ケンミンしよう

先日、「NHK特集」でやっていた梅棹忠夫氏の「暗黒のかなたの光明~文明学者 梅棹忠夫がみた未来」 に、かなり共感した。
まずは、梅棹氏自身が大変な知的探究者でありながら、人間の「知的探求心」を性欲や食欲と等しく、人間の「業」としてとらえている点である。
晩年に、小松左京と組んで書いた「未来論」に、その「業」の行くところは、人間の幸せにつながる「叡智」にもなるが、「悪」にも繋がるとした。
そして両者を競争させたら、後者がはるかに前者をシノグ、と書いた。
便利の追求が人間を不自由にさせ、快適の追求が不快を積み増す。なるほど、確かにそうなっている。
そして、梅棹氏は人間の未来を「破滅」または「暗黒」に向かうとした。それなのに、なぜか「光明」という言葉を最後に書き残している。まるで、「破滅」の向こうにしか「光明」がないかのように。
さらに、「災害」と日本人について書いている。
「災害」にあっても秩序を失わず整然としている日本人は、長い時間に育った「無常観」「諦観」がそうさせていると指摘した。
けっして、「お上」(=政府)を信頼しているからというわけではない。
朝日新聞(6月7日)に、ある漫画家が書いた「許して前を向く日本人」と題した記事があった。
「被災した人々の顔には諦めと覚悟と、時にはほほ笑むほどの清清とした表情があった。この人たちが自分の親を殺した犯人をさえももう許していたのだろう」と。
以前、この新聞記事とほぼ同じ内容のことを読んだことがある。
熊本県水俣で有機水銀中毒の患者がでた漁村をフィールドワークした報告が、ほぼ同じ被害者の印象を書いていた。
震災の被災者の表情の中に「光明」を見いだした漫画家も、さすがにこうした清清さの説明には窮したようで、日本人には「神様のいない宗教がある」と語っている。
それに対比して、加害企業の「往生際」の悪さとか、行政の対応の「お粗末さ」は一体何なのだろう。
梅棹氏が最後に書き残した光明の「根拠」は定かではないものの、専門家はあまりアテにならない、アマチュアこそが期待できるという趣旨のことを書いている。
確かに、「ブライテスト」(最優秀)を集結して行ったはずの「国策」が、そのまま彼らの拠って立つ処のアヤウサを証明することになった感じがする。
そこには、「最悪の事態」をツキツメナイ、むしろ「専門家」らしくないアマサが浮き出ている。
ドコともダレとも利害が結びつかないアマチュアの方が、現実をアリノママに見れるのかもしれない。
ところで、梅棹忠夫氏の出世作「文明の生誕史観」(1957年)は、人間の文明を「生態史」になぞらえたものだ。
そこにある中心概念は、生態学でいうところの「遷移」である。
「遷移」とは、一定の場所における生物群集が時間の経過とともに変わっていくことで、最終的に「極相」に達して安定するというものである。
つまり場所、場所に独自の「安定相」が生まれることでということである。
文明が進歩した時、人間は市場でものを手に入れ、「最開発」と銘打って人為的な「快適空間」を生み出すが、もともと各地域各様にそれぞれの風土にあった「食べ方」「着つけ方」「涼み方」など独自の態様で生活を送っていたはずなのだ。
そうしたものが少しづて切り捨てれれてきた感じがある。
ここに掲げる「ケンミンしよう」とは、地域や・風土に「根ざす」生き方のススメである。
今から約10年前に、山口県周防大島を訪れたことがある。今のように「超クールビズ」を言う前から、アロハ・シャツを着て仕事をしている役場の人々の姿を見て、感動を覚えたことがある。
周防大島は、ハワイ移民が異常に多い土地なので、それは「町興し」の一貫であったのかもしれないが、「役場」に対して抱く固定観念を打ち払ってくれて楽しい気分になったし、何よりも働いている人々が楽しげであった。
