国難と炉心

東日本大地震、津波到来、原子力発電所の制御不能という事態の連鎖により、ついに日本は「国難」到来といった事態に陥っている。
「国難」の直前には、民主党は前原外相辞任後、同様の問題で菅首相にもついに辞任か(または解散)という「土俵際」まで追い詰められていた。
そういうタイミングでの、「国難」到来だった。
そういえば、今回の地震で最も甚大ば被害を受けた岩手県は、小沢一郎氏の地元であった。
8年前、スマトラの津波で約23万人が亡くなった。
それはインドネシアにとっては「国難」ではあったが、死者の数からいえばハルカに少ないとはいえ、東日本大地震は津波が襲った領域の広さ、原子力発電を抱えた危険さ、日本の首都圏を巻き込んだ重要性からいって、もはや「国難」というのはあたらないかもしれない。
世界は、「日本の危機」を「世界危機」の一つとして受け止めている。
原子力の「危機」に関していえば、地震後に原子力発電所は安全に自動的に停止したが、その「余熱処理」が冷却装置の電子系統の不具合によりできなくなってしまったという意味での「制御不能」に陥っている。
その意味で、原子力「稼動中」に暴走したチェリノブイリ事故とは違う。
ただし、複数の原子炉の「同時進行的」不能という点で世界初の事故であり、まだしも電子系統は作動していたスリーマイル島原発事故以上の危機だと思われる。
以上はあくまで「技術」レベルの話(国際基準ではレベル5)で、「被害規模」までは今何ともいえない。
明白なことは、福島原発は地震の「揺れ」に対する備えは出来ていたが、「水」(=津波)に対する備えは完全に欠落していたということである。
その点に関して、国と東京電力の責任は重大だといえる。
ところで、こうした実際の原発の事故直前には、国にとっての「炉心」溶融を思わせる出来事が相次いで起こっていた。
閣僚が外国人から政治献金を受けた問題ばかりではなく、大学入試のハイテク・カンニングや大相撲の八百長問題など、「国の炉心」が溶け始めたような感じを抱かせた。
また、「外交」や「防衛」のアヤウサが指摘され、国難はイツカ「外から」やってくるかと思ったが、自然災害から「原発事故」というカタチで「国内」から発せられることになった。
「溶け」始めた国にあって、大震災という試練は挙国復興となる「炉心」を形成することになると受け止めたい。

最近の「国難」といえば、アメリカで2001年9月11日に、二機の旅客機が世界貿易センタ-に突入した「911テロ」を思い起こす。
ビルはその数分後完全に瓦解し、6000名近くの人々の命が奪われた。
ところで世界貿易センタービルの設計者は、ミノル・ヤマサキという日系移民であった。
ミノル・ヤマサキは1912年12月1日、富山県出身の日本人移民の子としてシアトルに生まれた。
母方のおじが建築家であった影響で建築を志すが、家が貧しくサケの缶詰工場で働きながら学費を稼ぎ、苦学して建築学を学んだ。
その後、一流設計事務所に務めながら修業を積み次第に頭角をあらわしていった。
結婚後まもなくして、真珠湾攻撃がおこり太平洋戦争が勃発する。
アメリカにとって「国難」太平洋戦争は同時に、アメリカ在住の日系人にとっても「民難」(=民族難)であった。
多くの日系人がカリフォルニアの砂漠にある日系人収容所に押し込められた。
しかし、戦前からその能力を認められていたヤマサキは、日系人への迫害が激しかった太平洋戦争中もすぐに釈放されほとんど収容恕体験を経ることなく、終戦の1945年には所員600人を擁する大手設計事務所のチーフデザイナーに迎えられている。
その後、アメリカ建築家協会の一等栄誉賞(ファースト・ホーナー・アワード)を受賞するなど一流建築家として、ニューヨークに当時世界最高の高さを誇るビル(世界貿易センタービル)を設計する栄誉を手にしたのである。
