泥と塵

新内閣発足で、野田首相は「ドジョウになろう」といい、ノーサイドという言葉で「党内融和」を唱えた。
そして新内閣では、民主党内どののグループにも配慮した実質のともなった「ノーサイド」のカタチをとったことになる。
しかし、人間は「利害」で結びつくとはいえ、民主党に属する議員達の経歴や支持母体からみれば、よくコンナ結びつきが起きるものだと思わざるをえない。
このなかでは旧自由党に所属していた議員は小沢一郎個人の影響が強く、これに距離をおく菅直人グループ。
さらには「旧さきがけ」の前原氏のグループや松下政経塾出身が多い野田グループがあるらしい。
また労組出身では、旧社会党に所属していた議員は旧総評、旧民社党に所属していた議員たちは旧同盟の出身というように色分けされている。
自由民主党の長期単独政権の打破ということで結びついたのだが、「イデオロギーの終焉」なんという言葉も思い浮かぶ。
ところで、野田首相が「ドジョウ」に譬えたのは、相田みつを氏の詩によるらしいが、平野国対委員長は、「ドジョウの住み良い泥になる」といった。
そこで或る作家によって「塵」と譬えられた歴史上の人物のことを思い出した。
平安時代には「市聖」とよばれた空也という僧がでたが、作家の藤沢周平は、江戸中期の政治家・新井白石のことを「市塵」とよんだ。
菅前首相が「市民運動」から政治活動を始めたことも思い起こす。
「市塵」とは、市街に立つチリホコリ、あるいは市中の賑わい、雑踏のことをいう。
新井白石は、甲府藩主・綱豊により「市塵」の中から見出されて「藩儒」となり、江戸幕政補佐の地位にまで昇るが、6代将軍・徳川家宣となった綱豊の死により再び「市塵」にもどっる有為変転の人生を辿ることになった。
18世紀の初頭、新井白石が中心に行った政治は「正徳の治」とよばれるが、いくつかの点で「現代政治」を映していると思われる。
まず「儒者」新井白石と「役者」間部詮房という「真逆」の経歴をもつ二人が「幕閣」の中枢にあったことである。
また、富士山噴火と地震頻発という「自然災害」の只中にあったこと、密入国を行う外国人が捕まったり、政治家と芸能界の関係などのスキャンダルが世間を騒がせたことなどである。
そして一番重大な共通点は、マッタナシの財政改革を余儀なくされていることであった。
ところでアメリカの大統領選挙で、例えばカリフォルニア州出身の候補者が大統領に当選すれば、その政策や選挙を支えたスタッフも数多くカリフォルニアからホワイトハウスにはいることになる。
ソレにも似て江戸時代の半ば、江戸幕閣が「甲府スタッフ」で占められた時期があり、その時代こそが「正徳の治」の時代であった。
五代将軍・綱吉は母親のススメで「生類憐れみの令」まで出して子供の誕生を願ったのだが、ついに子宝に恵まれることはなかった。
甲府藩主の綱豊が、次期将軍として迎えられ名前も家宣にかわり、五代将軍の死去とともに六代将軍・徳川家宣となった。
そして甲府徳川家家臣団は幕臣に編入され、この家宣を甲府時代から支えた侍講の新井白石と甲府藩の重臣・間部詮房が支えるという「トロイカ体制」ができあがる。
厳格なイメージの儒者である新井白石と役者出身(元猿楽師)のイケメン間部という二人の経歴の「コントラスト」が面白いところである。
いずれにせよ、甲府から「落下傘」のごとく舞い降りた二人に対して、幕府内の既存の体制との権力闘争や大奥も絡んだ確執が起きるのは、「自然の成り行き」であったといえるだろう。
新井白石がいかに優秀な儒学者であったとしても、すでに林大学頭(林信篤)がいるし、財政改革をやるといっても5代綱吉時代からの「勘定吟味役」の荻原重秀も健在だったのである。
後述するが、歌舞伎役者と大奥の女性の「スキャンダル」も、大奥と近しい間部の「追い落とし」をネラッタ権力闘争の表れであり、とても現代的なニオイがするところである。
