大名と原発

テレビで視聴者が、東北の大地震による東北・関東の電力不足に対して、九州・沖縄で「節電」して果たして何か役に立つか、という素朴な疑問を語っていた。
ゲスト回答者の答えは、直接役にはたたないとしても、節電することは被災者に気持ちが「寄り添う」という意味で、大切なことだと言っていた。
最近、「ケンミンショー」などがあっていて、ナショナリズムにナゾラエてちょっとした「プリフェクチャリズム」(県:プリフェクチャ-/命名者:私)が勃興しているが、県と県には意外な「血族のネットワーク」が存在していることはあまり知られていない。
例えば、後述するように「福島第一原発」がある磐木平あたりは、福岡県久留米市と間にある「エニシ」(縁)があり、こうしたことからも、福岡人が東北の「被災者」に気持ちを寄り添わせるヨスガとしたい。
もっとも、身になって考えられるに人とって、そんなヨスガは必要ではないかもしれないが。
ところで、江戸時代に跡継ぎのない大名は「お家断絶」になるし、逆に子沢山の大名は、嫡子以外に子を多く抱えることは負担で、しばしば別の藩の養子として出した。
そしてその養子が、別の藩で大名になったりしたのだ。
そういうわけで、大名と大名との血のネットワークができ、それが日本の「閨閥」を形成し、今もってその”カイキュウ”意識は消えてはいないのである。
もっとも、彦根藩の井伊家のように養子候補が多すぎて、井伊直弼はどこにも養子に行けずに自ら名づけた「埋木舎」(うもれぎのや)で鬱々と過ごしたケースもある。
なぜか直弼が自学に励んだ建物は耐震設備をもっていて「安政の大地震」を耐えたそうだ。
そのうち、直弼の兄弟が次々病気となって、黒船来航に際しては「大老」として幕政の「檜舞台」に躍り出ることになる。
地震では死ななかったが、桜田門外で命を散らして「花の生涯」を終えたのである。
天皇の許可を得ず開国を果たした井伊直弼は、水戸・長州・薩摩の浪士に蛇蝎のごとくに嫌われ暗殺されたが、地元の滋賀県では「おらが殿様」として愛され続けていたのか、昭和の時代には滋賀県・彦根市長を歴代務めている。
これも「プリフェクチャリズム」のあらわれといっていいかもしれない。

大名間の「血族ネットワーク」を福岡・黒田藩に調べてみると次のようになっている。
福岡の黒田藩は、豊臣秀吉の軍師として活躍した黒田官兵衛如水の嫡子・長政が藩祖である。
黒田藩はそれから12代を かぞえるが、6代にして血筋が途絶え、7代治之は一橋家、8代治高は多度津京極家、9代斉高は一橋家、11代長溥は薩摩島津家、12代長知は伊勢津藤堂家からそれそれ養子を迎えて藩主となっている。
ちょうど最近の高校野球の常連校のエースまたは四番打者が、当該高校の所在県とはまったく遠方の県の出身だったりして、それでいいのかと思ったるするが、それほど有力高校にはネットワークが出来てしまっているということだ。
同じく、大名間の「養子ネットワーク」が相当のものであったということは、黒田藩ひとつを見てもわかる。
そしてこういう「大名ネットワーク」が、実は藩と藩との間の「文化の伝播」を伴なっていたということも見逃すことはできない。
例えば11代黒田長溥は、薩摩藩・島津重豪の子で、開明的な島津斉彬の大叔父にあたるが、実際には黒田長溥と島津斉彬とは年が近く兄弟のような付き合いをしていたという。
自然に長溥は、薩摩の「開明」性を福岡に持ち込んだのである。
黒田長溥は、シーボルトに直接、医学の指導を受けたことがあるし、さらに養子の黒田長知が岩倉使節団として海外留学をする際に、藩士の中から大日本帝国憲法の起草者である金子堅太郎、あるいは後に三井財閥を率いる団琢磨(作曲家・団井玖磨の祖父)を同行させた。
