エリーゼの為に

ドイツ・フランクフルトでの女子サッカーワールドカップで、「なでしこ」が世界一となり、喜びに沸いた。
日本サッカーの歴史を変える出来事であったが、その7月18日の前日「なでしこの快挙」に隠れるように一人の「サッカー人」が世を去った。
サッカーの元日本代表で日本代表監督も務めた森孝慈(もり・たかじ)氏がガンのため亡くなったのだ。
現役時代は正確な技術と鋭い読みを併せ持ったMFで日本リーグのスターだった。
日本代表選手としては東京、メキシコ五輪に出場し1968年メキシコ五輪ではストッパーに転向し、釜本邦茂、杉山隆らとともに「銅メダル」を獲得した。
1979~80年西ドイツにコーチ研修留学し、日本代表コーチを経て、1981年日本代表監督に就任している。
85年には日本代表監督としてW杯メキシコ大会アジア最終予選で本大会出場まで「あと一歩」に迫った。
また、Jリーグでは浦和レッズの創設に尽力し、92年に初代監督を務めた。
その後98年アビスパ福岡などの監督を務めた後に、サッカー殿堂入りした大功労者であった。
ところで森氏が亡くなったのは、東京五輪でアルゼンチンから勝利を挙げた駒沢競技場のすぐ隣にある病院だった。
森孝慈の死亡記事に目がいったのは、森氏が我が地元のアビスパ福岡の監督であったからというダケではない。
また、メキシコオリンピックで輝かしき「銅メダル」をとった時のメンバーであっからというワケでもない。 ドイツと日本とのサッカ-をめぐる「不思議な因縁」の登場人物の一人であったからである。
私がその「不思議な因縁」を知ったのは、ドイツでワールドカップが開催された2006年、広島にいった時のことである。

日本のサッカーの歴史を考える上で、ドイツ人とのあまりにも深い関係を忘れてはならない。
日本サッカー協会は、1960年にドイツ人コーチをまねいた。
なぜイギリス人ではなくドイツ人だったかというのは、伊藤博文が憲法を学びに行った先が、なぜドイツだったのかに少し似た問題かもしれない。
おそらく「組織性」や「協調性」が強い点でドイツ人と日本人とに共通点が多いと思われたからだと思われる。
また、第一次世界大戦でドイツ人捕虜からサッカー技術を学んだ歴史も関係しているかもしれない。
当時西ドイツから招いたデットマール・クラマー氏は、1960年~64年まで日本代表を指導した人物で、「日本サッカーの父」と呼ばれている。
クラマ-氏は、日本人と寝食を共にして理解を深めようとした。
この辺は、トルシェ元監督などとだいぶ違うが、元・サガン鳥栖・松本監督も、東京オリンピック代表候補選手として、クラマーの指導をうけた一人である。
その基本は実にシンプルで、次の3つだった。
Look before (前もって見る、前もって考える)
Meet the ball (最短距離を走ってボールをもらいに行く)
Pass and go (パスを出したら、すぐに空いたスペースに行く。
クラマ-氏は、この基本を繰り返し繰り返し日本人選手にタタキこんだという。
当時の日本選手の中でリフティングを10回以上できる選手はたった一人しかいなかったという。
それでも、東京オリンピックではあのアルゼンチンを破り「ベスト8」、メキシコオリンピックでは「銅メダル」をとるという快挙(奇跡?)をなしとげた。
それはクラマー氏が徹底して教え込んだ基本によるものが大きい。
ところで銅メダルの「森孝慈」の名前を始めて知ったのは、広島の宇品港から瀬戸内に浮かぶ小島・似島(にのしま)にわたるフェリーの中であった。
そのパンフレットには森孝慈の父親である森芳磨氏が、この小島に「似島学園」を設立した「経緯」が書いてあった。
広島の宇品港からわずか8キロのところに浮かぶ似島は近年、「平和学習」の拠点として注目を集めている。
