出来レース

最近相撲界の「八百長」問題が取沙汰されているが、「八百長」と聞いてどうしても思い浮かぶ試合がある。
今から約35年前1976年6月26日の「モハメドアリとアントニオ猪木」の試合である。
私も東武東上線沿線にある田舎駅の丸井パートの2階に設置してあったTVにカジリついて見た。
しかし、この「世紀の対決」と銘うった試合は金儲けの「八百長試合」としか映らなかった。
観客もそのあまりにも「低調な」試合内容に怒ったというよりも、そんなのアリ?と「呆れ」果てていた。
猪木はリングに仰向けになった状態で、キックでアリの足を攻撃するだけで、アリは逃げ回るだけでほとんどパンチさえ出さなかった。
アリは「蝶」のように舞わなかったし、「蜂」のようにも刺さなかった。
しかし、リングサイドの「異様な」殺気を知る者にとっては、この試合を「八百長試合」などという生易しい試合ではなかったことを知っていたハズである。
つまり「裏の事情」をしらない者には、リングサイドにおいて格闘技史上まれに見る「確執」が繰り広げられていたことを知るヨシもなかっただろう。
少なくとも、アントニオ猪木は「身辺の危機」を感じながらも臨んだ命がけの「真剣勝負」であったということは確かだった。
ムハメドアリの周辺はブラック・モスリムに固められていた。
ブラックモスリムといえば「マルコムX」という人物と結びつけられるが、米国内に黒人だけの「分離国家」を樹立しようと本気で考えていた「過激集団」であった。
猪木・アリ戦には、そのブラック・モスリム創設者の息子ハーバード・モスリムが、「アリ軍団」を率いてやってきていたのだ。
彼等にとってアリはブラック・モスリムの「広告塔」であり「資金源」であったから、アリを守るためなら何でもヤリカネナイ連中であった。
試合会場に「拳銃」が持ち込まれていたという噂もある。
実は、この試合を「八百長試合」として見せておけば、観客には大満足の見所多い試合ができたかもしれないのだ。
試合後アントニオ猪木は、アリのパンチがカスッタ程度だったにもかかわらず、額には大きなコブができていた。
それはアリのパンチの凄さを物語るというよりも、アリのグローブに何か流し込まれていた可能性もあったという。
試合後猪木は、本当にアリが怖かった告白した。
一方、アリは帰国後すぐに入院するが、猪木のキックにより足はすっかり変色し、左足の血管が破れ血が1リットルもたまっていた。
そしてアリの方も、猪木が本当に強かったと証言している。
高額の入場料を払った者にとってはあまりに「低調で単調な」としか映らない試合に怒号さえ沸き起こったが、それは日本側プロモーターの「交渉のまずさ」があげられる。
アリ側はあくまでも「エキジビションマッチ」として日本にやってきたが、試合10日ほど前に日本に着くや、日本側はあくまでもこの試合「真剣勝負」と考えていることを知る。
あわてたアリ側は様々なルールを出して猪木側に「縛り」をもうけ、それを受け入れられないならば帰国するという強硬な態度にでた。
したがって猪木は実質「手足を縛られた」状態でリング上にあがらざるをえなかったのだ。
というわけで、リングにあおむけになったままアリを追いかけ、その足元をキックするというだけの異様な展開が15ラウンドも続いたのである。
ただ、この試合がキッカケでその後の「異種格闘技」が活発化していったのは事実である。
結局、八百長ではなく真剣勝負だったからこそ、厳しすぎる条件が設けられ、あれ以上の試合を「演出」することができなかったのである。

