寄留する者達

「獅子の時代」は1980年NHKが自由民権運動の時代に、賊軍・会津の流れで地方に生きた下級武士にスポットライトを当てた大河ドラマであった。
それほど高い視聴率はなかった記憶があるが「秩父事件」など従来歴史物ではあまり扱われてこなかった内容を含むもので、今時放映されれば興味をもって見たに違いないドラマである。
特に民間がつくった最も民主的な憲法草案といわれる「五日市憲法」の制定に関わった人々の姿がどう描かれていたかを見たい気がする。
その中心になったのは、戊辰戦争で破れた側の下級武士が現在の東京のド田舎に流れついて「寄留」しつつ、そうしたものを生み出したのであった。
ところで本稿「寄留する者達」が生きた時代も「士師の時代」であるが、国と時代が違う。
「士師の時代」、それは紀元前12~13世紀の古代イスラエルの時代の話である。
では、「士師」とは一体どんな存在であったかというと、イスラエルで王権が誕生するにイタル時代である。
つまり、イスラエルの部族を軍事的にまとめたリーダー達が表れた時代で、「王権前史」といってよい。
イスラエルは部族社会であるが、戦時にそうした部族長がかならずしも有能な指揮官になるとはかぎらない。
そこで、族長ではない人が自分についてくるものはオイデといったような形でリーダーになったものが「士師」であった。
当時イスラエルには「常備軍」というものは存在しなかったので、戦争が終わると軍隊は解散される。
そして平時になると、士師は争いごとの仲裁などの「裁判官」的な仕事をしていたという。
ところで、聖書全般のトーンは、絶えず「寄留者」という言葉ヌキに考えることはできない。
アブラハムはメソポタミアの定住の地ウルから、突然パレスチナのカナーンの地に「行け」と命じられる。
それもたくさんの異邦の神々の真っ只中へとおくりこまれ、「偶像崇拝」におちいることなく、ただ唯一の神ヤハウェの信仰を堅く守るように命ぜられる。
だから約束の地カナーンの地でさえも「寄留地」であり、飢饉でエジプトに「寄留」した後も、さらに40年余り砂漠をさまようことになる。
こういう移動するイスラエルは様々な「戦い」を余儀なくされるのだが、そこに軍事的リーダーが必要とされるのは自然なことであった。
士師の中でも人口に膾炙された名前といえば、現代において聖書の無料配布を行っている「ギデオン協会」の名前になっているギデオンが有名である。
ところで、古代ユダヤ社会では、「王」という権力に警戒心を抱いている感がある。
民衆は王をもとめるのだが、預言者サムエルは、王は民を苦しめる結果になると警告するも、民衆はなおも王を求める。
戦争に勝つためには強力なリーダーの下に結束することが必要だと思ったのかもしれないが、平時にも王は王としてとどまるために、「苛斂誅求」ということもおこってくる。
実際に預言者サムエルが油注ぐことによって誕生した古代イスラエルの初代の王サウルは、中途から頭が狂い始め民衆をも苦しめるが、あとの祭りである。
そうした古代イスラエルの王権は、ヨーロッパ近世における王権と対比させると、色々と啓発に富むものを含んでいる。
その第一に、ユダヤの王権はけして絶対的なものとはならなかったということがあげられる。
まずは、圧倒的に偉大な恐るべきヤハウェの神の前では大きな存在となろうにもナレナカッタのである。
さらに、王は自ら宣言して王となることはできず、「手続き」上神の信任をうけた預言者によって「油注がれる」ことによって王位につくことになっていた。
また実質的に長老会の同意を必要としていた。
しかも、その預言者は神と王権を取り持つ存在だったから、神をないがしろにしたり、神との契約を守らない王に対しては、遠慮することなく忠告した。
例えば、「あなたは明日死にます」などということをズケズケといったわけである。
というより神の言葉を預かった以上は、いわなければならなかったのである。
したがって王に雇われる宮廷預言者などというものは、王に気に入られることばかり言うので基本的に偽預言者であることが多かったのである。
ただ誰が本物か偽物かを事前に判断することはできず、「言ったことが実現するかどうか」によってしか判断することはできない。
従って、正しく歩む王は「本物の預言者」をもつ王であり、その忠告をよく聞きいれる王であったから、王権が神権のごとく強くなることはなかったのである。

「約束の地」とはいえ異民族の真只中に投げ込まれた感のあるイスラエルの民は、異民族との戦いに明け暮れることになったた。
したがってイスラエルの神はまるで「戦の神」すなわち「軍神」の如く立ちあらわれ、「メシア待望」(救世主)の期待が生まれたとしても、人々にはそういう軍事的な神のイメージがあったにちがいない。
ちょうど日本でいうと「八幡神」のようなものである。
しかしながら真実の神の姿(イエス)は、そういうものとはマッタク異なるものであった。
イエスは、人間が文字化した律法の裏にある真実の「高み」すなわち「神の愛」を伝えた。
しかし人々は、預言者の1人かとも思われたイエスは、「私を見るものは神を見る」とまで語ったことに対して、イエスの最終的罪状でいうごとく「自らを神として神を冒涜する」存在としか受け取ることができなかったのである。