その後もトップクラスの一流建築家として活躍し、数多くの作品を残したヤマサキは1986年2月7日、73歳で亡くなっている。
日本では「都ホテル東京」に彼のデザインの一端を見ることが出来る。
ミノル・ヤマサキの経歴を見るうちにイサム・ノグチというもう一人の日系人のことを思い出した。
ノグチは1904年11月17日は、アメリカ合衆国ロサンゼルスで日本人の詩人である野口米次郎アメリカの女流作家との間に生まれた。
1906年家族とともに日本へ移住し、2歳から13歳までを東京で暮らした。
小学校時代、工作が得意だったが転校を繰り返し、友達と馴染めずいた。
学校に行かずに神奈川の茅ヶ崎の木工細工の職人の元で修行をしたことは、貴重な体験となった。
アメリカに戻り、大学はコロンビア大学医学部に入学したものの、19歳の時に彫刻に目覚め、在学中から美術学校で彫刻を学んだ。
1927年から奨学金でパリに留学し、2年間ロダンの弟子である彫刻家に師事し、1928年にニューヨークで最初の個展を開いた。
20代には龍安寺や天龍寺の石庭を何度も訪れ、自然石は彫刻だという哲学に辿りついたという。つまり、ノグチの「芸術の原点」は京都の禅寺である。
1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、自ら志願して「強制収容所」に拘留された。
ノグチは、後に芸術家仲間らの嘆願書により釈放され、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。
「ノグチ・テーブル」をデザイン・製作するなどインテリアデザインの作品に手を染めていく。

以上、東日本大地震という「国難」に際して、かつて「911テロ」のターゲット、「原爆慰霊」のモニュメントというように、日米両国の「国難」に、それぞれ「芸術家」または「建築家」として関わったヤマサキとノグチを思い浮かべた次第である。
そして二人は「国難」(民難)によって敵国となる日米によって「引き裂かれた人間」であった点でも共通していた。
人格において「引き裂かれた」からこそ、自分の内面の「炉心」を深く「見つめ」、それを強く保つ他はなかったのではないだろうか。
そうして生まれたのが、ヤマサキの建築であり、ノグチの芸術であったのだと思う。
ところで日系人芸術家の中でミノル・ヤマサキは突出した成功者であったが、彼の作品はあまり「恵まれ」ていない。
世界貿易センタ-ビルは「911テロ」のターゲットとなり、彼が設計した団地は「都市計画」の失敗により住民に愛されずに「犯罪の温床地」となり、1972年にダイナマイトで解体された。
一方、イサム・ノグチのモニュメントが1952年には広島平和記念公園の「慰霊碑」として選ばれたが、原爆を落としたアメリカ人であるとの理由で却下された。つまりヒキサカレタのである。
ただ平和公園の東西両端に位置する平和大橋・東平和大橋のデザインはノグチの手になるものである。
しかし彼のデザインの一端は「ノグチ起用」を強く推した丹下健三により設計された「原爆慰霊碑」の中に色濃く生かされている。
ノグチは後年、アメリカ大統領の慰霊碑をデザインしたこともあるが、こちらの方は日本人であるとの理由で却下されている。
しかし1984年、ニューヨークのロング・アイランド・シティのイサム・ノグチ庭園美術館が一般公開され、また1987年にはロナルド・レーガン大統領から「アメリカ国民芸術勲章」を授与される栄誉をうけるなどした。
ノグチは 1988年冬、肺炎によりニューヨークで84歳で死去した。
ヤマサキとノグチの歩みは、日系人の「民難」への対応の仕方として、ある部分で「重なり」、ある部分で「対照的」であった。
