レモンの値打ち

かつてフィギュアスケートの日本代表・伊藤みどりを、外国のメディアは「フライイング・ミドリ」と表現したことがあった。
しかし、この言葉に「賞賛」というほどのものがコメられてイナイことを感じたのは、私だけだったでしょうか。
ムシロ、逆のニュアンスだったかもしれない。
高く跳んで3度も回転することに「どれほどの価値があるのか」というヤユが込められていたようなカンジもした。
確かにフィギュアスケートは「優雅さ」を求められる競技だが、「高く正確に跳ぶこと」に採点上の大きな「得点」がつく競技なのだから、誰もモンクはないはず。
しかし例えば世の中に、「垂直跳び」に秀でた能力をもつ人間がいたとして、履歴書の片隅のそんな「特技」を書いたら、何の「資格」もないことを「逆アピール」することになる。
だいたい実生活で跳ぶ場面が一体何度アルか。跳べば足をイタメ、床が崩れる。人間の本当の価値は、跳ぶことではなく、地をはってナンボなのた。
などと「批判」を受ける、または「自問自答」を繰り返すうちに、才能はイツシカ失われていく。
つまり、「評価」(得点)が伴なわないことは、優れたものでも「腐って」いく、または「表に出なくなる」という現象がおきる。
これを仮に「垂直跳びのテーゼ」とよぶとすると、この「残酷な」テーゼは経済学でいうところの「レモン市場問題」の片面の真実をも語っている。
次に、「レモン市場問題」とは何かについてお話したい。

ところで、日本でレモンは、「初恋」の香りであり、または「ママ・レモン」つまりママの優しい手の香りである。
つまり「レモン」は間違いなくプラス・イメージがあるが、英語はそうでモない。
レモンは「すっぱい」というところから、ナント「腐ったもの」「うまくいかない」という悪イメージさえあるのだ。
「腐った」は言い過ぎすぎとしても、「まやかし」とか「中身ナシ」というニュアンスをも秘めている。
すこし前にはやった若者風日本語の「ピーマン」に近いかもしれない。
とはいっても、ここで「消費者問題」を俎上にノセようというのではない。
端的にいうとレモンとは、アメリカの俗語で「質の悪い中古車」(欠陥車)を意味しており、中古車のように実際に購入してみなければ、「真の品質」を知ることができないモノが取引されている市場を、「レモン市場」と呼んでいる。
「レモン市場」問題は、「欠陥商品」そのものの問題ではなく、古くなった商品の「情報」と「評価」の問題なのである。
そして今、日本が抱える問題というのは、こうした「レモン市場」と関連が大きいのである。
アメリカの理論経済学者ジョージ・アカロフは、「中古車市場」で購入した中古車は「故障しやすい」といわれる現象のメカニズムを分析した。
古いのだから故障してアタリマエというかもしれないが、ソレニシテモ故障が多すぎるという問題である。
レモン市場では、売り手は取引するモノの品質をよく知っているが、買い手はモノを購入するまでその財の品質を知ることはできないという「情報の非対称性」が存在する。
そのため、売り手は買い手の無知につけ込んで、悪質なモノ(レモン)を良質なモノと称して販売する危険性がある。
そこで、買い手は良質なモノを購入したがらなくなり、実際に市場に出回るモノは「レモン」ばかりになってしまう。
結果、売り手は評価されない高いモノを「売る」ことができず、低品質のモノばかりが市場に出回る結果となり、社会全体の「厚生」が低下してしまうとうことだ。
このような現象は、買手の「逆選抜」と呼ばれる行為によって生じるが、「逆選択」の傾向が非常に強まると、市場ソノモノが成立しなくなるということにもなる。
評価されないモノは廃れるという、アノ残酷な「垂直跳びのテーゼ」だ。
しかし、このような現象は、「中古車市場」にかぎらず、もっと幅広く見られる現象である。
ところで、日本で人々の生活を苦しくしている問題は、労働市場における「中途採用」市場であり、住宅市場における「中古住宅」も左に同じくである。
こうした市場の貧弱さが、人々の生活を追いツメている面がとても強いように思う。

「中途採用」市場や「中古住宅」市場が成立しないのは、「情報の非対称」ばかりではなく日本独自の文化や社会意識の反映の結果といえるかもしれない。
そして戦後政府がとった「持ち家政策」とも大きく関連しているのは間違いない。
新規の住宅の購入は日本人にとって一生の一度の「買い物」であり、逆にいうと日本で「中古市場」がほとんど育たないということである。
かつて大家族が住んだ家で、老夫婦だけになってガランとした家をそれなりの価値で売りたいが、築何十年の家屋の資産価値はほとんどなく、「二束三文」の価値でしか売れない。
更地にしないとダメといわれれば解体費を含むために、資産価値はマイナスとなってしまう。
