ものづくり大国(製造業篇)

円が「史上最高値」を更新するのがホボ確実な気配である。
一般には、円高は生産者(特に輸出関連業者)にとって厳しいものだが、生活者にとっては有難いものがあるといわれる。
第一に海外旅行に安くいける。が、自分が今後海外旅行にいくチャンスは何回あるのだろうか。
ブランド品が安く手に入る。が、サニーとマルキョーが「行きつけの店」の自分にとって、ブランド買いのメリットなんてそうはない。
結局、「円高」のメリットは、自分の生活にはあまり回ってコナイという結論に達した。
ところで最近、東京に行ってみて日本の気候は「亜熱帯」に移行しつつあるのを改めて思わせられたが、温帯ではあまり見られないような生物が見つかるようになったという。
円高と亜熱帯化はなんの関係もないが、「自然界の異変」と呼応するのような「経済の異変」という、既存の常識では理解しにくい「異変」が起きているという点では、共通している。
アメリカでは、瀬戸際の政治的調整で「デフォルト」(債務不履行) を回避したものの、国債の「格づけ」が下がり、先行きの不透明感がリスクを回避させ米国債が買われるに至り、かえって「値上がり」するという奇妙な現象が起きている。
そして日本は、そんな米国債であっても「売り」に出すことはできない。
政府がソレをやれば周囲もそれにならい「大暴落」すること必定で、格下げ債券といえども財務省は「持ち続け」なければならない「宿命」を担ってしまった。「地獄の底」までも、である。
一方、ヨーロッパのEU諸国では久しく「連鎖的」デフォルトの危機が解消されず、日本円が買われ、ユーロに対しても円高を続けている。
ヨーロッパでは、巨額の政府赤字の上に自然災害と放射能で追い討ちをかけられている日本円が買われるホドに不透明感が漂っているらしく、違う時代からみれば「冗談でしょう」の世界なのだ。
ヒョットして今、資本主義の経済システムの崩壊にさえツナガリかねない「事態」が生じているのではないか、と予感せぬでもない。

カール・マルクスの予言はあまリ当らなかったのだが、今の世界を説明するのに、マルクスがいった「物神崇拝」という言葉はピタリという感じがしている。
「宗教は麻薬」と説いたマルクスの発想には、どうしても「ユダヤ教」、もしくは「キリスト教的」なものを強烈に感じさせるものがある。
そして、日本で特に見られた傾向だが、「マルクス教条主義」という言葉に代表されるように、マルクスの言葉がまるで「経典」もしくは「宗教」の代替物であるかのような果たしたのは皮肉でもあっった。
その意味では、マルクス主義こそが「麻薬」であった。
マルクスの思想が価値の根拠を「労働」においた点は、現実の「説明力」としては実効性に欠けることは否定できないものの、価値を「単一の尺度」に還元したことや、歴史の発展法則を生産力と生産関係の矛盾といったような「単一の原理」に求めようとしたことが大きな魅力でもあった。
そして、そのマルクスのバックボーンこそが「唯一神」信仰であり、そこから発想され構築されている理論なのである。
また、マルクスは最終的に階級や国家さえ消滅する「共産主義」社会という理想の社会が実現すると説いたが、これもユダヤ教的な「神の国」の実現とのアナロジカルな発想といわざるをえない。
ところで、マルクスの言葉をある種の「予言」と捉えた時に、いまなお精彩を失わない言葉が先述の「物神崇拝」である。
アダム・スミス以来の古典派は、貨幣を「交換手段」としかみなかったが、JMケインズは貨幣を金融資産の一つとみなし、貨幣の「投機的動機」にもとずく保有つまり貨幣には独特の保有の「効用」があるとした点で、古典派とは一線を画するものであった。
ケインズの思想では、貨幣が「黒子」的存在から「準主役」までにオドリデタの感じだが、マルクスではある種「偶像」としてフルマウとした。
