流転と転生

広島・長崎で原爆平和記念式典が開かれているが、こういう式典を毎年やりながら、なんで日本は世界一というほどの「原発大国」になったのだろうか、と思わざるをえない。
それは、アメリカをバックに原子力の平和利用を訴えた読売新聞社長で巨人軍の創設者である正力松太郎の発言力が大きいとされている。
1954年、アメリカが世界に誇る世界初の原子力潜水艦の華々しい進水式が行われた。
この1ヵ月半後、ビキニ環礁における水爆実験で被爆した「第五福竜丸事件」が起き、日本が世界で最初の被爆国だけにとどまらず、水爆でも世界最初の被爆国となる。
日本全国で「原水爆反対平和運動」が大規模に起こり、日本における戦後最大の反米運動になった。
米の国防総省は、対ソ、対中戦略として、日本への核配備を急いでいたために、この事態を収束する手段として、狙いをつけたのが、読売新聞と日本テレビ放送網のトップの正力松太郎であった。
正力氏は、かくして岸内閣の下で原子力委員会の委員長などを務め、「原子力の父」とよばれた。
もっとも「プロ野球の父」「テレビの父」という称号の方がよく知られている。
この正力さんという人、私の知る限りでは「原子力」の平和転用ばかりではなく、とても「転用」が好きな人のように思える。
もともと警視庁の長官であるが、昭和天皇が皇太子時代に狙撃された事件、いわゆる「虎ノ門事件」の時の現場指揮官である。
責任をとって警視庁長官を辞任し、読売新聞社長におさまるが、何しろ読売新聞は左翼思想ではあるが優秀な記者も多く、警視庁長官として彼らの「プロフアイル」を知り尽くしていた立場から、読売新聞の経営を軌道にのせた。
つまり、自ら警察からマスコミ人へと「転身」し、左翼系の活動家を記者としてうまく「転用」したということができる。
またアメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し、「読売巨人軍」を創設したことはツトに知られている。
小田急線沿線に「よみうりランド」という親子連れで賑わうレジャー施設があるが、この公園内には様々な歴史遺産の一部が持ち込まれており、それらを「見世物」として「転用」しているのである。
我が地元との関連でいえば、江戸時代には各藩は「天下の台所」大阪に藩邸をもっていたのであるが、その大阪にあった黒田藩の藩邸の門が、この地に移されていた。
この黒田門を数年前に「よみうりランド」でみたが、なかなか重厚な門なのだが、ランド内の高級銭湯の「目隠し的」存在になってしまっているのには、少々閉口した。
ところで、軍事と平和の間では、原子力だけではく、様々な建造物や人間も「転用」される。
そこで思い浮かぶのは、神宮外苑で行われた「学徒出陣」である。
1943年10月21日、いまはJリーグサッカーで賑わう明治神宮外苑の国立競技場で若者75000人が終結する出来事があった。
あいにくの雨だったが、戦況の悪化に伴って、20歳以上の学生の兵役免除がとかれ、戦地に赴くことになった25000人の学生の出陣壮行会が行われたのである。
今、隣接する神宮球場も東京学生連盟が設立された年に完成したが、野球は敵性スポーツとして禁止されたが、各野球場も食料増産のための畑とか兵器工場に「転用」されていった。
つまり、あらゆるものが軍事目的に「転用」された時も、理工系を除いて学生自身も「兵士」として転用されることになったのである。
その出発式が神宮外苑で行われた「学徒出陣」でありその心の内の「叫び」と、今のJリーグファンの歓声との「質の隔たり」に、神宮外苑の「平和転生」という言葉は憚られるものがある。

朝日新聞の8月6日の朝刊に、核兵器が解体され長崎で「転生」しているオブジェがあるという記事があった。
核弾頭を搭載可能なロシア軍の弾道ミサイルや原子力潜水艦に使われていたステンレスが、被爆地・長崎で溶解処理され、平和を願う「卵型」のオブジェに生まれ変わったという。
核兵器の解体に取り組むNGOの依頼を、ヒバク2世が社長を務める鋳物メーカーの社長が引き受けたという。
卵は再生する平和のシンボルなのだという。
この記事を読みつつ、戦争中は逆に人間の生活の日常品までもが、軍事用の武器に「鋳直された」時代があったことを思い起こした。
戦争中には、「産業報国会」などが組織され、一般市民の中で献品運動というのが盛んとなり、家庭の鍋や釜までも戦時の軍事物資に変わっていった。 私は、甘木のある寺で、檀家によって軍に献納されたドイツ製・戦闘機の写真というものを見たことがある。
そして住職より当時の陸軍大臣からの感謝状を見せてもらった。
住職はその時、戦闘機を献納したのはうちの寺ぐらいでしょうと豪語されていたが、一人の女性の戦争体験を綴った「ガラスのうさぎ」という本を読むと、こういう献品運動が日本中で「競う」ように行われていたことがわかる。
そして寺が戦闘機を献納する形で戦争に協力したということは、それほど珍しいことではない、ということを知った。
戦争中は、人間が日常使うナベ・カマから、神社境内の狛犬の金属部分までもが武器になっていった。
日常品を集めて武器にするわけだから、これはもう「逆・刀狩」といえる。
そういえば、豊臣家滅亡への戦い・大阪の陣の原因となった「国家安康」の文字で有名な方広寺の鐘は、江戸時代には鋳潰されて「寛永通宝」として使われたのである。
聖なる寺の「梵鐘」が、俗にまみれた手垢いっぱいの「貨幣」に転じるなんて、なんでもアリかという気がする。
戦時と平時では、事物はかように「転生」するものなのだが、それは「人間」そのものにもあてはまることかもしれない。
この地球上の物質は人間を構成する元素も含めて様々なモノに「転生」しつつ存在することを思う。
自分が読んだ日本の小説の中で、大岡昇平の「野火」は相当なインパクトがあるもので、人間の命と地上の物質の「転生」のイメージを与えてくれるものであった。
と、同時に「魂」がぬけ人間は土に還るという意識が作家の根底にあるように思った。
この「野火」の冒頭は、人間の命がまるでボールのようにヤリトリされるくだりが何ともヤルセナイのだが、また一方で「神の視線」を意識したような、次のような文章もある。
「万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。樹々はさまざまな媚態を凝らして、私の視線を捕えようとしていた。雨滴を荷った草も、あるいは、私を迎えるように頭をもたげ、あるいは向うむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた」