新井・間部の二人が幕政の中枢を握ったとはいえ、もともと「市井の輩」であり、それが元に戻ったにすぎないだけだという含意が、タイトル「市塵」の中に込められているように思う。
藤沢周平氏が聖書を読まれる人なのかは知らないが、旧約聖書にある「土から生まれたので土にかえろう、塵からうまれのだから、塵かえろう」という言葉を思い浮かべる。

新井白石は21歳で足かけ6年の浪人暮らしを強いられた後、運の悪い出仕の経験もあったが、儒者として甲府藩に召し抱えられた時にはスデニ37歳になっていた。
新井白石は間部詮房とともに、5代将軍綱吉と8代将軍吉宗の間にいた二人の将軍・6代家宣と7代家継の政権を仕切った。
新井白石は甲府藩主綱豊(後の将軍家宣)の侍講であったが、甲府藩家老・閒部詮房から政治顧問として家宣を支えるように依頼された。
ようやく、新井白石の学識と経験が「高く」買われたわけである。
五代将軍綱吉が亡くなり、家宣が甲府藩から入り六代将軍になると、閒部詮房と新井白石は政治改革に乗り出した。
まず手始めは、綱吉政権下での「生類憐令」の撤廃であるが、これを皮切りに次々と改革案を出していった。
しかし他の老中たちの抵抗が大きいく、儒者仲間であるはずの林家をも敵にマワスことになった。
新井白石は儒者といっても「実証」を重んじる人で、他にアリガチな机上の空理空論を嫌い、儒の知識、儒の行為を「現実の政治」に生かしたいと思っていた。
そして新将軍の「政治理念」を盛りこんだ武家諸法度の草案を書きあげた。
その中には「士民の怨苦を致すべからざること」ナド、役人の驕りや賄賂を戒めた「市井の人」らしい提言もあった。
新井白石は幕閣の中で如何に「孤立」しようとも成し遂げなければならない事があった。
それは、5代将軍綱吉政権下で母桂昌院とともに散財を極めた結果おきた財政難から救うための「貨幣政策」の改革であり、その中心にいた「勘定奉行」の強敵・荻原重秀との対決は避けることができなかった。
荻原重秀は、乱脈を極めた財政難を切り抜けるために、貨幣に含まれる金銀の量を減らすという「貨幣改鋳」を行った。
当然、余った金銀は幕府のものとなり、貨幣の改鋳を行った金座・銀座からも多大の上納金や賄賂を得たはずである。
重秀は、政府に信用がある限りその政府が発行する通貨は保証されることが期待できる、したがってその通貨がそれ自体に価値がある金や銀などである必要はない200年余りも先取りした財政観念を持っていた。
「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし」という言葉を残している。
幕府の改鋳差益金は約500万両にもなったが、この貨幣改鋳はインフレを従来いわれたほど大きなインフレを引きおこしたわけではないらしいが、単純なに品位の低い通貨に改鋳したことは、幕府政治に対する不信を増すことになった。
新井白石の財政政策の基本は、荻原以前の慶長金銀の品位を回復しようとしたものである。
元禄より前においては、金銀の発掘がままならず通貨供給量が減って厳しいデフレが起きていたから、荻原の改鋳により、通貨供給量を増加させることは十分に意味のあることであった。
しかし、荻原は一貫して通貨供給量を増加させてきたため、長崎貿易の破綻と相まって、このころになるとはっきりとインフレが起きて、諸物価は完全に右肩上がりの傾向を示していただろう。
新井は通貨改鋳の建議の中で、人々は、通貨の質が下がったから物価が上がるのだと言うけれども、そうではなく、「真実は世に通じ行われ候金銀の数、そのむかしよりは倍々し候て多くなり来り候故にて候」、すなわち通貨量が単に倍々にも増えていると指摘している。