マルクスのこうした「物神崇拝」という発想がどこからきたのかといえば、(個人的推測)では、旧約聖書にみられる「バアル神」信仰から来ているように思えて仕方がない。
古代イスラエルにおいて、モーセはシナイ山に登り「十戒」をうけるが、山に登ったまま帰ってこないモーセに不安を覚えた民衆は、いつしか「金の子牛像」を作り崇めたことが書いてある。
十戒が刻まれた石板を携えてフモトに戻ったモーセは、民衆の姿に怒り心頭に達しその石板を彼らに投げつけたところ、地が割れて民衆がノミコマレていったという話がある。
マルクスの「物神崇拝」すなわち、モノを神として崇めることには、こうした旧約聖書のエピソードが下敷きになっているに違いない。
つまり、今日の様々な金融技術を生み出したユダヤ人に、本当に 崇めるべき神を忘れて、古代のフェニキア人などの異邦人が信仰していた「金の子牛」を崇拝する姿とオーバーラップしてくる。
ところで今日、世界の最富裕層はなぜこうまで貪欲に金を集めようとしているのだろう。
ソノ集めた金をナンに使おうというのか、世界中を混乱に陥れてまでも金を儲けて、一体どんな幸せをもたらすのか、と問われても彼ら自身にも答えられないかもしれない。
あえていえば、彼らは「金の子牛」ならぬ「金という偶像」に仕えている存在なのかもしれない。

「円高」に話を戻せば、日本経済は戦後「円高」でますます強くなったといって過言ではない。
単純な経済理論に反し、円が高くても輸出量は減らなかった。ムシロ通貨高の分「黒字額」は増えたといっていいかもしれない。
それを支えたのは、「物づくり」スピリットである。
それは、小型宇宙探査機「はやぶさ」をちゃんとミッションを果たして地球に帰還させた部品を精巧に創り上げた「町工場」の技術などに代表されるものである。
戦後すぐの1ドル=360円の時代から今日の1ドル=76円台までも上昇した円は、「4倍強」も高くなったということである。
かつて1ドルで売れた商品が4ドルの高値でしか売れないので、それを売って利益を出すためには大変な効率化と合理化と技術革新を必要とした。
日本はそれでも貿易収支において「黒字」を出し続けたのである。
あまりに対米黒字を出すので世界的なドル不安の原因となり、絶えず「円高」への圧力がカケ続けられてきた。
1985年のプラザ合意では1ドル=220円から1ドル=150円にまで一挙に円高になったために、モハヤコレマデと思われたが、そこからの合理化努力も凄まじく「黒字」を出し続けた。
日本は貿易収支の面で、1973年の第一次石油ショック以外、貿易収支はズット黒字であったのである。
そして通貨圧力(切り上げ)をサホドうけずに「肥え太った」中国とは違って、高水準の技術のを磨いてきたのである。
そしてこのたびの東北大地震で明らかになったことは、日本人の冷静な態度ばかりではなく、世界中の先端産業分野では、日本の高品質の中間材や資本財なくしてはナリタタナイということである。
つまりは、日本製品の「代替」がきかないことが明らかになった。
最近、テレビでコマツの建設機械の紹介をやっているのを見たが、コマツの建機にはGPSが判らないところにとりつけてあり、たとえ盗難にあったとしてもすぐに、場所がわかってしまう。
古くなったシャベルの交換時期も、建機に内蔵されたセンサーが自動的に判断し、それを日本のコマツ本社に伝えるのである。
驚くべきことに、本社の大画面には大きな世界地図が書いてあり、その地図上に稼動している建機の位置その他の情報がスベテ表示されているのだ。
こういうハイテクと頑丈さを兼ね備えた建機は、たとえ中国の建機が半額であろうと、売れに売れるのである。
こういう点こそが日本が世界に「誇り得るもの」で、それを死守していくことが一番大切なものであると思う。なぜなら日本人の(縄文時代以来の)アイデンティティの一端がそこに表れているからだ。

円高・ドル安といった「通貨」の交換比率は、純正な生産技術つまり「生産コスト」を反映して形成されるものではない。
