バーレスク

ある人は人生を劇になぞらえ、人生とは一つの舞台である役割を演じることだという人もいる。
そういえば、人間(パーソン)は「仮面」を意味する「ペルソナ」と語源が同じであるということにもあらわれている。
またある恋愛の大家は、恋愛とは共演者を探していことだと言った。
また大衆演劇の梅沢富美男先生によると「稽古不足を幕はまたない、恋はいつでも初舞台」なのだそうだ。
とはいっても、全ての人間が人生における自分に相応しいと思える「役柄」が見出せるわけではないし、相応しい共演者を見出せるわけでもない。
ひとはそんなにはまった「役柄」を見出せないのがフツーで、そしてそんな「絵」に描かれたような人生の舞台は存在しない。
世の中で蔓延している問題の一つはそういう当然の「前提」がとても稀薄になっている、ということではないのか。
最近、黒澤明の「天国と地獄」という映画に、そんな現代的メッセージをうけとった。
人間はそれでも、ナニをしてもドウやってでも生きていかねばならないことを「自然に」学ぶ機会が失われているのではないかと思う。
その理由は、幼少の頃より「こうあるべき」という「舞台セッテイング」を周囲(環境)よりあまりにも「入念に」されてきたため、そこからハズレた時の「生きる術」が思い浮かばないのである。
つまり頭に描いたのとは「違う」舞台にはとても生きられいと思う人々が増えているのだ。(不況体験しかしらない若者は少し違うみたい)
ハヤバヤと舞台を降りてしまって、これ以上の出演を拒否しているようなものかもしれない。
あるいは、思いとは「違った」舞台を生きることについて、とてつもない憤懣を押し込めて生きている。
それが秋葉原の「無差別殺人事件」であったのかもしれない。
一方で、自分が生きる舞台が存在しないのならば、自らで創りだす人もいる。

現在上映中の映画「バーレスク」は、若手実力派女性歌手のクリスティーナ・アギレラが出演して注目をあびている。
この映画は、ゴージャスなショーを繰り広げる大人のためのクラブ、バーレスクでダンサーとしての「舞台」を次第に「創りだし」て行く物語である。
地方からでてきた女の子アリが歌手になる夢をみてロサンゼルにやってきた。 アリはまず、テス(シェール)という往年のスターが経営するバーレスク・クラブでウイトレスとして働き始める。
クラブの舞台でのショーに魅せられたアリは自分もいつかステージに立ちたいと希望し、やがて天性の才能を開花させて「センター」を取る。
そしてクラブは大盛況を極めていく。
しかし、AKB48の大島と前田のように「センター」を争ったダンサー同志のプライドの激突、クラブ買収の危機などもあり、果たしてテスとアリは力を合わせてクラブを救えるのかという展開である。
さて、この映画の役柄「アリ」がアギレラ自身の人生と重なっているように直感した。
それはちょうど、かつてマドンナが、「エビータ」を演じた時に感じたものと同じであった。
個人的な話だが、数年前アギレラの歌声を飛行機のイヤホンで聞いた時に衝撃をうけた。
曲は多分「ジェニー・イン・ザ・ボトル」だったと思うが、この人がもつ歌のウマサなどという次元ではなくツラ魂、ではなく「歌魂(うただましい)」が一体どこから来るか、とまず思った。
その衝撃は、二葉ゆり子の「岸壁の母」を聞いた時以来のことであった。「岸壁~~}はもう「ガンペキ」などというものではなく、「カンペキ」だった。
そして、その「歌魂」に「カンゲキ」したのだ。
さっそくアギレラのCDを買って聞いたところ、「So Emotional」なんかは宇多田光の「オートマチック」とそっくりではないか。
年代からいっても宇多田光がアギレラから相当影響をうけたことは間違いない。
と、勝手に思って「宇多田」と「アギレラ」を検索に入力してしたところ、「芸能人の身長」というマニアックなサイトがあって、そこの「身長158センチ」のところに名前があった。
「ブリトニー、宇多田ヒカル、安室奈美恵、後藤真希、Eカスバート、鈴木亜美、矢井田瞳、愛内里菜 」と並んでクリスティーナ・アギレラがあった。
そこで「158センチメートル」は、歌姫になる最も確率の高い身長であることを発見した。
ということは音楽好きの我が娘も!
さらに映画を見て発見したのは、アギレラは最近「マリリン・モンロー」スタイルで歌っているせいか随分大人っぽい感じの女性と思い込んでいたら、素顔はとてもかわいらしい「普通の女の子」ということであった。
しかしその歌唱力たるや、バーレスクの女経営者テスが映画の中で言うごとくに、「あんな歌は並みの人生経験では歌えない」ということである。