私は、以前、福岡県の糸島半島のつけねにある港町・加布里の一軒の家を訪問した際に、額縁に飾ってあった「漁船の刺繍」をみつけた。
主人にその刺繍の由来をきいた時に、はじめて加布里の漁民達が共有した福洋丸事件という出来事を知った。
それは、広く捉えれば「戦争のオブジェ」といえるものであった。
1952年1月19日、韓国の李承晩大統領が国際法を無視するかたちで一方的に設定した水域境界線を「李承晩ライン」という。
それまでのマッカーサーラインよりも日本に近かったため日本側は抗議したが韓国側は受け付けず、域内に入る日本漁船を次々と拿捕し抑留した。
この時代は日韓基本条約(1965年)により日韓関係が正常化される前で、抑留された加布里漁民達は帰国の見込みもなく釜山の収容先で不安な日々を過ごすことになった。
そして収容所に収容された漁民達は、古い糸を拾い集めだれかれとなく刺繍を縫い始めたである。
漁民達は結局、不安な2年間以上の時を過ごした。老人はさらに、当時の記録をよく保存しているという別の御宅に連れて行ってくれた。
そこの老人は2時間ばかりの間、網の修理をしながら生き生きと当時の事件の様子を話してくださった。
そして、その御宅にもやはり額縁にはいった「バラの刺繍」がかかげてあったのである。
その老人の話の中で一番印象に残った事は、収容所で苦しみを共にした漁民達の絆はいまでも深いということであった。そして福洋丸の29人の乗組員の絆がそれぞれの「刺繍」に編み込まれているようにも見えた。
つまり、収容所で一人一人が編んだ刺繍は、漁民達の「結束の証」つまり「平和のシンボル」として転生していたのだ。
また、福洋丸ときて、ビキニ環礁で被爆した前述の「第五福竜丸」のことを思い出した。
数年前に、東京の夢の島にある福竜丸の展示館に行って、展示館前の浜辺に置かれている福竜丸のエンジンを見て、船体とは別の運命をたどったそのエンジンの数奇な運命を知った。
第五福竜丸は被爆後、1967年に廃船になったが、エンジンは別の人物に買い取られた。
その人物所有の「第三千代川丸」にとりつけられたが、その後、同船は1868年に三重県熊野灘沖で座礁・沈没しエンジンは海中に没した。
1996年12月、28年ぶりにエンジンが海中から引き揚げられ、東京都はエンジンの寄贈をうけ、第五福竜丸展示館に隣接するこの浜辺に展示した、というのである。
福竜丸のエンジンが失われることは、まるで「失われたア-ク」みたいなものである。人類の大切な遺産として、この第五福竜丸の展示された「夢の島」こそ、保存するのに最もふさわしい場所かもしれない。
第五福竜丸は、この夢の島で「平和のシンボル」として、流転・転生したのだ。

