アイヅ・ユニバ-ス

会津は、戊辰戦争で最後まで徳川方として新政府軍と戦った藩、つまり賊軍である。
であるからしてそこに住む人々は、よく言えば一徹、悪くいえば頑迷で固陋というイメージがある。
1986年TV放映の「白虎隊」を描いた年末時代劇では、堀内孝雄「愛しき日々」が主題歌となり、いやがうえにも感動をもりあげた。
その中の「かたくなまでのひとすじの道」とか「不器用モノと笑いますか」「もう少し時が優しさをなげたなら」という小椋桂の作詞は、そのままが会津人の「生き方」としてコビリついてしまった。
昨今「ガラパゴス化」という言葉がはやっているが、当時の日本国内でガラパゴス化がしていたシマこそが、「会津盆地」ではなかったかと(失礼ながら)思ったりもする。
会津人の戊辰戦争後の生き方を見たとき、アメリカ商人に連れられカリフォルニアのゴ-ルドラッシュでわいた地に連れ行かれ、「若松コロニー」といわれる日本で最初の移民団として住んだ。
非公式の移民であったためにその存在さえも知る者はなかったのだが、在米日系人ジャーナリストにより会津出身の少女「おけいの墓」が発見され、「若松コロニー」の存在が明らかにされたのである。
そしてここに住んだ人は、その後離散し行方不明となっている。
また藩もろとも青森県斗南に(実質的に)流罪といった体験をし、塗炭の苦しみを味わいながらも痩せ地を開拓し、なんとか生き延びた人々でもあった。
しかしそういう会津から飛翔した人々に、今という閉塞した時代に多くの勇気を与えてくれる人々が多くいるのを発見した。
つまり、会津は「ガラパゴス」どころか、とても「ユニバーサル」なものを持ち合わせていた土地ではなかったかということである。

ますは、「白虎隊」がどれだけ世界に感動を与えたかということを語りたい。
「白虎隊」は、会津戦争に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。
城から上がる煙をみて落城と思った彼らは「もはやこれまで」と自刃して果てた。
いかに封建社会の出来事とはいえ、あまりに純粋無垢に死に急いだ彼らは、人々の涙を誘うものがある。
ところで世界ではじめてボーイスカウトを創始したのはイギリスのベーテン・パウエル卿であるが、その創立精神の中に会津の「白虎隊」の出来事が絡んでいることはあまり知られていない。
ベーデン=パウエル卿は、イギリス陸軍の軍人でインドや南アフリカの戦争で活躍した「英雄」である。
当時イギリスの青少年の自堕落な姿に大きな不安を感じたパウエル卿は、戦争で体験した自然の中での自発的な活動が青少年年の育成に大きな可能性を開くものであると確信した。
そして1907年にイギリスのブラウンシー島という無人島で20人の少年達と実験的なキャンプを行ない、その体験を元に「スカウティング・フォア・ボーイズ」という本を書いた。
この本に書かれた野外活動の素晴らしさは世界の人々の心をうち、またたくまに「ボーイスカウト運動」として世界に伝播していった。
そしてパウエル卿がボーイスカウトの宣伝のため各国を遊説したまたま東京を訪問していた時に「白虎隊」の話を聞きいたく感動したため、「会津白虎隊自刃の図」を贈られたというわけである。
そして「この精神こそがボーイスカウトの精神なり」と応え、帰国後にこの絵を拡大した油絵として自宅に飾ったという。
そして1920年に34ヶ国が参加したボーイスカウト第1回大会がロンドン郊外で開催された時、ボーイスカウトの精神に「日本の武士道精神」を取りいれたことを明らかにした。
実はパウエル卿は、故ダイアナ元妃の住んでいた宮殿のあるケンジントン公園の近く住んでいたのであるが、この公園はジェームズ=バリという人物が「ピータ-パン」の構想をえた場所としても有名である。
