契約の民

イスラエル人は、紀元前22世紀ごろメソポタミア(イラクあたり)の地を出て、パレスチナすなわち「乳と蜜の流れるカナンの地」にやってきた人々である。
だが先住の人々でがいて、旧約聖書では七種類ほどのカナン人が登場する。
中でも「ペリシテ人」は「パレスチナ」の語源となり、「ヘテ人」として登場するヒッタイト族や、「シドン人」として登場するフェニキア人などがいた。
カナン人は定住していたが政治的に統一されることはなく、互いに通婚し混血が進んでいた。
このように民族的に多様な土地だが、旧約聖書「民数記」の時代には、カナン人はシリア・レバノンの海岸地帯付近に居住していたとあるので、「フェニキア人」に符合している。
ところでフェニキア人は多産の女神であるアシラ神とその相手であるバアル神を崇拝していた。
そしてバアル神とアシラ女神の性交によって、肥沃、豊饒、多産がもたらせられると信じられていた。
「出エジプト記」には、イスラエル人は砂漠の生活の中でモーセの指導に従わず、勝手に「金の子牛像」を作ってバアル神を拝み、神の怒りをかったとある。
フェニキア人がつくった国といえばカルタゴだが、ハンニバルによって率いられローマを窮地に陥れ、震えあがらせたことで有名である。
北アフリカにあるチュニジアの土地こそ、かつてカルタゴが拠点を築いた場所でもある。
「パックス・ロマーナ」(ローマによる平和)に対抗したハンニバルと、現代の「パックス・アメリカーナ」に挑戦したカダフィ大佐は、そういう点で似たところがある。
さて、カナンの地にやってきたイスラエル人部族(12部族)のうち、北王国(10部族)はカナン人と混住・通婚し偶像崇拝に陥った。
そうした混血や偶像崇拝から免れたのが南王国(2部族)の中の「ユダ族」であり、その族名から「ユダヤ人」とよばれるようになった。
しかし、紀元前9世紀頃からアッシリアが強力になってくるとフェニキア諸都市は勢力を失い、アッシリア・ペルシア海軍の一翼を担うようになり、パレスチナ一帯はやがてローマの「属州」となっていく。
ところで、イタリアに「ベニス」という都市があるが、ベニス(=ベネッチア)とは「フェニキア」のことである。
ベニスに住み金融に携わったユダヤ人はフェニキア人との交流を深めさらに「商才」を磨いていったと思われる。
シェークスピアの「ベニスの商人」に、金の亡者のごときユダヤ人が描かれているが、実はこのユダヤ人はフェニキア人(カナン人)と混血したユダヤ人であり、「正統派」ユダヤ人ではない。
今世界を金融を中心に動かしているのは、信仰厚き正統派ユダヤ人ではなく、ユダヤ人を名乗ってはいても「金の子牛像」(バアル信仰)を拝した「カナン人」の末裔ではないかと、心ヒソカに思っている。
そもそも旧約聖書では、「利子」をとることをさえ禁止しているのであり、それを忠実に守っているのは、むしろ「イスラム教徒」である。
もっともユダヤ人の代名詞といっていい「金融」は、ユダヤ人が紀元前6世紀にバビロニアに「捕囚」となった時代に学んだといわれる。
カルデアの神官達が、参詣する信者達から金その他の貴金属を「預かり書」を発行し保有し、一部を引き出し請求のために残し、残りは「利子」をとって貸し付けているということを学んだのである。
ところで、ユダヤ人とカナン人の関係を現代のアメリカにシフトさせると、「リベラル派」ユダヤ人と「正統派」ユダヤ人に置き換えていいかもしれない。
リベラル派ユダヤ人は、宗教色が薄く結婚相手の半分近くが「非ユダヤ」人である。
従って異族間に生まれた子供達の相当部分が、ユダヤ教徒としてキチンと育てられるわけではない。
それでも米議会の議員になったユダヤ人は、ユダヤ・ロビーの信任をうけるために、ユダヤ人以外とは結婚しないという。
「正統派ユダヤ人」となると、戒律を厳しく守り、聖書の言葉「生めよ増えよ」の言葉をさえ守り、避妊を一切せず、同派の女性が産む子供の数はなんと平均6.6人なのである。