「真剣勝負」アリ・猪木戦が戦われた1976年日本の医学界では、「八百長」にも等しい出来事が進行していた。
医学の世界に「八百長」とはさすがにハバカレルので、「出来レース」としよう。
医療は、格闘技を含むショービジネスではなく、人の命に関わることだけに、二人の格闘家とそれをとりまく人々の問題ですまされる問題ではなかった。
1976年、日本医科大学の医師・丸山千里氏は自分が開発した「癌治療薬」である丸山ワクチンに製造認可を申請した。
それから5年後1981年厚生大臣の諮問機関である中央薬事審議会は、丸山ワクチンは「有効性を確認できない」と不認可にした。
ただしその際に、厚生省は治験薬として「全額自己負担」なら購入することを可とした。
実は、丸山ワクチンは癌治療に間違いなく効果があるという体験談が多くの人々から出されていた。
例えば、丸山ワクチンの患者家族の会の代表者であった東京大学名誉教授の政治学者・篠原一氏もその一人であった。
篠原氏は癌発病以来、30年以上ワクチンを打ち続けて「再発」しないまま延命している。
氏は特定非営利活動法人「丸山ワクチンとがんを考える会」理事長、「丸山ワクチン患者・家族の会」代表を務め、癌患者の精神的支柱となっている。
ところで丸山千里氏は、結核患者にガンが少ないことに注目し、そのことが癌治療薬の研究開発のきっかけとなった。
1964年に投与が始まって以来、35万人もの患者が投与をうけ、 その投与により治癒に至ったサプライズ体験は数多くあった。
そして丸山氏を「命の恩人」と見る人も数多くいた。
抗ガン剤をうてば髪も抜けるし、寝たきりになるのだが、丸山ワクチンにはそれがないこともよかった。
ところが、1981年に丸山ワクチンは厚生省の認可が得られず、(だからといって禁止にもならず)使用する時には煩雑な手続きを強いられることになった。
丸山氏のいる日本医大にレクチャーを受けに行ったり承諾書をもらったりしても、それでも主治医が了承しないと使えないというビミョーなクスリなのだそうだ。
法的な位置づけはよくわからないが、「有償治療薬」という名称で例外的に投与が認められたものとなった。
ワラをもすがろうという人は日本全国、海外からも直接、日本医大に出向いて長蛇の列を並ばねばならなかった。
免疫療法剤として認可された抗癌剤の第1号が1975年のピシバニールで、第2号が76年のクレスチンであた。
丸山ワクチンは、第3号になるはずだった。
ここまで有名になった「丸山ワクチン」はなぜ認められず、他の抗癌治療剤はヤスヤスと認められたのか。
ある医事評論家は、「癌研究の主流は東大で、私大の日本医大はいわばその植民地である。その大学のマイナーな皮膚科の無名な医師である丸山千里氏が、自分の名を冠したワクチンなんてとんでもないという意識があった」と語る。
異種格闘技の世界にマイナー競技の無名選手がまぎれこんでしまったカンジだが、格闘技の世界は医学の世界よりもはるかにフェアーである。
ただし丸山氏を比喩としてでも、「格闘家」にナゾラえるのは的ハズレかもしれない。
丸山氏は長野県出身でとても長くは生きられないといわれるほど病弱であった。
向学心に燃えて上京し、日本医科大学の前身となる専門学校に入学した。
卒業後は大学に残って研究一筋の生活で、権威とはまったく無縁の人生だったという。
とにかく研究好きで酒もたばこもやらず、研究に没頭した。
毎日患者のところに一人で行き、患者達にとても感謝されていた。 家族に発表する論文を読んで聞かせ、自分の研究をまとめるように、毎日妻に語った。
その妻というのは、早稲田大学野球部を創設した社会主義者・安部磯雄の娘であり、丸山氏は敬虔なクリスチャンであった岳夫を非常に尊敬していたという。
大学病院医学部教授といえばTV「白い巨塔」に見る如く大名行列を引き連れて歩くイメージだが、丸山氏はそうした姿とは全く対照的に「権威」とは無縁の人だった。

厚生省の諮問機関の中央薬事審議会なるものは、1961年の薬事法施行により発足して以来、すべての申請に”可”のハンコを押してきた。
ところが中央薬事審議会は、丸山ワクチンを「目の敵」として、わざわざ”否”の印鑑をつくり、承認をしなかったといわれている。
この丸山ワクチン”不認可”をさせたのは、あらかじめ想像できることだが、日本の癌研究の第一人者ということだ。
元大阪大学学長Y氏は免疫学の第一人者で、牛型結核菌のワクチンでガン治療をやっていた。
しかし副作用をとる技術がなかなか確立できない。
そこで丸山氏に人型結核菌から副作用を取り除いた技術をどうして開発したのかと高圧的に迫ったことがあるという。
丸山氏はワクチンの開発をドイツのロベルト・コッホが1890年に発明したヒト型結核菌製剤ツベルクリンにヒントを得ている。
親族によれば、丸山氏は本来コッホを崇拝し、そのコッホでさえ結核菌を使ったワクチンだけで失敗した。
丸山氏はそのコッホでさえ副作用を取り除けなかったのを自分は成功したという自負をもっており、そう簡単には教えられる技術ではなかった。
Y氏は丸山氏と対照的にエリートコースを歩いた。
大阪大学医学部を卒業し軍医となり、戦後九州大学医学部教授となり、母校大阪大学にもどり、医学部長から1979年には大学総長の地位までのぼりつめた。
日本免疫学会会長、日本癌学会会長、学士院賞、文化功労者と数々の栄光に彩られた人生であった。
そのY氏に大きな屈辱を味あわせたのが、異種「カクトー」家の丸山千里氏であったのだ。
丸山氏は皮膚科出身であり、私大日本医科大学の無名の教授である。
Y氏にとって癌の専門家でもない奴に一本とられたではおさまらない、自分の数々の栄光をフミニジラレタような気分であったであろう。
こういう「白い巨頭」のドンともいうべき人物に人事や研究費でお世話になった者も多く、そういう人は皆「マルヤマ潰し」にナビイテいったとしても自然の流れであるかもしれない。
ただ丸山氏側にも問題はあった。データ不足は解消されず、投与法も丸山氏の経験の域を出るものではなかった。
ただし、丸山氏以外の医者や研究者が様々な実験や臨床試験を行い、よほど確実な実験の効果が出ていたにもかかわらず、ことごとく無視されたという。
つまり「マルヤマ潰し」が至上命令だったのである。

