人間と物質

人々の中には「モノ」の根源に興味をもち、物質を構成する分子や原子を探求する「壮大な宇宙」に入りこんでしまう人々がいる。
はいり込んだが最後、「迷い道」にハマッて命までも捧げてしまう学者もいる。
宗教的直感で「真理」に触れようとする人もいる一方で、ギリシアの自然哲学者のように「物質」の根源を探求することが、「真理」へたどりつく道であるという「指向性」を本質的にもつ人々である。
物理や化学はサッパリの自分は、そういう人には畏れ多くて「近寄り」がたいが、このたびの「原発事故」で聞いたこともない「物質」の名前を聞くにつれ、もうすこし「物質」と馴染んでおけば、と思うことシバシである。
原子炉事故のニュースで様々な物質があるものだと思った。放射性物質の中にヨウソやセシウムという物質がある。
ヨウソという物質の産出において日本はチリに次ぐ「世界第二位の産出量」を誇り、被災地の一つである千葉県が圧倒的なシエアを占めるという話を聞いて驚いた。
しかも小さい頃から怪我をした時に塗ってきた薬品である「ヨードチンキ」というのは、このヨウソからつくられるらしいとか聞くと、わけがわからなくなる。
汚染水が外に出ないように「水を固める」物質である「高分子ポリマー」など、「物質」の世界は実に多用だが、「放射能物質」との関連でいえば、それを抑える重要物質が「カドミウム」なのだそうだ。
カドミウムといえば、富山県神通川のイタイイタイ病の「汚染源」となった物質だが、この物質とは人体に対して「どんな役割」を果たしているのだろう。
天使なのか悪魔なのか。

本で読んだことのある、「物質」に魅せられた人々のことを思い浮かべた。
東京銀座にいくと、四丁目交差点に建つ円形・総ガラス張りの「三愛ビル」(三愛ドリームセンター)が目につく。
服部時計店(セイコー)の時計台とともに、「銀座のシンボル」といってよいが、このビルを建てたのは、市村清という実業家である。
市村清は、佐賀県三養基郡北茂安村の農家の長男として生まれた。
市村は「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。
三愛ビルも「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」という「逆転」の発想に基づいて建てたものである。
この人は、「ガラス」に魅せられた人といってよい。若き日に、ガラスを見て不思議な気分に襲われたそうだ。
そこにガラスという「隔て」があるのに「隔て」の向こう側が完全に見えるとは一体どうしてなのだろう。
モノが「映る」ということはどういうことなのだろうかと。
日頃、我々が目にするガラスは、人間の目でとらえることのできる可視光線の波長域において、光の吸収や反射がほとんど無いから透明なのだそうだ。
その理由は水の分子の二倍程の「酸化珪素」分子でできていて、それが無限につながり境目がないため、光りが散乱される事はないからだという。
市村氏は大変な苦学の末、1929年縁あって理化学研究所が開発した「陽画感光紙」の九州総代理店の権利を譲り受けたちまちにして成功を収め、朝鮮・満州でもその権利を得て1936年に後に「リコー」となる会社の代表となった。
現代は市村清の時代から大きな進歩をとげ、「ガラスのような金属」が多く使われるようになった。
我々が日常的に見ている「液晶テレビ」はITO電極といわれる「透明金属」を通して見ているようなものである。
そして、その実体は酸化インジウムとスズの混合物である。
「液晶」とは、金属を「気体化」して使うものだが、この混合物が「新空蒸着」という方法でガラスの表面に極めて薄い膜として張られているらしい。
ところで、インジウムは中国との「尖閣列島」問題で輸出禁止項目となり話題となった「レアアース」の一つなのであるが、入手が困難で高価なものである。
したがって「酸化亜鉛」をつかって「液晶」を実現する研究が行われているという。
ちなみに「雑学」的知識を一ついえば、日立製作所の「キドカラー」は、ブラウン管の赤色発光体に「希土」(=レアアース)類を使って「輝度」の高い美しい色を実現したカラーテレビ、という意味でネーミングされたものである。