ミュージシャンとして人気と評価を集めてきたクリスティーナ・アギレラだが、「バーレスク」が映画初出演となった。
アギレラによると、ずっと映画はやりたいと思っていて何度かオファーも来ていたが、心から出演したいと思えるものがなかなか見つからなかった。
この映画の話が来た時、「これだ」と思ったという。
なにしろ彼女が「バーレスク」で演じたのは歌手を夢見て田舎から都会へと出てきた女の子の物語である。
未知の世界へと飛び込みスターの階段をのぼっていく過程は、おそらくアギレラ自身と重なる部分も多かったにちがいない。
彼女自身、エンターテインメントの世界に初めて入ったときのことも思い出し、「新しい世界で何でも吸収したい」という気持ちは、アリという役柄に通じるものがあると語っている。
そんな、彼女の「女優デビュー」に力をを与えたのは、アギレラと同じく歌手であり、女優としても大成功をおさめている大スター、シェールだった。
「シェールは会った最初の日から温かく迎え入れてくれて、人間としても女優としてもいろんなことを教えてくれました。彼女と出会ったことで、私は変わりましたし、成長することができた」と語っている。
映画「バーレスク」は、不思議と映画の役柄と実人生が重なっているのである。
そしてそれは新旧の歌姫の競演を意味することでもあった。
シェールは、1998年にシングル"Believe"が大ヒットし、各国で1位を記録してその歌唱力は世界を席捲したほどの実力派である。
そしてシェールは、この曲によりグラミー賞を受賞した。
彼女は、インデアン(チェロキー族)の血を受け継いだ独特の風貌と声で1980年代に女優として活動を始め、1984年の「マスク」にも登場している。
また 1987年の「月の輝く夜に」でアカデミー主演女優賞を受賞している。
アギレラにとってシェールとの競演が女優業へのステップにハズミをつけたと思うが、そんなアギレラがいつかやってみたいと語ったのが「17歳のカルテ」の中のアンジェリーナ・ジョリーが演じたような「役柄」なのだそうだ。
という話を聞くと、クリスティ-ナ・アギレラという人物にある暗い「トラウマ」めいたものを感じる。
「17歳のカルテ」は原作者が「境界性人格障害」で精神科入院歴のあり、精神病棟を患者の視点で赤裸々に描いたものであった。
監督が原作に惚れ込んで映画化権を買い取り、制作総指揮を買って出て制作されたものだそうだ。
しばしばジャック・ニコルソンの「カッコーの巣の上で」と比較されるらしいが、「17歳のカルテ」の方はあくまでもノンフィクションである。
ある日突然、自殺未遂を起こして精神病院に収容されたスザンナは、人格障害という自覚が無く、その環境に馴染めなかったたが、病棟のボス的存在であるリサ(アンジェリーナ・ジョリー)の、精神病患者である事を誇るかのような態度に魅かれる。
そのうちに、精神病院こそが自分の「居場所」と感じるようになっていく。
しかしある出来事をきっかけにスザンナはリサの行動に疑問を持つようになりその事でリサに疎んじられ、他の患者は全員リサに同調して彼女は孤立していく。スザンナは、「精神病院」でも居場所を失って行くのである。
しかしスザンナは、リサとグルになった患者と全面対決をするに至ったことを通じて、それだけに強気な行動に出られた「自分」を発見し、ようやく社会復帰を目指さなくてはならないことを自覚して退院していくというストーリーである。
いまや当代NO1の女優で輝く女優となった感のあるアンジェリーナ・ジョリーであるが、父親はジョン・ボイトで映画「真夜中のカウボーイ」で、ニューヨークの片隅で、ダスティン・ホフマン演じる「ねずみ」と共にどん底の生活を送る田舎出の若者の「役柄」を演じていたのが懐かしい。
ハリウッド俳優の家に生まれた彼女であるから、さぞや恵まれた環境で育ったのかと思って調べてみたら、実際は全く違っていた。
女優のスタートは、両親の離婚後11歳の頃にロサンゼルスに戻るとアクターズ・スタジオで演技を学び舞台に立つようになったことである。
その後ビバリーヒルズにある高等学校の演劇クラスに進学するも病弱な母の収入は決して多いとは言えず、ジョリーも度々古着を着用するなど家庭環境が恵まれていなかったため裕福な家庭が多いビバリーヒルズにおいて徐々に孤立していったという。
さらに、ジョリーが極端に痩せていたことや、サングラス、歯列矯正の器具などを着用していたことが他の生徒からのイジメをまねく結果となった。
さらにモデルとしての活動が不成功に終わったことで、ジョリーの自尊心もズタズタで、自傷行為を始めた。
自傷行為の時だけが生きているという実感が沸き、開放感に満たされ癒しを感じたという。
ついにジョリーは14歳で演劇クラスを離れ、激しい自己嫌悪からナント将来の希望を「葬儀の現場監督」とし、実際に彼女は葬儀会社へアルバイトとして遺体の「死化粧」を施す担当をするなど「死」というものに身近に接していたという。
なんと、アンジェリーナ・ジョリーは「おくりびと」の一員だったのである。
また、常に黒の衣装を身に纏い髪を紫に染めたりして、異様としかいいようもない生活を送ったが、母が住む家から僅か数ブロックだけ離れたガレージの上にあるアパートメントを借り、再び演劇を学んで高等学校を卒業したという。
となるとアンジェリーナ・ジョリーの出演作「17歳のカルテ」も、役柄と人生とが随分重なるものだと思った。
とはいってもそれは偶然ではなく、それらが重なるからこそ「役柄」を引き受けたのであろうし、そこ人にはできない、つまり「自分の舞台」を創りだすことができたのだと思う。