第一次世界大戦中、日本軍に青島を攻撃されて捕虜となったドイツ兵723名はこの似島の収容所に送られた。
そのドイツ人捕虜の中には高度なサッカー技術を持つものが少なからずいて、広島高師(現・広島大学)の学生達がサッカーを習いに宇品港から船で20分のこの島を訪れたのである。
そして1919年広島高師とドイツ人捕虜との間で試合も行われた。日本人はつま先でボールを蹴ることしか出来なかったのに対し、ドイツ人はヒールパスなども使い日本人を翻弄した。
広島高師は、0-5、0-6で敗れたのだが、ともあれこれが日本サッカー初の国際試合となったのである。
この時、チームの主将だった田中敬孝氏はじめ広島高師の学生達がサッカーを習いに宇品港から船でこの島を足しげく訪れるようになった。
そして、サッカーを学んだ日本人学生の多くが「教師」になったことには大きな意味があった。
サッカーは明治時代にイギリス人によってすでに伝えられていたが、本格的な技術は「似島発」で全国に普及する。
例えば、似島でドイツ人にサッカーを学んだ田中敬孝は1920年広島高等師範学校を卒業後、母校広島一中の教師に赴任し、サッカー部を指導した。
同年、広島一中は神戸高商主催の大会に出場、3年連続で決勝に進出し1921年と22年に優勝した。
また、ドイツ人からサッカーを教わったことが評判となり指導依頼が届き、広島市内の学校だけではなく、姫路師範や御影師範や*神戸一中やなど関西の学校にも指導して周り、関西のサッカーレベル向上に貢献したという。
(*神戸一中にコーチとして招かれた河本春雄が、この稿の後半の主人公である)
また、田中氏の教え子として元マツダ社長で東洋工業サッカー部(現サンフレッチェ広島)創設者の山崎芳樹や、元三菱自動車工業会長で三菱重工業サッカー部(現浦和レッズ)創設者の岡野良定などがいる。
ところで、ドイツ似島イレブンの一人であるフーゴ・クライバーは本国に帰国した後プロ・サッカ-・チ-ムを立ち上げている。
彼が作ったクラブは、「バンバイルSV」といいい現在は会員700人を数えている。
後の浦和レッズやアビスパ福岡の監督を勤めたギド・ブッフバルトは少年時代にこのチームで8年間プレイしていたという。
ギド・ブッフバルトは、大柄な選手の多いドイツ代表においてもヒトキワ屈強な選手で、ディフェンダーとして活躍した。
1990年のイタリア大会の決勝戦ではアルゼンチンのディエゴ・マラドーナを「完封」し、西ドイツの3度目の優勝に貢献した選手である。
ドイツクラブチームを引退後に来日し、Jリーグ・浦和レッズで1994年から97年の3年半の間プレーした。
浦和レッズではディフェンスの要として活躍し、「ゲルマン魂」をそのまま体現する闘志むき出しのプレイスタイルはチームに大きな刺激を与え、それまで弱小クラブだった浦和レッズのレベルを一気に高めた。
ところで、似島には安芸小富士とよばれる海抜300メ-トルほどの山があり、この山に登ったドイツ人捕虜達も、波静かな瀬戸内の風景に望郷の念をかられたであろう。
この山に登る途中、「いのちの塔」と出会った。似島は、瀬戸内のウララカサとは対照的に日本人にとっても重い歴史を刻んでいる。
日清戦争の時には日本人帰還兵の検疫所となり、太平洋戦争末期には原爆被災者の多くがこの島に送られた。
戦後、広島県庁の職員であった森芳磨氏は、街にあふれていた戦災孤児のため施設・「似島学園」をこの島につくった。
この学園の場所こそドイツ人捕虜収容所があったあたりで、この学園にもドイツ兵の高度なサ-カ-技術が伝えられた。似島中学校のサッカークラブはしばらく「県下一」の実力を誇ったのである。
森芳磨氏の子供である森健二・孝慈兄弟もこの学園に学びサッカ-に励んだ。
後にギド・ブッフバルトが、森孝慈が創立に関わった浦和レッズの監督やアビスパ福岡の監督になったのも、因縁を感じさせるところである。