ではなぜ、「市民」でも「町民」でも「村民」でもなく、「ケンミン」(=県民)なのかというと、産学複合、インフラ整備、エネルギー利用などを考えると、「県」レベルでの生活圏が「規模の経済」を生かす上では、適当ではないかと思えるからである。
私が住む福岡県では、地域に根ざす食べ物で「全国版」になったものが多い。
博多は朝鮮半島に近く、実際に韓国で生活したことがある川原俊夫氏がキムチ付けをスケトウダラに応用するという斬新な発想で「メンタイコ」を生んだ。
長く中洲界隈の付だしにすぎなかったメンタイコが、新幹線の開通以来ブレイクし、全国バージョンになった。
筑豊・飯塚は炭鉱労働者が多く、甘系の菓子が売れるということで、千鳥屋や如水庵などの「和菓子屋」が生まれた。
旧くは豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に博多にやってきて、何か兵士の体力がつくものをということから「がめ煮」が生まれた。
食べ物とはこうした風土や歴史の「必然」により生まれるものである。

よりよく「ケンミン」するために、まずは「そのチカラ」を知ろう。
全国的にケンミンのチカラを調べると、あの県が、あのジミな県が、ある分野で「世界一」だったりして、その「意外性」に唸りたくなる。
とりあえずはケンミンによる「日本一レベル」や「世界レベル」を紹介しよう。
千葉県はラッカセイ以外にも意外な世界一をかかえており、自動車のウインドウなどに使う「小型モーター」は圧倒的な世界シェアを誇る。
また、デンタルミラー(歯医者の鏡)で、千葉県は世界シェア75%を製造している。
また放射能被爆を予防するヨード産出は日本一で、世界的な産出量を誇っている。
福島県は「ヨーグルト支出額」日本一、「結婚式費用額」日本一、「納豆の支出額」日本一なのだそうだ。
ちなみに、福島県郡山市湖南町舟津(字日本一)という「日本一」という名前の地名がある。
この町は猪苗代湖に面した所にあって「日本一」は名前だけかと思ったら、実は女性の結婚が「日本一」早い土地柄なのだそうだ。
福井県は蛍光灯のピンにおいて世界シェア65%を製造している。
さらに意外なところでは、F1のヘルメットで世界シェア50%を製造するのが埼玉県。
旅客機の化粧室の世界シェア50%を製造の新潟県。自転車の反射板で世界シェア56%を製造するのが大阪府である。
さらに大阪府は、ビニール製テーブルクロスで世界シェア80%を製造している。
また赤外線センサーで、鳥取県は世界シェア70%を製造している。
ケンミンのチカラを学力水準でみる全国学力検査で上位を占める県は、秋田県が全国トップで東北諸県が上位を占めている。
それは災害に向き合う「精神性」と無関係ではない気がする。
江戸幕末、岩手県・宮城県・福島県はいずれも「奥羽列藩同盟」を結んで、新政府軍に対抗して戦った「賊軍」である。
少なくとも明治維新のスタートの時点では「マイナス」からのスタートである。
しかし福島県民からは、官界において人材を出さなかったものの、学問の世界では東大学長の物理学者・山川健次郎はじめ多くの碩学を生みだしている。
岩手県出身の首相は4人も出し、7人の山口につぐ。
「壊し屋」小沢一郎氏も岩手県水沢市出身である。
岩手県民は、「薩摩閥」「長州閥」といった「閥力」に頼ったのではなく、ネバリ強い岩手の「ケンミン力」を基盤にしたものであろう。

ところでベクトルは「力」と「方向」よりなるが、その「方向」にあたるのが「ケンミン感情」であろう。
例えば、広島や長崎には「原発」を受け入れがたい感情が消えないだろうし、沖縄の人々には本土の人々には想像しがたいケンミン感情がある。
太平洋戦争末期の唯一の地上戦を体験したり、甲子園の土を持ち帰ろうとして、検疫所で捨てざるをえなかった高校チームの体験とか、今日の基地移設問題で振り回されたことなど、様々なものがミックスして醸成されてくるのが「ケンミン感情」というものだ。
