天地明察

週の初めが日曜日で「休み」であることはどうもオサマリが悪い。そうは思いませんか。
週のはじめから休んだのでは、気持ちの引き締まりにかけるし、何かお天道様に申し分けない気がする。
日曜日から六日間働いて週の最後の日、土曜日に「休み」というのならまだわかる。
何でこういう「週」なったのかというと、ローマ皇帝コンスチタンティヌスが「太陽崇拝」の神官であったために、 太陽の日(Sunday)に思い入れが強く、キリスト教を受け入れる際に、「キリストの復活」が日曜日だったことにカコツケて、「太陽の日」すなわち日曜日を「聖日」としたからである。
ところが、キリスト教の本来(初代教会)の聖日はあくまで週の終わりの「安息日」すなわち「土曜日」であり、それは「天地創造」の秩序に従ったものである。
またこのことは、キリスト教の母体であるユダヤ教と共有することである。
そんな天地の秩序というべきものを、一人の皇帝が勝手に変えてしまい、我々がオサマリ悪い思いをするわけである。
もっとも旧約聖書のダニエル書7章にこういう皇帝が現れることは、「いと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩まし、時と法を変えようとたくらむ者」と、予言されている。
この予言の「時と法」とは、モーセの十戒の「第四戒」安息日を守ること、をさしている。
ローマはもともと「多神教」の社会であり、人々の間で広まりつつあったキリスト教は、在来宗教と様々な妥協を繰り返すうちにようやく成立した宗教なのである。 そして聖書のいう「安息日」という「大切にすべきもの」を失ってしまったのである。
百歩譲って、日曜日がキリストの復活日だからと「理由づけ」して民衆に「聖日」として布告するにせよ、やっぱりナンカおかしい。
日曜日がキリストの復活の日ならば、日曜日を「活動の日」とすべきであって、それを「休む」のはやっぱり神様(またはお天道様)に申し訳ない気がする。
ともあれ、週休二日制によって「土曜日」が休みとなったことは、「天地創造」の秩序からすれば歓迎すべきことである。

ヨーロッパの天地創造の言葉に対して、東洋にも「造化の思想」というのがある。
この点における政治学者の丸山真男氏の指摘は興味ふかい。
宇宙の「起源」の説明は、次の3つに分類されるという。
(1)神が宇宙を創造する(旧約聖書)
(2)神が宇宙を生む
(3)宇宙は植物のように生成する。
古事記で見られる「ムス」「ムスヒ」などの言葉から、(3)にあたるもので、これこそが「造化」を示すものである。
この「造化の思想」というのは、物事が自然になりゆく力であり、それを「自然」とよぶ。
だから、我々が通常使う山や川や樹木をさす「ネイチャー」としての「自然」ではなく、宇宙を生成変化させるところの力を自然とよび、その自然の力を神とするものであった。
私が別稿で「日本人は”ナル”シスト」と書いたのは、この意味である。
ところで日本人一般は、キリスト教を「西洋思想」と思い込んでいるが、それは西洋でギリシア哲学で基礎づけされたキリスト教でしかなく、それを「正統」と呼ぶにはかなり独善的である。
それは「土曜安息日」を「日曜聖日」にかえ、天地創造を秩序を崩した点にも表れているし、「三位一体説」というホトンド「理解不能」な思想にも表れている。
そもそもキリスト教が生まれたパレスチナは、中近東でありこの地域はもっとも西にある「東洋」であり、キリスト教にせよその母体であるユダヤ教にせよ実は「東洋」の宗教なのである。
通った高校のチャペルに「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ。」という言葉が掲げてあったのを思い浮かべる。
この言葉はソロモン王が書いた「伝道の書」12章の一節で、このあとに続く言葉が、「悪しき日がきたり、年が寄って、私には何の楽しみもないというようにならない前に」である。
そういうわけで「伝道の書」には親しみを覚えるのだが、親しみを覚えるもうひとつの理由は、その内容に「東洋的」なものを感じさせるからである。
それは「空」の思想や「循環」の思想と通じるものを含んでいるからである。それは次ぎの「冒頭」の詩を読むだけでも感じられるであろう。
「ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 伝道者は言う、空の空、いっさいは空である。
日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。
風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。 川はその出てきた所にまた帰って行く。 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。
目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。見よ、これは新しいものだと言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない」。

