ホテル住まい

たしかイザヤ・ベンタソンが書いた本に、ユダヤ人の金持ちはホテルを常宿としているという話があった。
ベンタソン氏は「日本人とユダヤ人」で、「日本は水と安全はタダ」というところから、ユニークな文化論を展開された。
40年前の「水と安全はタダ」というのはすっかり神話となったが、それでも今日、自動販売機がたくさんアリ、地下鉄で居眠り出来るくらだから、世界的に見たら日本はまだ「安全」な方だろう。
しかし最近は、資産家らしいというだけで自宅を賊に襲撃されるほど物騒な世の中だから、「ホテル暮らし」は日本人金持ちのオプションのひとつかもしれない、と思うようになった。
ところで「安全対策」は別としても、日本人でも家をすて故郷をすて、「ホテル暮らし」をやってる方は、昔から結構いるみたいである。
これが「帝国ホテル」常宿となると、やはり相当な人であるのは間違いない。
昔からホテルに憧れがあって、通った大学のすぐ側がホテルニューオータニ、赤坂プリンスホテルであったので、ホテルのロビーのソファーにすわっては、行きかう人々を憧憬をもって日がな眺めては、眠りこけていたバカタレであったことを、いまここに告白します。
我がバカボン時代より少し前に、このホテル・ニューオータニのフロントには、後に推理作家となる森村誠一氏が働いておられたことは、学生時代当時よりよく知っていた。
ホテル横の紀尾井坂を降りりると、今「大久保利通殉難碑」がデカデカと立っているが、そこが森村氏の出世作「人間の証明」の殺人現場として設定された清水谷公園である。
というわけで「ジョニー・ヘイワード殺人現場碑」も立てるべきです。
清水谷公園の側には歌舞伎役者・尾上松緑の自宅があり、ニューオータニおよび四谷を通る丸の内線は、唯一日本を舞台とした007シリーズの「007は二度死ぬ」の舞台となった。
ちなみに「二度死ぬ」でボンドガールとなった若林映子・浜美枝はそれぞれ「スキヤキ」、「テリヤキ」なんぞの「コード・ネーム」が使われていた。
どうせなら映画のタイトルは、「007は二度焼く」がよかったかもしれない。
最近、ニューオータニ隣の赤坂プリンスホテルがこの3月をもって55年の歴史を閉じたと聞いたが、もともと朝鮮王家・李垠宅を改装して建てた由緒ただしきホテルであった。
李垠は幼少期に当時日韓併合による半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校を経て、陸軍士官学校で教育を受けた。
もしも土地にDNAがあるとすれば、この土地は「超一級」と言っていい。
何しろ西武の堤康次郎は皇族の土地を買い取ってホテルとして、「プリンスホテル」としたのですから。

ところで推理作家・森村誠一はホテルマンとして10年間働いたことが、その作品つくりに大きな影響をあたえている。
つまり森村氏が作家として成功を収めたのは、ホテルマンの仕事を「題材」として生かすことができたから、といえるからかもしれない。
ホテルはなにしろ、冠婚 葬祭・睡眠・休養・会議・商談・発表会・展示会・密会など様々な目的をもった人々が集まる場所であり、また仕事・勉学・受験・就眠・食事など人間の様々な局面に対しての対応を要求される場であるからだ。
そういえば三谷幸喜監督の「有頂天ホテル」は、大晦日の24時間をリアルタイムで描いたもので、色んな人々の色んな人生が、ホテルという一点で交錯する点で、とても面白い映画ではなかったかと思う。
森村氏にとってホテルは、人間というものを観察しよく知るという点で、格好の場所であったのだ。
森村氏の推理小説「高層の死角」というホテルの密室殺人を題材にしたものが(実質)第一作であったが、森村氏はホテルマンという仕事の立場を利用して、もっとも直截な形で先輩作家が使用している創作材料に「密かに」アクセスしている。