こうしたユダヤ社会における両派の「人口の変化」は、アメリカの「イスラエル政策」にも微妙な影響をもたらしている。
ところでアメリカにおけるユダヤ人社会の成立は、17世紀の半ばであるが、長く有権者の数は少なく、「組織化」もされてはいなかった。
しかし、フランクリン・ルーズベルトが多くのユダヤ系知識人を法曹やエコノミストに登用したのが、「ユダヤ・ロビー」の始まりである。
当時のエリート白人の多くが「共和党」支持であったために、民主党のルーズベルトは「ワスプ」(白人かつプロテスタントかつアングロ=サクソン)と呼ばれるエリート以外で自分の手足となって忠実に働く優れたブレーンを捜し求める必要に迫られていた。
実はこの時に登用された者の多くは「ニューディール政策」に登用され、日本の占領に際して送られたスタッフの過半は、そうした考えを共有する「ニューディーラー」と呼ばれた者達であった。

ところで、旧約聖書の「民数記」22章には、モアブ人の王「バラク」という名が登場する。
モアブとは、旧約聖書によれば、アブラハムの従兄弟であるロトとロトの長女との間(近親相姦)に生まれた息子モアブ(ヘブライ語で「父によって」の意)に由来している。
モアブの地は、古代イスラエルの東に隣接した地域の古代の地名であり、「死海の東岸」にあり現在ヨルダンの高原地帯に広がる地域を指している。
バラク王は当時評判の高かった預言者に頼んでイスラエルを「呪う」ように依頼するが、その預言者はイスラエルを3度までも祝福してしまうのである。
ナゼカそのモアブ王と「同じ名」をいただいているのが、第44代アメリカ大統領バラク・オバマであるが、ヘブライ語で「電光、稲妻」の意味を持つ語だから、このたびの「ジェロニモ作戦」などを見ると、ピタリの名前かもしれない。
オバマ氏は、ケニア人の父と白人(アイルランド系)の母とをもつが、「ユダヤ人」社会と深い関わりをもっている。
黒人の血筋でありながら大統領になれたこと自体、ユダヤ社会の「支持」を取り付けることができなければ不可能なのが、アメリカの大統領選挙の実情である。
ユダヤ・マネーの政治資金は民主党では6割、共和党で3割5分を占めているといわれている。
ところで全米でも最強といわれるユダヤ・ロビーであるAIPAC(アメリカ・イスラエル公共問題委員会)は、全米の議員を「イスラエル政策」について面接し、議会内外の言動を「得点化」している。
そしてイスラエルに「非友好的」な議員に対して、選挙区に「刺客」となる対立候補を送り込み、莫大な資金を投入してテレビCMの放送時間枠を買い取り、「議席追い落としキャンペーン」をするのだ。
ユダヤ・ロビーにネラワレたら、どんな大物議員であっても大きな打撃をうけ、勝てないことを知っている。
ところでオバマ氏はユダヤ人口が全米で4番目に多いイリノイ州出身である。
イリノイ州選出のある大物議員は、米軍事産業の利益を優先しサウジアラビアへの戦闘機売却を支持したために、AIPACは彼を落選させるべく「刺客候補」を擁立したために、落選の憂き目にあっている。
また別のベテラン議員は、アラファト議長と会見し「PLOの自治権」に理解を示したため、AIPACは「刺客候補」立て、多大のユダヤ選挙資金をつぎこんで落選させている。
以来この「刺客」議員は十一期連続この地位を守り、上院議員に転身し院内幹事にまで出世している。
実はこの議員こそが、オバマがイリノイ州から連邦議員に当選して以来、オバマの「代父役」をつとめてきた人物なのだと言う。
つまり、オバマにとって「頭が上がらぬ」地元政界の大物が、最強ユダヤ・ロビーお気に入りの有力上院議員なのである。
またオバマが、ユダヤ人が占める割合が圧倒的に多い「法曹界」出身であるということも忘れてはならない。
そしてオバマは法曹の世界にあって、ほぼ白人エリートと同様のあつかいを受けてきた。
したがってオバマは、黒人の「人種的不満」の糾合をネタに政界に進出した古いタイプの黒人リーダーではない。