ところで日本の天皇の存在は「天体」と深く結びついたものである。
それは「太陽崇拝」と結びつけて考えられているが、天皇の名前自体は太陽ではなく「星」からきている。
天皇の存在が「星座」と関連が深いことを想起させるのは、キトラ古墳や高松塚古墳などの飛鳥の古墳の天井に星座の「壁画」が描かれていたことでもわかる。
そして、天皇という言葉はもともと「北極星」をさす言葉なのである。
古事記の神々の始まりである「造化三神」は、中国の思想家・荘子の「造化」の思想の影響があることは否定できない。
その三神の中心である「天御中主神」が「北辰」つまり北極星の神として日本でも祀られている。
そして、道教(タオイズム)においては「造化」の最高神こそが「北極星」なのである。
ではなぜ「北極星」がそれほど重んじられたかというと、意外にも日本の「四季の存在」と深く結びついている。
日本に四季が存在するのは、地球の地軸が太陽の軸と平行でなく、北極星を向いているからである。
地球からみるとすべての星は北極星を中心に回るから、古代、北極星は「天皇大帝」とよばれ最高の神であった。
日本は人間に天皇の名前を拝借したため、奈良平安時代に北極星や北斗七星を神と祀ることは禁じたが、陰陽道を通じて「北辰」は仏教でも信じられてきた。
北辰を祀ることが長く禁止されたのは、国の大王に「天皇」という名前を借用したからであり、本来の天皇の起源である北辰を大衆が祀れば、政治と宗教に混乱が生じるからである。
天皇という名前には中国の陰陽道との関連が否定できないのである。
そして陰陽道で実は宇宙を守るといわれている「青龍」「白虎」「朱雀」「玄武」であるが、中国の陰陽五行論に基づき四方を守る神は朝鮮経由で渡来し、高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に描かれ皇族が信仰し、朝廷の即位の礼では「四神旗」がかかげられた。
東西南北という「方角」や春夏秋冬といった「季節」の区分もこの「四神」と関係がある。
では、この四神が中国で生まれた考えかというと、他にそのルーツを辿ることができるかもしれない。
実は新約聖書のヨハネの黙示録 第9章14節に「四人の天使」のことが書かれている。
「声はラッパを持つ第六の天使に言った。大いなるユーフラテスにつながれている四人の天使を解き放て」。これにより天使たちは放たれた、とある。
そしてこの四人の天使がこの世の「終末」において重要な役割を果たすのである。
この「四神」の信仰と「四人の天使」は、東西の文化交流の一端を物語っているようにも思える。

近年の直木賞をとった小説「天地明察」は、江戸時代の貞享暦の製作者・渋川春海の生涯を描いた小説である。
もともと囲碁の名人であった人物が、ナンデ「暦の作成」にあたるようになったのかというのは、興味をソソラレルところである。
暦の作成はいわば、王権が「宇宙の秩序」を読みとり、それを民衆に下付するものであるから、それに誤りがあっては、王権の信用にかかわる一大事である。
したがって、「暦の作成」は王権にとっての「大プロジェクト」である。
ところで江戸時代の暦は月を中心とし、1年を12ケ月か13ケ月とする「太陰太陽暦」であった。
この暦では、新月の日が一日にあたる。そこで、日食は必ず一日に起こらなければならず、それに失敗すると時の幕府の権威がなくなってしまう。
そこで、世の中が戦乱の世から落ち着くと、暦に関心がもたれるようになった。
当時、平安時代から使用されていた宣明暦による食の予報はハズレルことが多かったようである。
当時盛んだった「和算」の視点から暦の検討が行われるようになった。
1673年、渋川春海は授時暦で改暦を行うことを上奏したが、運悪く、1675年の日食は「授時暦」ではあたらず、「宣明暦」では当たる。
このため、改暦は却下されたが、春海は自ら太陽高度や星の位置を測り、前回の食の予報の失敗の原因が中国と日本の経度の差であることを見抜き、独自の方法で「授時暦」に改良を加えた「大和暦」を作り、1683年に再び上奏した。
しかし、衆議により明の「大統暦」の採用となった。
ところで、渋川春海はもともと安井算鉄という名で「囲碁」を以って幕府に仕えていた。
そして、その囲碁の中で会津の保科正之や水戸光國などの有力者と知り合ってい。
彼らは春海の改暦運動の後押しを行い、大統暦と大和暦の優劣を天測で行うよう命じ、これが成功して、貞享元年、大和暦が採用され、「貞享暦」と名づけられ、1685年から施行された。
ここに日本人による「初の改暦」が行われたことになったのだが、これを機会に暦が統一され、これ以降渋川は「幕府天文方」となった。
以後、天文学が必要な「編暦」は幕府天文方で、「暦注」は京都陰陽師加茂(幸徳井)家で行うという「役割分担」ができた。
また貞享暦は70年間の内、25回日食を予報していたが、その中で見えなかったものは1回だけ「見えにくい」ものがあっただけで、その「優秀さ」がわかる。
渋川はその後も研鑚を重ね、自ら星を観測し、中国に記載されていない星座に日本独自の名前をつけ、星図や星表を発表したのである。