確かに、あの峻厳で恐るべき神が、自らが定めた「いけにえ」のルールにのっとり、人間の罪の代価をはって「十字架につけられる」などということが、その理解の範囲をハルカに超えることであったのだ。
しかし、復活したイエスと出あった弟子達やパウロなどによって、「ベール」がはがれるようにその言葉や行為の意味を旧約聖書を参照しつつ次第に明らかになっていった。
実はこうした愛のイエスと旧約の峻厳なる神との距離が「大き」すぎたことが、民衆がイエスを「メシア」であることを気づきにくくしたのかもしれない。
しかし神が定めたオキテの中には同胞に対する「慈善的な」あるいは「社会保障的」な要素が多分に含まれており、「愛の神」としての姿をいくらでもあらわしているのである。
そして人間があじわう様々な苦難や不条理に思える出来事の中には、神の超越性と同時に絶えず人間を教え導く「愛の神」の姿があらわれて現われているのである。
冒頭で述べた「士師の時代」というのは、実はイスラエルと異邦人との陰惨で凄惨な戦いの連続なのであるが、その中に「一陣の薫風」のようなエピソードが旧約聖書の中に折りこまれえている。
それがわずか5章ばかりの「ルツ記」であるが、この記録の中には聖書的世界観がふんだんに濃縮されているといって過言ではない。
つまり慈愛と憐れみに富たもう神であり、全てを奪い取り全てを与えたもうという「流儀」で働く神の姿が現れているのである。
旧約聖書の「ルツ記」には、「新約」におけるキリスト者の生き方を暗示するものであり、その一つが「寄留者」という概念であったり、「異邦人」という概念であったりする。
「寄留」という言葉は聖書におけるキーワードであり、土地を持つにも常に地元民との交渉が必要になってくる。
そこでアブラハムは妻サラがなくなった時に、「墓地」が必要になるが、その時には相当の金を払ってソノわずかな土地を買い取っている。
また、ユダヤ法の中には、様々な「恤救制度」的なものがあるのだが、例えば「安息日」は、奴隷や牛馬の消耗を防ぐ意味合いもあったし、それ以外に七年目ごとに「安息年」をもうけて畑の耕作を休んだりする。
また50年めごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する「ヨベルの年」とかもあった。
さらには、収穫のすんだ畑に残っている落穂を拾うのは寡婦や孤児の権利で、誰もそれを邪魔してはいけないことになっていた。
そのほか、外国人(異邦人)労働者にも一定の保護が与えられていたのである。
以下にのべる「ルツ記」の内容に関していえば、夫を無くした寡婦を夫の一族のうちの誰かが娶る権利を有するという「レビート婚」の慣習があったことと、跡継ぎがいなければ「その土地」を夫一族の誰かが買い戻す権利があったということである。
いずれも一族の血と土地を存続させるための法であることを前置きとしておこう。

さて、イスラエルの地に飢饉があった。そしてベツレヘムからモアブの地に移り住んだエリメレクの家族がいた。
モアブといえば、アブラハムの甥のロトとその姉娘との間に生まれた子どもの子孫であり、いわば「異邦人」である。
その後、モアブに移住したエリメレクは、妻ナオミを残してなくなり寡婦となったナオミは、モアブ人の女を、二人の息子に嫁として迎えた。
こうして彼らは十年の歳月を過ごしたが、ナオミは、二人の息子にも先立たれてしまう。
残された姑ナオミと二人の嫁の心境はどのようなものであっただろう。
夫も子どもをも失う、ナオミは涙も涸れはて、将来に何の希望も見出せなかったに違いない。
そんな折り、故郷ベツレヘムから豊作の知らせが届いた。故郷に戻れば、食べることだけには困らないかもしれない。
ナオミは、荷物をまとめて故郷へと旅立つ決意をするのだが、イスラエル人は排他的なところがあって異邦人(モアブ人)である嫁までも連れて行くことに気がひかれるものがあった。
そこでナオミは、二人の嫁にそれぞれ自分の実家に帰り、再婚して新たなスタートをきるようにすすめた。
二人の嫁の幸せを願ってのことであり、歳を取ったナオミが嫁たちにしてやれることはそれくらいのことだった。
弟嫁のオルパは、この勧めに従ったが、兄嫁のルツは、ナオミの勧めを受け入れず、あくまでもナオミについて行くことに拘った。
そしてモアブの女ルツはスッゴイことをいう。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です」(ルツ1章16節)と。
これが、「恨む」ほうが自然かもしれない神に対するルツの態度であった。
ここでルツは、姑ナオミの信じる「イスラエルの神」を信じ、ナオミと心一つにして歩んで行こうという意思を表明している。
姑ナオミは、堅く離れようとしないルツを受け入れ、二人はナオミの故郷ベツレヘムへとむかったのである。
これまで全てを失ったかに見えた二人だったが、そこには「はかりしれない」神の恩寵が待っていたのである。
二人がベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃であり、ナオミの旧知の人々はナオミに「お帰り」と声をかけた。