もしも所有する古い住宅が「正しく」その価値を評価されて売ることができれば、老後の生活設計は一機に明るくなるはずである。
アメリカは消費性向が高く、アレで老後は大丈夫なのかと思うが、日米の決定的な「違い」は中古住宅市場が発達しているので、家を売りたい時にソレナリの価値で買い取ってもらえるということだ。
それで日本のように老後の不安の為にセッセと貯蓄をはげむような必要がない。
また日本は戦後「間接金融」方式をとってきたので、皆オカネを銀行や郵便局に預けてきたために、資産運用のノウハウがまったく育っていない。
だから超低金利の国債ばかり買うことになる。
アメリカだと、土地も株や債券と同じく「ポートフォリオ」(資産選択)の一つとみなしている。
老後のアメリカ人は、まず家を買う。それもメいっぱいイイ家を買って、一生懸命にメンテナンスをする。
メインテナンスをよくよくすると、大体、住宅が「買った値段」で売れるからである。
イギリスなどは、家屋や庭のメインテナンスを「生き甲斐」に余生を送る文化さえある。
日本の家屋は、木造だから「中古市場」が発達いないというのはアタラない。木造はむしろ長持ちするもので、「レモン」にあたるのはむしろコンクリートである。
本来、川砂をいれて固めるべきコンクリートが、海砂を入れて固めるので、少し時間がたてば腐食が激しいしアサリの貝殻の痕跡が見えたりする。
中古住宅でも充分に資産価値があるモノが「オモテ」に出なくなるのである。
出るとしても質の悪い中古住宅ばかりとなり、結局は中古住宅市場は、「レモン市場」と化していくのである。
これは、市場で評価されないものはオモテに表れなくなると言う、「残酷な垂直跳びのテーゼ」に該当するものである。
問題の核心は、新規住宅を「異常に」優遇した政府の政策があるため、中古住宅があまりに不遇なアツカイをうけてきたからである。
経済学でいえば、「フロー重視」と「ストック軽視」ということだ。
言い方をかえれば、「ツクってウレば」あとは野となれ山となれ、という感じ。
国と地方で登録している建設業者は全国に約60万業者ある。
左官や大工を一業者として見るから、それらの職種を組み合わせるて、工務店の数でいうと約15万件といわれている。
この人達の生活がすべて「住宅政策」によりかかっている。
年間百五十万戸ぐらいの家が「新規」に建たないと、彼らの経営が成り立たない構造になっている。
だから「中古住宅」を政策的に「冷遇」してきたのである。
実は戦前の日本は持ち家が「一般的」ではなかったのである。皆が家をもつほど豊かではなかったからだ。
戦前には2割の家の人しか家をもっていない。
多くの人は「借家」住まいが一般的であり、人々は家を借りつつ「転々」と暮らしていた。
少数の富裕層が持ち家を貸していて、メインテナンスに気をつけつつ流通させていたということだ。
たしか、魯迅がたまたま借りた最初の一軒屋が偶然にも夏目漱石の「旧宅」であったことなどを思いおこす。
戦前、人々を常に「市場価値」を意識していたといっていいかもしれない。
しかし、環境のいい「老人施設」にはいるためにオカネがどうしても欲しい場合でも、持ち家を売るとするえば異常に低い値段で売らざるをえなくなる。
日本の中古住宅の販売戸数は、アメリカの17分の1、フランスの7分の1でしかない。
老後オカネが必要な時に、必要もない大きな家が売れないので「生活設計」がたたない。
嫁や家族には迷惑をかけてくはないので、老人施設で暮らしたいがサービスもよく本当に住みいい施設というのは、とても高額で手がでない。
そこで、郵便局通いをして、ヒタスラお金を貯めるというのが典型的なパターンである。
日本だと「一所懸命」に保有していく傾向がある。そこで土地だけではなくにも、住宅にも欧米とは異なる観念があるといってよい。
そして「男子一生一軒」で買った大切なものを「自分仕様」で改変(特殊化)していくので、それがアダになって「中古住宅」の市場価値はマスマス下がってしまう。
一生かかかって築いた不動産が、売りたい時に価値がほとんどなくなってしまうというのでは、老後に頼めるのは「金融資産」シカないことになるのである。
そしてこの貯蓄性向の高さ(金融資産の蓄積)が、日本をデフレ経済からイツマデモ立ち直らせない「長期的」な要因にもなっているのである。
ところで、戦前からの引き継がれている制度で、逆に経済発展の桎梏になっているのが、「借地・借家法」である。
所有する土地に建物をたてオフィスや住居として貸した場合に、テナントが開き直って居座ろうとすればいつまでも居続けられるような法律が現実に存在している。
第二次世界大戦のさなか、戦場に送られた兵隊の残された母子の生活を守るためにできた「借地借家法」こなのだが、これがいまや経済発展の阻害要因になっている。
ヘンなテナントを入れたが最後、資産価値の大半を払っても立ち退いてはもらえないというようなことがおきる。
