その一族にして

B'zの松本孝弘氏が世界的な音楽賞・グラミー賞を受賞されたが、松本氏は大阪府豊中市に生まれで、中学校以降は東京都足立区で育っている。
松本氏の場合人口の多い(下町的)都会のゆえか、その故郷が話題になることは少ないが、相方のボーカル稲葉浩志の実家の方はしばしば話題にのぼる。
稲葉氏の実家は岡山県の津山市で化粧品店を経営していて、今なお津山観光の目玉になっているという。
津山は桜が美しい山間の城下町で、1603年信濃川中島藩より森忠政(森蘭丸の弟)が18万6千5百石にて入封し、津山藩が立藩した。
ちなみに森蘭丸は信長に仕えた美男の小姓として有名だが、当時の信長の家臣に「稲葉一鉄」がいたからして、津山には「稲葉氏」を名乗る士族でもいるのではないかと思って調べてみたが、それらしき系統を見出すことはできなかった。
ただし津山には、稲葉浩志の他に俳優のオダギリジョーやTVアナウンサーの押坂忍といったイケメンが多い町であることを知った。
となると、この津山には彼らを生んだ「美しい姫」もいたのではないかと推測する。
ところで、一族の中に評判の「あの人」や歴史上の「かの人」がいるというのは誇りであったり、刺激であったり、時には重荷であったりすることもあるのだろう。
そして、DNAのフルマイばかりではなく、その人物をどこかで意識しつつ目標として生きるという意味で、「一族の者」は心理面でも少なからぬ影響を与えるものではないだろうか。
そしてそれは広い意味での「一族」である小藩においても、ある程度あてはまることではないかと思う。

福岡県の南部筑後地方柳川は、有明の海に面する水郷の街として全国的に知られている。
ゆれる柳を映す水面を船頭の巧みな櫂捌きに揺られながら、赤レンガや白壁を眺めながらの川下りは、今なお優しく人々の心を包んでくれるようだ。
その川くだりの途中で、船頭さんが、「ここがオノ・ヨーコさんのご先祖の家です」という声が聞こえ、ハットとして目をあげると「黒い門構え」が見えた。
ジョン・レノン夫人のルーツは、こんな古くて穏やかな風景の中に隠れてあったのかと驚いた。
自宅に帰って、オノ・ヨ-コの家系を辿ると柳川生まれの小野英二郎という明治の著名な財界人を見つけた。
彼の先祖は、戦国時代柳川藩・立花宗茂の家老で、小野鎮幸という人物である。
関ヶ原後は加藤清正に仕え、「日本七槍」・立花四天王の一人に数えられる勇猛な武士であった。
小野英二郎の長男である小野俊一は東京帝大中退後ロシアの大学に留学し動物学を学んだ。
そこで知り合った帝政ロシア貴族の血を引くアンナ・ブブノアという女性と結婚する。
そして二人は駆け落ち同然にして日本にやってきた。
この小野俊一の三男が小野英輔で、オノ・ヨーコの父にあたる。小野英輔は横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取などした銀行家である。
しかし小野英輔は俊一とアンナとの間にできた子供ではないので、オノ・ヨーコにロシア人貴族の血が流れているわけではない。
オノ・ヨーコの父・小野英輔はいつも海外出張で、母は色々な交際で多忙のため、母の里にある別荘で育ったという。
その別荘の庭はとてつもなく広大で、お手伝いさんと「遠足」と称して庭を歩きまわったと自伝に書いている。
小さい頃から人がやらない変わったことばかりをやっていて、作文を書くと学校の先生からはこういうものはいけないといわれ、それがますます彼女のゲージュツを常識的ワクからハミダサせる結果となったという。
既成概念を彼女の感性という「ヤリ」でツキくずしてきたわけだが、その感性のトンガリ具合が個展の会場にジョン・レノンという音楽界のヒーローを呼び寄せることになるのである(1966年11月9日ロンドン)。