つまり通貨の質が非常に上質だったとしても、通貨供給量が多ければインフレになるものだ、という指摘をしている。
これを沈静化させるには、通貨供給量を減らしてやればよいはずだ。
すなわち、白石のいう改鋳とは、流通している低品位金貨3枚を回収して、代わりに高品位の貨幣を2枚を流通に置くことによって、通貨量の3割削減ということになる。
ただこれを一時にやったのでは、今度は経済に与える影響が大きすぎるので、長期をかけて徐々に行うように提言している。
貨幣数量に注目した新井は現代経済学でいうとマネタリスト的で、管理通貨制度に近い提言をした荻原重秀は、ケインジアン的というべきか。
さらに新井白石の時代には、家宣の代になった事に対する「朝鮮通信使」の待遇改定問題やシドッチという宣教師の密入国問題などの問題も湧き起こったが、ある意味で新井白石の学識の「真骨頂」が発揮されたのはこうした対外的問題であり、その知識が政治の「実践の場」で生かされた場面だったといえる。
こうした問題を処理していく中で、新井白石は政権内で地盤を固めて大きな「権力」を発揮する事になる。
ただ新井白石の「権力の裏付」は甲府時代より侍講を勤めた6代将軍・家宣の存在であったから、家宣がイナクなっててしまうと、権力の根底が揺らぐ脆弱さを秘めていた。
それは、間部詮房とて同様で、実際に家宣は1712年に亡くなり、その次の7代将軍家継も8歳でこの世を去ったのである。
徳川吉宗が紀州より迎えられ8代将軍となり、新井白石の政治をことごとく否定しために失意を味わうが、新井は「市塵」のなかに帰ろうと決意する。
新井には、一つの時代が終わり善かれ悪しかれ「新しい時代」がはじまり、古い時代の人物は舞台から去るしかないという自覚があったのだろう。
藤沢周平氏は「白髪蒼顔の、疲れて幽鬼のような相貌になった老人」と描いている。
そして新井白石の口を借りて、「全て始めのあるもので終りのないものはない。ゆえに無事な時にも、死後のことというものは考えておくべきである。まして病気の身なればなおさらのことである。それを、縁起でもないこととしては、臨終のときに過ちを犯すことになろう」と言っている。

ところで間部詮房は、ある意味で新井白石よりも興味をソソル人物である。
間部は、甲府藩主徳川綱豊(後の第6代将軍家宣)の家臣・西田清貞の子として生まれる。
間部は、猿楽師(現在の能役者)の弟子であったが、1684に徳川綱豊の用人に取立てられた。
1704年、綱豊の江戸城西の丸城入に伴ない詮房は従五位下「越前守」に叙任し、「側衆」になり1500石加増された。
その後も累次加増され、後に相模国内で1万石の大名となり、さらに加増を重ね高崎藩で5万石を得ている。
日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にないらしいが、徳川家康の家臣で土木工事に才能を発揮した大久保長安は猿学師の子供であっったという。
ところで間部は、側衆としての格が上がり、若年寄に次ぐ地位になり、ついで序列上老中の次席を命じられた。
真面目で信義に篤い人物だったとされ、他の幕臣は交代で勤務にあたったが、詮房は徳川家宣に昼夜片時も離れず勤務したため、家宣も詮房のことは特に信頼していたという。
新井白石は「身の暇がなく」、「きわめて生質の美なるところありて、おおかた古の君子の人にも恥じまじき」と詮房を評している。
特に家宣死後、幼少の家継が将軍職を継ぐにあたり、門閥層や反甲府派の幕閣の抵抗がいよいよ強まり、政治改革が中々進まなかったのが実情であった。
新井は家宣の死後に政治に対して消極的になることも多かったが、そのような新井を励まして能力を引き出すことに尽力したのが間部であった。
そういう評価の半面で、間部はなかなかのモテ男で家宣死後、大奥へ頻繁に出入りし月光院(家宣の側室で家継の生母)と密会を重ねていたなどという噂が絶えない人物でもあった。
