アメリカと筑後史

先日、アメリカの上院議員ダニエル・イノウエ氏が菅首相を表敬訪問された。
東北大震災への慰労・激励と、アメリカの普天間基地の「名護市辺野古への移設」推進が大きな目的であったようだ。
実はD・イノウエ上院議員の名前は、ここのところよく聞く名前である。
米議会において上院議員は、日本の参議院とくらべても威信があり、イノウエ氏は1963年ハワイ選出以来その地位を43年間もつとめた「最古参」の上院議員なのだ。
日系人で上院議員になったのはイノウエ氏が初めてのことであり、そのうえ「上院議会議長」の地位にある。
上院議長は大統領継承順位で「第3位」の高位にあたる。
「第三の男」イノウエ氏はアメリカの議会史上「アジア系アメリカ」人が得た地位としては、最上位の地位に就いたことになる。
さてD・イノウエ氏のルーツは、福岡県八女郡横山村(現八女市広川町)にある。
1899年9月、家屋の失火による借金を返済する為に、イノウエ氏の祖父母・両親はからハワイに渡った。イノウエ氏は1924年に当時アメリカの準州であったハワイのホノルルで生まれ、ハワイ大学マノア校に進学した。
ところがハワイ生まれの日系人としては、「晴天の霹靂」という言葉ではオサマリきれないような出来事が起きる。
1941年12月にイノウエ氏がいまだハワイ大学在学中に、日本軍による「真珠湾攻撃」が行われたのだ。
太平洋戦争がはじまった1941年12月7日は、アメリカに住む日系人にとって「運命の日」となった。
1941年真珠湾攻撃により、それまで日系人がこの地で築いてきたものが一気に覆された。
日系人の主要人物は憲兵隊や警察により連行されオアフ島の収容所にいれられた。
この日の未明、日本軍は、ハワイの真珠湾に配備されていたアメリカ軍の艦艇、航空機に対して奇襲を加え、数時間にわたって爆撃を行なった。
攻撃の翌日には,日系一世の預金が凍結され、日系商店の中には閉鎖を命じられるものが続出した。
日系人は10人以上集まってはいけない、家から15マイル(24キロ以上)遠くに行くな、バスの中には英語で話せといった指令がでる。
ハワイの日本人の逮捕抑留は、真珠湾攻撃の当日のうちに開始され、FBIは8日の夕方までに潜在的に危険とみなされた日本人345人の身柄が拘束された。
当局はその後も引き続き社会的・宗教的・知的レベルの日系一世を中心とする日系人144人を逮捕し、そのうち3分の2を強制収容した。
また、12月30日には、禁制品捜査のための敵性外国人家宅捜査令状を出すことが認められ、昼夜を問わず数千の日系家庭への家宅捜査が始められた。
家宅捜査を警戒し、アメリカに対する忠誠心を疑われることを恐れた日系人の家族は、それまで部屋に飾っていた天皇の写真を隠したり、神社の祠を地下に埋めた。
また日本語の本や日記、日本にいる親戚の写真、アルバム、日本刀といった日本に関する品物を処分した。
時に暴力をともなう日系人攻撃におびえ、敵国人として扱われることを恐れる人々は、他人の巻き添えになることも恐れ、抑留された日本人の妻や子供達に対して、冷たく突き放すことも少なくなかったという。
日系2世の若者達は、こぞってアメリカ軍隊の入隊を志願し信頼を取り戻そうとした。
そして、ルーズベルト大統領により、アメリカ陸軍「第442連隊戦闘団」が新たに編成されることになった。
そしてハワイ島から2700人が入隊したが、その中にD・イノウエもいたのである。
しかし、ハワイの日系人の心は複雑であった。開戦によって大半の日系人がアメリカに対する「忠誠心」を明らかにしたが、中には依然として「親日的」姿勢をあらわすものも少なからずいたからである。
皇軍や日本民族の「優越性」を最後まで信じて、日本軍優勢の噂も跡をたたず、終戦後になっても日本の敗戦を信じない者までいた。
つまり真珠湾攻撃がハワイの日系人社会に与えた「亀裂」は癒しがたいものとして記憶されることになったのである。
アメリカ人としての「忠誠心」を示すために、積極的にアメリカ軍に志願した者達は「第442連隊」に配属され、遠く「ヨーロッパ前線」で戦うことになったのである。
つまり「最前線の死地」に派遣されたのだ。
第422連隊は、同じ日系人部隊100部隊と共に、イタリアでナチス=ドイツ軍と戦った。
そして、死をもおそれぬ日系人部隊の活躍は、数々の勲章をうけ、アメリカ国民の賞賛をうけた。
イノウエ氏も、第442連隊戦闘団に属し、イタリアにおけるドイツ国防軍との戦いにおいて、1945年4月に「右腕」を失っている。
その後、2年近く入院したものの、多くの部隊員と共に数々の「勲章」を授与され帰国し、日系アメリカ人社会だけでなくアメリカ陸軍から「英雄」として讃えられた。
そして、日系二世部隊の犠牲的な活躍は、真珠湾攻撃で失われた「日系人の信頼」を取り戻した。
日系人部隊の活躍は「ゴーフォーブローク(あたってくだけろ)」というハリウッド映画にもなっている。
その後もハワイの日系人は、様々な苦難を「アロハ精神」とよぶ助け合いの精神で互いに支えあって生き抜いたのである。