ところで、福岡ドームができる前の西鉄ライオンズのホームグランドは「平和台球場」で、マイ・アドレスに隣接する地名は、「平和」であり何で「平和」なのか、とずっとこの地名が気になっていた。
平和台球場についていえば、ソノ地が古代の迎賓館であった鴻臚館の存在が確認されたために、今は取り壊されて古代遺跡の展示場になっている。
このあたりは、戦争中に第12師団24連隊が置かれたとことで、あたりには練兵場があったことから、戦後は「平和」への祈願をこめてこの名前がつけられた。
つまり「平和転生」をここでもはかられたということである。
実は、全国各地には「平和」という地名があるそうで、その多くが第二次大戦後に新しく命名されたもののようだ。
人々が敗戦から立ち直る時の希望と想い入れが、この新しい地名に象徴されていることは言うまでもない。
さらに、「転生」ということでいえば、第2次世界大戦時における日本の外相・首相・広田弘毅関連の遺跡は色々と興味深いものであった。
福岡市天神アクロス前の「水鏡天満宮」は、菅原道真ゆかりの神社であるが、その鳥居の石額「天満宮」の文字は、広田弘毅の少年時代の文字である。
父親が石屋であったために、字がとても上手であった自分の息子の文字を学問の神様・菅原道真を祀った神社の鳥居に残そうとしたものである。
このへんの経緯は、城山三郎の小説「落日燃ゆ」の冒頭にでている。
また広田弘毅の父親の名前は、東公園の亀山上皇像の石台に他の制作者の名とともに彫られている。
広田弘毅の自宅は、福岡ダイエーショッパーズの向かいの「学生服のマイク」のちょうど裏手、和食の「しおや」前にある。
ほとんど目立ないが、石碑がたってるのでその場所を確認できる。
ところで、広田は東京裁判でA級戦犯として裁かれ、一言の自己弁明もせず、東京巣鴨で絞首刑となる。
東京池袋の刑場跡地に行ってみると、池袋サンシャインシティの高層ビルの真下の小さな公園内の「永久平和を願って」という石碑がそのことを示している。
ただ「説明書き」などは一切なく、ここで遊ぶ人々はそのことに気づく人は少ないが、いくつかの花がたむけてあったことが史実の重さを思わせる。
東京裁判の判決は内外に様々な反応を巻き起こしたが、敗者の側にたつ日本国民の不信はともかく、法廷において裁く判事団のなかにさえも判決に疑義を表明するものが出た。
インド代表・パル判事は「勝者が今日与えた犯罪の定義に従って裁判を行うことは、文明を抹殺することであり、正義の観念とは全然合致しない」と、「不可遡及」の原則の観点から、被告全員の無罪を主張した。
そうした判事団のおいて特に多かったのは、絞首刑を宣せられた7人のなかのただ一人の文官だった広田弘毅「無罪論」である。
周囲では広田の極刑反対の嘆願運動もおきていたが、広田自身自らを弁明することなく淡々としていた。
 妻・静子は先に命を絶っており、広田自身、遺書を残すことなく従容として刑場におもむいたのである。
数年前、東京池袋の巣鴨プリズン刑場跡地に行って知ったことは、この地にサンシャインプリンスホテルが立っていることである。
そこで思いついたことは、西部グループの総師・堤康次郎は、皇族の一等地を買いその高いステイタスをもつ土地にプリンスホテルをたてていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがそれであるが、そうした観点からみると、サンシャインプリンス・ホテルの「立地」はトンデモナイところにある。
この「逆説」を、どう解釈すべきであろうか。
A級戦犯と指定された人々に対して天皇がどのような感情をもたれていたかは私にはよくわからない。
ただアメリカの世論の中には「天皇処刑論」さえでており、A級戦犯達は連合軍によりワザワザ「天皇誕生日」をネラッテこの地で処刑されたのである。
とするならばその巣鴨プリズンの刑場跡地は天皇・皇族にとって「痛恨」の場所にちがいないのである。
私は西部グループによる池袋のこの土地の購入の経緯を全く知らないが、この土地の上に巨大で先端的なビル群をつくりだし、この土地のイメージを一新し過去の記憶を一掃することは、堤一族のそれまでのホテル建設のための土地買収とそう大きく「矛盾」するものではないと思った。
少なくとも天皇・皇族の「負の思い」を閉じ込めたこの土地のイメ-ジが一新されたことは間違いない。
そしてこの場所は「サンシャイン」という名がついた場所に「転生」したのである。
いずれにせよ先述した城山三郎の小説「落日燃ゆ」は、いわゆる「東京裁判史観」が支配的な時代に、広田弘毅のイメージを新たにした。
そういえば、福岡市内の大濠公園内にある広田弘毅の石像は、正面向かい側の護国神社をしっかりと見据えて立っている。
つまり広田氏は、「戦犯」と「護国」との間を転生しているかのようだ。
この護国神社からすぐ近くに前述の「平和」という地名が残っており、西鉄ライオンズの本拠地平和台球場がこの「護国神社」に隣接してあったのだ。

歴史をふりかえると、世界経済の「新秩序」などにみるとうり、戦争という「破壊」によってしか「新生」できなかった部分があったことは否めない。
戦争という「選択肢」がない今、世界は経済から自然環境にいたるまで、イタルところでホコロビとユキヅマリをアラワにしている。
旧約聖書イザヤ書2章には、「こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、/国は国にむかって、つるぎをあげず/彼らはもはや戦いのことを学ばない」という預言がある。
しかしこうした世界は、人間サイドの反核や反戦運動などの「平和努力」で実現するのでなく、神サイドの直接介入によって起きる「神の国」において実現するというものである。
つまり、この世のスベテのものは流転し転生するものであり、何一つ「確かなモノ」は実現できナイということである。