「ゆひ」の経済

「人間」と「自然」との調和ということがしばしばいわれるが、あまり「人間」と「経済」の調和ということはいわれない。
「市場経済」がもたらす利潤誘因は人間の欲望を不断に刺激し、「人間」と「経済」に「不調和」を起こすのが特徴である。
「内需拡大」をいつも叫んでいないと維持できない経済なんて、どこかヘンだ。
歴史的に見ると、人間の経済は市場経済だけではない。
仮に、人間の欲望を定常化させた時、経済は「減速」するかもしれないが、人間と経済には「調和」が訪れるように思う。
人間の「欲望」が「必要」に置き換わるからである。
例えば「震災」のような時、物がたくさん作れるわけではないので、人々の欲望を刺激するなど無用で、アルものを皆に行き渡るような、共同のフルマイこそが求められる。
それは、市場の「せり」とは本質的に異なり、後述するように日本の伝統に存在した「ゆひ」の経済である。
市場経済下では、社会は「利潤最大化」あるいは「効用最大化」を経済的誘因として機能する。
しかし市場経済が、歴史の中で非常に「特異」にして「異常」な社会であることを誰よりも教えてくれたのは、ハンガリーの経済人類学者カール・ポランニーであり、日本では1980年代に栗本慎一郎氏らが中心となって紹介した。
最近、最脚光をあびるドラッカーの「経済人の終焉」や「産業人の未来」はカール・ポランニーとの交友から生まれたものだという。
とにかく、我々の思考や行動洋式には市場経済がスリコマれ、いわば「脳化」しているので、市場経済以外の社会の方が「一般的」で「普遍的」であるという考えになかなかナジミにくい。
しかし、カール・ポランニーはそうした「市場の脳化」から我々を解き放ってくれたわけだ。
ところで、ポランニーが「市場」を社会から「突出」したと言うとき、それは主に「労働」と「土地」が自然から折出され、マネー(地代や賃金)で取引されるようになったことをさしていた。
人間の経済を歴史を振り返ると、市場経済が軍事をともなって極限化し「支配」「収奪」の帝国主義の時代もあった。
しかしその対極に、経済が「互酬」と「贈与」を中心に機能した時代や地域も数多く存在しているのである。
そういう社会は、経済史の対象とはなってもなかなか社会の根底にある「誘因」を探るまでに至っていない。
社会の中で「利潤動機」のような明瞭な「経済誘因」を見出せないからである。
むしろ、マリノフスキーらの文化人類学者などが優れた知見を提供している。
ところで、最近グローバル化のもと「金余り」のマネー資本主義が台頭し、「市場の猛威」はさらに先鋭的になっているように思う。
グローバル化は、国の垣根をなくすことだから、マネーも自由に行き来する。それもネライを定めて移動するので「ハゲタカ」とよばれたりする。
そのために、ネライを定められた国や企業は、ハゲタカの餌食となりマネーの力に翻弄されることになる。
しかし、最近の一般的な経済理論をもこえておきる現象は、マネー経済が実物経済を振り回しているということであり、マネーが「ツナミ」のような勢いで各国を襲い、「デフォルト」をひきおこしつつ破壊していくのを見ると、これはもはや巨大な「自然災害」並の結果をもたらしているように見える。
カ-ル・ポランニーが「大転換」のなかで一番いいたかったこと、それは経済をもう一度人間の生活のなかに「埋め込む」ということである。
そしてそれは「互酬」と「贈与」の経済社会を取り戻すということに他ならない。
1980年代ポランニーが紹介された頃、日本経済は全盛期だったし、経済をワザワザ「失速」させることなど、とても考えにくかった。
市場そのものが「脳化」された我々が、「互酬」と「贈与」の社会に逆戻れるとはトウテイ思えなかった。
しかし今の日本で、「市場万能社会」の席捲の結果、多くの人々の「必要」さえ満たせなくなっているのも事実である。
ポランニーは市場を否定しているわけではなく、市場が社会に「埋めこまれた」社会を提示しているのだ。
そこに「人間と経済」の調和があると見たのだ。
かつて、幸徳秋水がサンフランシスコで「大震災」に遭遇し、その震災後の人々の姿に、奇しくも彼が理想とする社会の「原型」を見たような気がすると書いている。
皮肉なことに瓦礫と焼土の中にソレを見たのだ。
しかし、人間はそうであるためにいちいち「大災害」を必要とするならば、地球はいくつあってもたりない。
ここのところ、東北の長く厳しい災害からの復旧を目指す過程で、大きなスケールで「互酬」と「贈与」の経済が広がりつつあるように思う。
それは単なる同情ではなく、「明日はわが身か」という気持ちにも支えられた、伝統的「ゆひ」的行為に近似したものであり、人間と経済が本来の「調和」を取りもどす過程の一つといえるかもしれない、と思う。

まず、市場が人間の生活の中に「埋め込まれ」ていたとはどういうことか。
もちろん今の社会が、単純にそこに戻ることは考えにくいが、これらはインターネット技術によって「衣替え」して、再登場できるかもしれない。