「青色ダイオード」の開発に取り組んだ中村修二氏も、「物質に魅せられた」その一人であろう。
ある本で、中村氏の「青色ダイオード」の開発とは結局、自然界にない「発光する人工的な石」を作りだす技術だそうだ。
成功にいたる過程は、ヤケクソと冷徹な集中力が「入り混じった」ものであった。
その執念からいえば、三重県鳥羽で「養殖真珠」に成功し、世界最初に「白く輝く石」を人工的に作り出すことに成功した御木本幸吉のことも思い浮かべる。
1890年、御木本は著名な動物学者から真珠は養殖できるかもしれないと聞き、郷里の英虞湾で真珠養殖場をおこした。
赤潮による真珠貝全滅の悲運などにもめげず、家産の大半を注ぎこんで研究をつづけた。
しかし、雲をつかむような真珠養殖につかれた御木本に、村人は「とうとう頭にきたらしい 大山師だ」と後ろ指をさした。
家産も失い村人も離れていったが、妻だけが最後の協力者であった。
1893年に世界ではじめてアコヤ貝の内殻に半円真珠を造り出すことに成功し、1905年には真円真珠の養殖にも成功し「世界のミキモト」として知られていった。
だがその時妻は、すでにこの世を去っていた。
ところで、「発光ダイオード」はLEDともよばれ、電気エネルギーを光エネルギーに換える装置である。
最近の日本中の夜を美しく飾っているのがLED技術であるが、その技術に欠かせな物資が「ガリウム」である。
LED技術とは、炭化珪素に電流を流せば発光するという原理を応用したもので、用いた元素によって「固有の色彩の光を発する。
赤色と緑色のダイオードはすでに開発されていたので、青色ダイオードが開発が、待たれていた。
赤(R)・緑(G)が成功しもし青(B)が実現すれば、RGB三色を同じ点で同時に発光させれば「白」を発光させることができるからで、それぞれの色の濃淡によって無数に近い色を実現できる。
これを一般の照明に使えば、同じ明るさ電球や蛍光灯に比べて、「大幅な省エネ」になるという極めて日常的な技術なのでもある。
構造は比較的に単純で製造コストが安く、その上故障も少ないという優れものである。
発光ダイオードの「内部」をいうと、次のようなことが起こっている。
原子では、電子はエネルギーの低い軌道に2個ずつ対をつくって入っている。
プラス極は、この電子一個を奪う。一方、マイナス極は、エネルギーの高い軌道に一個の電子を送り込む。
この結果、原子はエネルギーの高い軌道と低い軌道に一個ずつ電子をもった状態になる。
この状態の原子は大変不安定で、高エネルギー軌道の電子を低エネルギー軌道に落として安定する。
この際に放出されるエネルギーが光となるのがLEDなのである。
中村修二氏が「青色ダイオ-ド」の開発に取り組んだ会社は、徳島県阿南市にある「日亜化学」という地場の会社であった。
開発に取り組んでから5年の歳月をかけて成功したから、それほど長い時間ではない。
しかし、その前段(プロローグ)としてのいくつかの「製品開発」があっての成功だろう。
中村氏は、徳島大学大学院卒業後、京都の一流企業にも内定していたのだが、学生結婚して身重になっていた奥さんのこともあって自然豊かな徳島に残る決意をした。
日亜化学の開発課のたった一人の研究員としていくつかの技術を開発し「製品化」はしたものの、その製品の「製造」には全く関わることなく、次の新しい製品の開発といった「サイクル」の繰り返しだったという。
そして優れたものでも、コストが高すぎて売れることはなく、社内の「人事評価」もしだいに落ちていった。
会社から「売れる」と言われたことをソノママやったのに、しだいに「会社の無駄飯喰い」と罵倒されるようになっていく。
評価も給料もあがらず、10年間で残った数字は「赤字」だけということになってしまった。
また、特許申請や論文発表はまったく認められないという「閉鎖性」が会社にはあった。
また、自分なりの誇りを抱いて作った「画期的」な商品ではあっても、売れて利益につながらないかぎり、企業社会では評価されないことを、イヤというほど思い知らされたのだ。
そして中村氏はついに「キレ」、ここから中村氏の「破滅型とことん人生」がはじまる。
会社のいうとおりにやってもロクなことはなく、あとは辞める他ないが、その「辞め方」を考えたのである。
要するに、迷惑かけついでに、好きなことをやって辞めることに決めたのだ。
先述の市村清氏と同じく、人が正しいと思うことの反対をやろうと取り組んだのが、当時「不可能」といわれていた「青色発光ダイオ-ド」の開発であった。
世の中には、「どん底」にいたるまでトコトコンやらないと気がすまぬ人がいるが、中村氏もそのタグイの人であろう。
傍目にはソロソロ「方向転換」してはどうかと思うが、本人もそう思いつつも、やはりイクところまでイッテしまう。
不器用な人に「映る」のはまだしも、結局、彼には身の破滅しか待っていないように見える。
本人も、誰か「自分を止めて」くれることを望んでいるのかもしれない。
ただ何を間違ったのか、「破滅」に向かうはずの人生に、「大成功」という事件がおきてしまうのである。

