電力を売る

「ライフライン」という言葉は、電気・ガス・水道・物流をさし、人間の生活の基盤となり、いわば「命」をつなぐ生活財である。
アメリカで使われていた言葉だが、阪神神戸大震災の頃から、日本でも「ライフライン」という言葉が頻繁に使われるようになった。
水道局に勤めている知人の話によれば、水道代が滞っている会社というのは、「いよいよ」の会社なのだそうだ。
表向き、業績がイイとされている会社のそういう実態を知ると、知ってはイケナイ「秘密」を自分だけが知ったようで、少し楽しくなるそうだ。・・・わかる。
ところで最近、ライフラインのひとつ「電力の自由化」ということが言われている。
本格的に自由化されると、ガス会社はガスしか売れなかったのに、ガスで電気を起こして電気が売れ、発電設備をもっているビルのオーナーや製鉄所が、その電気をビルのテナントや他の会社に売ることが、可能となる。
「電力の自由化」は、長く経済が停滞したイギリスが先陣をきり、「電力ビッグバン」などいわれる言葉まで生まれた。
電力が市場に乗れば、電気の「品質」如何、「卸売り」から「小売り」といった流通も問題となる。
長くそれを「公共財」と認識してきた者にとっては、かなり「違和感」をおぼえざるをえない。
電気が「途絶する」このの重大さは水道・ガスの比ではない。医療・エレベーター・建築工事あらゆるものがブラックアウト、というよりも「時間が停まる」感じさえある。
小さな頃、しばしば停電がおき、テレビもよく中断していた思い出がある。
今、日本における一年間の停電はわずか「総計14分間」だそうで、世界に冠たる水準にある。
あの時代に比べると日本の技術力(システム回復力)に感服せざるをえない。
では「電力の自由化」にはどんなメリットがあるのだろう。
「自由化」といえば、競争による「価格の低下」を思うい浮かべるが、本当にそれが実現するのか。
仮に実現したとしても、むしろ供給の「安定」や「品質」が損なわれることはないのだろうか。

市場経済は、価格が需要と供給を調整するので、欲しいものが欲しいだけ作られるというタテマエだ。
とはいうものの、ガソリンなどのように大口の需要家(企業)などが使いまくって、価格がツリあがってしまうと、一般の需要者(庶民)は高いものを買わせられるハメにもなる。
その意味では、けして「民主的」なものではない。
供給サイドの独占は独禁法で「法的監視」の対象とされてはいるが、需要サイドの「半ば」独占的・寡占的支配はあまり問題にはならない。
つまり需要サイドからみた「市場支配力」である。
「電力の自由化」を考える時、実は需要サイドの「市場支配力」いいかえると、「価格交渉力」がポイントとなる。
自由化しても、競争が充分なされず、需要サイドにも価格交渉力がなければ、大して公共料金の設定と変わらない。
需要サイドに大きな力の差がある場合には、理論的には「差別価格」というのがあり得る。
江戸時代に、三井の越後屋(今の三越)が「差別価格」をやっていた。
差別価格といえば悪いイメージだが、殿様が買った値段が市場を支配したら、庶民は手が出るはずもないので、庶民向けに価格を下げ、つまり利幅をへらして庶民にも買えるようにした「逆差別」ということだ。
同じ反物(たんもの)を大名には高く売り、町民には(売り方を変えて)安く売った。殿様ビジネスと貧困(庶民)ビジネスを並行してやったわけである。
さらに庶民に雨の日には無料で傘を貸すなどのきめ細かいサービスをした。
その傘にはちゃんと、「越後屋」のマークが入っていたことはいうまでもない。
今日においても、「差別価格」に近いことがありうる。
身近なところでは、映画館館内で買うアイスクリームとマルキョーで買うアイスクリームは、まったく同じものでも値段が2倍くらい違う。
差別価格とはいいすぎかもしれないが、「転売」がきかない商品では、現代においても「一物一価の法則」の例外が表れるということだ。
仮にポケットにいれて映画館に「持ち込み」入場したら、溶けているか、冷えていないかで、仕方なく映画館の割高商品を買わざるをえない。そういうシカケになっている。
電力も「性質上」、アイスクリームと同じように「転売」がきかない。
一般に「市場経済」という場合、「財」の性格より市場メカニズムにどう乗っかるか、またチャンと乗っかるか、あまり論じられることはない。
例えば耐久消費財のように使用期間が長くなると、たとえ消費財であっても設備投資のように、「景気循環」に影響を与える。
耐久消費財の場合、金利に左右される「分割払い」で行われるからである。
映画や旅行といった消費ソノモノに「時間」を要するのは、レジャー自体の代金よりも「機会費用」(=「他の楽しみ」)に影響をうける。
あるいはクーラーやファンヒーターやビールなどのように「季節的消費」が為されるものは、「自然条件」に大きな影響を受ける。
刑務所や警察や消防などのサービスは、サービスの性質上「利益」優先の民間企業では供給できないものである。
いわゆる「公共財」だが、フランスでは刑務所の民営化をやっているようだ。
罪人の逮捕・収監は国がやり、以後の収容・管理は「民間」がやるというように、分離するのだ。
あるいは、水道や道路といった固定資本が大きく、一般企業では利益が出せないが、絶対に必要なものというものがある。
いわゆる「ライフライン」の安定確保である。つまり、財の性格を無視して自由化し、市場で解決していくというのは問題がある、ということである。