しかし、ナオミは、「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれることを拒み、苦しみを意味する「マラ」と呼ぶように、と答えている。
それまですべてを失ったナオミは、「主の御手が私に下った」「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」からだと語った。
ところで亡くなった夫エリメレクは土地を所有していたが、「跡継ぎ」がいないままであり、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。
しかし前述のようにユダヤ法には夫がなくなるとその兄弟が優先的に土地を買い取る権利を有するという規定があった。
ベツレヘムには、エリメレク一族に属する遠縁にボアズという金持ちがいた。ボアズもその土地を買い戻す権利を持つ一人だったのである。
また当時、ユダヤでは、貧しい者と寄留者には、収穫後の「落ち穂」拾いの権利が与えられていたのだが、「何の導き」によるのものか、ルツは「はからずも」ボアズの畑へと導かれていたのである。
ボアズは、働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいように、畑の若い者たちに邪魔をすることがないように命じた。
ボアズに対する好意を知った姑ナオミは、「レビラート婚」の権利に訴えて、ルツの将来を保証しようとした。
前述のとうり、レビラート婚とは、結婚した男性が子どものいないまま死んだ場合、死んだ男性の兄弟が寡婦を自分の妻としてめとるものである。
ただし、ルツの場合は、遠縁の親戚ボアズと、ナオミではなくルツに適用された点で拡大解釈であったともされている。
そしてナオミは、ルツに具体的な指示を与えた。からだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることである。
これは、当時のユダヤの求婚の習慣に従ったものであり、その大胆とも思える企てにルツは素直に従った。
ボアズは、そんなルツの姿を見て、ルツに「あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっている」と語った。
「先の真実」というのは、ルツが夫の死後、故国を離れて異国の地まで姑のナオミに着いて来、ナオミの生活を支え仕えたことを指している。
「あとからの真実」というのは、自分の夫マフロン名を相続地に残すために、一族とはいえかなり年長のボアズを夫として選んだことを指している。
ユダヤ法では、「レビラート婚」にせよ「土地の買戻し」の権利にせよ、それらの権利を持つ者は他にいたのである。
ボアズの他にそれを行使すれ者がいれば、ナオミ・ルツの「願い」とは異なる神の導きがあることになる。
そこで、ナオミはルツに言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」。
この言葉には、神が働いて下さるから見ていなさい、という信仰の言葉である。
ボアズは、他の買い戻しの権利を優先的に持つものに確認の上、ボアズはその権利を譲りうけ、ナオミとルツの幸せのために、ある意味で「犠牲」の多い結婚を承諾したのである。
しかしこのことは、ボアズに「はからずも」、ダビデ王の曾祖父となる栄誉を与えることになるのである。
ボアズとルツとの子孫にダビデ王が生まれ、その系図からイエス・キリストが生まれるのである。
アブラハム以来イサク、ヤコブへと受け継がれていった祝福を、異邦人の娘ルツが伝え、それはダビデの系図から生まれたイエス・キリストまでにも伝えるのである。
全てを失ったかに見える姑ナオミと嫁ルツに対して、神はボアズという有力者との出会いを通じて、溢れんばかりの祝福を与えたということである。
異邦人モアブの女ルツは、全てを失ったかに思えた状態で、ただ姑の抱いた「イスラエルの神」への信仰に導かれて、ベツレヘムすなわち後のイエスの生誕地に導かれたのだが、それははからずも「神の系図」に組み込まれるという祝福を受けることになったのである。
ちなみに、土地を「買い戻す」という言葉と「贖う」という言葉には、ヘブライ語では同じ言葉が使われている。
ところで、エリメレクの家族もそうであったが、イスラエルの民は各地を寄留者として歩んだ。
一世紀には国を完全に失い世界に「散った」(ディアスポラ)ために、彼らは世界中を「寄留者」として歩むことになる。
ところで旧約聖書の出来事は、「新約」と独立してよむべきではなく、新約聖書の「影」または「型」として読むとその「奥行き」の深さがわかる。
イエスの十字架と復活後に、弟子達特にペテロ、およびパウロらは、その「福音」(罪の贖いと復活)を異邦人に伝えていくが、新約聖書ではそうしてキリストを信じた者を、世界における「寄留者」と位置づけている。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」。
「しかし事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」。(ヘブル人への手紙 11:13 )