森村氏がニューオータニで働いていたころ、ホテルのすぐ側に文芸春秋の新社屋ができることになったために、ニューオータニの常連客に、作家が名を連ねるようになった。
文芸春秋といえば、森村氏がホテル退職後しばらして、立花隆の「田中角栄研究~その金脈と人脈」で多くの人々に認知された。
ホテルの仕事に嫌気がさして作家を目指そうとしていた森村氏は、フロントで二人の作家としばしば接することになったという。
その作家とは、当時のNO1流行作家の梶山季之氏と「木枯らし紋次郎」で人気作家となった笹沢左保氏である。
特に梶山氏の場合には、ホテル内で原稿を書いていたために、出来上がった原稿を編集者に渡す前にフロントで森村氏にあずけたのだそうだ。
そういうわけで森村氏が「梶山作品」の最初の読者になったが、それだけでは満足できなかった森村氏は、合鍵を使って梶山氏の部屋に入り、机に山積してある参考文献や資料を見て、自分の創作の参考にしたという。
また梶山氏が当時連載していた週刊誌の次回の展開を、自分でも頭に描いてみたりしたのだという。
プロ作家にはかなわないものの、時々自分の「筋書き」もなかなかイイ線いってると思えたこともあったという。
また、森村氏はこのホテルマンの仕事を通じて、社会派推理小説の大家・松本清張の知遇を得ている。
サラリ-マン生活の鬱憤を原稿にしたら、出版社に勤める同窓生の目に触れて本になった。
その本をたまたま見たのが、ニューオータニの常客であった現代俳句協会会長の横山白虹氏である。
実は横山氏は福岡県小倉の開業医で、松本清張がどん底の貧乏生活をしていたころ、出世払いで盲腸の手術をしてやったことがあるらしい。
この横山氏が、松本清張に会わせてやろうと、東京下高井戸にあった松本邸に連れて行ってくれた。
松本清張はほとんど森村氏には目をくれずに横山氏と話をしていたが、森村氏が松本清張のホテル描写で間違ったところを指摘すると、松本清張の目がキラリと光って森村氏に目を向けたという。
森村氏は、フロント・システムとホテル全般のレクチャーを大御所相手に「約2時間」したのだという。
ちなみに、森村氏は「高層の死角」で江戸川乱歩賞を受賞するが、その選考委員には松本清張氏が名を連ねていた。

著名作家に師事したわけでもない森村氏であるが、あえていえば合鍵を使って創作法を「密かに」教わった流行作家・梶山季之は、いわば森村氏の創作上の「師匠」であったといえるかもしれない。
その梶山氏に「生贄」という作品がある。
この「生贄」のモデルとなったのがネモトナホコという当時19歳の女性だった。
ところで日本でVIP級の客をむかえるのが「帝国ホテル」であるが、ここを頻繁におとづれる人、常宿とする人は、ただの人ではない。
外国要人の中でも頻繁に利用したのが当時インドネシアのスカルノ大統領で、共同通信社の「沈黙のファイル」では、スカルノとネモトナホコとの出会いが詳しく書いてあった。
この「沈黙のファイル」の副題は「~瀬島龍三とは何だったのか」であるが、瀬島龍三といえば大本営の高級参謀として50万人の兵力を動かした人物である。
満州で敗戦を迎え11年間シベリアに送られた後に帰国し、当時ニ流だった関西の繊維問屋・伊藤忠商事の社長にこわれて入社し、伊藤忠をNO3の地位にまでひきあげたことは、ツトニ有名であり、彼をモデルとして小説「不毛地帯」が書かれたことは、トミニ有名である。
瀬島龍三は、山崎豊子の「不毛地帯」の壹岐正のモデルとなった人物である。
入社後一年間は仕事をするのでもなく、ただひたすら日比谷図書館に通いつつ「11年間の空白」を埋めるのが仕事であったという。
ところで日本の一流商社といえば、航空機商戦でシノギをけずったことは有名である。
