人世の岐路

最近松本清張作「砂の器」(二夜連続)を見ていたら、主人公すなわち「犯人」の心の内は直接には描けないのが「推理小説」なのだと思った。
だから、犯人であろう人物と同じ境遇に生きた刑事を措定して、犯人の心のヒダを推理していくという方法がとられていた。
もちろん、犯人が判明後はその心の内は一気に吐露されることになるのだが、少なくともソレまでの主役は「刑事」ということになる。
ところでこの世には、人間にとって幸も不幸も、都合のイイことも悪いことも起きていて、「一体何ゆえに」と思わざるをえない。
つまりこの世の諸々ことを起こしている「ハンニン」について無意識について思いをめぐらすのある。
そういう思いにかられつつ、聖書を読んでみるのだが、すべては神の「許し」の下で起きていることぐらいはわかる。つまり「神の超越性」があるのみで、神の心は「はかりがたし」ということである。
確かに、神の御心はハカリガタシだが、以下に敷衍する如く、聖書には、ソウイウことなのかかと結構納得させられることもたくさんあるのである。(だから読むのだ)
ところで小説の書き方には、人間が何をどうしたということを客観的に書く手法と、心の内面を掘り下げて書く手法がある。
そうした区分でいくと、聖書の記述はかなり前者に傾いているといってよい。
そもそも、人の心の内まではなんとか書いても、この世の「主犯」たる神の御心の内などは書きようがない。
神の意思がソウであるならば、ソレマデのことだ。
例えばAさんとBさんがいて、神様はなぜAさんをヨミしてBさんをシリゾケルのか、その「根拠」までは書いてない。
創世記の冒頭近くの有名な話で、アダムとエバの子供であるアベルとカインという子供がいた。
神はアベルの捧げモノを喜び、カインの捧げモノを喜ばなかったとある。
しかしなぜソウだったのかについては、一切書いていない。 そして嫉妬したカインはアベルを殺害してしまう。
その殺人者たる「カインの末裔」が人類なのだ。
この世の争いごとや戦争が簡単になくならないのも、最初から人間がソウイウモノとして生まれてきたことを思わせられる。
ところで、1930年代初めを舞台として映画化された「エデンの東」はこのストーリーにインスピレーションを受けたスタインベックによって書かれた。
父親が気に入らないカインが「キャル」の名前でジェームス・ディーンが演じた。
また一方のアベルの方は映画で「アロン」という人物で登場するが、やることなすこと父に気に入られる「優等生」である。
キャルはアロンを憎み結局は、実の母親のことを暴いて結局はアロンを死に追いやってしまう。
さらに新約聖書で十二弟子の中で、ユダがイエスを裏切ってローマに売り渡すが、聖書は「なぜユダがイエスを裏切ったか」ということについてはホトンド書いていない。
イエスの十字架が「人類の贖罪」であったならば、ユダは一つの「役割」を果たしたともいえる。
実際に「最後の晩餐」で、イエスはユダに「お前の役割を早く果たせ」といった趣旨の言葉さえ投げかけているのだ。
もちろん、聖書に何も書いていなくとも、ある部分までは「推測」できるものもたくさんある。
それサエもなくば、聖書からどんな「メッセージ」をも受け取ることができないだろう。
ヨハネ8章に出てくる「姦淫の女」の話で、引きずり出された姦淫した女を前に人々は、「姦淫を犯した者は律法に石で打ち殺せ」と書いてあるので、人々がそれを実行しようとしたところ、イエスは地面に何かモノを書きながら、あなた方のうちで「罪のないものがいたら、そうしなさい」と言った。
そうすると、年寄りから順にその場を立ち去ったとある。
この「年寄りから順に」というところが、この場面に真実味を与えているが、そこには人間的な憶測が働く。
年をとったら、殺したり、盗んだり、淫したりすることばかりが罪ではないことがよく実感できる。
言わなければいけない時に言わなかったり、言わんでいいことをいったり、負うべき責任を回避したり、戦うことを回避したり、ウワベだけを飾ったりとかが澱の如く沈んでいて、それが不思議と意識上に浮上して生きたりするものである。
だからこそ「年寄りから順に」という言葉に人世の真実をみることができるのだ。

聖書の記述には、AはコウだったがBはソウだったという様に、二人の人生が強い「コントラスト」をもって描かれている箇所が多い。
そしてAとBのほんの「少し」の違いが、「人世の岐路」となっていくのである。
そのコントラストで判り易い例でいえば、イエスと共に罪人として左右に架けられた罪人の「告白」の対照であろう。
それ以前に、もっと本質的なところではローマ総督の「イエスを許して欲しいのか、バラバを許して欲しいのか」という民衆の問いかけである。
過ぎ越しの祭りでは、罪人1人が「恩赦」になるのだが、この問いかけは、もっと根源的には「この世の解放か」「神の国における救済か」という問いかけであったことが、「あと読み」の我々には理解できる。