ヤマサキは太平洋戦争中にアメリカで活躍し続け、一流建築事務所を渡り歩いた。
対して、ノグチは自ら日系人収容所にはいることを自ら「選んで」いる。
しかしノグチの場合、収容所においてアメリカ人とのハーフのため「アメリカのスパイ」という噂がたち日本人から冷遇され、今度は自ら収容所の「出所」を願い出るが、今度は日本人のハーフという理由で「出所」は許されなかった。
後に芸術家仲間の「嘆願書」により出所が許された。ノグチはこのように日米両国に「ヒキサカレタ」人生を歩むのだが、彼と同じく二つの国つまり「引き裂かれた」日本人「中国女優」の山口淑子(李香蘭)と結婚していた時期がある。
ちなみに広島生まれのファッションデザイナ-の三宅一生は、1945年8月6日、爆心地から4キロの東雲小学校の教室で原爆の閃光を見た。
三宅自身は被爆を免れたが、母は自宅でヤケドを負い4年後に亡くなっている。
幼少期から一貫して美術部に所属して優れた美的センスを発揮していた三宅は、焼け野原から復興する広島の街中をつぶさに眺め、高校の近くにあった丹下健三設計の平和記念公園やイサム・ノグチが設計した平和大橋のデザインに「大きな感銘」を受けている。
「丹下ーノグチー三宅」の三人の芸術家の「原爆」を通じためぐり合わせである。

ところで世界中の民族は様々の困難に直面しソレを乗り越えたり、それにより滅んだりしていいる。
それで一番に思いツクのは、ユダヤ民族の「国難」である。
ユダヤ民族ほどたくさんの「国難」にあった民族はない。逆にいうとユダヤ民族ほど「国難」で滅びない民族はない。
ユダヤ民族にとってナチスによる「ホロコースト」に次ぐ試練は、紀元前7世紀頃に民族まるごとバビロンに「捕囚」として強制連行されたこと、およびその間に民族の信仰のシンボルともいうべき「神殿」が異教徒により徹底的に破壊されたことである。
実はこの「国難」こそが今日のユダヤ民族をつくったといっても過言ではないのだ。
バビロニアが隆盛してきたペルシアに圧迫されると、ユダヤ人は祖国に帰還しエルサレムの神殿の再建に取りかかるが、この地に残留していたユダヤ人とのトラブルが絶えずに、「祖国復興」「神殿再建」はトテツモナイ困難に直面する。
その時、ネヘミヤやエズラという指導者によって、「ユダヤ教」やその「戒律」の詳細たる「タルムード」が作られていくのである。
つまり「国難」こそは民族の中で最も「精神的な部分」つまり「炉心」が形成される「チャンス」なのである。
聖書のハイライトのひとつは、このエルサレム再建の6世紀も前に起こった「出エジプト」の出来事である。
この試練こそが、今もってユダヤ人の最大の祭りである「過越の祭り」を生み出し、世界に離散した後もユダヤ人がアイデンティティを失わなかった最強の「炉心」となったのである。
1948年イスラエル建国という長いディアスポラ(離散)の過程においても、ユダヤ人の「炉心」が溶解しなかったのは、そうした民族の「苦難」があったからである。
また「出エジプト」の指導者であるモーセは、ミノル・ヤマサキやイサム・ノグチが「国難」(民難)に向かい合った際に自らに問うた民族の「アイデンティティ」の問題と深く関わらざるを得なかった点で重なっている。
紀元前13世紀頃、飢饉のためにエジプトに逗留したユダヤ人の人口が次第に増え、両民族の紛争やトラブルが頻発した。
そのうちエジプト王は、ユダヤ人の幼な子を「抹殺」する命令を出すが、子供を殺すのに忍びなかったユダヤ人の夫婦が、葦で造ったカゴにいれて「幼な子」を流した。
エジプトの女官がその葦舟を拾いあげ、水からモーセを引き出し、エジプトの王子として育てられる。
ちなみにモーセという名は、水から「引き出す」という意味であるが、彼が成人して与えられた「使命」からすれば、その名がいかに「預言的」であったかがわかる。