そういうわけでこの公園には「ピーターパン像」がたっているのだ。
パウエル卿は、ただ単にこの公園近くに住んでいるというだけではなく、自分の息子にピーターという名をつけるほどの「ピーターパン」の愛好者であった。
つまりベーデン=パウエル卿の心の中の永遠の「ピ-タ-パン」像と日本の「白虎隊」の若者達への畏敬の念が交錯して、「ボ-イスカウト精神」が生まれたのである。
ボ-イスカウトの精神は、パウエル卿を通じて世界各国に伝えられていたのだが、「白虎隊の話」で心を動かされたのは、このイギリス陸軍の英雄だけではなかった。
実は日本と当時友好関係にあったイタリアのムッソリーニもその一人であった。
そのことは、「白虎隊の自刃」で知られる飯盛山に建つ古代ローマ宮殿の石柱を象った記念碑が立っていることと関連がある。
ムッソリーニは、日本語をイタリアの学校で教えていた日本人と親交があるイタリア詩人を通じて、「武士道」や「白虎隊士」の話を聞く機会を得て、白虎隊の顕彰の為に「記念碑」を贈ってもよいという意向をもらしていた。
イタリアで日本語を教えていたという人物は、1883年福岡県士族の家に生まれた下井春吉なる人物である。
下位は東京外語大学イタリア語科に学び1915年、語学力を買われてイタリアのナポリにある国立東洋語学校の日本語教授として招かれていたのである。
しかし第二次世界大戦の戦局は日本・イタリア両国にとって悪化の一途をたどっために、記念碑の話には具体的な進展が見られず「沙汰止み」になってしまった。
しかし後に東京大学の学長となる会津出身の物理学者山川健次郎がこの話しを聞き、郷土会津の誇り「白虎隊」の墓所にイタリア記念碑を建てるという話を両国親善のために推し進めた。
そして古代ローマの碑が白虎隊士の眠る飯盛山に建てられることになったのである。

ところで、1900年の初夏、山東省に蜂起した義和団は清国に進出した西欧勢力とキリスト教徒を本土から追放しようと勢力を増し、それがために北京城の外国人たちの不安は高まった。
さて籠城することになった各国公使館はそれぞれ守備隊を編成し武官会議を開いた。
イギリス公使のマクドナルド(のち駐日大使)が全体の指揮をがとることになったが、軍人出身のマクドナルド公使は会津出身の軍人・柴五郎の才能を見抜き、五カ国の兵の指揮官に命じたのである。
そのうち、外国人たちも柴の能力を自然に認めるものがあり、作戦用兵の計画は柴五郎大佐の意見できまっていった。
柴大佐は英語・フランス語に堪能であり外国人武官に作戦をよく説明できたし、また連絡文もみずから書いたいう。
北京に籠城した人員は4千人以上であるが、義和団は何万という数にものぼっていた。
柴大佐はかつての諜報員であった面目躍如で、密使を使い天津の日本軍と連絡をとり、55日簡の北京籠城戦を持ちこたえた。
ところで列強それぞれの守備隊が組織されていたが、その中にロンドン・タイムス北京特派員のモリソンがいた。
オーストラリア人ジャーナリストG・E・モリソンは柴大佐を認め、二人は友人になる。
1963年の映画「北京の55日」はチャールトンヘストンがモリソンを演じ、伊丹十三が柴五郎を演じた。
しかし専門家によると、この映画は史実を忠実には描いていないということであった。
1902年、日英同盟が成立したが、同盟締結を推進したのは、駐日公使となっていたマグドナルドであった。
マグドナルドは義和団事変で柴大佐と戦火を共にし、その能力を大いに認めたという関係であった。
