父子鷹

「父子鷹」(おやこだか)とは、父親とその子が共に優れていることの喩えで、その出所は1956年に刊行された勝小吉・麟太郎(=海舟)父子を描いた子母沢寛の小説の「題名」による。
普通は「父子とんび」で、期待はしても父子共々「鳴かず飛ばず」というのがごく一般的な姿である。
父子が「両翼」で鷹のごとく飛翔するようなソンナ親子像というのは、一般的な家庭ではなかなかアリソウモない。
1994年に日本テレビ系で放送された、「父子鷹」(おやこだか)は、市川染五郎・松本幸四郎という「実の父子」が演じたらしいが、歌舞伎のように「お家芸」として極めようとする世界では、そういうことがあるのかもしれない。
子母沢寛の「父子鷹」では、御家人・勝家の養子小吉は豪放磊落な剣の達人であったが、兄の出奔により御番入りが決まった日に無茶な接待を強要され、同僚を誤って殺害してしまった。
それで生涯無役となったが、貧しくとも面倒見よく、町人たちから慕われつつツマシイ暮らしをおくる。
勝燐太郎はその小吉の長男として生まれ、夢を絶たれた小吉にすれば、長男・燐太郎に自然に夢を託す事になる。
実際に向上心の強い麟太郎は、長ずるにつれ文武に才能を示すようになる。
そして父親によるあのツテ・このツテの努力が実り、さらにはそのイケメンぶりが加点されたか、燐太郎は徳川十二代将軍・家慶の五男・初之丞(後の一橋慶昌)の目にとまり、「小姓」としてとりたててもらう事に成功した。
実際に「この採用」は、日本の歴史にとって、トテツモナク重大な意味をもつことになるのだ。
しかしそんな意気軒昂な燐太郎だったが、ある日とてもチェリッシュな部分を犬に咬まれてしまう。
小吉が連絡を受けて駆けつけた時には、すでに一人の医者がいたが、この医者をすぐにヤブと判断し自宅に連れて帰って、別の医者を呼んで緊急手術をさせた。
縫合手術は無事成功したものの、燐太郎は熱に浮かされ命さえ危ぶまれる状態が続いた。
小吉は昼夜を問わず一人で息子の世話をして、必死の看病および近所の御堂参りの甲斐あって、燐太郎は命も助かり、無事御殿勤めに復帰する。
しかし一橋慶昌が15歳という若さで亡くなってしまい、勝燐太郎世の前途に暗雲が立ち込め、小吉も息子の出世した姿を見る事なくこの世を去る。
ところで勝海舟といえば、坂本龍馬が切り殺しにやってきたところを、欧米文化の高さや内戦の愚かさを諄々と説き、坂本は勝に感化されその場で弟子入り志願をしたことで有名である。
それほど「豪胆」な人物であったが、生涯「犬」に対するトラウマは深く残り、暗闇を歩く時は刺客よりも犬を警戒していたという。
つまり「犬燐の仲」だった。
かように原作の「父子鷹」のドラマは、単に立派な父親と優秀な息子がイタだけではなく、下町を舞台として勝親子の夢を共にした清冽な「父子愛」が感動をよぶ物語であった。
そういう意味では、スポーツの世界の室伏父子、イチロー父子、浜口父娘などが、わかりやすい例かもしれない。

近々の話題では、世界選手権で金メダルをとった室伏父子が再注目されているが、十五年も前にNHKで放映された室伏父子二人だけの「練習風景」には忘れ難いものがあった。
森の中に設置された投擲場で室伏広治選手が黙々とハンマー投げに励み、その姿をじっと見つめる父・重信選手があった。
実は室伏選手は、幼少よりハンマー投げの英才教育をうけ、高校時代には次々と記録を塗り替えていったが、大学時代にナゼカ記録が伸びず、高校時代の記録にサエ届かなかったのだという。
記録は必ず伸びるものだと信じていた室伏氏にとって初めて味わう挫折感だったかもしれない。
そしてその時の練習風景は、順調元気な練習風景ではなく、そういう「焦燥」の中での練習風景だった。
そこで、自ら「フォーム」や「力のバランス」を修正する必要があるのだが、どこに問題点があるのかナカナカ掴めないようであった。
そのカンどころはけして人に教えられるものではなく、自ら「掴み取る」他はないのだ、というようなことを、ナレーターが語っていたように記憶している。
そして父子は技術的な話は一切するでなく、ハンマーを投げる息子とそれを見つめる父だけの、森の中の時間が過ぎていくだけであった。
同じ状況が何週間も続くのだが、室伏選手が「聞ける状態」にある時を見計らって、父は言葉が溢れるようにアドバイスをするのが印象的であった。
これは、けして室伏選手が父親のアドバイスを聞かないという意味ではない。
室伏選手が「聞ける状態」にナルというのは、広治選手が父が語るアドバイスが一番「心に届く」時をヒタスラ待つのだという。
その「忍耐力」というものに敬服させられた。
ところで室伏選手には、様々な「伝説」が残っていて、生まれて初めて話した言葉は「ハンマー」だったとか、おしゃぶりの代わりにハンマーをナメていたとかという「作り話」もある。
