比較優位とは

国際貿易の理論に「比較優位論」というのがあって、二国間で貿易をするときには、両国が有利な分野の生産物に「特化」して生産を行い、それぞれの国の「需要」に応じて「消費」した方が、全体としての「取り分」が大きくなるという理論である。
この理論、当事国が得意分野に専念してモノを作るわけだから全体としての「パイ」が大きくなるのはアタリマエと思うかもしれないが、それほど単純なものではない。
この理論のミソは、「絶対優位」ではなく「比較優位」なのだ。
つまりA国とB国が貿易してA国があらゆる分野でB国よりも優れている「絶対優位」にある場合でも、「貿易の利益」はB国にもおよぶのか、という問題に置き換えてもよい。
それが証明できてこそ、「自由貿易」というものが「正当化」されるうるからだ。
貿易は、一方が「植民地」でもない限り、当時国の「自由な意志」に基づいて行われるからだ。
学校の授業で、表と簡単な数値を用いて説明されるが、これを言葉で説明するのはなかなか難しい。
結論をいうと、貿易にとって重要なことは、相手国と比べた生産性の「絶対水準」ではなく、それぞれ「国内」でどの分野が「比較的」に得意か、つまり「生産性」が高いかだけが、問われる。
手近な例で説明すると、政治家としても秘書としても「絶対的に」有能な人物がいたとして、その人は両方の仕事を「一人二役」でするよりも、人を雇って秘書にまかせて政治に専念した方がいいということだ。
ここで、「秘書を雇う」というのが「貿易」にあたる部分で、秘書となった人は政治家の「比較的に」不得意分野を担当することによって、政治家に「得意」分野の力を存分に発揮してもらうということだ。
(この場合、自動的に秘書は政治家よりも絶対的な能力は劣るものの、「秘書」の仕事に「比較優位」をもつ)。
高い収入を得た政治家から、「秘書」は多くの給与をうけ、互いに「より高い」給与にあずかることができるというわけだ。
秘書が政治家より給与をうけるというのは、適当な「為替水準」(=交換比率)のもとで、両国が大きくなった「パイ」を分配するということを意味する。
確かに日常感覚で「貿易」を考えても、国内でつくった高いものを買うよりも、「輸入」した外国の安い品物を買って消費した方がたくさん買うことができる。
つまり、貿易は人々を「豊か」にするのだ。

この「比較優位」の理論は、実はあまりにも単純化した理論だが、かえってその「単純化」がゆえに、イクツカの条件を加えれば、「日本経済」を考える上で示唆するものが多くあるように思える。
「比較優位」の理論はもともとリカードというイギリスの古典派経済学者が、19世紀のワインとラシャ(布)の貿易を、イギリスとポルトガルの二国でやった場合を「数値」で示したものである。
リカードはそれぞれの国の生産に得意、不得意が生じるのは、その国に「自然的に」付与された条件によるものとした。
後述するように、日本の場合には「自然的」には農業生産に適しているにもかかわらず、それらが「政治的」に随分とネジマゲられていることが、大きな問題なのである。
また「比較優位」の理論は、どんなに生産量を増やしていても「生産性」は一定と仮定している点である。
ところが現実には工業製品を増加させれば、材料不足や労働不足がおきて、追加一単位当たりのコストは高くなるから、工業分野の製品が増加するにつれて、「比較優位」は怪しくなり、ついには別の分野(例えば農業)が「優位」にたつことがあり得るということだ。
今、日本の工業製品は、韓国や中国に対して世界シェアを失いつつあるのは、工業製品についての「比較優位」を失いつつあるからだ。
両国に比べ、地価や人件費が「追加一単位当たり」でとても高いからである。
中国にたくさんある土地や豊富な労働力は、もともと日本よりも低コストで生産ができたが、そこに「開放政策」により「技術力」「資本力」が加わって、工業部門が「比較優位」にたつことができたわけだ。
もしも今、日本の労働者に中国の3倍の給料を与えるとすれば、日本の労働者は3倍の「生産性」(つまり3倍つくること)を要求されるわけだが、日本には今やそれほどの「余力」はなく、中国や韓国が工業部門が「比較優位」に立ちつつある、ということだ。
では、将来の日本の姿をどのように考えるべきだろうか。
リカードが考察したように、比較優位が「自然的」条件で決まるならば、日本は農業で「比較優位」を立てるハズなのである。
変化に富んだ国土に富んだ水、肥沃な土壌は様々な作物に適している。
おいしいものや健康によいもたのであれば、お金をおしまない国民性もある。
コシヒカリ、アキタコマチ、神戸牛などのブランド、さらにメロン、リンゴなどの果実、多種、多様な野菜、シイタケやタケノコなどに見るとうり、日本人の感性と丹精は、モノツクリだけではなく野菜や果実においても芸術を生み出している。
日本には農地が少なく不利という見方もあるが、山間の傾斜面にみる「棚田」は耕地つくりの「大傑作」ともいえるだろう。
日本はそうした条件がそろっているのに、それを存分に生かせずにいる。