人種の壁を超えるという「大同団結」の息吹を吹き込むことによって、大統領になりえた人物であったといっていい。
ただそれも、ユダヤ人選挙参謀の「キャンペーン術」が功を奏したということだろう。
元来、黒人とユダヤ人とはその根本に「対立の萌芽」をハランでいる。
そのいい例が1970年代頃より唱えれれてきた「結果の平等」(アファーマティヴ・アクション)で、各業種に人口比に従って「同じ比率」で仕事を割り当てなければならなくなったからである。
放っておけばその割合が非常に高いユダヤ人と、非常に低い黒人との間で、「対立」が起きることは当然なのである。
近年、人種が絡む問題を取り上げたアンソニー・ホプキンス主演の「白いカラス」という映画があった。
黒人であることをヒタ隠しにして、白人として高いステータスを築こうとした大学教授がいた。
些細なことから、ユダヤ人を差別したという嫌疑をかけられるが、自分が本当は「黒人」という最も差別される側の人間であることを告白しさえすれば、そうした嫌疑も晴れるのだが、結局それもできずに大学を去るという話であった。

アメリカ社会の最近の動きとして1980年代のレーガン大統領の頃から「ネオコン」すなわち「ネオコンザーバティブ(新保守主義)」という言葉がメにつくようになった。
ブッシュ大統領の「イラク派兵」もこのネオコンの強い「後押し」があってのことであった。
この「ネオコン進出」と密接不可分なのが、メディア界におけるユダヤ人の浸透力である。
テレビ解説者の大半は「親イスラエル」的言説をし、全米の大学に1000人程度の中東専門家がいるが、彼らが主要メデイアに招かれる機会はほとんどなく、招かれるのは大抵、「親イスラエル」のシンクタンクの研究員である。
しかし、いかにユダヤ人がその資金力が豊富であって軍事産業やメディアを支配しているといっても、それが「アメリカの対外意思」として国連安全保障理事会にまでに「異」を唱えるとは、なんとしたことだろう。
例えば2008年のイスラエルのガザ地区の攻撃で国連安保理が非難したにもかかわらす、クリントンもオバマもそれを擁護したのである。
国内でもっと「反イスラエル」の動きがあってもいいはずだが、その背後に「キリスト教右派」(7千万人)と「ユダヤ人正統派」が手を組んだということが大きい。
「キリスト教右派」は聖書の一言一句を神の言葉と受けとめる人々であり、現代における「イスラエル建国」も神の言葉の成就として受け止める人々である。
キリスト教徒は、イエス・キリストを十字架にかけたユダヤ人を「排斥」してきた経緯がある。
ところが1967年の第3次中東戦争は、そうした感情に「転機」をもたらす出来事であったという。
この戦争でイスラエル軍が聖地エルサレムを占領した事実は、キリスト教徒に対して「聖書の真実性」をわが身に知らしめる「心躍る」出来事であったのだ。
キリスト教右派にとって最大の関心事は、キリストの「再臨」であり、その「前提条件」がユダヤ人がパレスチナに集められ、占拠することだからである。
このパレスチナ占拠のためのもう一つの宗教的紛争地が、「ヨルダン川西岸」である。
この土地は古代には「ヘブロン」とよばれ、アブラハムが、銀400シェケルで初めて手に入れた最初のパレスチナの土地である。
ヘブロンには、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の祖であるアブラハム(イブラーヒーム)の墓がある。
であるからして、この土地はイスラエルとアラブの「譲り渡せない」土地となっている。
ところで、キリスト教右派とユダヤ系シオニストはこうした「ネオコン」の供給源であるといってよい。
両者は、ユダヤ人がエルサレム(シオン)を中心にパレスチナの地に集められるという点で「共通のビジョン」を描いており、それを支持する「シオニスト」の立場として手を組んだのだ。
しかし、両者には「決定的な」世界観のズレがある。