ところで、あたりまえのことだが、「時び経過」をアラワす言葉が「月日」であるが、日時は「月」と日すなわち「太陽」の進行によって区分されたということである。
また一方で、日本の古来からある弥生や師走、など古い月の呼び方はどんな生活や社会の「実相」を映していたのか、と気になるところである。
旧暦における月の呼び方は、現在の「新暦」に切り替えられ、月が数字で呼ばれるという少々「味気ないもの」になったが、その背景には意外や明治政府の「財政事情」があったのである。
日本で現在の暦が正式に施行された年は1873年(明治6年) のことで、それまで使われていた太陰太陽暦が廃され、現在の太陽暦(グレゴリオス暦もどき)が正式な暦とされた。
開国以後、日本の高官の間では西欧諸国で通用している太陽暦への移行が議論されていたが、国民の生活に深く根付いている暦をおいそれと変更することはなかなかできないことであった。
しかしながら当時の「新政府」が抱えていた「財政難」が、この議論に決着をつけることなったのである。
そして、徳川幕府から政権を引き継いだばかりの新政府には、トニカクお金がなかった。
江戸時代は年間「××石」と言う風に年棒制だったのだが、明治時代に公務員への給与は「月給制」に変更され、 お金がナイとは言っても新政府は、公務員には月々の月給を払わなければならない。
そして明治6年はフの悪いことに、旧暦によれば「閏年」にあたり1年がなんと13ヶ月あったのである。
「年棒制」であったなら何の問題もなかったが、「月給制」にしたばかりに翌年は1回余分な月給を払わないといけないわけだ。
ここにおける問題解決の妙手こそが「改暦」で、太陽暦にすれば今後「閏月」とは未来永劫オサラバで、月給は1年に12回しか払わなくてすむのである。
その上、太陽暦による明治6年の1月1日は旧暦では明治5年12月3日にあたるので、ここで改暦してしまえば明治5年の12月は2日しかないので、「2日しか働かないのに月給くれはなかろうモン」と言う理由で12月分の月給は支払わないことにした。
結局、都合2ヶ月分の給料を「合理的な理由により」支払わないで済んでしまったのである。
明治政府高官がこの「千載一遇」のチャンスを逸しなかったのはなかなかズル賢かったともいえる。
「千載一隅」というか「10年後の8月にまた逢おう」という歌詞から「十載一隅」のチャンスを逃さずにこのごろ期間限定の復活をしたのが、ガールズバンドの「Zone」であった。(これはどうでもいい)
とはいえ当時は、政府の編纂した暦を特定の民間業者に独占的に出版する権利を与え、その権利と引き替えに政府に冥加金を納入させていたが、そうしてお金を出させておいて出版が済んだ後に、イキナリ「改暦」を実行した。
これはもう政府による完全な「詐欺」にあったようなもので、出版業者は大変な損害を被ったわけである。つまり暦出版業者にとって、印刷した暦が「タダの紙切れ」になってしまった。
終戦直後の財政難で、政府は、預金封鎖して新円切り替えの際にインフレーションをおこして財政負担を一気に軽減したという「荒治療」に連想が働く出来事でもある。
というよりも、かつて中国皇帝が暦の制定の権限を握って「天を代行」してマツリゴトを行っていたことを想起すれば、政府の財源の都合で「改暦」を行ったということは、「天をも欺いた」とは言い過ぎでしょうか。
実際、ヨーロッパで1751年「ユリウス暦」から「グレゴリウス歴」への転換の際に、やはり大騒ぎがいたるところで起こった。
それによって、1年間を11日間削るのだから、地代、家賃、為替、借金などの問題が起きたのである。
しかしそれ以上に厄介だったのは、聖人の祝日の変更や固定祝日の変更が神への冒涜にあたると主張した人々の騒ぎであったのだ。
ちなみに現在の暦は、宇宙空間における地球の動きなどではなく、「セシウム原子の振動」によって決められているそうだ。
セシウム原子に限らずすべての物質は一定のエネルギーを吸収し放出しと云うサイクルがある。
つまり暦の制定は、いくつかの元素ではそれが驚くべき精度で規則正しくあたかも振り子のように一定のリズムを持って行われているのを利用しているのだそうだ。
しかしこれって、色気ナサスギです。

それにしも「天地明察」という言葉はなかなかいい。
言いかえると「時」を読めということだろう。
聖書のマタイ6章には、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。」という言葉がある。
政治の話に戻れば、2009年7月27日 民主党がマニフェストを発表したは、九星の暦では「不成就日」であった。
今度の正式な後継首相が決定する8月30日を調べたところ、やっぱり「不成就日」でした。アチャー。