もっとも、イチローの歯ブラシはバットだったという伝説よりもマシだが。
しかし、ボーリング場でノーバウンドでピンに当てることに挑戦していて、店員におこられたという話は、アリソウな話である。
そして絶対に本当の話というのは、高校時代に初体験の「槍投げ」で国体2位になった時の話である。
室伏選手は高校3年生時、「べにばな国体」のやり投で68m16を投げ2位になり、槍投の千葉県高校記録をつくった。
実はこの大会に出るまで、槍投の経験はほとんどなくなく、友人であった今芸能人である照英に適当にコツを教えてもらい、当日駐車場で小石を投げて練習をした程度だったっという。
この時昭栄氏は、室伏選手の記録にあまりのショックで槍投げやめたという。
  室伏選手は4才の時からハンマー投げの大会に出場しているが、スポーツ万能で様々な競技で優勝をさらっている。
ちなみに100メートル走でも10秒10をきる「瞬発力」の持ち主なのだそうだ。
投げる方では、2004年11月12日の日米野球の始球式でや2005年4月5日のプロ野球巨人横浜巨人戦でも始球式を行った。
とても野球のフォームとはいえない不適切な「ハンマー投法」で130キロ以上の急速を計測しているし、ほぼストライクをなげたのがスゴイ。
また格闘技の大ファンで、「還暦」を過ぎたらやってみたいと語っているという。
彼の論文「ハンマー頭部の加速についてのバイオメカニクス的考察」は、、恒星間飛行の基本技術に使われているという。
ちなみに現在、浅田真央も学ぶ中京大学の教官である。
さて室伏氏の父親は、「アジアの鉄人」といわれた室伏重信氏で、現在は中京大授の名誉教授である。
オリンピック代表4回・日本選手権10連覇・アジア大会5連覇などの数々の「金字塔」を打ち立てた。
指導者としても卓越した手腕を発揮され、息子以外にも、たくさんの名選手を世に送り出している。
1984年にマークした75m96の日本記録は1998年、実の息子である室伏広治に破られたが、現在でも日本歴代2位にあたる。
この父親が「すごい」のは、日本記録を最後に更新したのが39歳の時であったことである。
体力の衰えをカバーするかのように、30代半ばを過ぎたあたりから「技術改良」を行い、次々に「記録」を塗り替え続けたことは、「驚異」という言葉以外には出てこない。
ところで室伏広治選手は、女性ファンの押しかけ対策に宿舎を「秘密」にしなければならないほど「ビジュアリティ」に優れているが、実の母親がルーマニア出身の「やり投げ」選手だったことが大きい。
現在は、父・重信氏と離婚されて名古屋市内に「お住まい」なのだという。
少し前には、父子鷹として「イチロー父子」がよくテレビに紹介されていたが、チチロー(鈴木宣之)の方は髪型同様にその存在感はすっかり「薄く」なってしまった。
というか「無くなった」というほうが適切かもしれないが、このイチロー父子も様々な「伝説」に色どられている。
チチロー氏は東海高校の外野手で愛知県大会ベスト4まで進んでいる。芝浦工業大学に進んだが、野球選手としての関わりソコマデであった。
イチローが3歳の時に、はじめておもちゃのバットとボールを持たせたら、その日から寝る時も離さなくなったほど「野球好き」な子どもだったという。
小学3年生で地元のスポーツ少年団に入ったが、当時は日曜日しか練習がなく、イチローが平日も父親と野球したいと言い出して、毎日学校から帰って来てから暗くなるまでキャッチボールをしたという。
チチロー氏によれば、子どもが夢を見つける最初のきっかけは親が与えるもので、もしイチローがサッカーをやりたいと言っていたら、自分も一緒にボールを蹴っていたそうだ。
そのイチローといえどもどうしても見たいテレビがあって、野球道具を投げ捨てて家に帰ったことがある。
この時親子関係は険悪になったが、黙って子供の足をもんであげたりするうちに、親子の関係は改善した。
イチローは、小学校6年生では、「夢」という課題の作文の中で、はっきりと「将来は一流のプロ野球選手になりたい」と書いているが、こんなことは才能のない小学生にもアリガチのことである。
しかし、チチロー氏は息子がプロ野球選手になることを信じることができたそうだ。
とはいっても、いつも順風万帆というわけにはいかず、愛工大名電工高校に入学したての頃、練習試合に投手として出場し、散々打たれた後に「野球をやめたい」とモラシタたこともあった。
父は理由を一切聞かずに、自分でしっかりと考えなさいとだけ言って、「見守る」ことに徹したのだという。
イチローには「感謝」することを常に教えたが、二人で通ったバッティングセンターの社長が、イチローのために特別速いボールが出るマシンを用意してくれたこともあった。
イチローの優れた「動体視力」もこうして養われたし、親の教育の力というものを思わせられる。