森孝慈の兄の健二氏もサッカ-界に寄与し、Jリ-グの専務理事に就任している。

ドイツ人捕虜達が似島で日本人に伝えたのは、サッカーばかりではなく、ホットドッグやバームクーヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは現在原爆ド-ムとして知られる「広島物産陳列館」で紹介され一般に知られることになった。
特に捕虜の一人カール・ユーハイムは、クリスマスにドイツケーキを焼き、解放後も日本に残ってバームクーヘンの店を神戸三宮に開き、今日までその店は発展し続けている。
ところで、カール・ユーハイムはサッカーに縁があったわけではないが、一人の日本の「サッカー人」がユーハイムの事業を引き継ぐことになる。
カール・ユーハイムは、1908年、中国・山東省青島のドイツ菓子の店で働いていた。
ドイツの軍港であったこの地は、第1次世界大戦中、イギリスと同盟していた日本軍が1914年に占領し、カール・ユーハイムは1915年から「似島」の捕虜収容所で暮らすことになる。
1919年のドイツ降伏で自由となった彼は、東京・銀座で働き、やがて横浜で妻の名を冠した「E・ユーハイム」という店を持ったが、1923年の関東大震災に遭い、着の身着のままで神戸へやってきた。
そして、神戸・三宮にケーキと喫茶店(ユーハイム・コンフェクショナリ・アンド・カフェ)を出して成功した。
この店と「不思議な因縁」で結ばれたのが、「神戸一中」サッカー部の部長であった河本春男である。
河本氏は1910年愛知県に生まれで、刈谷中学校でサッカー部に入り3年時には全国大会で優勝した。
県立刈谷中学(現・刈谷高校)初代の羽生隆校長の「英国のイートン・カレッジに範を取る校風を」という理想から、野球王国・愛知県では珍しく「フットボール」を校技としていた為、河本氏も自然にその校風にナジミ、サッカーを始めた。
河本氏は、刈谷中学卒業後1928年には東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学した。
東京高等師範はその前身の「体操伝習所」(1878年設立)以来、日本サッカーの「草分け」としてすでに50年の歴史があった。
ちなみに日本のサッカーの始まりは、1873年、東京・築地の海軍兵学寮へ指導に来ていたイギリス海軍のダグラス少佐とその部下33人の軍人が、訓練の余暇にプレーしたということなっている。
実際に一般社会へ広まっていくのは体操伝習所の教科の一つに「フットボール」が加えられてからである。
ここでサッカーを覚えた卒業生が各地の学校で指導して、日本でのサッカーの普及が進んだ。
河本氏は、1924年の東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の創立メンバーでもあったが、1年生で東京高師のレギュラーとなった。
右のウイングFWとしてのクロスの精度を上げるために1日100本もの練習を続け、リンパ腺が腫れ高熱を発するほどの練習ぶりだったという。
1932年高師を卒業し、神戸一中の校長の要望によって神戸へ赴任した。
神戸一中の校長は、刈谷中学がかつて「神戸一中」(神戸高校)を倒した時のキャプテン河本氏に早くから目をつけており、わざわざ東京へ出向いて東京高師側に強く要請して獲得したのだという。
しかしこの「神戸への赴任」が、河本氏の「第二の人生」を決定付けようとは、この時誰も予想だにしなかったにちがいない。
神戸一中はで小柄な選手が多いチームだったが、河本部長の下でその特性の素早さを生かして体格の不利を補い、数々の栄冠を獲得することになった。