黒田長溥は種痘の実験を行った際に、団琢磨の兄を誤って死に至らしめている。その「罪滅ぼし」的な部分が団琢磨の海外派遣に込められていたのかもしれない。
黒田家が今もって「鳥」の研究と関係が深いのは、東京赤坂にあった黒田藩邸に鴨池があって鳥と親しんできて、明治にはいって黒田長禮(ながみち)は「鳥の殿様」といわれるほどであった。
後にこの鴨池は、その名もズバリの「羽田」に移され、現在は羽田空港の滑走路になっている。
ところで11代黒田長溥は、国事との関連である重要な役割を果たしている。
今日、日本の国旗「日の丸」は、幕末の1854年「日本総船印」という限定つきの形からはじまった。
幕末には、多くの欧米各国の船舶が日本にやってきたし、わが国でも洋式船を保有することになったので外国船との区別をはっきりするため、「国旗の制定」がせまられていたのである。
稲作中心に生活し太陽の恵みに感謝してきた日本人は、古来より皇室の元旦・朝賀の際にも「太陽を形どった旗」を掲げてきた。
幕末こうした「日の丸」を「日本総船印」として用いるように幕府に強く建議したのは薩摩藩主・島津斉彬で、幕政の実力者であった水戸藩主・徳川斉昭もこれに賛意を示したのである。
ところで「日の丸」を染める「赤」を染めるための染料と技術をみつけるのが容易ではなかった。
第8代薩摩藩主・島津重豪は、彼の九男であり福岡五二万石の養子となっていた福岡藩藩主・黒田長溥に相談したところ、福岡藩内で現在の筑穂町に古くから伝わる「筑前茜(あかね)染め」を知った。
そこで福岡藩、穂波郡山口村茜屋に家臣をつかわして古くから伝わる茜染めの技術を修得させ「日の丸」を染めさせた。
そして福岡藩で染められた「日の丸」が第11代薩摩藩主・島津斉彬を通じて老中・阿部正弘に提出され、「日の丸」国旗制定の基となったのである。
日本で最初の洋式軍艦「昇平丸」のマストに、わが国最初の国旗「日の丸」の旗がひるがえった。
ところで筑前茜染は、野や山に自生する多年生ツル草の、茜草の根を染料とする染め技法で、江戸時代初期、筑穂町茜屋地区の染物師が偶然発見し、「黒田藩の秘宝」として幕末まで守り伝えてきたものであった。
福岡県・大宰府から筑穂町に抜ける「米の山峠」を車で20分程のぼると「筑前茜染めの碑」がたっている。
それは江戸時代末期、国旗制定の基となった「日の丸」の旗を、我が国ではじめて染め上げた筑前茜染めの偉業を讃えて建立されたものである。
そこには鮮やかな「日の丸」を染め上げた17代松尾正九郎の墓と、当時、茜染めに使った「さらし石」、記念碑と「さらし石」とを結ぶ遊歩道が整備してあった。
以上のような経過で染められた幕末の国旗は、わが国の船が他国の船とまぎれぬための「総船印」といういわば「限定的」なものであったが、明治になって西洋文明との接触がはじまると積極的な意味での国旗が必要になってきた。
そこで1870年太政官布告で新政府は「日の丸」を国旗として正式に認め、日本の近代国家としての発展と帝国主義的傾向の強まりから日清・日露戦争へと突入する過程の中で「日の丸」は常に国家の表象として翻ってきたのである。
日本の「国旗制定」には、島津重豪と黒田長溥という「親子ネットワーク」が大きく関わっていたのである。

現在の福岡県に含まれる藩としては久留米藩の有馬家があるが、明治になって枢要な人物を生むことになる。
この有馬家は距離が近い肥前のキリシタン大名の有馬家と誤解されやすいが、実際は播磨(兵庫県)の赤松家の分流であり、あのキリシタン大名と何の関係もない、有馬温泉の地名が残る関西の「有馬家」の方である。