伊藤宏がいた丸紅、海部八郎がいた日商岩井、瀬島龍三がいた伊藤忠商事がそれぞれに競いあい、それが有力政治家に対する「賄賂合戦」となるのは、コトの必然といってもよかった。
しかし丸紅がロッキード事件で、日商岩井がグラマン事件で大ヤケドを負ったのに対して、伊藤忠は瀬島の判断で航空機からはやく手を引いて「エネルギー戦略」に転じために、国会で「証人喚問」をうける必要もなく、生き延びた。
インドネシアには、石油資源が豊富にあるが、瀬島龍三は旧日本軍の人脈をフルに活用してインドネシアの「賠償ビジネス」に手を染めていく。
こうしたビジネスについては「沈黙のファイル」で、インドネシアや韓国との多額の賠償金の多くが、先方の政治家や日本の政治家の政治資金となった事実を明らかにしている。
日本軍のインドネシア占領に対する賠償は1957年に岸信介首相とスカルノ大統領との会談で803億円を払うことで決着した。
ただし、12年間に毎年2000万ドル相当を「現物」で支払うという条件付きだった。
インドネシア政府が必要なものを日本企業に注文し、代金は日本政府が保証するのだから、日本企業にとってこれほど確かなビジネスはない。
注文さえ取りつければいいのだから。
そこで、インドネシア側とのつなぎ、パイプをどうするかが、商社の戦略の最大のポイントだった。
そこに前述のネモトナホコというまだ二十歳にもみたない女性が登場するのである。
ところでネモトナホコの父は霞町界隈の大工であり、弟が一人いた。
ネモトは15才だった1955年、新東宝制作の映画にチョイ役で出演したことがある。
貧しい家計を楽にするため都立高校を中退後、赤坂の有名高級クラブで働いていた。
1959年、スカルノが日本を訪問した時、お気に入りの女性として彼の宿泊先・帝国ホテルに送られたのがネモトナホコだった。
彼女はその年スカルノに呼ばれてジャカルタ入りし、結局第3夫人になった。デヴィ夫人である。
これはインドネシアに顔をきかせていた貿易会社の社長のハカライが見事効を奏したたもので、この社長は彼女の説得のため様々な経済的保証を与えている。
またデヴィ夫人は、当時の池田勇人首相とスカルノをつなぐ「仲介役」を務めたという。
さらに「沈黙のファイル」によれば、インドネシア賠償ビジネスについては、自民党元副総裁の大野伴睦、実力者の元建設相・河野一郎、右翼の児玉誉士夫らも関与しているという。
具体的にいうと、インドネシアに初のデパート「サリナ・デパート」の建設計画が持ち上がった際には、児玉誉士夫、河野一郎でこのプロジェクトをまとめ、伊藤忠商事が仕事を仕切ることになった。
建設費1279万ドルの6%がスカルノへ、5%の64万ドルが先述の貿易会社に支払われるという具合である。
要するに「インドネシア賠償利権」に日本の有力政治家が足を突っ込ん形ということだが、戦争の「賠償」ということが一体誰に払われるべきかを考えてみると、クルッた話ではある。
インドネシア賠償の終了後は、1965年に締結した日韓条約で、総額5億ドルの賠償が決定し、同じような「仕組」で利益は分配され、伊藤忠商事はまたも大きな利益を手にした。
結局は、簿記も商売もドシロウトの瀬島隆三氏の戦前からの人脈が大いに役立ったというわけである。
ところでデヴィ夫人はスカルノ大統領との結婚の3年後の1965年9月30日に起きた軍事クーデターで失脚し、代わってスハルトが大統領となった。
デヴィ夫人もフランスへと亡命したが、そこでは「東洋の真珠」とか社交界の華とも呼ばれ、美貌と教養で多くの要人らを魅了し、交友をもったという。
その後アメリカでの生活を経て、日本に帰国しバラエティ番組などに出演するに至っている。
ところで、スカルノ大統領とネモトナホコの二人が出会ったのが帝国ホテルの貴賓室の広間であった。
