高校時代、ビートルズを教えてくれたのは、博多の呉服屋の息子だった。
ケタ違いの「お小遣い」とロックミュージックのウンチクに、田舎中学の出身者からすれば、考えられもしない「人種」がこの世に存在していることを知った。
とはいっても我が中学は、二年先輩に「甲斐バンド」の甲斐よしひろや「ゴーマニズム宣言」の小林よしのりを生んだ学校だったので、客観的に「ド田舎」というほどではなかったかもしれない。
ところで、我が高校の時代の終わりごろすっかり若者の心を掴まえた感のあった荒井由実、すなわち現在の松任谷由実が東京八王子の老舗呉服屋「荒井呉服店」の娘であることは、知る人ぞ知るである。
友人の例から類推からして、とても裕福に育ったにちがいない荒井由実が、音楽環境においても一般水準を越えて恵まれた環境にあったことは推測できる。
きっとバロック音楽に通じる格調やノン・ビブラート(チリメン・ビブラートとの説もあり)のドライな感じは、彼女が立教女学院というミッション系の学校に学んだことも大いに関係もあろうし、調布にあった「在日米軍基地」の存在もなにがしかの影響を与えたにちがいない。
母親である和子さんは、娘・荒井由実の思い出を次ぎのように語っている。
「むかし、日曜日によく米軍の将校さんが車3台くらい店の前に止めて来ていたんです。
当時お店に生地を切る台があって、まだ幼稚園の由実ちゃんがその上にポンと乗ってね、”東京ブギウギ”を歌ったら彼らがお金をくれたんですよ。それで覚えて、お店を見ていて外人さんが来ると飛んでくるわけ。その時からステージに上がる喜びがあったんでしょうね」という「荒井由実オン・ステージ」談。
さらに「由実はある意味で不良だったかもしれないけれど、でもいい方の不良でしたね。親を納得させて、上手いこと自分を成長させた。本当に自分の力でやって来ましたからね」という「荒井由実良い不良」談。
さらに地域の名士として、「八王子の町にもずいぶん協力してくれていますよ。例えば八王子教育委員会から、小学生の誘拐事件などが多いから、由実ちゃんの”守ってあげたい”っていう曲のメロディを是非市内に流したいって言われましてね。賛成してレコード会社に頼んであげてくれない?って電話したらすぐOKが出たんです。午後1時半に全市で流れています。本当なら版権で相当のものを払う必要があるでしょうが、全部無料でやってくれました」という「守ってあげたい防犯貢献」談などを語っている。
荒井由実の音楽にとって、おおきくみれば八王子で育ったという歴史も、その「資質」とは無関係とはいえないかもしれない。
八王子は、甲州街道中、最大の宿場町として、また多摩地域の物資の集散地として栄えた。
桑畑が広がる養蚕が盛んな地域であり、もともと多くの呉服問屋が存在する土地柄であった。
かつて絹織物産業・養蚕業が盛んであった為に「桑の都」及び「桑都(そうと)」という美称があったくらいである。
八王子は、明治維新期以降は織物産業が繁栄し江戸時代からの宿場町を中心に街も発展した。
特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬・秩父や山梨・長野からも荷が集まり、輸出港である横浜への物流中継地としても機能していた。
横浜が開港となると日本から欧米諸国へむけて“絹”は輸出品になった。
長野・山梨を主産地とした生糸は八王子から町田を通って横浜へ運搬され、八王子―横浜間の約40kmの道は「絹の道」(シルクロード)と呼ばれるようになった。
1908年には、八王子から横浜間にJR横浜線(旧横浜鉄道)が開業している。
ちなみに、「絹の道」との記念碑が小田急線の町田駅前にある。
要するに、八王子は、田舎ではあったが西洋の進んだ文物がはいってきた「最前線」と深く繋がっていたということである。
また江戸を甲州口から守るための軍事拠点としての役割も担い、「千人同心」の根拠地となっていたが、江戸末期には彼らは実質「浪人化」していた。
しかし彼らは、有力者の「用心棒」として採用されるために、日頃から剣術を磨いていたということがある。
「新撰組」が組織されるにあたり、八王子あたりの浪人が採用されたのはそういう背景があった。
ちなみに近藤勇は、現在の東京都調布市野水出身、土方歳三は在の東京都日野市石田出身で、いずれも八王子と近い距離にある。
ところで松任谷由美が、ニューミュージックの旗手として活動を始めたのが、連合赤軍の浅間山荘事件(1972年)とほぼ時期が重なっており、連合赤軍のたくさんの「若者の死」と重なっている。
あの「凄惨」さを「浄化」するように、荒井由美のファーストアルバム「ひこうき雲」が登場した。
ある意味で、方向を見失いつつあった若者に新しい「ライフセンス」を提供した、といえるかもしれない。
それが多くの人々共通の「ユーミン体験」ではなかったか。
いろんな意味で、荒井由美のファースト・アルバム「ひこうき雲」の誕生は、「事件」であったのかもしれない。
