自然はバイブル

以前、テレビで、韓国の山中に天然の冷房機というべきものが紹介されていた。
夏の暑い最中に、不思議にも冷気がでてくる岩場があるのだ。
冬の間に閉じ込められた冷たい空気が、自然の幾つかの条件が重なることにより、夏になると解き放たれるらしい。
そのメカニズムや自然条件の解明はいまだ充分になされていないが、少なくとも長期間、「冷気」を閉じ込めるというメカニズムがポイントである。
その「自然の恵み」および「自然の不思議」を求めて、多くの人々がその岩場に集まるという。
この話を聞いた時、その「自然の条件」を人工的に大都会で実現できたら、エネルギーも使わずに「天然の冷房」ができるかもしれないと思った。
すなわち、人間が自然界の仕組みを模倣して「技術」として生かすということである。
しかし、最近(一昨日)こんな「天然の冷房機」なんぞ、大して驚くに値しないと思えるほどの、ある「事実」を知った。
今から40年ほども前に、「天然の原子炉」が発見されていたのだ。
しかもそうした「天然原子炉」の存在を、55年も前に予言していた日本人の大学教授がいたというのだ。
その事実を知った時、「原子力」への見方が「根本的」に変わった。
それまで、自然界の現象にないことを人工的に引き起こす「核分裂」を悪魔的な「技術」しかみていなかったからである。
悪魔的というのは、人間がけしてふれてはいけない、ふれたら自らを滅ぼす技術であるということだ。
地球上の自然界にその現象が「存在」するということは、人間がそれを「模倣」して技術化することは許される行為であるように思えたからである。
1956年、アメリカ・アンンカーソン州立大学の核地球化学者・黒田和夫はアメリカの地球物理学界で、一定の自然条件のもとで「天然の原子炉」が存在しうる可能性があることをはじめて提唱した。
科学者からすれば、大変な智恵をしぼって実現できたことを「自然」が為しうるとは、にわかには信じがたいことであった。
黒田氏がいう「自然条件」とは、古い鉱床の存在、高濃度ウランの大きなカタマリの存在、中性子を吸収しやすい元素が少ない、恒常的な水の存在などである。
そして黒田教授は驚くべきことに、世界初の原子炉をつくったフェルミの「中性子の四因子公式」をウラン鉱床に適用して、そういう「条件」がイツだったら可能であったかを計算し、「天然の原子炉」の可能性を予言したのである。
そして1972年に、そうした「天然原子炉」がアフリカで発見され、その「予言の正しさ」が立証されたのである。
「天然原子炉」が発見されたきっかけは、フランスのウラン濃縮工場に搬入された鉱石中の「ウラン235」の割合に異常に低いものが発見されたことによる。
自然界では「ウラン235」の割合は安定しているから「異常」だったのである。
天然ウランの中に「ウラン235」が0,72パーセント含まれていて、残りの大部分は「ウラン238」で、その割合はどこで採取しても同じだからである。
フランスの濃縮工場の鉱石のその後の追跡調査により、アフリカ大陸の赤道直下にあるガボン共和国のオクロ地方のウラン鉱床で、過去に自然に「核分裂」の連鎖反応が起こっていたことが判明したのである。
つまり、「天然の冷房機」どころではなく、「天然の原子炉」の存在が明らかにされたのだ。
1972年当時、この発見は新聞で「自然は世界最初の原子炉をつくりだした」として発表された。
そして調査がすすむにつれ、今から20億年もまえに、アフリカの地下深く、偶然の自然条件の重なりが、地下深くで「核分裂」を促進していたのである。
岩石の風化で堆積したウラン鉱床と水との「絶妙な」組み合わせが今日の「軽水炉」と同じ様に「臨界状態」に達していたのだ。
もちろん、こうした「天然の原子炉」の発見は「原子」に対する科学的知識の裏打ちがあってのことだ。