そんな折の1714年、江戸城大奥を揺るがす「大事件」(絵島事件)が起きたのである。
1714年1月12日、大奥の年寄絵島(当時34歳)は月光院の名代として前6代将軍家宣の命日に芝増上寺へ参詣した。
その帰路、絵島は大勢の供の者を従え、木挽町にある「山村座」に立ち寄り芝居見物した。
芝居終了後には当時評判の美男役者の生島新五郎と茶屋で酒宴におよんだ。
その結果、絵島一行は大奥の門限である午後4時までには帰りつかないという「不始末」が起きたのである。
当時、大奥の女中たちが外出にかこつけて芝居見物をすることはよくあったそうだが、この事件はただの事件では収まらず、「大スキャンダル」へと発展していった。
ことの真否は分からないが、絵島のこの行為によって、生島新五郎との「密通」を疑われる結果となった。
そして、下された処罰は厳しいものだった。
絵島は新井や間部が仕えた家宣の生母・月光院と近しい女性であったが死罪となり、生島新五郎は三宅島に流罪となった。
ただし、月光院の嘆願により、絵島本人については、罪一等を減じて、高遠藩「お預け」となった。
その後、事件に関わった人々が次々に罪が許されていったが、絵島は高遠に流されてから亡くなるまで30年近く終生高遠で過ごしている。
絵島の兄も妹の監督責任を問われて斬首となり、絵島を山村座に案内した人物までも死罪となった。
「山村座」は廃され、座元や作家も流罪となった。
大奥の「月光院派」の女中たちは着物や履物を取り上げられ、不浄門とされた「平川門」から裸足で追放されたのである。
その他連坐刑も含め遠島・改易・永の暇を下された者は1500人以上だったという。
こういう「不祥事」からの大事件への拡大は、むしろ「権力闘争」のニオイがする。
6代将軍家宣には「天英院」という正室がいた。しかし彼女の生んだ男児は早世してしまい、将軍の生母となることはできなかった。
一方、月光院は前将軍・家宣の側室であったが、彼女の生んだ男児が家宣の後を継いで7代将軍家継となり、つまり将軍の生母となり、大奥に権勢を張るようになった。
このことが正室天英院との対立をもたらす結果となったのである。
つまり、生母月光院の重鎮とも言える絵島が「天英院派」にネラワレタたというわけである。
とすると前述した間部と月光院の密会の噂もそのラインの上の ことだったのかもしれない。
では、家宣の正室・天英院という人はソレホドの激しさをもった人というと、必ずしもそうでもないらしく、この事件にはモット黒々しい「権力闘争」があったことが推測される。
間部詮房は、もとは猿楽師であり、また、補佐役である新井白石は新参の儒学者であった。この二人が実際に政治を動かしていたのだが、これが、代々徳川家に仕えてきた武士にとってみると面白くなかったに違いない。
この旧勢力は正室・天英院に近く、新勢力の新井・間部は家継の生母・月光院に近かった。
こうした中で、旧勢力が間部詮房、新井白石を追い込むために月光院派の「絵島」が狙われたというわけである。
事実、この事件後、次期将軍選びの流れは旧勢力派が握るようになり、7代将軍家継がわずか8歳でこの世を去ると、8代将軍には紀州から徳川吉宗がなり、それと同時に間部詮房、新井白石らは失脚していくことになる。
芸能界をも巻き込んだ「政治劇」たるスキャンダルはやっぱりスゴイ。その間部も、暑気にアタリ55歳で亡くなっている。
結局、政治的なバックボーンを失った新井も間部もその「権力闘争」に破れ、幕閣を去り「市塵」に還った。
ちなみに能楽以前の猿楽は、土のニオイのする芸能だった。
実際に曲芸や軽業、物まねを含む「泥まみれ」の芸能だった。
そういうわけで、新井と間部のコンビを「塵と泥」に譬えたい。