その後、Dイノウエ氏はハワイ大学に復学するも、利き腕を失ったために、当初目指していた「医学の道」をアキラメざるをえなかった。
しかし、「名誉の負傷」はイノウエ氏のその後の政界進出にはマイナスではなく、プラスに働いたようだ。
1954年にはハワイ議会の議員に当選し、1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、「アメリカ初の日系人議員」となった。
1963年には上院議員として選出され、1973年のウォータゲート事件や1987年にはイラン・コントラ事件の「上院調査特別委委員長」となり内外に注目を浴びる存在へとなっていった。
そして現在、アメリカ軍の予算に大きな権限を持つ「上院歳出委員会・国防小委員会」の民主党長老議員として重責を担っている。
ところで、米議会における上院議員は、定員も100人でと少なく、任期も6年と長い。
必然的に上院議員は、その競争も熾烈にならざるを得ない。
選挙力が乏しく、同胞の組織化さえママならぬマイノリティーが、それほど長い間にその地位を維持できるのはソレナリのバックがあったと見るのは当然である。
バラク・オバマ大統領もそうだが、イノウエ氏は「ユダヤ社会」から絶大の支持を受けている。
そして、その方面からの支持と多額の献金があるといわれている。
ただし、イノウエ氏は単に「政治的打算」によってユダヤ社会と結びついたわけではなく、青年時代にユダヤ教を深く学び、「改宗」さえも考えていた時期があったという。
ということから、イノウエ氏もアメリカ社会における「新保守主義」(ネオコン)の潮流に棹差す最有力者の一人とみてよい。

福岡県南部の八女は、「日系人初」の上院議員D・イノウエのルーツあるところだが、「日系人初」の宇宙飛行士・エリソン・オニズカのルーツである「うけは」(浮羽)もそこから近い。
そしてこの二人の「日系人初」には、微妙なカラミがあるといっていい。
まず二人は、同じハワイで生まれ育った。そのことがD・イノウエからE・オニズカへと引き渡される「バトン」を用意したといってよい。
オニズカの祖父・鬼塚吉平と祖母・ワカノも1890年代に福岡県からオアフ島にやってきた。
いわゆる官約移民であり、そこでコーヒー畑をつくり、日用雑貨店のオニズカ・ストアをたてる。
夫婦は、7人の子どもを育てその一人が正光でタクシー運転手の仕事をした。
正光は、広島県出身でハワイ島のコナでコーヒー栽培をしていた長田光江と結婚する。
1946年6月24日この日系2世である正光と光江との間にハワイ島コナ郊外のケオプ村に長男として生まれた子がエリソン・オニズカである。
エリソン・オニズカは、コナの町のコナワエナ高校にすすみ学校の勉強以外にもボーイスカウトやコナの本願寺のYBA(仏教青年会)でも活躍した。
そして成績人柄すべてがすぐれた生徒でなければ選ばれない「ナショナル・オーナー・ソサィエティ」というクラブのメンバーに選ばれ成績も卒業時点で学年のトップになっていた。
オニズカは、1964年にコロラド大学に入学し航空宇宙工学を学び予備将校訓練コースに入った。
この体験が、後に「宇宙飛行士への道」を開かせることになる。
1969年大学を卒業し、アメリカ空軍の少尉となった。その翌日、3歳年下のハワイ島出身の日系3世ローラ・レイコ・ヨシダとコロラド州デンバーの寺院で結婚式をあげた。
その1ヶ月後、アポロ11号が月面着陸をした。
さらにオニズカは、1978年1月スペースシャトル計画に選ばれた35人(78年組)の宇宙飛行士の一人に選ばれ、翌年にはスペースシャトルの10回目の飛行「STS-10」の乗組員に指名された。
この時オニズカは、真珠湾攻撃後の日系人2世の戦闘部隊第「442連隊」の犠牲がハワイ日系人の「信頼回復」につながったということを痛切に思ったという。
オニズカは、ディスカバリー号に搭乗しアジア系の人間としてはじめて宇宙に飛んだのだ。
1985年1月24日 アメリカ東部時間 午後1時41分 ディスカバリー号発射(5人の宇宙飛行士)初飛行をする。
オニズカは帰還後、ハワイのそして「日系人の英雄」となった。
そして1986年1月26日に計画されていた第二のミッションを待った。このミッションにはアジア人で誰もやったことのない「宇宙遊泳」も含まれていた。
しかし当日はとても風が強くミッションは1月27日まで延期された。
さらに翌日にはボルトのユルミが見つかり、ミッションはさらに1月28日に延期された。
その日、乗組員は8時23分に搭乗した。
ツララと水道管の損傷のために室内温度は27度にまでさがりミッションは11時30分にまで延期された。
11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。
男5人女2人、白人・黒人・日系人と「多様な」顔ぶれであった。
最初の1分30秒間は正常な飛行がなされた。次には「悲劇的な瞬間」が待っていた。
チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は全員が青空に命を散らせた。