天然ウランはかならず一定の割合の「ウラン235」が存在することもそうだが、フェルミが「四因子公式」を導き出していなかったならば、「天然原子炉」の予言はできなかったかもしれないし、当然にその「発見」もなかったかもしれない。
前述のように「天然原子炉」発見の「直接のきっかけ」は、オクロ鉱山から出てくるウランのサンプルに含まれる「ウラン235」の割合にムラが存在していることで、「天然」(=自然)ではありえないことに気がついからである。
科学知識の土台の上に、「自然」の情報を読み込んだことが、「天然原子炉」の発見に繋がったといえよう。
フランスは1972年、国家予算を削りガボンでのウラン鉱山の探掘を中止してまで、この「事実の解明」に力をいれた。
そして化石化した「天然の原子炉」がなんと「16基」も存在し、制御棒もなく100万年もの間、安全にして安定して「動いて」いたことがわかった。
オクロの「天然原子炉」の材料組成は「軽水炉」に似ており、ウラン元素を核分裂させて核エネルギーを熱の形で放出させ、同時に中性子も放出させ、次の核分裂を可能にし「連鎖反応」が継続されていたのだ。
現代の「軽水炉」と同じように核分裂がおこり、プルトニウムなどの「超ウラン元素」もできていたという。
これだけでも自然の絶妙なワザといえるが、自然の連鎖反応が終わった後に、生まれてきた「放射性物質」を地下深く効果的に「閉じ」こめていたのである。
そもそも、制御棒もなくなぜ安全に安定して運転できたかというと、やはり「水」の役割が大きい。
岩の裂け目に水が染み込んで、水が減速材の役割を果たし、連鎖反応を起こしやすくしていた。
制御棒はなく水の「密度変化」で出力を調整していたのである。
核分裂の連鎖反応が大きく、反応熱がおおきくなり過ぎると水は蒸気となる。
そうすると中性子の「減速」が悪くなり、核分裂がおこりにくくなり、その結果熱の発生は小さくなり、蒸気は冷えて水に戻り再び核分裂が活発化するといったことを繰り返すのだそうだ。
科学の知識を欠いているのでよくは知らないが、自動車の「水冷エンジン」のようなことが起きているということではないだろうか。
その「運転」は十万年から百万年の間続き、「ウラン235」が核分裂の結果減少し、ついには停止したのだという。
さすがに自然は、「燃料交換」まではしなかった。
結局、原子力といえども、自然界の「模倣」にすぎないことを思った。
そして原子力に対する「抵抗感」が、こうした「原発危機」が叫ばれている時期にもかかわらず、ある程度ヌケおちた。
太陽エネルギーは、太陽で起きている「核反応」の結果生まれ、光の形で地球に達しているが、幸いなことに核反応に関連した物質はいずれも太陽に残され、エネルギーだけが地球に達している。
人間が原子力の開発でやっていることは、結局は「地上に太陽を」ということだが、数種類もの核生成物を生み出し、それがヨウ素やセシウムなどの人体のDNAを傷つけるもので「完全に」封じ込める技術が追求されてきてきたのだ。
旧約聖書の人類の始まりは「神はじめに光あれとのたもうた」であるが、地球は放射能とともに誕生したという。
いまでも微弱なる放射能と共存し、放射能を浴びながら生きている。誰かの「近く」にいくということは、厳密に言えばその人の放射能を「浴びる」ことなのだ。
テレビを見ていると、清水さんという心の美しい絵描きさんがいて、その人を慕う人達が「今日は清水浴をしてまいりました」として楽しげに語っていたが、実は森林浴どころではなく、「清水さん」の放射能も「被爆」していたことになる。
放射性物質に「カリウム」があるが、カリウムは人体に不可欠な元素で、体重1キログラムあたり、2グラム程度含まれているという。
そのうちの0.01パーセントが「カリウム40」で、我々が体内に蓄えている物質の代表である。