ハデな反幕行動も御家騒動もない地味な久留米藩であるが、外様大名としては21万石という大きな藩である。
しかし近代になって、その嫡流に「巨魁」ともよばれる「有馬頼寧」(よりやす)なる人物がうまれた。
有馬頼寧の母は岩倉具視の娘(五女)であったから、その辺に巨魁となる「運命づけ」があったのかもしれない。 (ちなみに加山雄三の母は岩倉具視の孫)
有馬頼寧は、東大農学部卒業後に農商務省に入り農政に関わるが、河上肇や賀川豊彦の影響を受け、夜間学校の開放、水平社運動、震災義捐などの社会運動に広く関わった。
「赤化思想」の持ち主と問題視されたこともあったが、1927年衆議院選挙に当選し、その後伯爵位を嗣ぎ、改めて貴族院議員となった。
第一次近衛内閣で農林大臣、近衛の側近として大日本翼賛会の初代事務局長に就任し、戦後A級戦犯の容疑者とされたが、無罪となった。
1955年に日本中央競馬会の第二代理事長に就任し、競馬の発展と大衆化に貢献した。
プロ野球のオールスターゲームにヒントを得て、人気投票で馬を選んでのレースを開催した。第一回レース開催後に急死し、有馬頼寧の名にちなんで「有馬記念」と名づけられた。
有馬記念は、売り上げ「世界一」を誇る年末のビッグレースである。
有馬頼寧はプロ野球にも関係が深く、戦前のプロ野球チーム・東京セネターズの実質的なオーナーとなり、プロ野球新興にも貢献し、野球殿堂入りをしている。
その子の有馬頼義は、プロ野球を題材に「四万人の目撃者」を書き、一時は松本清張とならぶ「社会派推理作家」と称されたこともある。
ところで現当主の頼央(よりなか)氏は、1959年生まれで、東京日本橋の水天宮の神主である。
水天宮の本拠は久留米であり、東京の水天宮はそこから分祀したもので、けしてその逆ではない。
ところで最初の「被災者に寄り添う」意味でも、東北の諸藩と九州の諸藩との「大名ネットワーク」を調べてみた。
すると、旧久留米藩の有馬頼寧の弟の信明が、旧磐城平藩の安藤家に養子として入っている。
「磐城平」といえば、今日本中の注目を集めている「福島第一原発」があるところであり、幕末には老中安藤信正を幕閣に送り出している。
ところで有馬頼寧の弟である安藤信明の息子の信和は立教大学に進学し、アメリカンフットボールに熱中し、日本のフットボール会の振興に尽くした。
安藤信和氏はフットボール協会の要職を歴任し、2004年にフッロボール殿堂入りを果たし、顕彰者となっている。
このあたりは、競馬やプロ野球の振興に貢献した祖父有馬有寧を彷彿とさせるものがある。

大名家とスポーツ振興との関係でいえば、アマチュアゴルフとの関係が深い佐賀鍋島家を忘れてはならない。
佐賀鍋島家といえば、戦国大名の龍造寺氏の家老から「主従逆転」で大名となった特異な経緯をもった藩主である。
そこで龍造寺のウラミが、怪談鍋島「化け猫騒動」に反映されているという。
第10代の直正は幕末の開明君主として知られ、藩内に反射炉を築いて大砲などを築造し、洋式軍制を整え、戊辰戦争では新政府軍の主力となって東北諸藩と戦った。
ただし、妻が徳川家であったのでそれほど倒幕に熱心ではなかったと伝えられている。
最後の藩主直大(なおひろ)は、岩倉使節団に参加し、維新後に貴族院議員、宮中顧問官などを歴任した。
その孫で当主の鍋島直泰は、1933年から全日本アマチュアゴルフに三連覇した名ゴルファーである。
直泰の子で現当主の直要(なおもと)は、ゴルフ界でその名を知らない人はいない。
アマチュアゴルフ界の重鎮であるとともに、倉本昌弘、湯原信光、服部道子ら多くのプロゴルファーの「育ての親」である。
