道の文化

日本人は言霊信仰というのがあって、不吉なことを言葉に出したり、考えたりすることはしないようにつとめている。
「最悪の事態」は口の端に出すことさえ許されない。そういう「無意識領域」の信仰が、災害対策を「万全」にする上で「障害」となる。
何しろ「無意識」の信仰なので、どんなに「理性主義」を自認する日本人でも、この領域に相当浸っているとみなしてよい。
また、「情報」が正しい「現実」を伝えていない、ということにもなる。
言霊信仰によれば、できるだけ「都合のいいこと」「希望的観測」をいった方がよいことになる。
その最たる例が、戦時中の「大本営発表」であろう。
欧米には、人間が発した言葉に霊力が働くといったほどの「言葉」に対する感性はない。
それは日本人独自のものであり、日本人は「言葉の力」(=言霊)を知っていたからこそ、世界「最短」の詩つまり「俳句」や「短歌」の文化を生んだのではないか、と思う。
しかし、どんなに「希望的信仰」の領域であっても「完全」とか「絶対」ということは、口にしないほうがいいのかもしれない、という「畏れ」もある。
日本人の中には、一方でそうした「完全志向」を抑制すかのように働く、「文化」もあるようにも思う。

林業の世界で、たくさんの樹を伐採するとき、なぜか魚のオコゼを捧げるのだそうだ。
現代において「林業」を営む人々の仕事内容と、魚の「オコゼ」とを結びつけるのは、大変奇妙なことであろう。
タイやヒラメならまだしも、なぜオコゼなのか。
その答えは、オコゼは顔が見にくいので「森の神様」を怒らせ(嫉妬させ)ないのだという。
和歌山県の「熊野古道物語」に、「山の神」の話が伝わっている。
尾鷲市の矢浜は、東が青い松が生い茂り、砂の白い国市浜で、「海の神様」がときどき手下の「魚族」を連れて散歩を楽しんでいた。
また矢浜は田畑が多い村で、上地・下地・野田地の三地区には、それぞれ「田の神」がいて地区の田畑を守っていた。
十一月の稲の収穫がすむと、田に用がなくなるので、「田の神」は山へ帰って「山の神」になる。
だから矢浜では農耕者達が、それぞれ二月七日に「田の神」としての山の神を祭り、同じ神社を十一月七日には林業者たちが「山の神」として祭りをした。
あるとき海の神と山の神とが、矢浜村でばったりと会い、お互いに手下の自慢話になり、手下が何種類いるかという「争い」になった。
「海の神」は、タイ、ヒラメ、アジなどを呼び寄せ、「山の神」はキツネ、タヌキ、クマなどの手下をかり集め、お互いに種類の数を確認しあったところ同数であった。
この勝負あわや「引き分け」になろうとした時、海からオコゼが一匹はい上がってきた。
それで勝負は「海の神」の勝ちとなったが、それ以来「山の神」はオコゼを恨むようになった。
現代において、矢浜の「山の神」の祭りには、当人がオコゼを一匹ふところに入れて参列する。
もう一人の当人が神扉を開くと、袖口からオコゼの頭をチラリと出し「ちょつと山の神にオコゼをお見せ申す」といい、そのとき当人はじめ氏子一同がアハハと「大笑い」することになっている。
この大笑いはオコゼの姿があまりにも醜いので、あれは魚の種類に入りませんよと、「山の神」をなぐさめるのだそうだ。
こういう話を元に現代の林業において、「オコゼ」を捧げる習慣がある地域があるのだという。