だから互いに近づけば、その「放射能」を微弱ながら浴びる、つまり「被爆」することになるのだ。

人類とエネルギーの関係を振り返ると、産業革命以前は、熱源や動力源となる「エネルギー源」は、薪や炭であり、森林を伐採してこれを供給してきた。
産業革命初期には、鉄鋼を生み出すために、工場は森を求めて転々としたという経過がある。
これがヨーロッパ全体に広がると、次々と森林は伐採され、熱源を生態系に求めることが限界に達しはじめた。
そこで、昔からその存在が知られていた地下資源である「石炭」が薪や炭にかわって使われるようになった。これはヨーロッパの環境保全に繋がり、森林が回復していくことになる。
さらに、石炭から石油に転じて環境も改善されたかに思いえたが、石油文明の進展が今度は「地球温暖化」という形で、人類の生存との関わる重大な問題となったことは、皮肉な結果である。
ところで炭鉱を掘り進んで行くうちに、地下水の処理が必要で人間や家畜を使役することになった。
しかし家畜のえさを確保するために、人間の食料用か家畜の食料用か、畑の選択が迫られるようになった。これを解決したのが蒸気機関で、蒸気機関は地下水の水を汲み上げるポンプの動力の開発からはじまったのである。
そして、改良が重ねられ、他に動力が必要とされていた汽車や汽船等の交通機関にその応用分野が広げられていったのである。
核分裂のエネルギーは、必要なエネルギーを取り出すのに、極めて少ない資源量ですみ、 出てくる廃棄物の量も少ないことである。
1938年オットー・ハーンにより、「ウラン235」のような核分裂性物質に中性子を照射すると、原子核が二つに分裂し大きなエネルギーを放出すると同時に、二ないし三個の中性子をあらたに放出すること。 この中性子により、他の核分性物質の核分裂反応がひきおこされる連鎖反応が生じることが見出された。
そして、1942年シカゴ大学のフェルミらによって世界最初の原子炉が臨界に達し、「制御可能な」核分裂連鎖反応が実現した。
しかしどんなに膨大なエネルギーを「効率的に」取り出すことが可能でも、最大の課題はエネルギーを取り出した後の廃棄物処理という「アフター」の方である。

原子炉にはいくつかのタイプがあるが、使用する減速材、炉心から熱を取り出す冷却材などによって区別されている。
日本では、世界でもっとも広く使われている米国で開発された「軽水炉」というタイプを使っている。
この原子炉は軽水(普通の水)が減速材と冷却材に兼用されているのが特徴で、燃料には「濃縮ウラン」を用いる。
前述のとうり、天然ウランでは「ウラン235」はわずか0,7パーセントだが軽水炉における原子力発電ではこれを5パーセントまでに濃縮したウランを使用する。
そして、この「濃縮」にはかなりの高い技術を要する。
10年ほど前に、茨城県の東海村の原子力発電所を視察し、原子炉の核心部分を「この目」で見たことがある。
一番印象に残ったことは、作業員が燃料棒にいれる5センチほどの「ペレット」というものをまるで長ネギでも刻むように(ゆっくりとしたスピード)できっている姿であった。
この長ネギのようなものこそ濃縮ウランの実体である。
ところで、軽水炉では、運転とともに「ウラン238」が中性子を吸収して「プルトニウム」がたまって行く。
このプルトニウムの一部は中性子を吸収して核分裂を起こし、「ウラン235」と同じようにエネルギーを生み出し原子力発電に参加していく。
日本の電力の3分の1が原子力で、さらにその3割がプルトニウムだから、日本の電力の1割がプルトニウム発電ということになる。
軽水炉でできたプルトニウムは、原子炉の中でそのまま全部燃えることはなく、燃えた量とほぼ同じ量のプルトニウムが「使用済みの燃料」の中に含まれることになる。