そうして、もう一人のニューミュージックの旗手がいた。
大学に入りたての頃FM放送で実によくかかっていたのが山下達郎であり、松任谷と同じように、「一つの時代」終わりと「別の時代」の始まりを告げた存在であったように思える。
そういえば、山下達郎の奥さんとなった当時慶応の学生であった竹内まりあの曲も流れていた。
竹内まりあは、島根県の元大社町長で出雲大社近くの老舗温泉旅館「竹野屋」主人・竹内繁蔵の娘であるが、世界で通じるようにとの父の考えから「まりや」と名付けられた。
島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州の高校に1年間留学が、「日米の音楽が融合した」ニューミュージックへと導かれる契機となった。
竹内は、長く専業主として山下の影にあったが、最近出た「アルバム」ではすっかり山下流のアレンジをうけ「水を得た魚」のごとく活動している。
その意味では、山下夫妻は松任谷夫妻の「音楽的関係」によく似ている。
ところで山下達郎は、東京都豊島区生まれで、割烹料理店を経営していた両親の下に生まれ一人っ子として育った。
一家は、達郎が生まれたので水商売はやめようとの母の希望で菓子屋に転業し、練馬区平和台に転居した。
当時は浴びるようにラジオで洋楽を聞き、音楽に目覚めた。
高校時代には後に松井証券社長となる松井道夫や、現在ラジオでアーティストとして活躍している金子辰也らと交友を持ったそうだ。
山下の母親が仙台生まれで東北には親類が数多く居住している。
大震災で最後まで連絡がとれなかった松島の親類が一人いて、家とも無事な事が確認できたそうだが、被災地への思いは言葉にできないほどであるという。
音楽史に残る「事件」ともいうべき松任谷由実「ひこうき雲」のオリジナルは1973年11月20日に東芝音楽工業(当時)からリリースされた。
この曲つくりにはプロデューサーの村井邦彦、キーボード松任谷正隆、ベース細野晴臣というように、一流のスタッフが揃っていた。
また「ひこうき雲」が録音されたのは当時としては最先端の機器を備えたスタジオで、なんと一年以上もかけてこの「無名の新人」のデビューアルバムは作られたのである。
その意味でもヤッパリ「事件」であった。
ところで、松任谷由美や山下達郎がデビューした時期とほぼ同じ時代に、中村雅俊も青春ものドラマで、俳優やミュージシャンとして「輝き」をはなっていた。
最近、NHKの「SONGS」という番組で、中村雅俊が故郷である宮城県の海沿いの町女川(おながわ)町を訪れるシーンを見たばかりであった。
中村氏が海沿いの町で働くかつての幼馴染を訪ね歩くシーンがあったが、それから数ヵ月後に女川は町ごと海に消えた。
実際に中村氏は、女川の友人や知人とはまったく連絡がとれないのだという。
いまだにあの番組に登場していた人々の顔が忘れられない。
ちなみに女川には、「マリンパル女川」というシンボル的な観光施設があるが、中村氏はその名誉館長であったが、その建物はすべて津波により流されたか倒壊してしまったようだ。
「マリンパル女川」のサイトをみると、更新もされずにそのまま残されているのが、イタイタシイ。
ということはつまり、多くの亡くなった人々のホームページは、プロバイダーが閉じない限り、永久に更新されずに残り続けることになる。
最近、現在活躍するミュージシャンや歌手の間で、東北への思いを託して歌でメッセージを伝えようという動きが起きているが、中村雅俊の思いは、歌で伝えられるようなナマヤサシイものではないのかもしれない。
それでも、やっぱり音楽にはきっと人を元気にする力があると思う。
個人的には、松任谷由美のファーストアルバム「ひこうき雲」が頭に浮かんだ。
「ひこうき雲」のメロディーを聞いて、あれが「死者」を歌った歌だとは気づかないくらい、明るくさわやかな曲調である。
「空にあこがれ 空をかける」ことを望んだ夭折の友人の死を歌っている。
出だしの「♪ゆらゆらかげろうが あの子を包む/誰も気づかず ただひとりあの子は昇っていく♪」という歌詞は、火葬場から上って行く煙の情景を重ねて歌詞にしたのかもしれない。
誰もが早すぎる死にただただ悲観するなか、「けれど幸せ」と「死者」の側の観点から友人の「死」を肯定的にとらえようとしている。
その点でいえば、最近のヒット曲「千の風になって」が似ている。
亡くなった者の魂が、雲になるか、風になるかの違いである。
だからといって「ひこうき雲」は、見送る側である「生者」の悲しみが伝わらないほど「平板」な曲ではない。
それは「ほかの人には わからない」と二度ほど強く「打ち消した」フレーズに伝わってくる。
そして、「彼女の命はひこうき雲」と結んでいる。
「ひこうき雲」は当時(1973年)、旧姓「荒井由美」の名を世に知らしめる大ヒット曲となった。