ちなみにジョン・レノンの方も、教師から成績簿に「絶望的」という評価をもらったぐらいだから、そのトンガリ具合が想像できる。
また、オノ・ヨーコほど世界中からタタカレた日本女性はいないのではないかと思う。
オノ・ヨーコの人生と自伝「何とかなるわよ」で知られる立花花子さんに多少重なり合うものを感じる。
立花さんは、柳川立花伯爵家の一人娘として生れ、テニス日本チャンピオンに耀き、最初に「テニスの柳川」を全国にアピールした人といえるかもしれない。
三男三女を育て、戦後を料亭「御花」の女将として逞しく時代を生き抜いた最後の「お姫さま」である。
自伝を読んで思ったことは、かつて人々からカシズカレる立場から、人様にサービスをする立場への転換は本人の中でも様々の葛藤をよびおこした。
一方で、「お姫様に何ができるか」といわれて反発したという。
どこかトンガッタ「お姫様」あった。

井深大(いぶか まさる)は、盛田昭夫とともにソニーの創業者の一人である。
栃木県上都賀郡日光町(現・日光市)に生まれたが、一族に飯盛山で自刃した白虎隊士・井深茂太郎がいる。
井深大は、幼少の頃、青銅技師であった父親の死去に伴い、愛知県安城市の祖父もとに引き取られ、そこで育った。
愛知県といえば、相方の盛田昭夫は名古屋市の造り酒家で生まれている。
ところで井深茂太郎は会津藩内における青年文士の名を挙げれば、必ずその筆頭に数えられた秀才であった。
若松城(鶴ヶ城)の城南の地に地蔵堂があり、深夜この堂に行く者があると必ず怪しい事があるという噂があった。
茂太郎は子供心に、どうしてそのようなことが起きるのかと不審に思い、ある闇の夜に胆力を練るつもりでその地蔵堂に往き、じっとして物ごとの様子を見守った。
ブラブラとその辺を徘徊し、わざわざ地蔵を罵倒して夜明けに至ったが、遂に何事も起きなかった。
茂太郎は帰って人々に向かい「世の中に化物などいるものではない。化物は憶病者が自分の心の中でこしらえるものだ」とイキマイタという。
しかし井深茂太郎は剛胆な反面、極めて心優しい一面もあったというエピソードがいくつか残っている。
戊辰の役が起きると、茂太郎は三十七人からなる「白虎士中二番隊」に編入された。
西軍破竹の勢いをもってまさに城下に迫らんとするや、これを戸ノ口原に迎え撃ったが戦い遂に利あらず、退軍して飯盛山上に自刃した。この時茂太郎16歳であった。
この井深茂太郎を一族にもつ井深大氏は、盛田氏によると、「温故知新」とは違いハルカ未来からキン未来を考える人だったという。
大学時代(早稲田大理工)から奇抜な発明で知られてしたが、晩年は「エスパー研究」(超能力)に興味をもち、様々な実験を行っていたという。
ところで井深氏の義父は東久邇内閣の文部大臣・前田多聞氏であり、そのせいか「教育論」にも多くもの申されているようである。
井深大氏はソニー創業者という実業家以前に、優れた電子技術者であったが、白虎隊には後に電気技師となる飯沼貞吉という人物がいた。
井深茂太郎は白虎隊の「記録役」を命じられて戦いにおける行動を記録したが、「白虎隊」の出来事の多くは、こうした記録よりもこの飯沼貞吉が命をとりとめることにより「口伝」によって伝えられたのである。
飯沼は赦免後は名を貞雄と改めて静岡の林三郎塾に入り、1872年、工部省の技術 教場に入所して電信建築技師となった。
日清戦争には歩兵大尉として出征、帰還後は再び逓信省に戻り、最後には仙台逓信管理局の初代公務部長を務めた。
1931年2月、78歳で没したが、彼の墓は仙台市北山金剛寺輪王寺にあるが、1958年、会津若松市で戊辰戦後 九十年祭を執行するにあたり、他の隊士らの眠る飯盛山の一角に彼の毛髪を移して墓碑を建てその霊を慰めたという。