最近、宇宙探査機「はやぶさ」の偉業が日本を久しぶりに元気づけた。
この「偉業」の意味があまり判らなかった為、その時点で自分は元気にはならなかったが、あとで調べてみて確かに「元気」づけられた。
この「はやぶさ」の開発の目的と夢、それに関わった人々の「裾野」の大きさが、その感動を大きくしてくれた。
はやぶさは、2003年5月に打ち上げられ、2005年9月には小惑星イトカワに到着し、数ヶ月に渡る観測の後に離着陸を行い、2007年4月、地球に針路をとったが行方不明になっていた。
その間、姿勢制御装置の故障や化学エンジンの燃料漏れによる全損、姿勢の乱れ、電池切れ、通信途絶、イオンエンジンの停止など数々のアクシデントに見舞われた。
その大半は「想定」されており、相互バックアップや「自動復旧」できるよう設計されており、推進剤ガスの放出による姿勢修正や太陽帆の原理による姿勢制御などの機転もあいまって復旧に成功した。
いかに「想定された」トラブルとはいえ、「自動復旧」能力には驚かせられる。
小惑星「イトカワ」にランデブーし、表面でサンプルを回収して地球に持ち帰るのが最大の目的である。この成功により、月以外の天体から初めてのサンプル・リターン(回収)となった。
なにしろ微小なズレでも距離が長大なために地球にかえってこれないのだ。それは発射台から地球の裏側のサンパウロのてんとう虫に「当てる」ぐらいの困難さだそうだ。
では、「はやぶさ」はなぜ小惑星をめざしたのか。
人類がこれまでサンプルを採取したことのある天体は月だけである。
しかし9つの惑星や月のように大きな天体は変成してしまったため、太陽系の初期のころの物質について知ることができない。
小惑星は惑星が誕生するころの記録を比較的よくとどめている「化石」のような天体だといわれている。
そこで、小惑星からサンプルを持ち帰る技術が確立されれば、惑星や小惑星を作るもとになった材料がどんなものであったか、惑星が誕生するころの太陽系星雲内の様子がどうであったか、についての「手がかり」を得ることができるというわけである。
「はやぶさ」では、惑星間空間の飛行には「イオンエンジン」と呼ばれる先進的な推進装置が用いられた。
そして「ミネルバ」という、手のひらに乗る超ミニサイズのランダーを「イトカワ」に降ろすことに成功した。
そして、接地後直ちに小惑星表面に重さ数グラムの金属球を発射し、その衝撃で発生する破片をサンプラー・ホーン(採取機)で捕まえる方法をとった。
サンプル容器が収められたカプセルはオーストラリアの「アボリジニーの聖地」でもあるウーメラ立入制限区域内にパラシュートを展開して降下し、無事に回収された。
これによって、「小惑星」からの世界初のサンプルリターンに成功した。
打ち上げ当初の軌道計画から想定されるギリギリの燃料しか搭載されておらず、「はやぶさ」は一見過剰とも思える推進剤を搭載しており、余裕を持ったキセノンガスの搭載量が結果的に「はやぶさ」を幾多のトラブルから救ったといわれる。
「はやぶさ」は太陽系の「いにしえの姿」を求めて7年、60億キロの宇宙の旅を続けた。
孤独な「迷子飛行」にも負けず忠実ミッションを果たした「はやぶさ」に共感の輪が広がった。
また、幾多のトラブルを乗り越え、最後は燃え尽きる姿に「元気づけられた」との声が絶えなかった。
また「はやぶさ」の開発にかかわった大学や企業118団体に、文部科学相と宇宙開発担当相とは、功労者として感謝状を贈った。
その中には、世界に誇る快挙を支えた「職人集団」も含まれ、縁の下の力持ちの大切さが再認識された。
表彰された団体のうち最も規模の小さいのが平均年齢65歳、常勤社員4人の金属加工業「清水機械」である。
清水機械は、所狭しと並ぶ旋盤などの工作機械を操る東京都江東区にある「町工場」で、約30年前から宇宙開発に関わったという。

ところで宇宙は今から137億年前に「ビッグバン」という大爆発によってつくられたという。
すべてはここから始まっているわけだが、「すべて」というのは、「物質」だけではなく「空間」「時間」までも含んでのことなのだ。
これらの物質は、大爆発のエネルギーによってあらゆる方向に飛び散った。宇宙に飛び散った物質は「濃い」ところもあれば、「薄い」ところもある。
濃いところでは「引力」が働き、さらに濃くなって膨大な量の「物質の塊」ができ、中心は摩擦で高熱を発し、その結果「核融合」が始まった。
原子は、原子核と電子からできているが、原子核は陽子と中性子から出来ている。
原子核において、陽子と中性子を結びつける力を「結合力」という。
この「結合力」は、原子の大きさによって異なるそうだが、水素原子のように小さな原子は「不安定」であるために、2個が「融合」してヘリウムになると「安定化」し、余分のエネルギーを「放出」する。
つまり、水素原子の塊は高温となり、「核癒合エネルギー」を光と熱として放出し、燦然と輝き出したのである。
暗黒の宇宙に「光」があらわれたのだ。これが恒星であり、我々の「太陽」である。
「ビッグバン」の出来事を書くうちに、聖書の冒頭に「似通った」経過があると思い至った。

「初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。"光あれ"こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。」

科学的知識が豊富にあって、神が「たった一日」でこれだけのことをやったのかと訝しく思う人の為に、聖書には「神にとりて、千年は一日の如く、一日は千年のごとく」(ペテロ第二の手紙3章)という言葉もあることを、付言しておきましょう。