ちなみに、夫である松任谷正隆は、「ひこうき雲」のセッションで最初に出会い、この曲のコード使いの「意外性」に驚き結婚を決めたと後に語っている。
しかし私的には、この人の「世界観」の方が斬新である。
それとこの歌詞は、「空へ」あこがれる松任谷自身の気持ちを反映したのではないとも思う。
それは同じく初期のヒット曲「中央フリーウエイ」に見ることができるからだ。
中央フリーウエイがいつしか「滑走路」に見えてそのまま「空に飛ぶ」という歌詞であった。
♪この道はまるで滑走路 夜空に続く♪
学生時代に、東京から甲府への長距離バスで「中央高速道」を利用したことがある。
♪右に見える競馬場 左はビール工場♪という歌詞があるので、「全神経」をめぐらせてその風景を探した。
そして歌詞の内容どうりに、在日米軍の調布基地、サントリー武蔵野ビール工場、東京競馬場などがソノママ見つけられた時は、「オチョコ三杯分」ほどの満足感に浸ったことがあった。
荒井由美の歌詞には、こういう風景を探したくなる歌がたくさんある。
例えば「埠頭の風に乗って」とか。
ところで「飛行機雲」とはジェット機が噴出する排気ガスの中の水蒸気が雲になって帯状に浮かんでいるものである。
飛行機雲は空気中の水蒸気の量によって、いつまでも残っている時とすぐに消えてしまう時があるという。
インターネットで「ひこうき雲」を調べていたら 松任谷由実自身「震災で天使になった子供たちへ ..」と副題がついたサイトを開いていた。
きっと亡くなった者を送る側の気持ちとして「ひこうき雲」という曲は、人々の哀しみを癒す力があると思った人々が他にもたくさんいたに違いない。
今、日本ではたくさんの「ひこうき雲」が生まれ、流れてきているのかもしれない。
ところで、「ひこうき雲」のはかなさと関連してもうひとつの曲を思い浮かべた。
日本の童謡作家・野口雨情の代表的な童謡が「しゃぼん玉」である。
それには夭逝した「子供への鎮魂」の意があるという。
ある日、村の少女たちがシャボン玉を飛ばして遊んでいるのを見た野口雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいただろうと思いながら書いた詩が、この「シャボン玉」だというのだ。
1908年、雨情は後に協議離婚に至った妻のひろとの間に、長女「みどり」をもうけた。
人形のように愛らしい赤ん坊であったが、産まれて7日目に死んでしまった。
当時は、乳幼児が死ぬのはさほど珍しいことではなく、ニ~三割の子供が学齢前に死亡していた。
そのため、夫婦は子供を何人も産み、一所懸命育てた。雨情もその後何人かの子供を授かっているが、長女の死を後々まで悔やんでいたという。
♪シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた/ シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた/ 風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ♪
歌詞にはシャボン玉で子どもが遊んでいる様子が描かれているが、「生まれてすぐに こわえて消えた」に、野口雨情の「夭折の子」への気持ちが投影されているという。
ところで、関東地方の中で、大震災の被害が最も大きいのは茨城県である。
その中でも茨城県北部の北茨城市、高萩市、日立市の被災の大きさは全体の中では見逃されがちだが、これらの被災地はインフラの復旧が遅々と進まず、また福島原発からの避難者が殺到し、大混乱のようである。
この北茨城市に「磯原」という太平洋に面した町があって、震災で多くの家屋が倒壊している。
ここには野口雨情の生家がある。
この野口雨情の生家は東北関東大震災でどうなったのかと気がかりであるが、それにしても野口雨情は「大震災」と縁がある人である。
1921年野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲で民謡「枯れすすき」としいう曲をだした。
翌年「船頭小唄」として改題されてヒットしたが、この歌の大流行の最中、1923年9月1日関東大震災が起こり、野口雨情の暗い歌詞、中山晋平の悲しい曲調から、この地震を予知していた童謡だったのではという風説が流布し.「震災小唄」と揶揄された。
その歌詞では「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき……」 と男女の間柄を歌っている。
どこかでこの曲、聞いたことがあるという人。
もし50代以上ならたぶんそれは、松任谷由実や山下達郎が華々しく活動した頃、あまりにも唐突にヒットした「昭和枯れすすき」(さくらと一郎)でしょう。
ちなみに男性・徳川一郎は1948年生まれで静岡県出身、女性の河野さくらは一郎と同じ年生まれの福島県安達郡岩代町出身である。