日本人とエジプト

日本はアラブ文化の恩恵に大いに浴している。
石油はいうに及ばず、スイカ、葡萄、ざくろ、いちじく、なつめ、ももなど中東原産の栽培植物は、シルクロードを経て流入した公算が高い。
およそ20年前にテレビで湾岸戦争の経過を見ていたら、広島のお好み焼き屋さんが登場し、あのソースはなつめヤシでできており、イラクを原産としたナツメヤシが今度の戦争で手に入らなくなってしまうと困っていた。
あの濃厚なソースの原料がイラク原産かと、あらためて戦争の影響の広がりを思った。
そうして今、中東が湾岸戦争以来の危機を迎えている。
チュニジア政権崩壊からエジプトへと民衆の暴動がアットいうまに広がった。
その影響は日本に対してもはかりしれぬ程に出てくるはずだ。
暴動の震源地・チュニジアといってもその位置を即座に答えられる人はすくないだろう。しかし、かつての「カルタゴ」の名前は学校の歴史の時間に習う。
アフリカの北端・チュニジアの首都・チュニスは、フェニキア人の時代から地中海貿易の主要都市として栄え、カルタゴの世界遺産とサハラ砂漠、そして近代的なリゾートや美しい街並みに世界中から観光客が集まってきたところである。
チュニジアに石油資源はないが、観光資源で潤っている穏健なイスラムの国家である。
イスラム国家にしては珍しく女性の社会進出も活発で、フランスをはじめヨーロッパの国々やアメリカと緊密な関係を築いてきた。
昨年末、日本とアラブ諸国との経済関係を強化するための「日本アラブ経済フォーラム」が首都チュニスで開かれたばかりである。
そのチュニジアの政権がアマリニモあっけなく崩壊してしまった。
その背景には、23年間に及ぶ長期独裁体制下でくすぶっていた強権政治や政治の腐敗に対する国民の不満が高まっていたことがあるという。
失業率は14%台に高止まりし、大学を卒業しても職につけない若者が増えていたし、そこへ食糧など物価高や放置された失業問題への怒りが加わり一気に爆発したという。
チュニジアで反政府デモの引き金となったのが、一人の「若者の死」であったという点が今回の「政権崩壊」の大きな特徴である。
その若者は、中部の町で大学卒業後も職につけず、路上で無許可で野菜や果物を売っていた。
そして彼は警察の厳しい取り締まりに抗議して焼身自殺したのである。
この事件をきっかけに、同じような不満を持つ若者たちが抗議デモを始め、次第に医師や弁護士なども加わって各地にデモ広がり、1月14日には首都チュニスで1万人がデモに参加して大統領の辞任を要求したのである。
これに対して大統領は「非常事態宣言」を発令したものの、住民の怒りは収まりまらず、軍も大統領を見限り、ついに大統領は家族とともにサウジアラビアに脱出した。
アラブ世界では、「住民の蜂起」によって政権が崩壊したのはきわめて異例のことである。
さらに、チュニジアからインターネットを通じて広がった暴動でエジプトは無政府状態に陥っているようである。

エジプトの暴動でエジプト王朝の遺産が展示されている博物館も襲撃されているのをテレビで見た。
発掘に夢とロマン、そして膨大な時間とエネルギーを費やされた歴史文化財は稀であり、それらが無残に破壊されるのは誠に痛ましい話である。
それはカンボジアにおけるクメール・ルージュよる文化遺産の破壊を思わせる。
随分昔、親に連れられて福岡市の百貨店岩田屋で開催された「ツタンカーメン秘宝展」がおぼろげに脳裏によみがえってきた。
岩田屋にいけば屋上の観覧車に乗ったが、最近その観覧車が南公園(福岡市動物園)の頂近くに今も使われていることを知って、あらためて観覧車を見に行ったことがある。
そうだった。60年代半ばのツタンカーメン・ブームは、70年代のパンダブーム、80年代のモナリザ展を凌いでスゴイものがあったことが思い出された。
ところで日本とエジプトとの交流の歴史はそれほど表には出ないが、営々とした歴史がある。
1930年代より日米決戦を想定しての「石油交渉」が中心ではあるが、サムライ30名ほどがスフインクスの前で休憩している写真を見た人は、結構多いと思う。
「スフインクスとサムライ」というあまりにチグハグな出会いは、勘ぐればコマーシャル用の合成写真のようにさえ見えてしまう、そんなチグハグサさか非常に印象に残る写真である。
しかしこの写真はマガイ物でもなんでもなく、正真正銘1884年にエジプトで立派な写真家によって撮られた写真なのだ。
1863年末つまり明治維新の4年前、フランスとの外交交渉を主とする「文久遣欧使節団」は仏艦ル・モンジュ号は池田筑後守を団長とする徳川家の家臣34名をのせ横浜を出航した。
江戸幕府が1858年にオランダ、フランス、イギリス、プロイセン、ポルトガルと結んだ修好通商条約で交わされた新潟・兵庫のニ港および江戸・大坂の開港開市の延期交渉と、ロシアとの樺太国境画定交渉のためのものである。
往路、エジプトに15日間滞在し、二本のレールを走る火輪車を見たり、蒸気ポンプで稼動する製鉄所を見たりしている。
そしてスフィンクスの前で記念撮影したのがこの写真である。
一行はピラミッドはもちろん異文化に驚いたろうが相手方も珍奇なイデタチの日本人には興味を覚えたことだろう。
翌年(1864年)3月13日パリに到着したが、交渉は不調に終わった。
ところでこの「サムライとスフィンクス」を撮ったF.Beatoはイタリア生まれでイギリス国籍を持ち、クリミア戦争・インドのセボイの反乱など主に戦争写真を撮ってきた「従軍写真家」である。
開国前の日本の混乱期に興味を示し1863年春頃来日したらしいが、幕末から明治初期の日本の風俗・風景・戦争写真などをジャンルを問わず数多く残している。
当時の日本写真界の第一人者といって過言ではない。
しかしこの段階で、日本のサムライがエジプトを訪れた事実の記録として残ったものだが、に何らかの交流が生まれたわけではない。