6月7日の新聞に、「薩長会津と観光同盟」と題した興味深い記事がのっていた。
江戸末期に薩摩(鹿児島)・長州(山口)と会津(福島)は、天皇方と幕府方に分かれて「死力」を尽くして戦った。
困った時はお互い様ということで、そうした戦争のワダカマリを超えて、山口で「福島の観光アピール」をするようになったという記事であった。
両県ではギクシャクした関係が依然続いていたらしいが、ここ数年で教職員の交流人事がなされるなどしてようやく「雪解け」ムードが広がっていたという。
また、福島の「観光不振」で出勤を見合わせている旅館従業員を鹿児島で引き受ける準備もあるという。
水戸(茨城)の浪士に、「おらが殿様」井伊直弼(滋賀彦根)を暗殺されたが、彦根城内に水戸市から送られた桜の木が植えてあったのを思い出す。
ところで、ケンミンを「人々の移動」の観点から見るとさらにディープ話にもなる。
例えば、鹿児島、高知、和歌山、静岡あたりは、黒潮に乗って南洋から人々が移動していくるので、体型や気風にも似た部分があるというのも、そうだ。
人の特徴を生み出すものとして、「自然風土」が大きな要素を占めることは間違いない。
しかし、こういう話は古すぎるし、どこまでアテになるかわからない。
一方、とてもよくわかる「人の移動」というものもある。「佃煮」で有名な東京湾の佃島である。
佃島はもともと瀬戸内の島で、徳川家康が関西方面に行ったときに献上された煮モノがとてもうまかったので、佃島の島民をマルゴト江戸に連れていったというわけである。
北海道民のオオラカさやドリームカムトゥルーの歌の伸びやかさは、北海道の広大な原野だったにちがいない。
一方、ここに住んでいる人々の「進取の気性」は、開拓民としてあえて「移動して」北の大地に住みつこうとした人々の「意気込み」と「覚悟」を土台にしたものではないだろうか。
ところで、福岡県を県レベルで外国人に紹介する時には、個人的には「大刀洗」にふれることが多い。
中世の「南北朝の戦い」が九州に広がって、南朝の武将が川で刀を洗ったことからついた「大刀洗」の名前なのであるが、この地は世界に知られた「神風特攻隊」の基地があった処である。
ここに基地がつくられたのは地政学的な理由があろうが、ここの地名にはふさわくない歴史遺産がある。
今村カトリック教会であるが、まずは教会の建物の巨大さにドギモを抜かれる。
次に、何でこんなところ信者の群れが居たのかという「唐突さ」に驚きを感じざるをえない。
歴史を調べると、長崎で弾圧を受けた信者の一部が流れ住み、明治にやってきた外国人宣教師と地元民との共同作業によってこの巨大な教会が作られたのだという。
つまりこれも、弾圧による「人の移動」によるものであった。

文化は、戦乱なり弾圧なり、人々に対する何らかの「負荷」への対応として形成される部分が大きいように思う。
江戸の「粋」は、「寛政の改革」の締め付けに対して、目立たぬオシャレを生んだし、火事が頻発することが「宵越の金は持たね~」というキップのいい「江戸っ子」の心意気を生んだともいえる。
福岡は、黒田氏が岡山県・福岡より「転封」となったために、福岡という地名がついた。
それでも、商人が多かった市内・東域は「博多」の地名で呼ばれることが多く、またJRの駅名も「博多」の名を残すこととなった。
このことには平安時代の終わりごろからから中国大陸と交易をして栄えた博多商人の「矜持」を感じる。
彼らは、年一回の「山笠」祭りで、そのエネルギーを爆発させる。
さて福岡城下と博多商人の対立をもっともよく表す場所が呉服町にある「万四郎神社」である。
博多商人は藩主・黒田家のの指示で「密貿易」をしていたが、それが幕府の知ることとなった。
そして黒田家は、幕府の命令に従い、伊藤小左衛門とその幼き子供(5歳と3歳)の兄弟を「見せしめ」として処刑する。
