企業統治

今、企業のアリカタが「先鋭的」に問われているような気がする。
かつてのように、企業はダレのものかという問いではなく、企業はドコを向いて「経営」をするかという問いである。
企業の目的が利益を上げるという点だけでいえば「マネンジメント」で済むが、最近では「ガブンメント」という言葉が使われるようになった。
「ガブンメント」といえば「政府」あるいは「政治的」に使われる言葉だが、実は大企業は多くの「政治的」場面と向かい会う機会が大きくなっているようだ。
というより、「情報公開」(デイスクロージャー)の世の中だから、背後に隠れていた「政治」も表に出ざるをえなくなったということかもしれない。
資本家(株主)と従業員との関係を「超えて」、労働組合、債権者、消費者、地元住人、マスコミ、政府、暴力団、環境団体などとの様々な「調整」が必要である。ちなみに商法で「社員」は株主を指している。
そして、企業が大きくなればなるほど、そういう「政治的(調整的)要素」が強まり、それにより「コーポレート・ガバンメント」(=企業統治)という言葉が生まれた。
以前から「企業城下町」という言葉もあったが、企業そのものが「城下」(=利害関係者)を統治する「小さな政府」(城主)と化している。
もともと「利益」にマケナイくらい「害毒」を垂れ流しやすい企業が、「利潤追求」だけのマネンジメントでは、もはや生き残れなくなったということだ。
そして、コーポレート・ガブンメントの重要テーマこそが、「企業はどこを向いて経営をするか」「誰が為に金を成すか」ということである。

ところで「起業」という言葉は、ピューリタニズム(清教徒)に「お似合い」の言葉ではある。
合衆国憲法を「起草」したベンジャミン・フランクリンは、印刷工から「身を起こし」成功をおさめ、 アメリカ精神を「代表する」存在に成るまでに至った。
しかしピューリタンが重んじる聖書には、「地上に宝をつむな。虫も埃もつかない天に宝をつめ」とある。
とすると「この世に富を積む」経済活動は、「神の意思」に反するといわざるを得ない。
ところが、ピューリタニズムは、この世に富をつむ経済活動は「神の救い」を自らに証明することであり、「神の意思」に反するどころか、積極的にヨシとさるという「信仰」なのである。
そんな思いを持つものが、ヨーロッパの王権や貴族さらに教会にヤスヤスと「神の救い」の証拠たる財産を奪われてはカナワンから、「新大陸」に活動の場を求めたということがいえるかもしれない。
しかし、こうしたピューリタニズムの思想は、「地上に宝を積むな」という教えをマゲル大きな罪を犯しているのではないかという疑問がおきるが、ピューリタンの信仰にもチャントとした「聖書的根拠」があるのである。
実は旧約聖書に出てくるアブラハムの子供「イサク」は、神の導きによって富を蓄積することに成功し、そうした「イサクの産業」を神はヨシとしたのである(創世記26章)。
そこで、自ら起業して成功し、救いを確信し、しかも「神の恵み」を世にアラワすことができたら、この世の名声も、天国への「保証」も得ていうことナシ。
そして、これこそがアメリカ人の伝統的な「理想」であったのではなかろうか。
鉄鋼で財をなしたカーネギーは大変に信仰心にも富んだ人でもあり、蓄積した富を「財団」をつくってカーネギーホールなど多くの寄付をしたことで知られる。
カーネギーは、そうしたスピリットの「体現者」といえるかもしれない。
そうした伝統的スピリット自体は今も消えることなく引き継がれており、アメリカの最優秀な人材は、大企業に入るよりも、マズは自分で「起業」することを考える傾向がある。
しかし現代の経済活動は、なんらかの「信仰心」を基盤とすることが難しい方向に向かって流れ出しているように思えて仕方がない。
現代の株式会社は資本を持つものすなわち「株主」と実際の「経営」にあたる経営者は別人であり、大きくなればなるほど、かつての企業家(オーナー経営者)が「救い」を確信できるような「条件」が失われてきたといことである。
企業家が「神の見えざる手」(市場)に従って、相手を「利する」ことによって自らの富を「蓄積」するような「素朴さ」が消えつつあるということだ。
特に今の「金融工学」駆使した「金儲け」を見ると、本質的に他を「出しぬき」「奪い取った富」でしかないからである。
相手を利することのないマネーゲームの成功に、どんな「救い」を確信できるというのか。
もし聖書の言葉を探すならば、「十戒」の第十戒にある「汝 貪るなかれ」の方がよくアテハマル。
個人的な感想をいえば、メセナ(企業の文化活動)、フィランソロフィー(企業の寄付活動)なども、どこかで「宝の積み方」についての「倫理的」な危機意識が「限界点」に達しつつあったことの「表れ」ではないか、もっといえば「罪の文化」の表れということである。
そういう意味で、出だしにおいて「突飛」に思えたこうした企業活動は、結局「コーポレート・ガバンメント」(=企業統治)の考えに「先鞭」を付けたものではなかったかと思えるのである。
そこで、アメリカとヨーロッパ、日本の「企業統治」を文化的な背景から考えてみたい。