そして土地やオフィスの店舗の回転率(供給)を阻害して不動産が異常な値上がりをひきおこしているのである。

経済学の初歩的な概念として、「ストック」と「フロー」という概念がある。
フローは、経済に関して、ある一定の「期間」で定義される経済量で、ストックは、ある「時点」で定義される経済量である。
バスタブにたとえるなら、フローはお湯の入りと出で、ストックはタブに「蓄え」られたお湯となる。
長年、日本はあまりフローを優先させ、ストックを増やす政策をとってきた。
「新規に」高速道路を作るための予算(フロー)が計上されて公共投資が行われ、対して必要もない高速道路が増える構図である。
高速道路を造るために異常に高いガソリン税をかけられ、さらに「租税特別措置」によって暫定税率分が上乗せされて、車の利用者は高い燃料費を払ってきた。
ガソリン税は、道路を造るという「限定された目的」をもつ稀有な税金であるが、この税金を使ってゼネコンに道路建設の発注をして政治家(道路族)をも富ませるという構図がすっかり出来上がってしまったのである。
それで一時間に数台しか車が通らないようなところにも過剰に道路が作られてしまったのである。
この実態は、道路という投資の(フロー)需要によって、業者が潤い政治家の票が潤うことだけをネラッって建築されたもので、その道路がその後何十年に渡ってどれだけの資産価値(ストック)があるか、熟慮されて建造されたものではない。
さらに、その高速道路の「ツクリ」とえば、阪神神戸の大震災でその「手抜き度」が見事に露呈しまったといってよい。
つまり、高速道路は「レモン」であることが判明していまったのである。
ところで日本は「資源小国」ということはあまり当らない気がするものの、住宅にせよ道路にせよ高い税金を払わされて、資源をこのような使い方をして、本当に困っている人にサービスに行き渡らない政策のため、今日のの「行き詰まり感」があるのではないだろうか。
ヨーロッパの街並を歩いてすぐに感じることは、日本経済が誇ってきた豊かさとは結局「フロー」の豊かさでシカなかったということである。
そのフロー(国内総生産)でさえ停滞してしまえば、 日本に「豊かさ」を感じさせるものはますますなくなってしまう。
日本の住宅にせよ、高度経済成長の「持ち家政策」(フロー面)は大きな成果を持ちえたことは否定しない。
しかし出来上がった「持ち家」を今度は社会資本(ストック)として大切にしていこうという政策はまったく見られなかったといってよい。
生活が苦しくなってもソレナリの価値で持ち家を売ることもできず、自己破産や自殺の原因とサエなっている。
ヨーロッパで日本の半分程度のGDP(フロー)水準の国であっても、歴史的に蓄積された町並み(ストック)や公園の豊かさに圧倒され、街を歩くだけでも「幸せな気分」になれる。
こういう豊かさに浸ると、例えばパリのセーヌ川河畔に、誰もコンビニ店やパチンコ店やカラオケボックスをつくろうなんて思わない。
仮に世界遺産の規制が無かったとしても、そんな商業主義の看板やネオンでこの風景を汚したくないという気持ちに自然となるからである。
つまりヨ-ロッパの国々には、長年の使用に耐えるものを生み出しそれを大切に保護し、そしてそれを経済価値として生かしていこうという姿勢が強く見られるのである。
イギリス人は通常、築100年以上経過した古い家に暮らしている。
何世代か住み継がれた家はその折々のライフスタイルを投影し、それらが加算されて独特の雰囲気を醸し出す。
アメリカのロスアンゼルスのビバリーヒルズに行くと、一つの大邸宅が何人かの世界的スターの手に渡っていることを知って驚く。
日本のスターならば、豪勢な邸宅を新築するだろうが、アメリカのスターにとって、そうした邸宅に一度は住んでみることが「ステータス」にもなるのであろう。
また西欧諸国において田園は、豊かな社会基盤の一つとして確実に機能して、フランスのプロバンス地方などは「観光資源」ともなって大切にされている。
農地を社会資本として活用しているので、日本のような「耕作放棄」による荒れほうだい農地が点在している姿とはかなりヒラキがある。
つまりヨーロッパでストックを楽しめるは、ストックを維持し価値を保とうという文化的意識が脈々とあり、イギリスで発達したアンティーク市場などを見ると、「レモン市場」問題などとは最も「縁なき」国民性を思わせるのである。
その「対極」として1970年代、日本の最大手広告代理店が作った「もっと使わせろ、捨てさせろ、ムダ使いさせろ、季節を忘れさせろ、贈り物をさせろ、ペアで買わせろ」という、今から思うと身のケもヨダツような宣伝文句があったのを思い出した。
結局こうした「フロー」に偏った価値観が、いつしか「レモン市場」問題に姿を変え、日本人の生活に「窮迫感」を与えているのではないだろうか。