資本の流出入つまり金利水準が通貨の交換比率である「外国為替相場」に大きな影響を与える。
または、日本が過去に外国で投資や融資をした資金に対する配当や金利収入の総額から、外国から日本に投資をした場合のソレラを差し引いた「所得収支」が占める割合が大きい。
特に今のようにアル国に対してヘッジファンドの大規模な資金流入があれば「バブル」が生じ、それが法人税率を引き下げるなど少しでも魅力がある国が出れば、一斉に資金が引き揚げられ、政府の債務危機を生じさせるパターンが常態化している。
今回の日本の「円高」もヨソの国の債務不履行危機の逃げ場として「円」が買われるとことになって、日本の物ツクリを支える中小の企業群の経営環境はますます厳しくしているということだ。
そして従来、石にカジリついてもでも技術革新と合理化で「円高」をハネカエシテきた中小の企業群に、グローバリゼーションの大きなウネリは、ついには安い労働力と安い土地を求めて海外に出て行く方向を「与えて」しまったかのようである。
個々の企業の経営の大変さを知らない者が勝手なことをいうなといわれそうだが、大企業の海外移転は「国内雇用面」で大きなマイナスとなるのだが、「物つくり」企業群の海外移転は、日本人のアイデンティの一部を喪失させるようなものに思えて仕方がない。
グローバリゼーションとは、「柔道」が「JUDO」によって変質したように、またお寿司をコーラと一緒に食べる人がいるように、物つくりの日本的伝統を海外にそのまま伝えるのは難しい。
かつてNHKの番組「プロジェクトX」で、日本の石組・職人が、ポルポト派によって破壊されつくしたアンコールワットの修復をおこなうために派遣された話が紹介されていた。
職人は、石のスキマに紙一枚さえ通らないほどの技能と意識の高さを現地人に教育しようとしたのだが、それはなかなか困難なものであった。
原子力停止による電力供給不足やエネルギー・コスト上昇は、ますます物つくり企業の海外移転の度合いを高めていくといわざるをえない。
こうした工場の海外移転は、日本人独特の「物つくり」に対する高いい意識の喪失に繋がりかねない上に、以下に述べるようなアメリカやイギリスで起きていることがソノママ日本にも到来するを予感させる。

今、イギリス各地で暴動が起きている。工場の海外移転による雇用の縮小すなわち失業の不満が大きな原因である。
ツィッターによる暴動日時の「呼びかけ」があり、市民の「政治討論」を予定した広場が各地にあり、人々はそこに集まってくる。
「金融立国」という時にアメリカを思い浮かべるが、実はイギリスもサッチャー政権の時に、モノつくり主体をヤメかつて「世界の工場」の栄誉を完全に放棄したのである。
今日のような「暴動」の頻発に対して、政府が強圧的弾圧で対処しようとするならば、「議会制民主主義の国」という歴史的栄誉さえも、放棄せざるをえないところにまできている。
当時サッチャー首相は、国内企業をどんなに保護しても国際競争力に達しない製造業に見切りをつけた低金利でマネーを借りて、何倍ものレバレッジを使った投資を行い自己資本に対する利益率を高めることを行った。
この方式は、経済が上向きの時すなわち収益が金利負担に優る限り大もうけできるが、収益がマイナスになるや「借金地獄」がはじまることになる。
サッチャーはそれを知った上で大規模な金融緩和(ビッグバン)を行ったが、シティを外国の金融機関に開放した結果、イギリスの老舗金融機関は、ほとんど外国の金融機関に買収される結果となった。
結局、イギリスはシティという場所だけ貸して、主役の座はアメリカやスイスの銀行に奪われる結果になった。
ちょうどウインブルトン・テニスにはイギリスの選手がほとんど登場しないのと同じような事態が、マネーゲームの世界でも起きることになったのである。