モーセがエジプトの王子として成長する一方で、ユダヤ人はエジプト人の「奴隷」として酷使されるようになっていく。
しかし、モーセは何らかの事情により、自分がエジプト人ではなくてユダヤ人であることを知らされる。
そして、自らの「アイデンティティ」に従いユダヤ人の元にいく。
しかしイマダに「王子」気分だったのか、ユダヤ人とエジプト人との争いを正そうとして、エジプト人を殺してしまう。
その出来事を目撃した人物により、モーセは「人殺し」と攻められ、ミデアンの荒野を彷徨うことになる。
荒野で出会った異邦人(モアブ人)を妻として羊を飼いながら、以後数十年という時間が過ぎていく。
「そして時が満ちた」。
高齢となったモーセに突然、「エジプトにおける同胞の泣き叫び声が聞こえるか」という「神の声」が臨む。
それはエジプトの奴隷として苦しむユダヤ人の嘆きと叫びの声が極限に達したのであり、とりもなおさずユダヤ人の「国難」(民難)が極限に達していたのである。
そしてモーセは、神より「ユダヤ人をエジプトより導き出せ」という命令を受ける。
年老いて「単調な生活」を営むだけのモーセにそのなような「使命」が与えられるとは、自ら予想も出来ないことであったろうが、モーセは「神の声」に従い、エジプト王にユダヤ人を去らせよと告げにいく。
なかなかユダヤ人を去らせないエジプト王に対して、神は紅海が分かれるなどの幾多の「奇跡」や「徴」を表し、モーセはユダヤ人をエジプトより導き出すのである。
この過程こそが、映画「十戒」でドラマチックに描かれている。
ところで、聖書では一貫してエジプトを「この世」の象徴としている。
他方、モーセがユダヤ人を導き目指した地は「乳と蜜の流れる地」カナーンの地は、「神の国」の象徴てある。
エジプトが虚しくはかない「この世」であるのにたいして、カナーンの地は永遠なる「神の国」をさしているのである。
つまりモーセは、その名前に「預言された」ごとくに、ユダヤ人を「この世」から「引きだす」という役割を果たしたのである。
ところでモーセに引き出されたユダヤ人は砂漠を渡る過程で、肉が食いたい、砂漠で殺すつもりか、エジプトに戻りたい、などとモーセに不平をもらし、「金の子牛像」を作って偶像崇拝にはしるなどの罪を犯し、神の「怒り」をかうことになる。
怒ったモーセは、シナイ山で「十戒」を授かるが、「十戒」がきざまれた石碑を民衆に投げつけるなどして「怒り」を表した。
神はこうして罪をおかした人々を砂漠で40年もの長きにわたって彷徨わせ、彼らをカナーンの地に入ることを許さなかった。
カナーンの地に入ったのはモーセの後継者・ヨシュアに率いられた砂漠で生まれた「新世代」のユダヤ人だったのである。

ところでユダヤ民族の国難についてはあるパターンがあるように思う。国が隆盛を見るが民の心は次第に神より離れ、幾多の預言者が表れ神の「裁き」を告げる。
しかし、民は預言者のいうことを聞こうとはしない。
そして「裁きの日」がやってくるというものである。
ただし聖書は、神はイスラエルにせよユダヤ人にせよ「滅ぼしつくす」ことが目的ではなく、「不浄」を除き去るというのが目的なのがわかる。
ユダヤ民族は神の「ムチ」をうけ続けたという意味で、神の「選民」であったともいうことができる。
反対に、神の「沈黙」こそは恐るべきで、人間としても民族としても、「裁き」の時をマトメテ猶予されているのかもしれない。
ところでエジプトの王子として育ったモーセが自らを「ユダヤ人」として同胞のもとに下った態度は、聖書の中で最も信仰的な態度の一つである。
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選んだ」(ヘブル人への手紙11章)。
この時こそが、モーセの「炉心」に火がともされた時であったといえよう。