それにしてもつくづく思うのは、「厚く生きる」という役所の名前である。
これは製薬会社と医学界の権威者に向けた名前であるとするならばとてもよくわかる。
医学界と製薬会社の関係をふれると、会社がもしも癌治療薬が「認可」されたら獏大なカネが転がりこむことになる。
注目すべきことは、クスリが癌に効く効かないの問題ではなく、「認可」されるかされないかが問題である。
一度クスリが出回るとその売れ方にはスサマジイものがあるという。
製薬会社はひとつ製品がヒットすれば株価は急上昇するしビルがたつわけだから、新薬を認可してもらうためにはカネに糸目をつけない。
その為の接待攻勢は一般の常識を絶するものがあるそうだ。
丸山ワクチンの認可が拒否された頃にでた二つの抗癌剤(ビニハール、クレチン)は何の問題もなく認可され、その一つは薬品史上最大のヒット商品となっている。
中央薬事審議会にはこの薬品に関わったといわれる人物まで入っているため、これはもはや「八百長」に等しい。
1981年3月18日に衆議院社会労働委員会で、菅直人氏は、薬剤の開発者が自分が作った薬を自ら承認しているという「一人二役」問題を取り上げ、質問追及した。
実はこの二つの薬品がでたあと、中央薬事審議会は、急遽「認可基準」を上げたというから、こうした人物がマルヤマ潰しのために「新基準」をつくったとなると「一人三役」ぐらいの役目を果たしている。
認可されれば、クレスチンとピシバニールの手ごわい「競合商品」になったに違いない丸山ワクチンを門前払いしたとの憶測が出ても無理はない。
丸山氏は、手足を縛られてリングにさえ上がれない存在だった。
となると、これはもはや完璧な「出来レース」ということになる。
官の世界いおける「出来レース」となると、他に「官製談合」なるものを思い浮かべる。
ちなみに、クレスチンとピシバニールについては、要望に応え厚生省は1989年に「効能限定」の答申を出した。その結果、単独使用による効果は認められないという結果をだした。
「効果なし」を遠まわしに言ったということである。
この結果に対して、約2330もの病院が加盟する最有力の病院団体はこれに対して激しく抗議したという。
結果的に1兆円もの医療費が、医者と医薬品メーカーの懐に消えて行ったに過ぎないことになる。なんともムナシイ話である。

ところで丸山ワクチンの製造元は、丸山氏の性格をマルウツシしたかのような社長が経営する「弱小メーカー」であった。
このメーカーは「良いものは必ず売れる」という職人気質の社長が経営していた。
従って、大手企業が通常やるような役人や審議会の委員に対する「根回し」をすることもなかった。
大手企業ならば、「新薬試験中間発表会」と銘打って、一流ホテルで200~300人を集めてパーティを開いてそうした「根回し」をする。
もちろん中には、丸山ワクチンに「宝」の匂いを嗅ぎつけて接近しようとする他の会社もなかったわけではないが、それらも結局は大きな力に阻まれて丸山氏に届くまでは至らなかったようである。
丸山氏の悲劇は、利権と野望渦巻く医学・製薬会社・官僚の壁を打破するにはあまりにナイーブでありすぎたということだ。
丸山ワクチンは、癌患者やその家族の団体による嘆願署名運動などが行われ、国会でも医薬品として扱うよう要請されたが、今日においてもその薬効の証明の目処は立っておらず、医薬品として承認されるには至っていない。
なお、放射線療法による白血球減少症の治療薬として、1991年認可された「アンサー20」という薬は、丸山ワクチンと同成分である。
ワクチンの支持者たちは、「抗がん剤」として認可されることを切望していたが、"放射線療法時の白血球減少抑制剤としての認可に留まった。
なんとしても癌治療薬としては、マルヤマの名を認めたくないらしい。
認可をみるまでは死ねないと常日頃からいっていた丸山氏も、1992年に90歳で亡くなっている。
丸山氏はある親しい新聞記者に、分厚い患者リストのファイルを見せ、自分が死んだら中身を見せる(どうやって?) と言っていたそうだ。
その時、新聞記者がその一覧をチラリと見せてもらったが、政治家や芸能人の名前がその中にあった。
その中でも目についたのが、東大の医師達の名前だったという。