ところでこの佐賀鍋島藩は、盛岡藩(岩手県)の支藩である七戸藩の南部家に「養子」をだしている。
戊辰戦争の際に藩主だった四代藩主信民は、敗戦で石高を削られ、家督を養子の信方に譲る。
最後の藩主となった南部信方は農業育成をはあたったが子に恵まれず、佐賀鍋島藩から婿養子の信孝をとっている。
この信孝の父が、佐賀鍋島藩の最後の藩主・鍋島直大なのである。
また藩政改革の名君で米沢藩(山形県)の上杉鷹山は、ケネディ大統領が最も尊敬する人物としてアゲタ人物として知られている。
ところで上杉鷹山が、日向(宮崎県)高鍋藩秋月家からの養子であることはあまり知られていない。
秋月家は筑前(福岡)の戦国大名であるが、豊臣秀吉によって高鍋に封ぜられ高鍋藩秋月家として、維新まで十一代を伝えた。
そして米沢上杉家の名君・上杉鷹山は、この家から養子に入っているのである。
鷹山は高鍋藩主・秋月佐種美(たねみつ)のニ男として江戸屋敷で生まれた。幼名は松三郎、または直松で、16歳に元服して治憲(はるのり)と改名した。
そして、1769年に19歳の時に米沢へ入部した。
江戸の正室・幸姫に婿養子として嫁ぎ第9代の米沢藩主となったが、幸姫に至っては生まれつき心身の発育が遅い障害者で30歳で病死した。
普通の生活を送れず、子には恵まれなかった。
米沢藩の方には側室にはお豊の方がいて、35歳で家督を譲り、自ら鷹山と名乗り、生まれた子・治広(はるひろ)には第10代米沢藩主を継がせた。
上杉鷹山は米沢藩で反対勢力に押されながらも大倹約令を実行し、米沢の財政を立て直し発展の基礎を築いた人物である。華美な生活は一切せず、質素倹約な生活を自ら行い藩の手本として生涯続けた。
案外、藩政改革などの「大改革」が実行できるのは、外(高鍋藩)からやてきた養子であったからかもしれない。
なお、その兄も高鍋藩の名君として知られているが、高鍋藩の最後の藩主は兵制を改革し、戊辰戦争では新政府軍として東北を転戦したので、皮肉といえば皮肉である。
ところで高鍋藩最後の藩主の孫にあたる貴族院議員の秋月種英の妻は、昭和天皇の重臣・牧野伸顕の次女である。
秋月種英の娘の英子は、元日本医師会会長の武見太郎に嫁いでいる。
牧野伸顕の長女が吉田茂の妻であったから、「ケンカ太郎」とよばれた武見太郎氏の発言力の裏側には、こうした「閨閥」の力があったのかと思う。
さらに「閨閥」をナゾルと、武見太郎夫人英子の妹・治子は日本ケミカル会長の黒田慶一郎に嫁いでいる。
現天皇の長女・黒田清子さんの夫黒田慶樹氏の伯父に当るのが黒田慶一郎氏である。
「山科鳥類研究所」は秋篠宮が総裁で、その妹にあたる黒田清子さんとも関係が深い。
ところで「鳥の殿様」とよばれた黒田長禮が出た福岡の大名家黒田氏と関係が有るのかと思われがちだが、両者には関係はないということを付言しておきます。

以上のように、今度の東日本大地震の被災地は、かつて福岡・久留米藩有馬家、佐賀・高鍋藩鍋島家、宮崎・高鍋藩秋月家と「大名ネットワーク」で結ばれていたことがわかる。
また古代において、東北で集められた兵士が九州沿岸の防備にあたったという「防人」の歴史もある。
そこには何らかの「文化伝播」もあったに違いない、と思う。
そういう点からも、被災地へ「寄り添う」気持ちを新たにしたいと思う。
いや「寄り添う」だけではダメで、最近テレビでよく聞こえる広告機構の文句、「思いは見えないけれど思いやりはだれにでも見える」とかいう言葉は、岩手県出身の宮沢賢治の詩である。
被災者が、けして独りではないという「見える何か」こそが、何より被災者への励みとなるに違いない。