ところで、室伏父子やイチロー父子は、父親が実質コーチまたはマネージャーとして身近にいて「頂点」を目指す、いわば「二人三脚」の戦いであった。
しかし、父から子へ「夢のバトン」が「いつしか」引き渡されてツイニ「二代かけて」夢が実現していくという別の形での「人間ドラマ」もある。
以前「プロジェクトX」で2回にわたって放送された「吉野ヶ里遺跡」の発掘に関わった親子のドラマは、そういう意味での「違う味わい」があった。
吉野ヶ里は、昔から畑を耕せば土器がでてくるというような土地であった。しかし、そこが古代の王国跡だとは誰も思ってはいなかった。
そうした中でただ一人、七田忠志(地元神崎高校の社会科教師)だけは違っていた。
「この地にかつて、壮麗な文化が花開いていた」という信念のもとに、毎週末コツコツと一人で発掘を続けていた。
この教師には複数の子供がいたが、1人の息子が子供らしい遊びもせず、この教師について歩き回った。
この高校教師は、1981年、遺跡の全貌を見届けることなく逝った。
その後この土地に産業団地がたてられる計画が持ち上がったが、息子は何の偶然かその「開発調査」の責任者となり、その遺跡の価値を訴えつづけ、守り続けようとした。
1986年、吉野ヶ里で巨大工業団地建設計画に伴う「開発調査」が開始された。
開発調査とは、建設区域に遺跡があるかどうか調査することを、「文化財保護法」によって義務付けたものであり、調査は工事をする側の責任において行う必要がある。
佐賀県庁文化課では吉野ヶ里発掘プロジェクトを立ち上げ、6名のメンバーで調査を開始したのだが、そのプロジェクトのリーダーとなったのが、幼き日に父・七田忠志教諭にくっついて歩いた七田忠昭氏であった。
「発掘」は順調に進み、七田忠昭氏は父と共に夢みた王国が具体的な姿を現してくるのに、日々興奮を抑えることをできなかった。
しかし、この調査はあくまでも「開発調査」であった。発掘が終わり次第遺跡は壊されてしまい、二度と再び人々の目に触れることはない。
遺跡の「開発調査」とは結局、その遺跡のタイムリミットを近づけているようなものだった。
現に、発掘現場周辺ではブルドーザーが準備活動を始めていたのである。
調査を終了した時点から、順次工業団地建設に向けて整地が始まっていくのである。
発掘を進めるうちに七田氏は確信するようになっていった。この遺跡は絶対に壊してはならない。そしてそれは「祈り」にも似た気持ちになっていった。
そこで、あらゆテダテを尽くして遺跡を破壊から守ろうとした。
そして一番の味方はマスコミの報道だったし、七田氏もそれを利用していったといえる。
この発掘がマスコミで報道されるにつれて、新聞には千年経っても色褪せない管玉の輝き、鮮やかな青色がカラーで国民に伝えられた。
しばらく前までは、地域開発の妨げのようにみなされてきた遺跡が、やがて地元の人々の誇りとなり、「遺跡保存の声」が高まっていった。
そして、コノコトこそが七田氏の父であった故七田忠志教諭が地元の人々に一番訴えたかったことだった。
そして、佐賀県知事・香月熊雄の最終的判断により、吉野ヶ里遺跡が「永久保存」されることになったのである。
遺跡は弥生時代を通して存在しており、「ムラ」から「クニ」への変遷の跡をたどることができる非常に貴重な遺跡であることがわかった。
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代後期に「環壕集落」の形態を最も整え最盛期を迎えたものと考えられている。
吉野ケ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」の吉野ヶ里を想定して復元整備を行っているが、魏志倭人伝のいう「クニ」を想定しているといってよいだろう。
そして、1991年5月に国の特別史跡に指定された。さらに、翌年の閣議決定により、国営公園(吉野ヶ里歴史公園)として国土交通省によって整備されることになった。
「プロジェクトX」を見て感動的だったことは、七尾父子の「古代の夢」が長い時間を経て引き継がれていったことである。
番組を見た時の記憶は薄れつつあるが、もうひとつ印象的だったことは、タイムリミットをすぎても、ブルドーザーの運転手がまったくの独自判断でブルドーザーを始動しようとはしなかったことであった。

ところで「理想の母親」というのは、なんとなくイメージできる。ところが理想の父親像となると、なかなか「焦点」を結ばない。
世の中には、父親を「反面教師」としたり、父親を「超える」ことによって成功したりする人がとても多いからかもしれない。
また「父親」に認められること(愛されること)を終生のテーマとして、生きてきた人々もいる。
脳裏をチラット横切るのは、新田次郎・藤原正彦父子、高森龍夫・梶原一騎父子、松岡功・修造父子などである。
こういう親子像は、「父子鷹」とは真逆のタイプだったようだ。