ところで「比較優位」の理論は、「機会費用」という概念を使った方が、より「本質」に近づけるかもしれない。
しばしば言われるように、経済学という学問は、「お金もうけ」つまり「利潤」を考える学問かと問われると即「No」と答えるが、「費用」を考える学問かと問われるとある部分「Yes」と頷きたくなる。
経済学は、とても「深い意味」で「費用」を考える学問であり、「費用の深み」を理解できたら、かなり経済学的センスが身についたといってもよい。
我々は映画を見に行ったら、普通は支払った映画の代金を「費用」と考えがちであるが、実は映画を見たことによって失われた「別の機会」という費用(=機会費用)も存在する。
つまり「別の楽しみ」を放棄して映画を楽しんだのだから。
だから映画の代金がどんなに安かろうとも、面白かろうとも、「機会費用」が高くつく場合は映画にはいかないのである。
実は、人間が何らかの「選択」をする場合には、絶えず「機会費用」を意識しつつ、生きているものなのである。
ある男と結婚した場合の「機会費用」は、二番手の男と結婚した場合の「喜び」である。
結婚した後で「計算違い」に気がつく場合が多いが、そうはいっても、やっぱりソーイウことなのだ。
「比較優位」の理論は、貿易にあたって各国が相対的に「機会費用」が低い分野、つまりコストが低い分野、要するに「比較的に」得意分野に専念することによって、全体としての「貿易の利益」が増すという理論である。
日本が1980年代のように鉱工業生産におおいて「絶好調」であるときには、農業の「機会費用」たる鉱工業生産の利益は高かったが、今製造部門が海外に移転しているような状況では、その機会費用はかなり減少しているということがいえる。
つまり、工業部門の「比較優位」がカスミつつあり、本来的に「自然的条件」に恵まれた農業部門を「見直す」時期がきたという感じがしている。
にもかかわらず、自民党長期政権と馴れ合ってきた「農業部門」は、国際的に見て「優位」どころか、とんでもなく立ち遅れた状況にあることは否定できない。
農業部門において、若い後継者は育たず、米の減反の強制と補助金漬け、「二毛作」という言葉は死語になり、耕作を「放棄」した農地が広がっている。
つまり土地を耕さずにもっていた方が得な税制があるため、道路になるための農地の買い上げを期待しての土地保有で、まるで農地を使わないで遊ばせることを奨励しているかのようだ。
また、ほとんどの農家の実態はサラリーマンとの兼業農業で、値段も自分達でつけられないし、「農協」のいうとうりにやっている。
農協が消費者のニーズと生産者とをツナグことはせず、農家の経営サポートなどもなく、金融や物品の販売にのみウエイトを置いている。
農協がもっと適切なサポートをすれば、消費者の求める農作物を「低コスト」でつくれるはずである。
要するに、政治が生みだした農業部門の「比較劣位」という他はなく、まったく「自然の条件」や日本人のDNAに組み込まれた「能力」が生かしきれていない。

最近、大震災があったために日本のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加はすっかり棚上げされ、見送られる結果となった(ようだ)。
全ての分野で関税を廃止すれば、日本の高い技術力をもってすればハイテク工業生産品の輸出が伸び、不況脱出も期待された。
一方で、関税と補助金によって保護されてきた効率の悪い農業が「壊滅的な」打撃を受けることが懸念されていた。
何しろ有力政治家が輩出した群馬県のある農作物が関税によって価格が10倍になっていると聞いて唖然としたことがある。
ただし、TPP参加は当面の農業に打撃かもしれないが、それがカエッテ農業部門の長年の「病弊」を是正する機会ともなりうる。
高度成長期のように、行き場を失った農業が工業部門に吸収されるということも起き難いので、なんとか農業において大規模化とか、品種改良だとかいった創意が生じる可能性がある。
しかし、その「病弊」の根源となってきたものを取り除きもしないでTPPに参加するとなると、農業の「壊滅的」衰退はまぬかれないのかもしれない。
そして、日本は相手国の不得意分野を担当してオコボレの利益に与る先述の「秘書」のような役割を担うことになる。
ところで、日本の農業の病弊の一番の根源は「農地法」で、この法律があるために「農家の子供」でなければ農業ができないことになっている。
今は「派遣切り」などで、農業に関心を持つ人も増えつつあるのにである。
歌舞伎の世界に「家元制度」というのがあるが、それとあんまりかわらないではないか。
ついでにいえば、檀家制度が日本の仏教を堕落させた感じと似通ったものを「日本の農業」に感じる。
戦後「農地法」は、寄生地主に対する「耕作者主義」を高らかに表明したという面で「大きな役割」を果たしてきた。
「耕作せざるもの、所有すべからず」の精神だが、皮肉なことに今の農業ほど、この「耕作者主義」に反するものはない。
しかも、心底「耕作」したい者をこの法律が締め出しているのだ。
つまりこの農地法こそが農業の近代化や効率化の「足枷」になっていると言わざるをえない。
もちろん一方で農地を投機目的で売買したり、農業目的以外に転用することは、厳しく監視する必要がある。
TPPに参加して関税を撤廃するとなると、「農地法」を改正して大規模な農地の賃貸や、株式会社の形式での農業経営を認めなければ、「壊滅的」ということだってあり得る。
したがって、充分な議論もなされずにTPP参加(意向)は、性急すぎる面があったようにも思う。

