価値と価格

車のナンバーで「ご当地ナンバー」というのが増えているらしい。
日本では従来、ナンバープレートの形や色、文字、材質まで「実に」細かく法で規制されてきた。
こういう規制がはずれ、要望があれば地域で10万台以上の車輌登録があれば、「居住地」の地名がついたナンバープレートをつけることができるといいう。
テレビでは東北の平泉の人々が「ご当地ナンバー」の獲得を目指して署名活動を行っていた。
最近、NHK大河ドラマで「坂の上の雲」が放映された時、正岡子規の出身地の愛媛県では「雲を形どった」ナンバープレートをつくったそうだ。
愛媛県の車のナンバープレートをつけたまま全国を走れば、おのずから愛媛県の宣伝車となるわけだ。
日本経済センターの試算によれば、ナンバープレートの自由化により5億円の「経済効果」があるそうだ。
そ~んなにという気もするが、街中で見かける奇抜なカタチのナンバー・プレートは結構よく目立っている。
ところで、知り合いから聞いた話だが、TVのコマーシャルに登場する車は、「絶対に」品川ナンバーをつけて登場するのだそうだ。
以後ずっと気をつけてテレビのコマーシャルをみたが、その例外はなかった。
東京には、東京ナンバーの車はないものの、もうひとつ「足立ナンバー」の車があるノニである。
宣伝するタレントによって車の売れ行きが違うように、そんな微妙なことが車の「売り上げ」にも影響するものなのだろうか。よくわからない。
こんな大した意味もないナンバープレートの「規制」なんか、早く撤廃すればよかったノニ、と思う。
以上は明るく愉快な「規制緩和」だが、以下はヘビーめな「規制撤廃」の話である。

TPPの交渉で注目を浴びる「農業問題」だが、そのポイントは農作物の「輸入自由化」(=規制撤廃)によって農作物の消費者は利益を得る一方で、農作物の「輸入規制」によって利益をえるのは、生産者のうち「国際競争力」を持たない生産者であるということ。
そして日本の場合は、大多数の生産者がコレニ該当するということである。
農業については、日本の耕作面積は、米国からみればほんのワズカで、どんなに大規模化・効率化してみてもヤッパリ負ける。
だから大規模農法によるコスト安で勝負しようとする方向性は、勘違い平行棒である。
勝負するならば、値段は少々高くても「ゼッタイ安全・安心」という付加価値を付け加えればよい。
しかし、工業製品における「付加価値」を農作物に期待するのは無理かもしれない。
日本では「植物工場」なんかも登場して、従来の農業とは違う「工業的な」生産が行われている。
最近、スーパーの野菜売り場などで見かけるようになったパック入りの野菜の多くは、「植物工場」とよばれる施設でつくっている。
植物工場では生産環境を適切にコントロールすることで、高品質な(有機的な)野菜を効率的かつ計画的に生産することができる。
植物工場では、太陽光を使う場合と「LED照明」を使うものに大別されるが、コンピュ-タによって光の強さや量、温湿度、二酸化炭素濃度、培養液などの「環境制御で生産を最適化する点では同じである。
植物工場は、2009年の緊急経済対策として約146億円の補正予算が組み込まれている。
TPPにおける関税完全撤廃の問題は、関連する「生産者」サイドばかりに目がいくが、実は消費者の態度や価値判断も関係しているのである。
つまり消費者は、安いという理由で外国のものを買うかというとそうとばかりはイエない。
以下はあくまで「たとえば」の話だが、今スーパーにいけば「3パック60円」台という信じられない安値で「納豆」が売られている。
こんな安い値段で作れといわれたら、生産者は経営努力するとしても、賞味期限を延ばすために添加物を増やすとか、原料を偽装したりする「誘引」が増すことになる。
とするならば、納豆の「安さ」が果たしてヨロコバシイものとして、消費者に映るだろうか。
スイスは乳製品が高いといわれる。卵は一個70円以上だが、スイスの人々はあの景観と「自国の農業を守る」ためにそれを買う。
消費者に自分たちが「買い支える」という気概があり、「消費ナショナリズム」といっていいかもしれない。
また穀物価格の世界的な高騰により牛の飼料が値上がりした。
日本の場合、乳価を値上げして欲しいと牛乳の生産者団体が小売側に持ちかけても、却下されることが多い。
フランスやドイツであれば、もしスーパーが「生産者の権利」を脅かすカタチで商品を売っているという情報が流れると、途端に「不買運動」が広がるのだという。
基本的に、消費者の「成熟度」が違っている。
現代は消費者に「倫理」(ethics)という言葉が結びつく「エシカル・コンシューマー」の時代なのだ。
単純な「比較生費説」で貿易の自由化にオスミツキを与えるのは間違っている。
外国の生産者がどんなに安い生産費でモノをつくっても、消費者がそれを「選好」しなければ自由貿易は成立しないからだ。