飯沼貞吉は、こうして青春の友と処をようやく同じにできたのである。

芸能界における加山雄三と桑田佳祐の関わりは、あまり知られていない。二人の間には、遠く維新の功労者「岩倉具視」が介在している。
加山氏の(本名:池端)の母方の高祖父は、政治家の岩倉具視である。
加山の母は岩倉具視の曾孫にあたる女優の小桜葉子で、本名が池端具子で、旧姓岩倉である。
小桜葉子は多くの映画に出演したが、メロドラマの美男スターとして活躍していた俳優の上原謙(池端清亮)と結婚し、芸能界から引退した。
岩倉具視といえば明治維新当時、下級公家ではあったが新政府軍と連絡をとりながら維新へと導いた人物で、時に「妖怪」とさえよばれた豪胆な人物である。
岩倉が説く公武合体派が尊譲派におされたために、1862年より5年間洛北の地で蟄居生活を強いられたことがある。
維新後、この岩倉氏が建てたのが、湘南茅ヶ崎のパシフィック・ホテルであるが、岩倉具憲(小桜葉子の弟) が実際の経営を行い、俳優の上原謙と子息の加山雄三らが共同オーナーとなっていた。
開業当初は著名人が多数訪れたことで有名となった。
1960年代「若大将」として名を馳せた加山雄三だったが、けっして順風満帆な芸能人生を歩んだわけではなかった。
1970年のパシフィックパークホテル倒産時には、最大23億円もの借金を抱え、1個の卵を夫婦2人で分けあって、卵かけご飯を食べたという苦労も味わったという。
テレビ番組「クイズタイムショック」では、全問正解パーフェクトを達成したことをよく憶えているが、こういう賞金や賞品によってしか海外でバカンスを過ごせなかった時期のことであった。
パシフィックパークホテルは18億円で売却できたものの、加山氏がこれだけの借金を10年がかりで返済したというのは、岩倉具視の豪胆さを彷彿とさせるものがある。
ところで岩倉具視は鉄道と関係が深い。岩倉が欧米使節として視察して一番痛感したことが、全国的な鉄道の敷設の急務であったという。
加山氏も鉄道マニアであり、西伊豆・堂ヶ島にある「加山雄三ミュージアム」には自身の鉄道模型コレクションが多数展示されているそうだ。
東京上野には岩倉高校という通う学校があるが、1903年鉄道界の恩人、故岩倉具視公の遺徳に因んで、「岩倉」の二文字を校名に冠し、鉄道員を育てる目的で「岩倉鉄道学校」としてスタートした学校である。
ところでサザンオールスターズの曲には岩倉氏と加山氏が共同オーナーだったパシフィックパークホテルのことを歌った「ホテルパシフィック」という曲がある。またサザンオールスターズと研ナオコの歌った「夏をあきらめて」にも、このホテルの名前が登場する。
♪潮風が騒げばやがて雨の合図/悔しげな彼女と逃げ込むパシフィック・ホテ~~ル♪
サザンオールスターズの「ホテルパシフィック」は、2000年夏に茅ヶ崎公園野球場で開催されたサザンオールスターズ茅ヶ崎ライブの記念曲として制作・発売されたものである。
加山の父で俳優の故上原謙が経営にかかわった会社に桑田の父親が勤めており、お互いの父親はマージャン卓を囲んだり、一緒に旅行に出かけるほど親しかったという。
桑田佳祐も幼い頃から遊びに行き、加山との古くからの知り合いで、桑田は「嘉門雄三」を名乗って音楽活動をしていたこともあるほどだ。
いわば加山家(本名:池端家)と桑田家は家族づき合いであり、そうしたことが桑田氏の音楽活動を大きな刺激を与えたということである。
桑田佳祐は、少年時代パシフィック・ホテルの「全盛期」を眺めて過ごし、後にこのホテルでアルバイトもしていたこともある。
桑田氏の音楽活動にとって、パシフィック・ホテルはきってもきれない存在であり、その意味でいうと桑田氏のサウンドは、岩倉具視がお膳立てをしたということになるのだ。