「電力の自由化」といっても、一般の生活者には、それでどうなるのか、実体がなかなか伝わらない。
その前に、電気の「財」としての性格はどういうものだろうか。
まず、停電が少なく、周波数や電圧にムラがなく安定した電気が「良質な電気」といえる。
発電設備が余っていれば、発電した電気を買ってもらうために安くするが、足りなければ高くする。
そこまでは一般の商品と同じだが、電力の消費は発電とほぼ同時におこなわれるのだから、「貯蔵」も「買い控え」もできないという「特性」がある。
従って、瞬間、瞬間で需要と供給がマッチしていなければならない。
瞬間的な需給バランスが崩れると「大停電」をまねくことにもなりかねないものである。
アメリカやイギリスの実践例は、日本の電力自由化にむけての大きな「教訓」となる。
実は、電力不足で価格が暴騰することは、電力の自由化(小売化)が進展したアメリカのカリフォルニアで頻発している現象なのである。
アメリカでは1980年代に、ガス供給事業者が不況に陥ったために、その活性化のためにガス会社に発電させ、電力の発電部門に参加させたことによって、電力自由化への「風穴」が空いた。
そして1984年に、電力会社以外の「発電者」を認め、その電気を送電線にノセルのと同時に、その電気の購入を電力会社に義務付ける法律をもってはじまった。
この時、電気会社が発電者にはらう購入価格は、電力会社が建設することが必要でなくなった発電所のコストということで、結果として相当割高な値段になったという。
さらに、1992年、送電線をもっている電力会社に自社以外の発電事業者の電気を依頼されて送る、いわゆる「託送」を命令することができるようになった。
つまり、電力の自由化の意味は、基本的には「送電線の開放」ということである。
電力不足で、「停電」が頻発するようになったカリフォルニアには5つの発電事業者がある。
そして州では、ISO(州独立系運用機関)に、強制的に「輪番停電」を行う権限が与えられている。
カリフォルニアでは、地域ごとに行われ混乱をまねかないように停電の「事前通告」が行われるが、 例えば窃盗犯にもその情報は入ることになる。
カリフォルニア州にかぎっていえば、「自由化」は必ずしも電気代の低下にはならず、「安定供給」にも繋がらなかったということである。
イギリスでは、1990年「プール」と呼ばれる強制参加の「卸電力市場」を設立した。
このネライは翌日の電力事業を賄うために発電する発電所を入札価格の安い順に決めることにより、発電所間の競争を促進し、電力価格の低下を促そうというものだった。
ところが、実際は新規参入者はなかなか現われず、発電市場は大手会社の寡占状態になってしまった。
期待した「価格低下」はおきず、むしろ「プール制」導入当初よりも、「値上がり」してしまったのだ。

日本では戦後10の電力会社が「地域独占」で電力事業(発電・送電)を行ってきた。
しかし1980年代より、アメリカの日本に対する「構造改革」要求もあり、唐突に「電力の自由化」が話題にのぼるようになった。
表向きは、電力のような広範な事業で「地域独占」は経済全体の停滞となるというのだが、ホンネはアメリカの電力会社が参入して仕事がしやすい「環境」を整えさせるというものであった(と思う)。
そして日本でも「電力の自由化」は、「電気事業法改正」をもって、2000年3月に実際にスタートをきることになった。
「自由化」前段階において、鉄鋼・石油などの産業が自らの施設の空き地利用、例えば石油でいえば残渣油を使うといったことが行われていた。
また、自家発電をもつ産業から余剰電力が電力会社に供給されることがあったが、余剰電力ではなく電力ビジネスとして他産業が卸業に参入することが認められた。
この自由化は、おおきなビル、工場など使用規模が2千キロワット以上、電圧2万ボルト以上の需要家に対して、新規参入の電気事業者、従来の電力会社が「電気を売る」ことができるというものである。
しかし「電気を売る」といってもどう送電するかだが、電気小売の「部分自由化」が明記され、新規参入者(特定規模電気事業者)は、電力会社が提供する「送電サービス」(託送・接続供給など)を利用して、電力の小売販売が可能となった。
ちょうど高速道路のように金さえ払えば誰でも「送電線」を利用できるようにしたということである。
気になる「新規参入」の電気事業者の「顔ぶれ」は、以下のとうりである。
ダイヤモンドパワー(三菱系)、丸紅、旭硝子、新日鉄、エネット、などの9事業者である。
特にインパクトが大きかったのは、2000年春に初めての大口電力の入札が経済産業省で行われ、新規参入業者であるダイヤモンドパワーが、東北電力、東京電力を振り切って落札がなされた。
「原子力の旗振り役」でもある経済産業省は、この時ばかりは「原子力の東京電力」を振り切って、「電力の自由化」の「先導役」を買って出たということになる。
そして、一応使用電気よりも「低い」価格で落札し、「自由化」=「値下げ」を証明した形となった。
ダイヤモンドパワーは、三菱商事の子会社で、自家発電(日鉱金属など)から電源、電気を仕入れ、小売りするブローカー的存在だが、将来は発電事業にも乗り出す計画をもっている。
ダイヤモンドパワーは、そのほか高島屋東京店、ダイエー松戸店、イトーヨーカ堂葛西店などにも電力を「小売り」している。
例えそれが、巨象(東電)にアリが噛み付いた程度のものであっても、その「意義」は大きいものがある。
また私の地元では、福岡市庁舎、九州大学筑紫地区キャンパスは、地元の九州電力から新日本製鉄に切り替えている。
その他、大阪府庁舎は、関西電力からエネットに切り替えている。
エネットは、NTTファイシリティーズという通信業と、東京ガス、大阪ガスというガス産業が結びついてできた点に大きなが特徴がある。
鹿児島県庁舎は、九州電力からイーレックスに切り替えているが、イーレックスは、日本興行銀行、上田短資、日短キャピタルなどの資本参加によって設立され、そのユニークさがうかがえる。
旭化成の余剰電力を調達し、従来の予想価格を大幅に下回る価格で電力を供給することができた。