そもそも長いこと話題にもならなかったTPP参加が今年から話題となりはじめたのは、韓国企業の躍進が1997年の通貨危機以降、積極的な「FTA(自由貿易協定)戦略」を通じて行われたからである。
韓国は、ダイナミックラム、液晶パネル、携帯電話、リチウムイオン電池でも世界でトップクラスのシェアを獲得している。
韓国は、「日本の11カ国」と比較して、「20カ国」と倍規模で「FTA」を結んでおり、だから日本も「FTA戦略」を取らないと、国際的な市場で韓国に負けるといった論調があった。
その中心にあったのが経団連である。
ただ、日本と韓国の「経済的条件」の大きな違いを忘れてはならない。
日本は外需依存度が17%だが、韓国は5割を超え、外需依存度が全く違う。また韓国のGDPのうち2割弱はサムソン関連で一極集中が起こっている。
さらに、TPPは参加国が多いけど、日本に取って重要な貿易相手国は米国だけで、FTA戦略の代わりにならないということだ。
というわけで「韓国」の躍進を意識したTPP参加の議論は、あまり説得力がないことになる。

アジアで日本の有機野菜が大人気である話をテレビでみた。「比較優位」の理論は生産性という観点から自由貿易論を支持する根拠となるが、食の「安全保障」の面からは、ソノママ「自由貿易」には不安が残るものである。
「食」を「国家間」の貿易による拡大と「量」の問題として考えるのはもう時代遅れかもしれない。
関税が撤廃されると価格差に負けてアメリカの安い農産物が流入し、日本の農業が駆逐されるというものがあるが、そうとばかりいえない。
日本の農産物品の関税はEUよりずっと低いし、食の安全に関心をもつ消費者が増える中、1円でも安い物を買うという前提は、それほどアテにならない。
関税撤廃をした上、食品表示を「厳格化」すれば、日本の農産物はさして影響を受けない可能性だってある。
そして「長期」においては、TPPによって失われる雇用は、生み出される雇用によってカバーされるかもしれないが、一端失われた「農地」を再生させるには多大な時間と労力を要する。
韓国はFTAに引きずられて唐辛子とニンニク以外の農産物関税を撤廃ししたが、その結果、中山間地域にほとんど人が住まなくなってしまったという。
経済の繁栄が、別の産業を犠牲にして実現していくというのではなく、人々が望んでいるのは「地域の永続的な繁栄」かもしれない。
そんなことで思い浮かぶのが北海道夕張市である。
炭鉱がすたれ、農家の努力によって「夕張メロン」に活路を見出すも、今度はリゾート開発ブームに乗っかり地域の活性化をはかったが失敗し、ついに2006年「財政再建団体」となった。
さらに「ヤミ起債」や「粉飾まがい」の決算が発覚し、国から夕張市に対してほとんどの行政サービスをやめるよう方針がだされた。
小学校や保育園もほとんど閉鎖すると通告された。除雪をしなくなり、雪の日は学校に通えなくなる。
選挙で市長を選んだという責任もあるが、義務教育を受ける権利を受けることができなければ、市民はそこから出て行かざるをえない。
こういう自治体、しかももっと規模の大きな自治体が相当数あるということである。

「比較優位」の理論には、工業生産にともなう「外部不経済」(公害などの社会的費用)、農業再生にともなう「外部経済」(温暖化抑制や観光収益)などは、想定されていない。
欧州でも米国でも民主主義の〈最終目標〉は国家繁栄ではなく、自分が住む地域の繁栄である。
そして「スローフード」運動がおきているという。「スローフード」とは、その土地の伝統的な食文化や食材を見直す運動で、または、その食品自体を指すことばである。
それは、必ずしも日本の伝統的な和食や郷土料理への回帰を意味するものではない。
あらためて気がついたことは、「比較優位」の理論は、「国単位」で作られたゲーム盤のようなものである。
インターネットの普及は、「国家」よりも「地域」、さらには「個人」を浮かび上がらせている。
そろそろ「ゲーム盤」自体を取り替えるべき時期がきているのか、と思わぬでもない。