というものが「破綻」している国が普通なのである。
ある国では郵便制度がすでに崩壊しかかっており、出した手紙が相手に届かないこともしばしばある。
携帯の普及以前にアメリカでは自分がかけようと思う電話番号にいくらかけても繋がらないことがあるし、電気製品がこわれてもまともに修理してくれる修理屋を見出すことは困難である。
アメリカの自動車製品において、月曜日と金曜日につくった車は「欠陥車」が多いともいわれてきた。 日本における「文明」はいまだそこまでのホコロビはみせていない。
家の中の電気系統はすべてうまく働いているし、都市ガスに火をつければちゃんとつくし、水道をひねればいつでもちゃんと出る。
こういう状況を日本人はアタリマエと思っているが、世界的にみれば「マレ」なことなのである。
日本の政治のテイタラクはひどい状況で国民はソッポを向きだした感があるが、日本は政治に「無関心」でいられる、まだ幸せな国ともいえるのである。
東北の人々が震災に合い、冷える避難所で秩序正しくオニギリをわけ合って生きている姿は、メディアを通じて世界に流れ、海外の人々を驚かせているようであるが、待っていればなんとかいいようにはからってくれるという「政府」への信頼がまだあるからこそ、あのような姿勢で、援助を待てるのだと思う。
ヨーロッパなどでは、政治的な無関心はただちに「身の危険」に繋がるということを歴史に学んでいる。政治的な独裁者は頻繁に登場し、そのたびに国民はこれらの独裁者達の考え方、やり方を常に注意深く見守り、これに「批判」を加えない限り、彼らの個人生活は破壊されてしまうという危険な経験を数多く経験しているからである。
総理大臣だって大会社の社長だって、日本社会ではある種「シンボル的」存在であり、独裁的存在とはなりえない。
その「シンボル」は社員食堂で同じ制服を着て、皆と同じ食事を取ったりするのである。
歴史における実力者をみても、実権をふるおうと思うならば、かならず上位に「シンボル的」存在をかかげ、自身の姿を「見えないように」する智恵をもたなければならないのである。
日本の場合、利権にくらんだ政治家や私腹をこやす官僚がいたとしても、それが自分の「生存」に関わるほど悪い奴はいないと思う程度なので、いちいち細かいチェックをして政治に関心をもつコストよりも、政治的無関心のコストの方がまだ安いのある。
つまり、合理的「無関心」ということである。
戦後、マッカーサーが日本に平等社会をもたらしたといわれる。
占領軍は実によく日本社会を研究しており、軍国主義というものが極端に貧富の格差のある社会であり、富が財閥や地主に独占されていたこが原因であることを見抜いていた。
そしてそれは日本人の潜在能力を大きく引き出したが、マッカーサーの改革は結局、本来日本人が持っていた資質と合致していたからこそ、深いところで日本人の能力を引き出せたのだと思う。

ところで、共存共栄をはかる平等社会である日本でなぜイジメが問題となるかであるが、逆説的な見方をすればイジメというのは「格差」が「制度化」されている「階層社会」ではおきえないのである。
「平等社会」だからこそ、私と君とはすっかり同じではないんダゾ、と相手の「弱点」点を見出そうとする「誘因」が生じるのである。
ヨーロッパやインドの階層社会は、イジメが「制度化」している社会とまではいわないにせよ、少なくとも日本のように「平等化」が極限にまで行き着くところ、「差異」を求めてイジメがはげしくなるという逆説がおきるのではないだろうか。
誤解のないように断っておきたいが、「平等化」が極限にまで行き着くということの本当の意味は、表面上の「平等」を装いすぎたということである。
だからこそ、イジメが深刻化したのではないだろうか。
  日本人は基本的には非常に宗教的な民族である。「無宗教」を自認している人でも「神々」を敬いはしないにせよ、結構畏れているのである。
  日本人の信仰心は根本的にあまりに「大きな格差」を畏れる民族なのである。こういう「畏れ」を喪失した時、日本社会は変質すると思う。
(封建的な差別の問題は、別の意味での「畏れ」と関わる問題なのでここではふれないことにする)
そして、日本人の「本当の強さ」は、自分自身の環境に住んで自分の仲間たちと一緒に行動するという習性の中に存在する。日本では論理よりも情緒でものごとを受け取り交わす。
論理よりも直感が重んぜられ、そこにたえず「調和」を生み出していこうという「心性」が働く。
最近、「広がる格差」と「平等指向」の心性のアンバランスはどうなるのかと思っていたら、タイガーマスク運動や「東北がんばれ」の声に、本来の日本の姿を「再発見」した気がする。
最後に、誤解をおそれずいいたいことは、相撲は日本の国技であり、宗教的な彩をオリコンだものであり、他のスポーツとは異なるものである。
力士だって生涯悔いを残すような「負け方」はしたくないのと同様に、生涯「うらみ」を残すような「勝ち方」もしたくないだろう。
つまり「勝ち」と「負け」の背後に横たわる「力士の心情」が大切であるということである。
相撲はもともと神々を喜ばせる「神事」として奉納されたのである。
だから「人間中心」のスポーツではない。
相撲を「勝ち」と「負け」の熾烈な「競争世界」にしてしまうことが、果たして「神々」を喜ばせることだろうか。