ところで、TPP交渉において農業問題が「前面」に出てしまって、その陰に隠れカタチであんまり「表」に出ないものがたくさんある。
TPPは金融、保険、郵政、公共調達など多岐にわたるものであって、意図したかシナイか「情報開示」が充分でなく、なかなか具体像が描けない。
その中でも見過ごせないのは「医療」における規制緩和(自由化)である。
TPPの受け入れの結果、医療の自由化が本格的におきれば、医療格差が広がり、各人の「命」にまで格差生じる危険性がある。
金がなくて医者にかかれない、命が救えない「絶望」のことを思う。
もし病にかかったのが自分の子供であることなどを想像するならば、こんなヤルセナイことはない。
また、非正規雇用の拡大で健康保険料が払えずに病院にカカレナイ若者が増加している。
ホカの格差はまだ迂回方法があるが、「医療格差」だけはジカに人間の「生存権」に関わることなので、なんとしても避けなければならないことだと思う。
それとTPP交渉で誤認され易いことは、「環太平洋交渉」と冠された多角的な交渉に見えるが、総GDPの9割は日米関係なので、基本的には「日米の」貿易自由化交渉といってもイイぐらいのものだ。
また、TPP交渉が出現した「経緯」についても注意しなければならない。
自民党政権の時代には、米国から日本に対して「年次改革要望書」なるものが出されてきた。
これって内政干渉または国家間のパワハラに思えますが、医療分野でも米国の都合のよいように改変するため事細かな要求が出されてきたのである。
民主党政権になって、米国による「年次改革要望書」は止められていたが、昨年同要望書と同じ内容を含み更に上乗せをした協定としてTPPが出現したのである。
TPPは、アメリカ側の強い要求によって、その受け入れか否かを日本側に迫っているということなのだ。
その「黒船」の実態はヨク掴めぬまま「第二の開国」とか「国のかたち」の問題とまで言われてきた。
だから、果たして当面の「雇用拡大」とか「企業収益の増大」いう「目先の利益」に誘われて乗っかっていいものか、どうか。
TPPで問われるのは、日本人にとって「何が価値あることか」、「何を守らなければならないか」ということである。
その根本的な価値の問題として、「国民皆保険制度」について考えたい。
日本の保険制度はツギハギだらけだけれど、ナントカ保たれてきたのが「国民皆保険制度」である。
これは保険料と税金と自己負担で成り立っているもので、広く薄く集めて困った人を助けようという趣旨で生まれた制度である。
この制度を維持するために「混合診療」といわれるものを「原則禁止」としてきた。
「混合診療」とは、病院で普通の診察・治療のほかに、健康保険でカバーされていない治療や検査(保険適用外診療)を同時に行うことである。
特定の疾病に「特殊な治療」をうける場合は自費で支払うが、その場合一連の治療全体を全額自費にし、保険外診療の拡大に「歯止め」をカケテきたわけだ。
これによって「保険診療」を充実させ、誰でも破格の安さで「一定の質」の医療が受けられるという基盤をつくってきたのである。
しかしTPPを受け入れる結果、外国のように「混合診療」を全面解禁すれば、今の保険制度における「診療報酬」によらない、「自由価格」の医療市場が拡大することになる。
これは「利潤動機」を刺激するために、外資を含む民間資本に対して、魅力的かつ大きな市場が開放されることになる。
また、TPPによって株式会社の医療参入など規制緩和が実施されるようなことになれば、民間企業や投資家にとって魅力的な市場が開け、大きな「経済効果」を生むに違いない。
その一方で、医療保険の「給付範囲」が縮小され、社会保障の財源が縮小することになる。
はっきりいえば、お金持ちだけが「望む診療」を受けられるようになるということだ。
欧米では、公的保険制度では「一般医」以外を直接受診出来ない事が普通だという。
うまい具合に一般医を説得し、「専門医」を予約できたとしても、専門医に診てもらえるのは早くて2週間後なのだ。
一方、高額の民間医療保険入っている人や金持ちは、プライベートの病院を受診できる。
ここは完全予約制で、待ち時間なく、専門医に30分ほどかけてゆっくり診察してもらえるのだ。
公的保険制度がタヨリの庶民には、こうした医療はアクセス不能である。
これがアメリカの「医療格差」の実態で、TPPへの参加は、こうした制度が日本に持ち込まれようとしているのである。
実際に、既に日本の医療制度・国民皆保険は瀕死の状態であるので、このTPP受け入れによる「混成医療解禁」や「株式会社」の参加などの規制撤廃の「衝撃」は軽くないだろう。
「息の根を止められる」と書こうとしたら、10月15日の朝日新聞によれば、混成診療や株式会社はTPPの議題に上っていないということが書いてあった。
TPP交渉で「議題にならない」ということは、そこまでは要求されてイナイということなのだろうか。