もし消費者が本当の意味で電力会社を選ぶということができるならば素晴らしいことだろう。
今では想像さえできないことだが、日本では第一次世界大戦前には700あまりの電気事業社ができたのだ。
「船頭多くして、船、山に登る」の感は否めなかったものの、大戦後の不景気で発電設備は過剰となり、電気事業者の合併買収が行われ、「五大電力会社」体制ができあがった。
この五大電力の一角「東邦電力」を築いたのが、松永安左ェ門である。松永は九州の壱岐で生まれで、上京後、慶應義塾に入塾し福沢諭吉の教えを受けた。
福沢の紹介で日本銀行に勤務するもサラリーマンが合わず退職し、石炭販売業を始めて、芸者遊びと博打に明け暮れながらも、大成功を収めたかにみえた。
しかし、株暴落ですべてを失い隠遁し、読書三昧の2年間の浪人生活の後に再起し、会社をおこして徐々に成功を収め、「九州水力電気」(九州電力の前身)を設立し、「電力界の松永」といわれるまでに電力業界に君臨した。
満州事変ごろから電力の「国家統制」が強まり、10社による完全な統制、独占が行われることになった。
第二次世界大戦後、国家統制は解かれたものの1951年に今日の9電力会社が発足し、1988年に沖縄電力が加わり、10社によるほぼ「地域独占」が今日まで行われてきたのである。
日本の電気料金は国際的に見て高いといわれる。それでも我が家は、いやおうなく九州電力から電気を購入してきた。確かに選択の自由がない。
結局、電気代だけを気にしてきたが、人間の価値観は多様であり、これからは電気の「質」を気にしてもいいのではないかと思う。
原子力で起こした電気は絶対買わないとか、たとえ高価で不安定あっても自然エネルギーで起こした電気しか買わない、という人がいてもいい。
ちょうど「有機栽培」で育てた野菜しか買わない人がいるように、「有機発電」の電力しか買わないというのがあってもいい。
そうなると「面白い社会」ができそうにも思うが、新規の発電事業者の数に応じて「送前線」を増設できるわけではない。
もしそうならコストがかかって新規事業者はあらわれないだろう。
そこで様々な業者が既存の「送電線」を利用して供給するのは、やはり全体として「混雑し」不安定化する可能性が高い。
そして、電力の需給情勢により価格も変動することになるために、価格変動は大きくなる。
安定供給が損なわれることは、社会生活を広く危殆に陥れることになるために、それが望まれることか。
これが狂うと、医療機器などの精密な機器では正常な動作が保証されない結果をまねくのである。
アメリカでは、原子力に優劣がでてきていて、原子力発電所の売買も行われているそうだ。あのスリーマイル・アイランドの原子力も売買された。
原子力の経営主体がそう安易に変わっていいのかという問題がある。
長期計画や展望の下で「廃棄物の処理」などを行わなければならない原発で、安全への「責任」が保てるのかということである。
販売会社にとって一般家庭の電気使用量は限られており、販売会社にとって必ずしもいい客とはいえない。
競争が生かせなければ寡占状態となり、値下げどころか「値上げ」になる。
つまり、「電力の自由化」は、一般家庭にプラスに働くかといえば、疑問符がつく。
また既存の電力会社では、発電と送電が「一体化」していたために、全体の「長期設計」が可能だったが、それが出来なくなる。
原発をどうするかを含めて全体としての「電力設計」をどうするか、日本社会の「基本設計」というべき重大問題かと思われる。