日本の政府高官とエジプト独立運動の志士の出会いが明治の初期にあった。それには東海散士(とうかいさんし)という小説家の「奇遇」がモノをいった。
東海散士は、本名が柴四朗で会津出身である。
藩校日新館で学び、少年期に会津藩士として戊辰戦争に兄と共に従軍した。
最後まで新政府軍と戦った賊軍の会津藩士には、官界や軍隊の中で立身出世する見込みはなかった。
しかしその例外的存在が、東海散士こと柴四郎である。
1877年(明治10年)、別働隊として参戦した西南戦争において熊本鎮台司令長官・谷干城(たにたてき)に見出されたのが大きな転機となった。
ちなみに土佐出身の谷は、戊辰戦争で会津と戦った関係にある。
柴四郎は27歳のとき岩崎家の援助を受けてアメリカに留学し、ペンシルベニア大学及びパシフィック・ビジネス・カレッジを卒業して、1855年に帰国した。
この年、アメリカ生活で培った持論「国権伸長論」を基調とする「佳人之奇遇」を東海散士の名で発表して、その本がベストセラーとなり一世を風靡した。
そして「佳人之奇遇」の内容は、当時の政治小説の内容としては驚くべき内容となっている。
同時にこの小説で柴四郎は、「アラブの運命」に大いなる関心を寄せている稀有な日本人であることを示した。
内容は、自身の体験と歴史的事実が織り交ぜながら語られている。
前半、会津の遺臣である人物がアメリカにわたりフィラデルフィアで、アイルランドやスペインの高貴な女性とめぐりあって交流し、後には中国の明朝の遺臣もそのサークルに加わり交友を築いていく姿が描かれる。
いずれも亡国の憂いを抱き、権利の回復運動に進もうとしており、ハンガリーのコシュートが亡国の代表として実名で各編に登場している。
後半では、エジプトの指導者アラビ・パシャの運動やスーダンのマハディの反乱なども取り上げられるなど世界的「民衆史」への共感がみられる。
この小説の白眉は、明治政府の農商務大臣となっていた谷干城が、通訳(柴四郎)と共に1886年の欧州視察旅行の途中に、イギリスによってセイロン島に流刑となっていたアラビ・パシャを訪れた話である。
二人はパシャからエジプトがイギリスによって植民地されていく過程を涙を流さんばかりの気持ちで聞いていることである。
これは作り話ではなく、史実に基づくものである。
アラビ・パシャは、エジプトの民族運動指導者で、西欧列強の内政干渉に抵抗し武装蜂起し、一旦はイギリスに破れその支配下におかれるものの、後の独立運動に影響を与えた「伝説の人物」である。
柴四郎は、アラビ・パシャとセイロンで「邂逅」するという「奇偶」を体験したのである。
さらに柴四郎は、谷干城農商大臣の通訳としてエジプトを訪れ、1899年にエジプト民衆の立場から「近世埃及(エジプト)史」という大著を著しているのである。
日本人の手になるはじめての「エジプト史」であるが、東海散士こと柴四郎は、なぜそれほど熱心にエジプトを描いたのか。
柴四郎は自ら賊軍であり会津藩士として塗炭の苦しみを味わった人物であったことも大きいであろう。
柴四郎は「会津の運命」と世界次元で見た「日本の運命」を重ねていたのかもしれない。
それは日本が大国の圧迫により植民地化されることへの日本人に対する「警告」を発した内容のものであった。
「近世埃及(エジプト)史」において、小国が大国に依存した状態では民族的解放ができないこと、小国の国民は国を守る気力を持たなければならないこと、小国同士が手を取り合って協力すべきことが説かれている。
政治家としては、1892年(明治25年)以降福島県選出(進歩党・憲政本党)の衆議院議員として活躍し、八回も当選している。
農商務次官・外務参政官などを歴任し、条約改正反対運動に尽力した。
日本が日露戦争で勝利したことは、大国の圧迫に脅威を抱いてきたアジアや中東諸国を大いにはげました。そしてエジプトも例外ではなかった。
また、戦後の日本の発展にも目を見張り、日本の成功を自国の中に取り込むという動きも起こった。
すでに新渡戸稲造の「武士道」は英語に翻訳されていたが、さらにアラブ語に翻訳されてそのエッセンスがエジプトの陸軍学校の教科書としても使われたという。
また、エジプトのナセル大統領は、彼自身が起草した1962年に制定されたエジプト国民憲章に、世界でただひとつ日本に触れた箇所があるのだという。
「エジプトがその眠りから醒めた時に、近代日本は進歩をめざして歩み始めた。日本が成功裡に着実な発展の道を歩み続けたのとは対照的に、個人的な覚醒運動は阻害され、悲しむべき損失としての後退をもたらしたのであった」と。
1965年の「ツタンカーメン秘宝展」では門外不出といわれた黄金のマスク、金張りのベッドなどを含む秘宝45点の公開となり、上野の東京国立博物館のまわりに七回り半の行列ができた。
東京、京都、福岡の三会場を合わせると入場者は300万にのぼったという。
この実現困難と思われた「ツタンカーメン秘宝展」を日本で開くことに最終的に決断したのは、日本から多くを学ぼうとしていたナセル大統領であった。