外堀を埋めて「本丸」を攻められるということもあるし、一旦「外堀」を埋めれば後には戻れない。
またTPPについては関税の原則撤廃に加え、労働力や金融など各種サービスの輸入も原則自由化するというものである。
外国の企業や人の往来もさらに激しくなるであろう。
労働について思い浮かべることは、オーストラリア人の大学院生が京都の芸妓として置屋に入ることを拒否されたことがニュースとなっていたが、京都祗園の芸妓の世界も大相撲並みに外国人によって占拠されるというのは、まったくあり得ない話ではないのだ。
ところで、TPP参加による規制撤廃で日本の保険制度がどこまで「維持」できるのか「ストレステスト」が欲しいところだが、日本と同じく「国民皆保険制度」のある韓国をケース・スタディとして取り上げたい。
韓米FTAによって「保険適用除外」を認める規定が盛り込まれ、韓国ではこれに即して「経済特区」をつくり、通常の6~7倍もの治療費で診療を受ける大型病院の建設が進められる見込みだという。
また、医薬品の認証制度も国から独立した機関が担う仕組みに変更され、米国との「協議機関」を設置、そこで認証が行われることになっているという。
日本に話を戻せば、日本の医療と保険制度には随分と「病んだ部分」があり、TPP参加による「規制撤廃」で「病み」を解消できる部分もあることも事実であろう。
日本の場合、1961年の国民皆保険の導入により、皮肉にも医師側にイビツな「利潤追求マインド」を植えつけたことも否定できないのである。
治療行為による報酬を出来高払いという自分の裁量のまま「診療報酬」として請求できるのだから、医者は「打出の小槌」を握ったようなものだ。
患者は金のなる木であって、その気になりさえすれば、収入をどのようにでもコントロールできる構造ができあがった。
また、製薬会社はこうした医療保険に守られた産業といっていい。
医者にかかったときに病院や診療所から出される医薬品は、医療機関では患者に投与した医薬品を 医者に対する技術料たる「診療報酬」と一緒に健康保険に請求する。
この請求する価格となるのが厚生大臣が定めた「薬価基準価格」である。
だから、医薬品を開発・製造する製薬会社にとっては医者がどれだけ薬を使ってくれるかによって、売上高や利益が違ってくる。
そこで医者は、製薬会社を中心とした業者からの過剰なリベートや接待をうける素地が生まれるのである。
さらに、医薬品の実際の購入価格が薬価基準価格より安いために、医者からすれば使えば使うほど 儲けがでることになる。
そして患者は「薬づけ」になってさらに病状は悪化することになる。
このように医薬品の消費は製薬会社と医療機関の利益に繋がり、この原資はすべて医療保険から出ることになる。
税金とほとんど変わらぬ「保険料」で医者も製薬会社も大もうけしているのだから、どこか病んでいると思うのが自然である。
日本の医療は薬価基準や新薬テストなどに見る如く、官僚と製薬会社と医者が組んで、健康保険の赤字を累積させてきたから、「外資導入」はこうしたことに「風穴」があいて大歓迎という面もあるかもしれない。
そしてヤブ医者が淘汰されるのもイイ。
外国では安く手に入る薬が、日本では容易に手に入らないので、病人側からすればもっと「自由化」してほしいという面も大きいだろう。
以上のように問題含みの公的健康保険制度であるが、それが崩壊すれば最後の望みのツナは税金だが、これ以上「増税」では国民の生活や弱者の生存権に響くことなので、結局は同じことだ。
それで国はもはや「面倒みきれない」ので、健康や安全は「自分で守ろう」という社会になる。
そして「健康」と日常的に関係が深いのが「食の安全」であり、TPP参加問題がいかに「身近な」問題としてアルカということを思わせられる。

ところで、経済学という学問はアダムスミスらの「古典派」によって始められ、それに属するリカードの「比較生産費説」による自由貿易論が唱えられた。
近年、「スミスに戻れ」をスローガンにケインズ経済学から「古典派」の復権が図られ、「新古典派」によって市場万能主義が唱えられるようになった。
アメリカという国は、この「市場万能主義」を食糧にも医療の分野でも、世界に広げんとしているわけである。つまり「例外なき」グローバリゼーションということだ。
ただ、アダムスミスらの「古典派」とフリードマンらの「新古典派」には「決定的」な違いがある。
新古典派は「価格」を問題にしたのに対して、古典派は「価値」を問題にしたということである。
この価値は、需要と供給には依存せずに「独立して」アルものだ。
では古典派は商品の「価値の基準」をどこに置いたかというと、商品に投下された「労働量」である。
日本人にとって「何が価値あるもの」か、TPP参加問題で問われている。
そこで、「価格」で勝負するのではなく、「価値」で勝負するという道もある。