さてクリスティーナ・アギレラの「生い立ち」であるが、エクアドル出身のアメリカ陸軍軍曹の父と、アイルランド系アメリカ人でスペイン語教師である母との間に、ニューヨーク市のスタテン島で生を受けた。
世界各地の米軍基地で育つが、7歳の頃に父親の虐待が原因で両親が離婚した。
妹と共に母に連れられ祖母の住むペンシルベニア州ウェックスフォードに移り住む。
母親の再婚後は継父と三人の異父弟妹と共に暮らしていた。3歳~6歳まで日本に住んでいたという。
あるインタビューでアギレラは、「教師だった母は父親のDVで家を出たり戻ったりを繰り返し、結局離婚して私は母に引き取られ、その後祖母のところで世話になった。しかし母が再婚した後は、継父の三人の連れ子との暮らしが始まった」と振り返った。
そして、父親による暴力におびえた幼年時代の告白や、社会的弱者への共感を歌った「ビューティフル」などが高く評価されている。
最近のニュースによると、アギレラはある種の「強迫神経性」の状態にあることをカミングアウトしたのだという。
それは、次から次へと環境が変わり、一度も安定感があり、安心できるような生活を送った覚えがないのが原因なのだという。
このことが影響し、アギレラは今の生活において、すべてが秩序よくきちんと並べられ、彼女のやり方どおり数などに妙なこだわりを見せてしまうという「強迫性障害」の只中にあるという。
それはおそらく自分の幼い時期の環境が、あまりにも変化だらけで悲惨なものであったせいだと分析しているようだ。
ただしアギレラは、音楽こそが彼女の忌まわしい幼少期の思い出から救い出してくれているとも語った。
「暴力行為が蔓延していた家庭で育った私は、逃げる気持ちもあって、どんどん音楽の世界に引き込まれていった。その結果こうして頑張れている」と語っている。

役柄が人生そのものになったケースとして、「ロッキー」のシルベスター・スタローンを思い出す。
30歳で、全く無名のシルベスター・スタローンは端役のチンピラ役を中心にポルノ映画にも出演する役者だった。
彼はチャック・ウェップナーという三流ボクサーの姿を見てこの無名ボクサーの奮闘に触発され3日間で脚本を書き売り込んだ。
これが世界的ヒットとなった「ロッキー」だった。エキストラさえ集まらずリングの周辺以外は真っ暗にしての撮影となった。
「ロッキー」のヒットはアメリカン・ドリームとして素晴らしいことなのだが、クリスティーナ・アギレラやアンジェリーナ・ジョリーの場合は、実人生において自分の「居場所」を失っていた。
文字通り「自分の舞台」は自分で創りあげた感じである。それ故に、「ロッキー」的なサクセス・ストーリーではないような気もする。
舞台から降りたその時「自分は負け」という強迫観念が彼らを支えているのかもしれない、と思ったりもした。
人生も舞台も、失う役柄がもあれば、転がりこんでくる役柄もある。
ところで「おはこ」という言葉の由来は、江戸時代の歌舞伎役者7代目市川團十郎が「歌舞妓狂言組十八番」を制定して、それを箱に入れて大切に保管していたことに由来している。
代々の團十郎によって、この「歌舞伎十八番」の演目は大切に受け継がれており、このことから世間一般でも得意芸のことを「十八番(おはこ)」というようになったという。
昨年より世間を騒がせた事件で市川海老蔵氏は、正月公演がお休みになったらしい。
急遽片岡愛之助が成田屋の十八番である「歌舞妓狂言組十八番」演じているそうだが、大変な好評らしい。
代役の方が良かったと言われるほどイタイものはない。
ちなみに片岡愛之助は、歌舞伎界では珍しく一般家庭の出のようで、歌舞伎ファンの間では、「ラブリン」と呼ばれてる。
ところで「バーレスク」という言葉はアメリカでは半裸のショーと同義となってしまったが、語源的には単なる「エンターテインメント」以上の深い意味が込められているという。
その起源は古代ギリシアのホメロスの作品にもみられるが、16世紀のイタリアにこの種の傾向が生まれ、「悪ふざけ」「冗談」の意のイタリア語のブルラ(Burla)から発したブルレスコ(Burlesco)がフランス語ビュルレスク(Burlesque)となり、さらに英語化したものだという。
したがって「バーレスク」とは本来は文学、演劇、音楽などにおいて、正統的な作品を改作、戯画化したもので、もじり詩、風刺文、戯作、茶番狂言などをいうものだそうだ。
とすると世間を騒がせた市川海老蔵暴行事件、これを「バーレスク」とよばずして何とよびましょう。