さてエジプトと日本人の接点といえば、「ファラオの呪い」に関して思い出すことがある。
タイタニック号の沈没がしばしば「ファラオの呪い」と関連付けて語られるのは、タイタニックにはエジプトのピラミッドから盗掘されたミイラが英博物館からニュ-ヨ-クに移送されていたからである。
そのミイラのお棺には「ピラミッドの墓荒らしには神が裁きを下すだろう」と彫られていた。
このミイラの所有者となった者は次々に原因不明の死に至り、このいわくつきのミイラを最終的に引き取ったのが大英博物館であったのだ。
このミイラは海に沈んだタイタニック号から引き上げられ、現在は、ふたたび大英博物館に収められているという。
ここまででは日本と「ファラオの呪い」とはいかなる関連もナイのだが、実はこのタイタニック号に乗り合わせた一人の日本人がいたのだ。
鉄道院在外研究員の細野正文という人物で、当時42歳であった。
彼こそは運命の「タイタニック」に乗り合わせた唯一の日本人なのである。
細野氏は、サウサンプトンから乗船し、事故の時には救命ボートに乗り込み救助された。
ただし日本に帰国した細野氏を待っていたのは、「歓迎」ではなく想像を超える「非難」であった。
多くの人々が亡くなっているのに細野氏はどうして救命ボートで救出されたのか、なぜ自分だけ助かったと周囲の者に責められる事となったという。
さらに日本の新聞は、細野氏を臆病者だと中傷した。
細野氏は鉄道院をクビになり、そして悲哀の中、1939年に亡くなっている。
細野氏の運命を見る限り、この「ファラオの呪い」は、生存者の「人生」をも喰いつくさずには収まらなかったかに見える。
ちなみにこの細野正文氏の孫が、元YMO(イエロ-・マジック・オ-ケストラ)の細野晴臣氏である。

チュニジアにおける今回の政変は、インターネットが大きな役割を演じたことから、「ツイッター革命」とも呼ばれている。「ツイッター」というコミュニケーションの技術革命ではなく、ツイッターが引き起こした「政権崩壊」という意味での「ツイッター革命」である。
デモ隊と治安当局との衝突の映像も動画配信サイトで流された。
その意味では、昨年日本でおきた海上保安官がネットに動画を流した「尖閣列島事件」を思い起こす。
もう一つの立役者が、アメリカの外交官の公電を公表したウィキリークスの影響も取沙汰されている。
その「政治腐敗」の情報が国民の怒りを強めたと言われている。
中東には、チュニジアやエジプトのような「長期独裁政権」は数多い。
チュニジアに触発されてエジプトやリビア、アルジェリア、ヨルダンなどで反政府デモが起き、一部の国では焼身自殺する若者も相次いでいるという。
インターネットの普及に伴って情報が予想を超える規模と速さで進み、国家のコントロールがきかくなってきている。
同じツイード(=「つぶやき」)でも、不倫への怒りをツイードして騒ぎになった国とはレベルが異なり、「国家転覆」にまで至っている。
チュニジア震源のエジプトでの暴動では、インターネットで結ばれた若い世代が中心に広がったものだという。
エジプトはインターネットの普及率は必ずしも高くはない。
インターネットを使うのは、高学歴の若者であり、失業率9パーセントを超えることに 不満が爆発したのが原因なのだという。
日本といえども「対岸の火事」ではすまないのではなかろうか。
ところで我が生まれ故郷近くの福岡県うきは市吉井町にある「珍敷塚古墳」の壁画には、エジプトの船と女官の絵が描かれている。
葦茂る川で水あそびをしているような絵である。
とすると、この古墳の「被葬者」とは、ダレでナンなのだろうとずっと不思議に思っている。
この壁画の存在をエジプト人は知っているのだろうか。似たような壁画は世界各地にあるのだろうか。
誰かに聞いて欲しい、「この胸のツブヤキ」を。