戦後の代表的な思想家の鶴見俊輔の一族には、「蛮社の獄」で自害した高野長英がいる。
高野長英は満鉄総裁・東京市長の後藤新平の大叔父に当たっており、後藤の娘婿が政治家の鶴見祐輔(俊輔の父)である。
1838年10月、陸奥水沢出身の町医者であった高野長英(35歳)は、「戊戌夢物語」を著して、モリソン号打払い(6月)の無謀さを批判した。
高野長英は、イギリスの国力を具体的なデータで説明し、イギリスが日本近海に接近していることを警告し、人道の名(漂流民をとどける)で来航した外国船を打ち払っては、イギリスは日本を「不仁の国」とみなすであろうと論じた。
高野長英は、「夢物語」(夢の中の集会で見聞した物語)という形式にして、罪は免れようとしたが、「戊戌夢物語」は、幕府も無視できぬほど評判となっていった。
また三河田原藩の家老であった渡辺崋山も、「慎機論」と題して、「人道にそむくという理由で、イギリス人に侵略される口実をつくることになる」とか、「高明空虚の学を排斥し、井蛙の見を打開し、英達の君の出現を要請する」「日本が鎖国している間に、西洋の強国が日本に接近しているので、時機を慎まなければならない」(慎機)と論ずるなどした。
1839(天保10)年、老中主座・水野忠邦の下で目付・鳥居耀蔵は、密貿易のため小笠原密航を企てたとして「尚歯会」の洋学者グループ渡辺崋山・高野長英ら洋学者26人を逮捕した。
そして、「慎機論」と「戊戌夢物語」が幕政を批判していることを取り上げ、高野長英を「永牢」とした。
渡辺崋山は、学問の師や絵の弟子が奔走したので、故郷田原での蟄居ということになった。
これを世に「蛮社の獄」という。
1840年、アヘン戦争が起こり、中国は、列強の植民地となり、高野長英や渡辺崋山が予言していたことが、現実に中国で起こった。
そして1841(天保12)年、水野忠邦は、天保の薪水給与令(外国船に燃料だけを与える)を出した。
1844(天保15)年、永牢の高野長英は、牢屋が火事になったので、3日間、仮釈放され、期限までに戻ると減刑されるので、ほとんどの囚人が戻ってきた。
しかし、高野長英だけは、帰国せず門人や宇和島や薩摩藩主などに守られながら、上毛・信越・東北・江戸・鹿児島などに潜伏しながら、自説を主張して回った。
高野長英は、「顔を薬で焼き、咽喉をつぶし」て、江戸に入り、ここでも自説を主張し続けた。
しかしどんなに顔や声を変えても説は同じということで、1850年見破られ、潜伏先に踏み込まれ、その場で自害して果てる「壮絶な死」をとげた。時に47歳であった。
こういう人物を一族に持つことは、かなり奮い立たせるものがあるのではなかろうか。
その一族こそが「鶴見家」という学者一家であり、哲学者の鶴見俊輔、社会学者の鶴見和子、人類学者の鶴見良行などを輩出した。また、鶴見俊輔氏の著書には、「高野長英伝」がある。
戦後の日本の思想界をリードした実は鶴見俊輔氏は、アメリカ生まれの「プラグマチズム」をわかりやすく日本人に紹介した人物である。
鶴見俊輔氏は、留学中に日米関係が悪化しアメリカに残り研究生活を続けるという選択肢もあったが、国家の一大事に日本に帰国することを選択し「捕虜交換船」で帰国した。
捕虜交換船とは、第二次世界大戦当時に、開戦により枢軸国、連合国双方の交戦国や断交国に取り残された外交官や駐在員、留学生などを帰国させるために運航される船のことである。
ちなみにこの交換船には、後にカイロで謎の自殺をとげた日本で活躍した外交官ハーバード・ノーマンや、後にジャニーズ事務所を開くジャニー喜田川も乗船していたという。
船には、面白い接点が生まれるものだ。