そして、その手腕と情熱は、単に旧制中学の強チームや優秀な選手を生み出しただけでなく、OBの力を結集して、独自の技術、戦術のコンセプトを持ち、高いレベルを維持する集団としての学校スポーツクラブをつくりあげていった。
河本氏が神戸での7年の指導期間で日本サッカー界に与えた影響は、彼の母校・東京高等師範が世に送り出した多くの優れた教育者、スポーツ指導者のなかでも、ヒトキワ輝くものだったといえる。
しかし、その河本氏とサッカーとの関わりを断ち切ったのは、「戦争」だった。
河本氏は1939年に神戸一中から岡山女子師範に転勤したが、戦局の悪化とともに軍隊に入り中国大陸へ渡った。
さらに復員して岐阜県庁で勤めた後大戦終結を迎え、1947年に「体育主事」を退職して岐阜県高山の実家に近い牧場からバターを思い出深き神戸の菓子メーカーに売る商売をはじめ、「アルプスバター社」を設立した。
この時、神戸一中でのサッカー指導時代から23年もの月日が過ぎていた。
一方、ドイツ菓子のメーカーで神戸・三宮に店を出していた「ユーハイム」は、ハイカラ神戸の象徴でもあり、ステータスともなっていた。
しかし、その店が第2次大戦以来さまざまな難事が重なって、夫亡き後に会社を引き継いだエリーゼ・ユーハイムが「実権」を失うかどうかというところまできていた。
そんな時アルプスバター神戸直売所をつくり、ユーハイムに納めていたのが、河本春男であった。
そしてカール・ユーハイムのエリーゼ夫人から河本氏に会社を引き継いでくれないかという話が持ち上がったのである。
会社の経営状態は極めて厳しく、普通なら引き受けられるはずはないのだが、エリーゼ夫人の熱意に押しだされたカタチである。
1971年エリーゼ・ユーハイム社長死去の後、河本氏は同社社長に正式に就任した。
そして、河本新社長の下でユーハイムの再建がはかられたが、そこには河本氏がにサッカーで培った「一歩先んじ、一刻を早く」という神戸一中の「出足論」であった。
また河本氏は、選手の心をつかみ、OBたちの気持ちを一つにまとめた誠意と気配りが底流にあった。
さらに河本氏の長男・武専務(当時)の案で、ユーハイムは1976年フランクフルトのゲーテハウスにケーキの店と日本料理店を出している。
河本氏は1985年に経営を長男に任せ、自身は会長に退いた。
河本武社長は東京ディズニーランドのスポンサー企業となり、フランスのペルティ社と契約し、ドイツにも2、3号店をオープンさせるなど次々に布石を打ち、ともすれば保守に傾く老舗体質のなか、常に改革を図ってきた。

森孝慈、ギドブックバルト、河本春男など、日本サッカーの歴史を飾った人々には、人の世の出会いの不思議をつくづく思わせられるものがある。
そしてこのたびの「なでしこ」のワールドカップ優勝もそうした土台の上に築かれたものだと思う。
ところで、年末恒例のベートーベンの「第九」は、徳島坂東でドイツ人捕虜によって日本で始めて演奏されたが、一昨日(7月19日)のNHKで「上を向いて歩こうの誕生」の特集をやっていた。
作曲家中村八大は福岡明善高校出身で早稲田大学に進学し、渡辺晋(ナベプロ社長)に音楽の才をみいだされ、「上を向いて歩こう」や「こんにちは赤ちゃん」を作曲した。
中村八大は、幼き日父親の仕事の都合で中国・青島で育ったのがだが、そこでピアノを教えてくれたのが立場上は日本の敵であったドイツ人だった。
今「上をむいて歩こう」は、東北の被災地で数多く流されている。
ちなみに「エリーゼのために」はベートーベンが結婚を約束した人の為に書いたピアノ曲だが、小沢征爾氏が小学校時代、人前で最初に弾いた曲が、この曲だったそうだ。
そして日本にも「エリーゼの為に」がんばった一人の「サッカー人」がいたということ、そして我々がおいしいバームクヘンが食べられるのも、その「サッカー人」のお蔭であったということを、忘れないで欲しい。