しかし当時「メシア」の意味をまった理解していない民衆は、ローマからの独立運動の指導者バラバの方を選択し、「イエスを十字架につけよ」と叫んだのである。
また、現代の動向からして重要なのはアラブとイスラエルであるが、その対立の根は古代にまで溯ることができる。
アブラハムとサラの間に子供が出来ず、アブラハムが奴隷の女ハガルに生まれたのがイシマエルである。
イシマエルの子孫はアラブ人となり、神も「一つの大きな国民として祝福する」とあるが、聖書的な観点でいえば「長子の特権」を引き継ぐべきモノではなかった。(コーラン的観点のことはよく知りません)
その後に、アブラハムと正妻サラとの間にイサクが生まれたのである。このいイサクこそ嫡子であり、「長子の特権」を引き継ぐべきモノであった。
したがってイサクが生まれた後に、ハガルが息子イシマエルとともにアブラハムの家を追われたことは、一家の「分岐点」ばかりではなく、10年前の911にも連なる「世界史の岐路」だったともいえる。
しかし、ユダヤ人とアラブ人は長い歴史の中で「共存」してきたのであり、現代のアメリカ合衆国のような「敵意」で満ちた時代というのが、むしろ「稀な」ことなのである。
また、「人世の岐路」というところで深く考えさせるのは、アブラハムとその甥・ロトの「分岐点」である。
メソポタミアのウルから出てき、共に旅を続けて来たアブラハムとロトが、ベテルあたりでで天幕を張ってある所に暮らした時、子孫が増えたこともありソレゾレの家畜の牧者が争うようになった。
そこで、アブラハムはロトに分かれて暮らす事を提案し、ロトに「選択権」を与えた。
このアブラハムとロトの「分かれ目」についての聖書の記述は印象深い。
聖書によれば、ロトは「エデンの園のように」麗しく見えた低地を選んだ。
しかしその土地はいつしか悪徳が榮え、ソドム・ゴモラのように呪われた町となっていく。
そして神によってこの町が滅ぼされるのであるが、神から選ばれたロトの一族ノミはその大災害が逃れることになる。
しかし、ロトの妻は神が禁じたにもかかわらず後ろを振り返ったために「塩の柱」になったとある。
一方、殺風景で荒地に見えたところに住んだアブラハムは、神の約束(契約)にそって豊かな祝福をえていくのである。
そこには、祝福を得ていくものと失っていくものの「分岐点」がよく見て取れるのである。
ところで、ロトの子孫はアブラハムの子孫であるイスラエル12士族とは別の「モアブ人」とよばれる。
この異邦人であるモアブ人だが、聖書のなかにモアブ人は何度か登場してくる。
しかし「モアブの娘」ということで最も有名なのが「ルツ記」の主人公ルツである。
そしてこのルツは、オルパという女性と対照的に、大きな「分岐点」に直面する。
ルツとオルパにはそれぞれ夫があり、夫の母つまり姑のナオミとともに寄留地エジプトで暮らすが、ルツもナオミも共に夫を失うという悲劇に見舞われる。
息子二人を失ったナオミは故郷であるイスラエルに帰る決心をするが、夫二人を失った嫁二人を一緒に帰るにしのびず、それぞれの故郷に戻りそこでの新しいスタートをすすめる。
そしてオルパは自分の一族のいる故郷に戻るが、ルツは「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」とナオミにシガミついて離れようとはしない。
ここにルツとオルパという同じ境遇にあった二人の女性における「人生の分岐点」があったといえる。
そして、ナオミは嫁のルツを連れて故郷に戻るが、そこには一族のボアズという有力な人物の出会い、ナオミは亡くなった夫の土地を買い戻してくれるという恩恵をえて、その上ルツはそのボアズと結婚して子供までも授かる。
そしてその子孫からダビデ王が生まれるという恩寵をうけたタグイ稀な「異邦人女性」となるのである。
ボアズが亡くなったナオミの夫の土地を「買い戻す」という行為は、言葉としては「贖う」と同じ意味の言葉らしく、たとえば、借金が返せなくなって自分の身を奴隷に売らざるを得なくなった場合に、兄弟が彼を「買い戻し」、再び自由人に復帰できるというような「解放」を意味するものである。
当時イスラエルの民は、自業自得で神の「裁き」の下に置かれていたために、そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、怯えながら生きていた面がある。
そういう意味で、ボアズはきたるべき「キリスト」の型ということもいえるのである。
ダビデの系図からイエス・キリストが生まれたのだから、このルツとオルパの「人世の岐路」は聖書全体にとって重大な意味をもつものであるが、同じく重大なのが、ヤコブとエソウという二人の兄弟の「人生の岐点」ではないだろうか。
アブラハムの子はイサクで、そのイサクには二人の子供がいた。エサウは長男でヤコブは次男である。