イギリスが日本と結んだのは、ロシアの極東進出を防ぐという点で利害が一致したからであるが、超大国イギリスがその長年の伝統である「光栄ある孤立」政策をすて、なおかつその相手がアジアの非白人小国・日本であるとは、いかにも思い切った決断である。
マクドナルドの胸の中に、柴大佐の像が「信頼するにたる日本人像」を形作っていたのかもしれない。
ころで 陸軍大将・柴五郎は、「ある明治人の記録」として自伝を書いている。
敗戦で会津藩士たちがたどった苦難の姿と、藩士たちの心情が切々と綴られている。
柴五郎は、1860年に会津藩士柴佐多蔵の五男に生まれた。8歳で藩校日新館へ入学し、戊辰戦争が勃発すると、新政府軍が城下へなだれ込む直前、母親の強い勧めで大叔母の家にいて、難を逃れた。
しかし、祖母・母・妹らは自邸で自決し、屋敷は消失してしまった。
柴は会津若松落城のときはわずか10歳であった。
会津藩は降伏し、城内にいた父と兄は東京へ送られ、翌年柴も東京へ護送された。
その後、土佐藩の公用人宅に学僕として住み込み、さらにその後旧会津藩の藩士らは下北半島の斗南へ流され、柴もそこへ行った。
北の冷涼でやせた大地で、藩士たちは飢餓のため、生死の境をさまよったという。
「挙藩流罪」とも言える敗者へのこの仕打ちに、父は「薩長の下郎武士どもに笑わるるぞ、生き抜け、ここは戦場なるぞ」と叱責したという。
柴は、藩の選抜で青森県庁の給仕となったのを機に上京、旧藩士らを頼りながら、陸軍幼年学校へ15歳で入学することができた。
ちなみに陸軍幼年学校で柴は秋山好古と同期である。
日清戦争後は台湾総督府の陸軍参謀、ロンドンの公使館付き陸軍武官を経て1898年に米西戦争の折にアメリカに行き秋山真之と一緒となっている。
つまり柴は、士官学校を経て、軍人としての頭角を表し、薩摩・長州の藩閥によって要職を独占されていた明治政府で、陸軍大将にまで昇ったのである。

賊軍であった会津出身者は、明治政府の中で出世することは考えられないことであり、柴五郎が陸軍大将になったというのは異例中の異例ということである。
したがって会津出身者といえば偉くなったとしても、捕虜収容所の所長ぐらいがせいぜいではなかったであろうか。
そんなことを思ったのは、会津出身の徳島坂東収容所長に松江豊寿なる人物がいたからである。
しかしながら松江の存在を見ると、会津魂が「開かれたもの」(ユニバーサル)であったことをよく表しているように思える。
徳島県坂東は、四国讃岐山脈の山裾に抱かれた穏やかな村である。四国霊場めぐりの一番札所である霊山寺があり、昔より心傷ついた者達を暖く受け入れてきた。
第一次世界大戦の時代の日本軍は中国青島で捕らえたドイツ人捕虜達を日本国内各地の捕虜収容所に送り込んだ。
1920年この坂東の村にドイツ人俘虜収容所がつくられた。
この収容所の所長は松江豊寿で、会津で生をうけたがゆえに、収容所長にして松江ほど敗者の側の気持ちを理解できるものはいなかったはずだ。
松江は次のようなことを言っている。
「我々は罪人を収容しているのではない。彼らもわずか5千あまりの兵で祖国のために戦ったのである。けして無礼にあつかってはならない。」
そして国際法にのとってドイツ兵を遇した。そして日独の驚くべき文化交流がうまれた。
坂東俘虜収容所には、兵舎・図書館・印刷所・製パン所、食肉加工場などが設置されまた収容所内部では新聞までが発行されていた。
また統合された収容所であったために楽団がいくつかあった。
ドイツ兵の外出もかなり自由に認められ、住民との交流の中、様々な技術や文化が伝えれれていった。また霊山寺境内や参道では物産展示会も行われた。
そして多くのドイツ人俘虜が日本敗戦後も日本にとどまり、化学工業・菓子つくり・ソ-セ-ジつくり等の分野で大きな足跡をのこしている。