現代の日本で観光地の中で伊勢志摩が一位と聞くが、江戸時代の終わりごろ、「お伊勢参り」が流行したことがある。
実は、その流行の一端を担った者たちこそが、「御師」(おし/おんし)とよばれる者達であった。
彼らは特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする御師は街道沿いに集住し、「御師町」を形成し、この御師らの活動と伊勢信仰の広まりは深く関わっている。
しかし、いざ参拝となると伊勢近郊の者ならともかく、遠隔地よりの参拝となれば膨大な金額がかかる。
庶民にはそういう大金をつくることがで出来ないので、それを解決するために「伊勢講」というシステムが考え出された。
伊勢講とは町や村などある一定の組織の中で、各自が少しずつをお金出し合い、クジビキや話し合いなどによって「代表者」を選出する宗教的「互酬」システムである。
その代表者が「代参」という形で伊勢参拝をする、つまり村、町の人たちの代わりにお伊勢参拝するのである。
また日本には「無尽」とよばれた金融の一形態がある。
無尽とは、一定の口数と給付金額を定めて加入者を集め、定期的に掛金を行い、一口ごとに抽選ないし入札により、すべての加入者が「順番」に給付を受ける資格を取得する「互恵的」仕組みのことである。
この無尽は、庶民の金融システムとして、鎌倉時代中期に生まれた相互扶助システムがその起源とされ、今日の金融組織の母体といわれている。
江戸時代に入り、無尽講あるいは頼母子講(たのもしこう)として全国に広がっていった。
明治時代に入ると、企業化した無尽講が現れるようになり、1915に無尽業法が制定され、「営業無尽」を政府が監督するようになった。
1951年に相互銀行法の制定により無尽会社は「無尽」を継続する会社と、銀行業務を行う「相互銀行」に分かれたのである。
日本の庶民の「金融」はまさに生活の中に埋め込まれたもので、社会的(宗教的)必要性をベースに営まれていたといえる。
日本の庶民金融を見るうちに、2006年に「ノーベル平和賞」を受賞したムハマド・ユヌス氏を思い浮かべた。
ユヌス氏は、国民の40%が一日1ドル以下で生活するといわれるバングラデシュで、貧しい人たちのための銀行「グラミン銀行」を設立し、マイクロクレジット、つまり無担保で小額のお金を融資して貧しい人達の自立を助けてきた。
グラミンとは「村」という意味だが、ユヌス氏の取り組みは、貧しい村の人たちの暮らしを良くするために、電話などの通信の整備、教育のための奨学金、貧しい子どもたちの栄養改善など多岐にわたっている。
こういう地域への市場参入をはかる世界的な食品会社や日本の衣料品会社との「合弁事業」も行うまでになった。
ユヌス氏の取り組みは、政府が行き届かない分野、つまり「草の根」の働きで着実に成果を出しているといえる。
最近、ユヌス氏がグラミン銀行総裁を解任されたニュースの衝撃が広がっている。
ユヌス氏が法令で定められた60歳の定年をこえて総裁の座にとどまっているのが表向きの理由だが、実際は「バングラデシュの顔」ともいえる存在となったユヌス氏が、政府にとって「政治的な脅威」となるのではないかとの警戒感があるとの見方が強い。
ノーベル賞を受賞した「グラミン銀行」の取り組みを聞いて、日本に「先人」がいるではないか、と思う人は少なからずいるにちがいない。
ユヌス氏はひょとしたら内村鑑三の英語版「代表的日本人」などで「二宮尊徳」を読んだのではないかと思えてくる。
二宮尊徳が生きた江戸時代に、日本は270ほどの藩に分かれていたが、基本的に藩という「小国」の中で自存することがアタリマエであった。
時には上杉鷹山のような名君がでたとしても、それは藩の枠内の中での改革であり、他藩を助けるわけではなく、まして幕府が藩を助けることはなかった。
つまり「藩の自治」こそが大前提であった。
例外としては、米の「全国的流通」があり、旅芸人、商人以外は藩の「垣根」の中にあった。
農作業や水の分配、森の植林、町並みや美観の維持、祭りの運営、神社や寺の寄付まで合議制できめ、ムラ役人はいたものの、具体的な指示があるのは稀であった。
そして農村の経済生活の面で特質すべきは、「ゆひ」と「もやひ」である。
結(ゆひ)とは、主に小さな集落や自治単位における共同作業の制度である。
一人で行うには多大な費用と期間、そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、協力し合う「相互扶助」の精神で成り立っている。
それは、田植え、屋根葺きなど一時に多大な労力を要する際におこなう共同労働の形態のことであり、頼むべき家々をまわって労力の共同を申し入れ、それによって助けられれば自分の家もそれに応じて「返す」ことを前提としていた。