エリソン・オニズカとともにクリタ・マコーリフという名の教師がミッションに参加していた。彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であった。
アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。
これは、世界初のスペースシャトルからアメリカにむけて、さらには世界中にむけての「授業」となる予定であった。
1986年1月27日午前9時38分。スペースシャトル爆破により7人の飛行士がなくなった。
彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走りハワイの「英雄の死」を悼んだ。

福岡県の南部筑後地方を八女からさらに山間の地に向かうと星野村がある。
星野村には今尚、「世界初」の火が燃え続けている。
星野村で燃えている一体の火とは、1945年8月6日に広島に投下された原爆の「残り火」で、ある。
星野村はお茶の産地として知られ、その棚田の風景は心を和ませてくれるし、星野村の名前どうり日本で最も美しい星が見られる町という「謳い文句」でとおっている。
そんなムラに「原爆の火」があるとは、「信じがたい」ような長閑な風景が広がる土地である。
1945年8月6日午前8時15分、人類史上はじめて広島市に原爆が投下され、灼熱の閃光は10万近くの人名を一瞬のうちに焼き尽くした。
その時、兵役の任務のために汽車に乗って広島近郊を移動していた一人の男性がいた。
この星野村出身の山本達男氏は、今まで体験したこともない大地を震わす爆弾音に衝撃をうけ、広島市で書店を営んでいる「叔父の安否」を気遣かった。
現場に近づくにつれその惨状に先に進むことができなくなり、ひと月の間をおいてようやく叔父の営む書店の場所へ足を運ぶことになった。
だが、あたり一面焼け野原となった書店の跡地に叔父の姿があるはずもなく、遺品になるものさえ見つけることができなかった。
しかし山本氏は、そこでなおもクスブリ続けている火を「叔父の魂」の残り火として故郷・星野村に持ち帰ることにしたのである。
その原爆の火は山本氏宅でそれ以後11年あまり絶やさず灯し続けられたが、その火のことを知った星野村全村民は1968年8月6日、平和を願う「供養の火」として永遠に灯し続けようという要望をだし、星野村役場でその火を引継ぐことになった。
さらに、被爆五十周年を迎えた1995年三月には、「星のふるさと公園」の一角に、新しい平和の塔が建立され、福岡県被爆者団体協議会による「原爆死没者慰霊の碑」とともに「平和の広場」の一角が整備されたのである。
この「残り火」は、全国にも知られていき、神奈川県原爆被災者の会では、被爆45周年の記念として、星野村役場にお願いし、「分火」して戴き平和の祈りを込めて「原爆の火の塔」を建立している。
さてキューバを旅したことのある吉田沙由里という一人の日本人女性ジャーナリストがいた。
吉田女史はその旅で、キュ-バでは核兵器などに対する意識がきわめて高く、広島・長崎などの地名をよく知っていることに驚いたである。
キュ-バが「社会主義」になったのは、1950年代のフェデロ・カストロとチェ・ゲバラをリ-ダ-とする革命よるものであった。
キュ-バには革命の英雄・ゲバラの似顔絵がいたるところに描かれているのだが、そうした「核意識」の高さの背景に、このチェ・ゲバラの存在があることを知った。
実はチェ・ゲバラは、キューバ革命から半年後の1959年に広島を訪れたのであるが、当時31歳のゲバラは原爆資料館を訪ね大きな衝撃をうけた。
ゲバラはその時に撮った広島の慰霊碑を写した写真を革命の朋友カストロに見せ、ぜひ広島を訪問するようにすすめたのである。(そして実際に最近2003年3月にカストロ議長は広島を訪れている。)
もちろん、キューバにおける「核意識」の高さの背景には、カストロ政権下でおきた「キュ-バ危機」が忘れられない記憶として残っているからである。
キュ-バ危機は、1962年ソ連がキューバに核ミサイルを突然配備しそれに対してアメリカのケネディ大統領が、核ミサイルを撤去しなければ核戦争も辞さずと対抗し、ソ連は核ミサイルを「撤去」したという出来事である。
「核戦争」一歩手前にまでいったキューバでは、毎年8月6日にカストロ議長自ら演説台に立ち日本の被爆者を偲び、「この日を忘れてはいけない」と訴え続けている。
また学校の授業では、歴史の時間に日本の原爆を勉強したり、毎年テレビなどは朝から原爆関係の映像を流し、慰霊関係の行事も頻繁に行われているという。
こうしたキュ-バでの体験をした吉田女史は、星野村で燃え続ける灯火を知り、NGO「世界ともしびプロジェクト」をたちあげた。
これは星野村の火を平和の灯火として世界に分与しようというプロジェクトである。そして、第一回「分火国」としてキューバが選ばれたのである。
(今のところ、諸般の事情により、まだ実現していません)。
なお、エリソン・オニズカの実家近くに小さな川があるが、その川に架かる橋には宇宙飛行士姿のオニズカの写真が埋めこまれており、「エリソン・オニズカ・ブリッジ」と名づけられている。