当時の財産(土地)は長男が受け継ぐものであった。また長子は一族の長として神の祝福に預かるもので、これは「長子の特権」というべきものであった。
父親は勇猛果敢な長男のエサウがお気に入りで、家にいることの方が多かったヤコブを母親は気に入っていた。
ある日、エサウは狩にでた。狩に出て帰って来たら腹がヘってへって仕方なく、ヤコブが煮立てているスープが欲しくて仕方がなかった。
エサウはそのスープをクレというのだが、ヤコブは「長子の特権」を自分に譲るならば、スープをあげるという。
そこでエサウは「長子の特権」なんてどうでもいいという重大発言する。
ソンナモノ、死んでしまったならば何の意味があろうかといったのである。
そこでヤコブはエサウの長子の特権を譲ってもらうことになった。
しかし、エサウとヤコブとの間でおきた「長子の特権」の委譲は兄弟間の「密約」でであって、父親イサクは全く知らない。
そこで、ヤコブは母親から知恵を授けられたアル「実効性」のある手段をとる。
すなわつち、いまわの時となって目が見えなくなった父イサクにヤコブは、兄「エサウ」を装ってて近づき、「長子としての祝福」を祈ってもらうのである。
エサウが父親に「長子としての祝福」を願った時にはスデに時遅しであった。与えるべき「祝福」は残っていなかったのである。
実は、新約聖書では「長子の特権」はそのまま「世継ぎ」すなわち「この地を継ぐ者として」としての「救われる者」の特権なのだ。
「救い」の特権を、目の前の利益(スープ)に眩んでムザムザと弟・ヤコブに渡すのだ。
世事に通じ世故に長けた人間エサウは、一番大切なものが何なのかについて、ニブイところがあったようだ。
エサウが求めるものは常にこの世のもの、神からくるものを軽んじた。
あまり道徳的とはいえないヤコブ母子の行動だったが、ソレデモそれ以降、「神の恩寵」はあくまでもヤコブの側に傾いていったと言わざるをえないのだ。
ヤコブはその後十二部族の族長となるが、エサウの子孫は聖書の中でエドム人としてあらわれ、ダビデ王(ヤコブの子孫)の代にエドム人はその属国となりしばらくして滅亡している。
それは聖書の預言「兄は弟に仕える」(創世記25章23節)の実現でもあった。
エサウとヤコブについては、神の心は計りがたしで、推測でしか語ることはできないが、次のようなことはいえるかもしれない。
一般に世の中で社会的にノシアガロウとすれば当座の上司に気にいられる必要がある。
エサウは父イサクに気に入られているという実感があるし、自分の狩人の能力を誇ったことだろう。
そこで神に求めることはなかったし、安心感ゆえに「長子の特権」を軽んじるという傾向をもつことになったのかもしれない。
しかしヤコブは必ずしも父に愛され(評価され)なかった分、その「恩寵」を人間にではなく神にダイレクトに訴えるようにして求めた。
エサウとヤコブの「人世の岐路」がここにあったのだが、このことには単に「二人ダケの岐路」というだけではなく、聖書全体にとっても大きな意味を含んでいたのだ。
エサウより神の祝福が取り去られたことは、エサウの子孫がよくアラワしている。
エサウの一族は別の地にすみ、前述のように「エドム人」と呼ばれるようになる。
実はこのエドム人の系統からヘロデ王が登場するのである。
ヘロデといえばイエス・キリストが生まれたという噂で3歳以下の子供を皆殺しにした。
また娘サロメが見事に人前で踊ったために、その報酬に洗礼者ヨハネの首を切ったことで有名な、あの「悪名高き王」である。
その人物コソがエサウの子孫なのである。
また、エサウが「(腹がへっては)死んでしまったら、何の役に立つだろうか」といった「長子の特権」であるが、実は「死んでから」コソ意味をもつものなのだ。
エサウとヤコブの生き方の姿勢の根本の違い、それは何に「一番の価値」を置いているかである。
ヤコブは、人間的には「汚い」手まで使ってでも「長子の特権」得ようとしたのに対して、エサウは目先の利益(この世の利益)を優先して、それを「軽んじ」た。
新約聖書には「幸いなるかな 心の貧しき者」で始まる山上の垂訓(マタイ5章)があるが、その中には「幸いなるかな 柔和なる者、その人は地を引き嗣がん」とある。
つまり「長子の特権」とは、「世嗣ぎ」のことだが「家を継ぐ者」の意味ではなく「神の国」を引き継ぐ「特権」を持つもののことである。
つまり長子は、神の長子すなわち「あと継ぎ」として、神の国を生きる者のことである。
つまり、新約聖書における「救い」の型こそが「長子の特権」なのだ。
そしてエサウのように、ソンナモンとそれを軽んじているのが一般的姿なのかもしれない。
そして人々は、手を伸ばせば「届く」ところにあるかもしれない「永遠というもの」を取り逃がしているのかもしれない。
「人世の岐路」というこに関しては、マタイ13章の「畑に隠された宝」の譬えは心に響くものがある。

「そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」