デヴィ夫人はあるテレビ番組でスカルノ大統領に彼女がプロポーズされた時のことを懐かしげに語った。
それによれば、スカルノ大統領は「私のインスピレーションになってほしい 私の力の源泉になってほしい 私の人生の喜びになってほしい」と告げたという。
司会の小堺一機が「素晴らしい言葉ですね」と感動するとデヴィ夫人は「こんな美しい言葉のプロポーズは、100年、200年生きても二度と聞かれないだろうと思いますね。神の啓示と言うか、この方にお仕えするのは天命だと思って、しびれました」と誇らしげに語った。

帝国ホテルは、1887年外相井上馨が渋沢栄一ら財界人らと諮って設立したものである。
いわゆる「鹿鳴館外交」時代に、不平等条約改正に成功するために、欧米から賓客を招いた舞踏会が連日開かれていたが、彼らをモテナスにたる「洋式ホテル」の建設が国家的課題となっていた。
そこで「帝国ホテル」は、鹿鳴館の隣、今の千代田区内幸町に建設され、1890年に開業した。
大正時代に外人客が増えたために、新本館の設立が急務となったのが、この新館の設計を任されたのは、アメリカの建築家であるフランク・ライトである。
そして新館落成の日の1923年9月1日がやってきた。ところがこの日、関東大震災が日本を襲った。
来賓を待つばかりの時に襲った地震により、会場は大混乱となったが、幸い帝国ホテルは焼けず、耐震性を備えたライト館の優秀性を実証する結果となった。
日比谷周辺では地盤が軟弱であったために、ライト館は「浮き基礎」という工法で建てられていた。
その軟らかい地盤の上に建物を浮かせるように造れば、地震に見舞われても衝撃を吸収できるという発想である。
帝国ホテルが辿った歴史を間単にひもとけば、終戦後には日本の戦犯をさばく極東軍事裁判が開かれたが、ウエッブ裁判長、キーナン主席検事、パル判事などの主役もこのホテルにとまり、ものものしい雰囲気で満たされていたという。
また、1964年東京オリンピックでも各国の大会関係者が宿泊した。
1967年にライト館は惜しまれながらも老朽化のために解体されたが、現在は名古屋近くの明治村に正面玄関のみそのまま復元してある。
1974年に赤坂離宮は改装され「迎賓館」となりベルサイユ宮殿のような建物となったが、以来外国要人の接遇は、帝国ホテル、オークラ、ホテルニューオータニの三者の「持ち回り」となった。
賓客が迎賓館で宿泊される際には、料理人も客出係りもすべてホテルから出張することになるが、帝国ホテルが最初に接遇したのが、ルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻であったという。
ところで冒頭に述べたように日本人の中にも帝国ホテルを常宿としていた人達がいる。
近場の帝国劇場に出演するために一定期間常宿したというのではなく、帝国ホテルに「住んでいた」という人々である。
オペラ歌手の藤原義江、山田五十鈴、田中絹代、などがそうであったという。
山田五十鈴は、ホテルの中をすべて知り尽くし、散歩コースは日比谷公園で目立たない格好で外出するのでだれも気がつかない。
お金を下ろすときは通帳と印鑑をもって一階にいき、係員にただ一言「○円出して」と一言いうだけだったそうだ。
ところで、幕を下ろすことになった赤坂プリンスホテルの解体は今年7月になるそうだが、東京都は福島第一原子力発電所事故で避難した福島県民の受け入れ施設として「新館」(高層ビル)を活用すると発表した。
彼らは仮住まいとはいえ、「ホテル住人」となる。
素晴らしいことだと思うが、どうせなら解体を延期してもっと長く使えないものか。
そしてあの煌びやかに聳え立つ赤坂プりンスホテルが、東北大震災の避難民の受け入れ先になろうとは。
人々の運命と同じく、ホテルの運命も、最後まで判らないものである。