その処刑の場が呉服町にあり、殺された子供の名前を冠した神社が処刑の場所に立つ「万四郎神社」である。
これにより、博多商人と黒田家の亀裂は深まったが、博多商人達はトボケた「お面」をかぶって、少々毒気のあることで権力者を笑うという「博多にわか」の文化を生み出したのである。
また、戦乱が文化を伝播させる典型例を京都文化を見出すことにできる。1467年の応仁の乱によって、多くの文化人が都から地方に移り住んだことにより、京都の文化が地方に広まった。
しかし京都人自身は、自らの文化を外に広げようとするほど開放的な人々ではない。
日本で「異邦」を感じさせるくらい「排他的」な地域なのだ。
しかし独自の伝統技術を今日に生かすことが出来た。
京都は、京セラ、ワコール、ニンテンドー、ロームなどの世界的企業を生んでいるが、いずれも京都で生まれた「伝統的技術」を背景にしたものである。
ワコールは、足袋などの裁縫技術が、天下無類の下着製造技術を生み、花札の製造からはじまったニンテンドーは、いつしかデズニーのキャラクターをつけたトランプで業績を伸ばした。
今は世界的なゲームソフトの先端企業となっている。
京都は、天下人が目指す場であり、そのたびに戦乱に見舞われた処である。
したがって外部から侵入するものに対して警戒し、容易に心を開かないという面がある。
京都は「一見(イチゲン)さんお断り」のお茶屋が多いことでも、容易にはその懐に飛び込むことができないところがある。
江戸っ子には三代でなれるのに、十代住まないと「京都人」にはなれないともいわれている。

昨今伝えられる年金制度の杜撰、危機管理のアマサ、社会保障の財源不足、などなどで行政の疲弊や破綻はますます露呈し、人々の中で今後の生き方を変えなければいけないという意識が広まりつつある。
様々な「負荷」への対応は新しい文化を生み出すが、一人で生きるのも困難で、人々は何らかの結びつきを模索していくほかはない。
今日の「原子力危機」への対応として「ケンミンする」と、次のようなことがいえる。
風の強いケンは「風力発電」、火山地帯には「地熱発電」、海の満引の差が激しいところでは、「潮力発電」といった具合に、エネルギーも「バナキュラー」に考えていくということである。
ところで「バナキュラー」という言葉は建築用語として使われている。
個々の建築場所の固有性を見直しして、「土着的」なデザインや様式を重んじて採用する建築をいう。
この言葉、今から30年ほど前にイバン・イリイチという思想家が盛んに使った言葉であった。
、 「バナキュラー」とは、そもそも「家庭で最初に身につける言葉」を意味する語であるが、イリイチは、バナキュラーを市場で売買されないものと拡大規定した。
イリイチは、近代産業社会のサービスによって、生活そのものから自然に体得されたハズのものが失われていく様を示した。
つまり 「バナキュラリズム」の喪失で、そうした性格を持つものの典型が「主婦の家事労働」で「シャドウ・ワーク」と表現した。
イリイチの「過激な」ところは、学校の勉強も病院の医療も交通機関による通勤も、「シャドウワーク」として捉えた点であるが、当時の日本ではあまり「共感」をよばなかったような気がする。
「ケンミンしよう」が目指す社会とは、風土や歴史に沿った生き方を重視し、人間は馴染んだ地域で少々の不便はあっても「身の丈」にあった生き方を目指すものである。
行政はそうした地域デザインを創り活性化することが大きな役割だが、一方で地域は「人々の流れ」により絶えず変化するものである。
福岡でもアジアや原発の被災地からも、無視できない人の「流れ」が起きるであろう。
生態史的には、それが新たな「遷移」を生み出し、その地域で絶えず「バナキュラー」な価値が生み出されていくということである。