こうした使用済み燃料から再びエネルギーを取り出すのが「再処理」であり、具体的にはプルトニウムを酸化物にして、ウランと混ぜて「混合酸化物燃料」(MOX)として使う。
これがテレビ・新聞でしばしばいわれる「プルサーマル計画」である。
この「再処理工場」は、青森県六ヶ所村にある。
福島第一原発では、3号機がMOXを用いて運転されている。
プルトニウムは原爆で利用されたので、あまりにも抵抗を引き起こす言葉だが、現在軽水炉からでてくるプルトニウムは核物質として純粋なものではなく、多くの同位体やそれ以外の物質を含んでいる。
これが軽水炉の特徴であり、混合酸化物燃料(MOX)として利用することは、軍事利用の可能性を下げ、世界にプルトニウムの「平和利用」を宣言することでもある。

個人的な「思い込み」をあえていえば、「自然界におきない現象」を人工的に起こすことは「自然の営み」に反し「超危険」を意味する。
したがって、「原子力の利用」とは人間が「パンドラ」のフタをあけたかのような行為だと思っていたら、オクロの「天然原子炉」の存在を聞いて、「その考え」も少々変わった。
オクロ鉱山は自然のなせるワザであるが、そのスケールと性能は違っていても、人間の考える原子炉と「工学的」意味合いにおいて、根本的に同じものであるという。
つまり、人間の高度な技術も「自然」をバイブルにしているということだ。
放射線だって宇宙とともに誕生したので、これまた「異常」とばかりいうのはおかしい。
「ビッグバン」にはじまる宇宙は、放射線の中に生まれたといってもいい。
人類は、地球に出現して以来、放射線物質と共存し、放射線の中にいき続けているといっても過言ではない。
そしてレントゲンやベクレルによって、医療用などに開発され、使用されてきたのである。
世界の原子力政策は、一貫して放射性物質を閉じ込め、環境から隔離することにつとめて来た。
いまの東北地方の危機は、人間がどんなに努力しても、「自然災害」には勝てないことを教えられ、従来の原子力の「安全管理」の根本的な修正を迫られることはいうまでもない。
実は原子炉は、一種の放射能の消滅も行っている。この特徴をもっといかさねばならない。
放射性廃棄物は時間ともに、中性子との反応などにより、これを半減期の短い放射性物質に変換したり、放射性のない物質にすることも可能であり、こうした特長をいかに利用して「廃棄物処理」をすることが、問われているのだ。
ところで、ある動物番組で、宇宙服の開発にキリンの「体の構造」がヒントになったという話をきいた記憶がある。
キリンは、小さな心臓からあのような高い首と長い足に血液を送り込みさらに昇って全身に還流させている。考えてみれば実に不思議である。
彼らの足は常に急激な血圧がかかっているが、ここでも彼らには圧力に対抗する機構が備わっている。
彼らの足の表皮はすごく堅く、また足の筋肉もとても発達している。
これにより、彼らは足の外から内に向かう力をかけることができ、高い血圧によって血管が膨張しそうになっても抑え込むことができる。
従って彼らの足に必要以上の血液が流れ込むことはなく、元気にサバンナを駆け巡ることができる。
この方法は我々人間の世界でも注目を浴びており、何とあのNASAが宇宙飛行士の着る宇宙服に同じ機構を応用しているのだ。
このキリンの話に見るとうり、天然や自然の中にたくさん人間が学ぶことはたくさんあるのだ。
自然は、「もっとうまく、賢く、利用しろよ」と人間にいろんな形で「情報」を提供し続けているように思う。
どんなに原子力が危険でも、完全に廃棄することはあまり現実的ではない。
オクロ鉱山においては放射性物質は、人間のいかなる手も加えられることなく、「自然」に閉じ込められ、そこから移動していないという。
結局、人間が「叡智」をつくすということは、自然界の「叡智」を探り当てることと同時に、人間の「悪」の部分をも知り尽くすことだと思う。