林業の町・尾鷲に残る「オコゼ」話から、ヨ-ロッパ中世のどこかの国の話を思い浮かべた。
戦に勝利した凱旋軍をむかえる町の人々が、兵士達を徹底的に笑いものにし、虚仮(コケ)にするそうである。
人々は戦士達に、思いつく限りの罵詈雑言を口々に浴びせかけるのである。
戦士たちは、「憲法違反だ」と批判されて「肩身がせまい思い」をするどころではなく、文字どおり「馬鹿」にされるのである。
それでは国を守る意欲も失せよう、どころか怒りバクハツになりそうだが、兵士達は満足げに凱旋するのである。
いったいこの「珍風景」をなんと説明したらいいのだろう。
それは、戦士たちを「讃える」あまり、神様が嫉妬しないように、そうするのだそうだ。
ではキリスト教の神様はそれほど「狭量」なのかといいたくなるが、この神様とは「守護聖人」のタグイである。
ヨーロッパのキリスト教は「習合宗教」なので、在来土着の神々をキリスト教の「聖人」に仕立て直して祀り、「守護聖人」としたのである。
ヨーロッパの都市には必ず「守護聖人」といわれるものが存在している。
しかしながら聖書には、「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を”ねたみ”と言って、ねたむ神だからである」という言葉もある。
しかし「怒る神」「荒ぶる神」というのは、超越神(=唯一神)の性格としてもよく理解できるが、「ねたむ」とは、あまりに人間的すぎないかと思ったりする。
しかし、神はそれほどに「人間」に対する強い気持ちがあるということと、人間が「唯一神」をいとも簡単にはなれ、「偶像崇拝」にハシリやすいことを示しているように思う。
人類は「神の怒り」に対しそれを宥めるため、香をたいたり燔祭を捧げたりして、その儀式の様式そのものが民族の固有の文化を形成したといってもいい。
聖書によれば、神が最も「嫌う」ことは、人が「神になる」「神のごとく」崇められるということである。
人間が「楽園」を追放されたのも、善悪を知る木を食べ「神のごとく」になったからである。
世界の指導者として一時期「神のごとく崇められた」人々、または「神になろうとした」人々の「偶像破壊」が、「この世」においてサエどんなに徹底して行われるかということは、世界の歴史が教えるところである。
ましてあの世では、その偶像のカケラさえも木っ端微塵に吹っ飛んでいることでしょう。
神は、「ねたむ神」だからである。
結局、神が最も嫌う「不浄」なものは、人間に栄光が帰せられることである。
逆に、人間の最も「潔い」生き方とは、「神に栄光を帰す」ということである。
新約聖書の中でイエスは、自分達こそが「神に近い」と民衆を蔑んでいるパリサイ人や律法学者に対し、「互いに誉れを受けながら、 ただひとりの神からの誉れを求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。」(ヨハネ5章44節)とも語っている。

最近、栃木県日光に「逆柱」(さかばしら)というものがあるのを知った。
「逆柱」というのは、日光の東照宮などの建築物に見られる、わざと「逆さ」に立てた柱のことである。
どうしてわざわざ逆さに立てるかというと、 あまり完璧な建築物を「人間ごとき」が建てると、神の不興を買うから、完璧すぎないように、わざとアラを作っておく、というものである。
人間にも「美人薄命」という言葉があるが、競馬の世界では、圧倒的な勝利を収めた馬は「馬の神様」の嫉妬を買うのか短命だと、「強すぎた名馬たち」( 渡辺敬一郎著)という本に書いてある。
才能ある馬は短い「栄光」の直後に世を去るので、遺伝子を残さず、その速さ、強さは語り草にはなっても、やがてその名は時代とともに忘れ去られていくサダメなのだそうだ。
結局本当に才能ある馬で、「遺伝的」意味合いにおいて「歴史的名馬」になるものはほとんどないという。
日本の文化には、古来より「欠けたモノ」を尊ぶ傾向がある。
清少納言は“月は満月よりも、幾分欠けているほうが風情がある”と書いていたし、兼好法師も“螺鈿(らでん)は少し剥げ落ちたところに風情がある”といって、「不完全の美」を愛した。
日本の劇である「歌舞伎」も、物語の全体を完結させる劇ではなく、ある劇のハイライトの部分だけを「切りとって」展開させるのである。
ちょうど義経と弁慶の不破関での一場面「勧進帳」がその典型であろう。
絵画において西欧の絵は、「一神教」という宗教の態様がモノいうのか、構図が「一点」に集中するかのような絵が多い。
特に建築物においては、シンメトリーの構造がほとんどである。
では、これに対して「多神教」の世界では構図の焦点が多数あるのかといわれると、わからない。
構図の話はよくわからないが、日本の絵画などは、特に装飾画において、自然の「一断面」「一瞬間」を切り取った感じのものが多いように思う。
このように、日本人は、「完全」さを目指して精進する気持ちがあるはずなのに、そうでない部分に惹かれるとは、どういうことなのだろう。
日本人の文化には「道」の文化がある。
日本人は常に終わりなき「道」に憧れてきた。茶道、華道、剣道、柔道という場合の道である。
日本人は何でも道にしたがり、掃除道からホスト道までもある。
日本人は常に終わりなき「道」に憧れてきた。
「○○道」は、けして到達することのない「完璧」を目指すものだ。
これらも日本人独自のもので、道という時に、道徳性や規範性があり、同時に「手本」があるにもかかわらず、永久にマスターすることがない。
しかも、利益も名声も「ともなわない」というのが、あるべき「道」なのである。
実際に、人間国宝や文化勲章をもらう人々のなかに、「道に励むうちに」ますます自分の「未熟さ」を知るようになったという言葉がある。
ある有名な陶芸家は、若き日に「君の作品には、窓がない」と師匠にいわれて、我に帰ったという。
窓がないとは、「見る人が入り込む余地がない」という意味だが、「アソビがない」という言葉にも通じるだろう。
小説でいえば「すべてを書き尽くす」というのではなく、「行間」を読ませるように書く、ということだろう。
日本人は、「完全」にいたるマエでヤメておく「引き際」をよく知っていたのかもしれない。
「完全」は、そこから広がる可能性を、つまり「想像する自由」を締め出す結果になり、かえって面白くない。
東北出身の作家である高橋克彦は、ある本で故郷にある岩手山の魅力を書いている。
氏によれば「岩手山撮影ポイント」が数か所あり、その魅力は「完璧じゃないところ」と答えた。
稜線の片方はきれいで、片方がギザギザになっている形が、人の生き方を思わせる。
富士山のような対称形やおわん型の完全な山だったら「きれいだな」で終わり、生き方を学ぶことはない。
岩手山には不完全な美しさがあり、不完全ゆえに、更に上を目指す気になれる」という。
岩手山は、氏にとってエネルギーを与えてくれる父親みたいな存在で、岩手山と二人三脚だったからこそココマデこれた気がすると書いている。
ところで、高橋克彦氏のデビュー作は、「写楽殺人事件」だが、東洲斎写楽の役者絵は、日本が江戸時代にはじめてパリの万国博へ参加した時に、当時のフランスの画家たちの眼にふれ、大変な影響を与えた。
マネ、モネ、ドガといった印象派の人達に驚きをもって見られた絵である。
この絵は、日本文化の特質をよく物語っているように思う。
この絵を見たとき、役者としての顔の見事な表現に比べ、「手の描き方」がなにかチグハグな感じを受ける。
しかし、ここに完全に形の整った手が描かれていたら、この絵のもつ雰囲気の面白さが出ないのかもしれない。
しかしこの絵は味わい深いというよりも、「謎」をさえ秘めているかに思える。
そうであるがゆえに、「写楽殺人事件」のようなミステリーが書かれるのである。