キリスト教右派はキリストの「再臨」を前提としてソレを支持するのに対して、ユダヤ系シオニストはかつての「ユダヤ王国」の完全復興というビジョンにそって、ソレを支持しているのである。

アメリカにおける外交上の「本来の」保守主義は、他国のことには我関せずで「国益」を追求する立場をとってきた。いわゆる「モンロー主義」である。
これに対して「ネオコン」(新保守主義)は、自由主義・民主主義を人類普遍の価値観と考え、「世界に広める」ことを理想とし、そのためには軍事力の行使をも辞さない。
つまりネオコンは「アメリカ的価値観」の世界展開を目指す立場である。
、 「孤立主義者」(モンロー主義者)からすれば、ネオコンの唱える考えは「過剰介入」であり、現実主義者からすれば、「理想主義」の押し売りは「勢力均衡」を崩す危険な行動に他ならない。
ところでアメリカの石油資本(メジャー)はユダヤ人が支配しているように見られがちであるが、実際はユダヤ人の支配力が及ばない数少ない業界のひとつなのである。
もしユダヤ人が支配していたら、アラブ諸国とメジャーとの取引はかなり後退するであろう。
ところでオバマ大統領は、「グリーン・ディール」政策をかかげたが、これもユダヤ社会の力の大きさを感じさせるものである。
経済成長には、大量の石油資本がかかせない。
しかしそうすると必然的にアラブ産油国の政治・軍事力は増大し、イスラエルの安全保障は脅かされてしまう。
このジレンマを解消するためにユダヤ・ロビーの働きかけによって出てきたのが「グリーン・ディール」である。
また、昨日の新聞(5月23日)の新聞に「新型の未臨界実験」の記事が新聞にでていた。
通常の核実験は、ネバダ州の砂漠にある地下核実験場で火薬を爆発させて核兵器の性能などを調べるが、今度の実験はニューメキシコ州の研究所で発生させたエックス線による超高温・超高圧状態で行ったという。
政府当局によれば、実験の成功は地下核実験をしなくても保管中の核兵器の安全性や有効性を調べられることを意味するので、オバマ大統領の核安全保障の実現を保障するものだという。
しかしオバマ大統領がノーベル平和賞受賞の根拠となった「核なき世界」とはずいぶんと「距離」のある話である。
「核なき世界」も、結局はイスラエルをターゲットとす核を開発するイランあるいはテロリストの「核開発」の脅威に対する「抑止」が最大の理由ではなかろうか。
かようにアメリカは、「普遍的価値」の名の下にアクマデ「国益」を追求する国だと考えたほうがイイ。

契約の民の「唯一神信仰」の観点から見れば、日本はまるで「神なき世界」に見える。
逆に日本人一般から見て、「契約の民」ともいわれる国民は、まるで「思い込み」合戦をしているようにしか見えない。
しかし、これを単純に「思い込み」と考えるところが、日本人一般の「思い込み」である。
キリスト教徒・ユダヤ教徒・イスラム教徒は、「ポスト・この世」つまり「新世界」に対する思い、あるいはその「ビジョン」こそが、彼らを突き動かしているかに見える。
しかし新約聖書「ピリピ人への手紙」(2章13節)には、神はコトを実現するにあたって、まず人間に「思い」(あるいは「信仰」)を与える、とある。
「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」。
つまり「契約の民」(啓典の民)とはそういう「扱い」をうける「民」のことなのだ。
世界観のズレは「旧約」(旧契約)で生きるか、「新約」(新契約)を受け入れるかの違いである。
聖書には「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮び もしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために備えられた」(コリント第一の手紙2章)とある。
また一方で、「幻なき民は滅びる」(「箴言」29章18節)という言葉もある。