彼らの多くにとって坂東での体験が宝となっていたからである。
エンゲルをリ-ダ-とする楽団で日本で始めてのべ-ト-ベンによる交響楽第九番が演奏されるのである。
エンゲル楽団の演奏会には、徳島の有志の人々も招待された。
その中には練習場として使った徳島市の立木写真館の人々もいた。
エンゲル楽団は日本を去っても「第九」は残り続け、大晦日に「第九」の合唱が響いていくようになっていくのである。

もともと会津は松平容保はじめ学問が盛んな地である。 藩を奪われ理想を失った藩士の中には、学問や教育の世界で名をなしたものが多くいたし、キリスト教に改宗するものが多くいた。
同志社の山本覚馬、明治学院の井深梶之助、津田英学塾を援助した山川捨松、フェリス女学校の若松賎子、東北学院の梶原長八郎、関東学院の坂田祐がそれにあたる。
明治の女子教育に生きた若松賎子の場合、彼女が翻訳した「小公子」が知られていったが、特に彼女の人生と重なり合うのは興味深いところである。
若松賎子は戊辰戦争後、父は行方不明(後に帰る)、母は病死して妹とともに戦争孤児となった時に、横浜の商人に養女にもらわれていった。
そこから通学したミス・ギルダーの学校が後にフェリス女学院となり、彼女はその第一回卒業生になる。
つまり彼女の原点は「戦争孤児」ということであった。
会津藩士の中で学問で名を成した代表者が、白虎隊士から東大総長となった山川健次郎である。
世間を賑わせた「千里眼事件」で千里眼女性に疑義を唱えたあの物理学者である。
山川健次郎の妹・咲子(捨松)は会津戦争の時8歳であったが、将来の夫となる人物が敵軍の中にいたというのは面白い。彼女は、大山巌元帥夫人となり、後に「鹿鳴館の華」とうたわれた。

ところで、現代日本のフラメンコの第一人者の長峰やす子も会津(福島県)出身である。
会津出身の長峰やす子が踊るのがジプシーの踊りフラメンコ、そしてフラメンコの代表が「カルメン」である。
長峰やす子は3歳の頃からモダンバレエを学び、19歳の時、スペイン舞踊に進んだ。
実はこの長峰をスペイン舞踏に導いたきっかけは、絵本の中に真っ赤なドレスを着た人形をみて憧れ、高校でカルメンの話を聞いてフラメンコの音楽を聞いたことにある。
1960年、在学中の青山学院を中退し、単身マドリッドに留学した。
血みどろの修行を経てスペイン最高峰といわれるタブラオ・コラル・デ・ラ・モレリアに日本人として初めて出演し絶賛を浴びた。
長峰はフラメンコと日本の古典芸能とを融合し 独自の創作舞踊の世界を築きあげてきた。
50人の僧侶による声明をバックに、人間の原罪と救済を追及した「曼陀羅」を上演し、ニューヨークで大反響を巻き起こしたのだ。
長峰にとってのこうした創作芸能の原点は戦争にある。しかしそれは戊辰戦争(会津戦争)ではなく、太平洋戦争が直接の体験である。
そして、死者を弔う「お経」というものの得体の知れない恐ろしさに魅せられ、「お経」をいつのまにか音楽としてとらえ体の中に染み付いたという。
長峰は両親にではなく祖母に育てられた。会津若松の冬は雪深く遊ぶものも一切無く、祖母より会津の昔話を聞いて育った。
祖母の昔話の中には戊辰戦争のなまなましい体験が織り込まれていた。
長峰は、カーネギーホールやNHKホールの舞台よりも、大地の上で裸足で踊ることが最高であるという。
その時自分が宇宙の一点となり、踊ることが「祈り」にも近くなっていくそうだ。
藩を失い 離散した会津と放浪のジプシーが重なり合う。
そして、会津若松に立ち昇る炎の燎原に、長峰やす子が裸足で舞う「カルメン」の映像が、一瞬脳裏を横切った。
そこに、ユニバース(「宇宙」)があった。