この世に「完全」さを追求し、それが可能であるもの、またはこの世の「カオス」を整除してくれるもの、といった場合に「数学的真理」を思い浮かべる。
「数学的に証明された」ことについては、どんなに年月が経とうと決して反論されることもなければ、科学的真理のように、よりすぐれた理論に取って代わられることもないからである。
数学を基盤にして証明を積み重ねていけば、いつかは「世界のすべての問題を解決するひとつの理論体系」つまり「真理」に到達できるのではないかと信じられていた時期もあった。
そして、1930年頃、数学界の巨匠ヒルベルトは「数学理論には矛盾は一切無く、どんな問題でも真偽の判定が可能であること」を完全に証明しようと、全数学者に一致協力するように呼びかけた。
これは「ヒルベルトプログラム」と呼ばれ、数学の論理的な完成を目指す一大プロジェクトとして、当時世界中から注目を集めた。
そこへ、若きゲーテルという数学者が「数学理論は不完全であり、決して完全にはなりえないこと」を数学的に証明してしまったのである。
ゲーデルの「不完全性定理」とは以下のようなものだった。
「第一不完全性原理」は、ある矛盾の無い理論体系の中に、 肯定も否定もできない証明不可能な命題が、必ず存在するということ。
肯定も否定もできない命題とは、誰もが理屈ぬきで認める真理であるから、当たり前すぎてかえってこれを証明する事が不可能な「公理」をさす。
ところが、負の数や虚数などが出てくると、「誰もが当たり前だと思うこと」が非常に怪しくなってきた。
(高校の時、数学が「公理」から始まっていることに「うさん臭さ」を感じましたから、よくわかります)
そこで、20世紀初頭にヒルベルトなどの学者が、「公理というのは単なる基本ルールである。それが現実的かどうかは関係ない」とした。
とにかく公理系を認めてしまい、それを採用すれば何が言えるかということを考えるのが現代の数学であるということだ。
となると数学もまた「約束ごとの束」でしかなく、人間が「認識」のフレームをはずしてしまえば、「カオス」でしかないということである。
「第二不完全性原理」は、 ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことを、その理論体系の中で証明できないというものである。
典型的には、「私は正直者だ」という命題で、自分自身について真偽を確かめようとするときに起きる「自己言及のパラドックス」といわれているものである。
この「不完全性原理」は、論理的に突き詰めていけば、どんな問題についても真偽の判定ができ、それを積み重ねていけば、いつかは真理に辿り着けると信じていた人々に大きな衝撃を与え、「ゲーデルショック」とよばれた。

このたびの大津波では、「世界最大の防波堤」を津波がいとも簡単に越えて行った。
釜石の人々は、この「世界最大」の堤防という「うたい文句」に安心しきっていたのかもしれない。
「絶対安全」だという心理のうちに、いわゆる「モラル・ハザード」起きてしまったのだ。
日本の文化では「不吉」なことをヘタにいうとそれが実現するので言わないようにしているが、逆に「万全」や「完璧」とかいうことから「隔て」を置くのも、日本人の文化であるように思う。
それが、完全を目指したとしても、「完全」に至ったとすることをヨシとしない、「道の文化」である。