「ゆひ」は「もやひ」と称されることもあるが、厳密には「もやひ」が「共にあるものが共に事を行う、あるいは共にもつ」協働であり、互いに「労力」を貸し借りする観念はなかった。
つまり「ゆひ」は「互酬」の経済、「もやひ」は「贈与」の経済といえる。
阪神大震災の被災者が、東日本の震災にボランティアで参加するなどは、全国版の「ゆひ」であり、これを漢字で「結」と書くの奥深い意味を思う。
ところで、天下太平の江戸時代後期、諸藩の多くは贅沢を続け出費がかさみ商人から借金を積み重ねた。
そうすると家臣の俸禄を減らしてで追いつかなった。藩の収入を上げようと安易な年貢や税の引き上げを課せられ、百姓達は生活が苦しく逃げ出すものさえ多くいた。
江戸後期、二宮尊徳は荒廃した農村を、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じてたてなおした人物である。
わずかな土地でもって課せられた税の全てをまかわなわなければならず、正直に働くことさえバカバカしくなって身を持ち崩すものが増えていった。
そして望みなき生活を酒や博打で憂さを晴らすものが多くいたのである。
自ら離散した家を若くして再興した体験をもつ二宮は、どんな事業にも「元手」がいることを学んでいた。
まず再興を手がけた農村を長期の年貢の計算、一戸あたりの所有鷹、耕地面積、家族、農具、食料在庫、便所から馬の有無まで調べあげた。
勤勉だと見た農民には農具を与え、身利息でカネを貸した。村人が背負っていた高利の借金は立て替えて返済し、低い金利や無利息にした。また無借金の者には褒美として年貢を免除するなどした。
そして少しずつ貯めて大をなして行くことを実践させたのである。
以上のように二宮は、荒れ果てた農村の復興にあたりマネーゲームをしたのではなく、借りた者の生活設計を考えて、借金の返済から将来に備えた貯蓄の面倒までみたのである。
また仲間同士の責任感を与え「連帯保証」の仕組みをつくっていった。
また「仁義礼智徳」の五つの徳目を守ることににより、人間関係の信頼が破られずに、借金の回収不能がおきないような「精神的」土台をも築きあげたのである。
1843年に二宮尊徳の思想を実践して、小田原報徳社が結成され、農村の更生をはかる結社「報徳社」として全国に広がったのである。

ポランニーの言うが如く市場を社会に「埋め込む」とはどいういうことか、利子をとらない金融がこの世に存在するという点で「イスラム金融」に注目したい。
調べてみて驚いたことは、イスラム金融と先述した日本の「伊勢講」には共通の「誘因」から成立しているということである。
イスラム金融は、もともとメッカに巡礼するためにオカネを貯めるために生まれたものだからである。
メッカに巡礼するためには、かなりの費用がかかる。近くの地域なら歩いてもいけるが、例えば世界最大のイスラム教国であるインドネシアから巡礼に行くとなると、飛行機を使わねばならないし、相当な費用を必要とする。
一生に一度とはいっても何日もかかり、仕事を休むことになるので、皆でオカネを出し合って、順番に巡礼にいけるようにしたのがイスラム金融の始まりである。
最近とみに、「イスラム金融」の文字を目にすることが多くなった。
利子の受取が教典「コーラン」で禁じられているので、「金利」という概念を用いない点が大きな特徴である。
また、取引相手等の当事者が教義に反する事業(豚肉、アルコール、武器、賭博、ポルノ等)に関わっていないことも、イスラム金融取引の大きな特徴である。
イスラム金融の各取引が提供される際には、各金融機関等に設置されているイスラム学者委員会(シャリア・ボード)が取引の詳細を調べ、シャリアに適っている(シャリア・コンプライアントである)ことを事前に認定していることが前提となる。
宗教的な意味での「公正取引委員会」みたいなものである。
イスラム金融では、「市場の万能」を許さないように、それが社会に「埋め」込まれているのだ。

ポランニーのいうような「人間と経済」の調和とは、市場が「埋め込まれて」実現する社会である。
いいかえると、市場経済の相当部分が「互酬経済」、「贈与経済」などに置き換わっている社会ということである。
そこには資源や環境との調和も関わる。
日本は神社信仰のおかげで、奇しくも都市にも「緑」が残ることになった。
自然とともに生きた日本人にとって、原子を分裂連鎖させておこすエネルギーにたよる社会は、何か根底から人間存在をゆすぶるように思えて仕方がない。
ポランニーがいう市場が社会に「埋め込まれる」ということは、結局、生産者も消費者も、オカネの借り手も貸し手も、情報の発信者も受ける者も互いの「顔」がよく見えるということである。
こういうと、経済はものすごく地域的に「縮小」せざるをえず、かつての村落共同体をイメージするが、最近のインターネットの「フェイスブック」に見る如く「顔」が見える範囲はグローバルだ。
相手の「必要」と「目的」をよく知った上で「ゆひ」や「もやひ」で「結び」つく電子社会ということである。