ところが、リーマンショックやらソブリンショックでイギリスの金融機関は大きな損出をだし、経営に苦しんでいるかと思いきや、大手の銀行は「国有化」されたり、政府から損失補填されたりしてプラスの収益を出しているのだから、それが国民生活へのシワヨセをもたらすのは当たり前のことである。
また日本の国債と違ってイギリス国債(ソブリン国債)を保有しているのは、外国人であるからイツ投売りが始まってもおかしくはない。
今、イギリスのポンドはユーロどころではなく、世界のあらゆる通貨に対して値を下げ続けている。
同じユーロ圏でもギリシア、アイスランド、アイルランド、イタリア、スペイン、ポルトガルといった同じく「デフォルト危機」に見舞われている国は、もともと貧しい国であったので、バブルで多少の夢を見たで済まされる部分がある。
しかし、イギリス国民は相変わらず高福祉と既得権益にシガミツクかつての「イギリス病」体質はほとんど解消されてはいない。
これから、イギリスの目を覆わんばかりの「小国化」は避けられない可能性が高い。
結局、アメリカのデフォルト危機とほぼ同時期に伝わってくるイギリスの若者の暴動は、製造業から「金融立国への転換」という点で共通している。
てっとりばやく高い収益を得られるという魅力に抗しきれず、地道な研究と開発を必要とする「物つくり」の努力を放棄したということが似通っている。
そして、同じテツを踏もうとしているのが今の日本ではないだろうか。
ところで、アメリカでも貧困層はサブプライムでの後遺症から立ち直れていないのにソレホド暴動が起きないのはナゼという気がするが、アル論者によれば、アメリカは車社会であるために「一箇所」に集まることは渋滞等を引き起こすために、物理的に難しいという指摘があった。
たしかに1960年代の伝説のライブであるウッドストックの会場周辺では車の大渋滞を引き起こし、日常生活に大きな支障をもたらしたということもあった。

産業の外国への移転は、「安い労働力」を求めるという意味では経済の法則に反するものではない。
しかし国内にとどまって技術革新で低コストの高品質の製品を開発していこうという誘因を弱める結果になることは間違いない。
しかしこの問題は、国内に於ける都会から地方への「工場移転」を考えてみてもアテハマルことである。
かつてオランダがイギリスに覇権を奪われた時代の状況は、まさにソレであった。
当時のオランダの没落については様々な見方があるが、都会から農村への工場移転であり、結局今の工場の「海外移転」とマッタク同じ論理である。
オランダ国内で同じ工程で同じ製品を作るならば少しでも労働コストのかからない田舎に引っ越した方がよい。
そこでオランダの製造業経営者は我先に田舎に工場を移転させたのであるが、それはある意味では「禁断の実」を食べるようなものであった。
基礎研究から技術開発そして製造過程の確立まで新製品の開発はとても時間がかかるものであり、それも失敗するか成功するかもわからないものである。
だから手早く収益を上げるためには、今いるとことにとどまって技術開発に取り組むよりも、少しでも経費のかからないところに移転した方が確実というわけだ。
こんなことばかり考え始めると誰も真剣に「技術開発」に取り組まなくなるということである。
そういうことから産業革命がおきたイギリスに大きく遅れをとり、「世界の工場」の地位はイギリスが享受するようになったのである。
一方日本は、「ジャパンシンドローム」という戦争以外での人口の急激な縮小で、傾斜の激しい少子高齢化がすすむ。
そして、製造業の海外移転の可能性は高く、雇用の確保がママならぬ若年層に高齢者の負担が重くノシかってくることになる。
死守すべきは、「ものつくり」のスピリットであり、その「ものつくり」は、広い範囲での農業への参加も含む。
ハイテク化された農業は、新しいコミュニティつくりの「核」ともなっていける。
日本人が伝統的にもっていた物つくりスピリットが、世界の換えがたき「付加価値の高い」物つくり担当として生かせれば、暗い未来バカリとはいえないでしょう。