ところで憲法は公法であり、「本来」政府機関と個人の関係を定めているのであり、一民間企業が就職差別などの人権侵害をおこなったとしても、それは民法の「公序良俗」違反に問われるべきものであり、憲法違反に問われるべきものではないハズである。
しかし、民間企業の人権問題が「憲法違反」ということで「裁かれる」ということは、今日にあって「官民」問わず、企業は「公」の存在であることがスッカリ定着したからである。
企業がそういう「おおやけ」度を増したのは、巨大な株式会社がどの業界をも支配(寡占)するといったことと無関係ではないように思われる。
今日の株式会社は、最大株主でさえもわずか数パーセントを持株を持てないほどに巨大化しており、 多くの「利害関係者」が存在しているのが現実である。
つまり株主と従業員からなる「企業観」はもはや通用しなくなってきているということである。
大企業は誰のものでもない「公器」であるということである。
したがって従来の「企業は誰のものか」というのは意味のない問題提起となりつつあり、「誰の為に経営するのか」が最大のテーマとなりつつあるのである。
「おおやけ」度を増したがゆえに企業はどこを向いて仕事をするかということが問われるのである。
反面をいうと、西武鉄道のように株式を公開した上場大企業であっても、創業者一族の財産相続の「手段」のような雰囲気さえある「公的交通」会社もある。
この会社は、社長が「粉飾決済」で逮捕されたが、企業をあたかも「中古品売買」のごとく売買されるという姿が見られる昨今、ますます「企業はどこを向いて経営する」という「企業統治」が問われるようになったのである。

「日本型経営」は、その本質たる終身雇用や年功序列などがクズレつつある今日、その特性を失いつつあるが、それでも今なお「特殊」であるということに変わりはない。
その最大の「特殊性」は「取締り」の位置づけということがいえる。
「取り締まる」を広辞苑でひくと、「物事がうまく行われるように、また、不正や違反のないように管理・監督する」とある。
日本では会社の優秀な人材は取締役にと昇進し、そのなかでも専務取締役・常務取締役と昇進して、最後に社長や会長もその中から選ばれるのが「常識」である。
しかしこれは極めて特殊な「日本的常識」である。
「取締り」の本来の意味は、株主の代表として、会社を「外から」監視するというものである。そういう役目だから、名前が「取締役」なのだ。
だから本来取締役というのは原則として、資本を出した「社外」の株主が派遣してくるものなのだ。
そこで欧米では、「代表取締役」も経営能力の優れた人材を連れてくるのが普通であり、「社内」から昇進させる社長ということは滅多にないことなのである。
また、株主の代表としての監査役も「社長の部下」が配置されるというのだから、マトモな「監査」ができるハズがないのである。
欧米の重役は、従業員はいうにおよばず「幹部社員」ともマッタクの別身分で、それが「階級制度」として定着している。
日本の社長が従業員と同じ食堂で昼食をとる姿を「日本的経営」のワンシーンとしてしばしば紹介されるが、実は上記のような事情も背景としてあるのだ。
ところが意外なことに、戦前の日本は「経営モデル」としては今よりはるかに欧米に近似した「階級社会」であった。
今日いうところの「一般株主」はおらず、株主はごく少数の大金持ちに限られていた。
その典型は「財閥」で、非公開の優良株を独占していて、配当をタップリもらい、それだけで一族が悠々と暮らせたのである。
同時に広大な農地も宅地も持っていたので、その小作料や地代、家賃も入ったのである。つまり財閥は地主も兼任していたのである。
そういう財閥を形成する資本家は経営は「番頭」まかせで、資本と経営は明瞭に「分離」していた。
鈴木商店をあっというまに「一流商社」に仕立て上げた金子直吉は特に有名であるが、彼は「誰が為に金を成したか」というと、資本家の為である。
なぜなら資本家が彼らを雇い、資本家の要求に応えない限りは、その座に留まることは許されないからである。
欧米の企業は早くから「資本と経営は分離」しているので、資本家は「資本」を出し、その専門家に「経営」をまかせる。
経営手腕のある経営者はヒッパリダコで、いつよその会社にヒキヌカレルかわからない。
だから資本家は、経営の成功を条件に莫大な報酬を約束するのである。
さらに経営者の成功とは、経営を委託してくれた資本家に期待以上の配当を支払うことでしかない。
これはマサニ戦前の日本の経営スタイルと似ている。ただ日本の場合、ヘッドハンティングはそれほど頻繁ではなかったので、莫大な報酬を約束されたほどではなかったが、それでも一般庶民とは比べ物にはならない生活が約束されていたのである。
アメリカ型の「企業経営」は、株価価値の最大化を第一としている為に、「企業統治」つまり「誰が為に金を成すか」といえば「株主」の為であり、シンプルといえばシンプルである。
逆に株主の立場から経営者を厳しく監視し、成績が上がらない経営者の首は簡単にスゲ替えられ、従業員のリストラも肯定されるというものである。
「企業統治」上の問題とは、経営者が株主の利益に忠実な行動をとらずに、自己の利益にハシルことが最大の問題とされる。
この際、前述の社外取締役が数多く配置された取締役会が「ガバナンス」(統治)の主体となるのである。
そして、「取締役」はお互いにに役職を兼任しあい、企業社会の支配層によるいわゆる「インナーサークル」が形成されるのである。

これに対してヨーロッパでは、アメリカ型統治よりもはるかに広い視座で「ガバナンス」の対象となっている。
つまり利害関係者全体の利益が考慮に入れられている。その意味で「複眼的社会」である。
意識が高い環境保護の関係からいえば、「将来世代」のことも考慮に入っているといえるかもしれない。
ここが「株主プロパー」なアメリカ型統治と違う点で、ナンといっても労働者が「経営参加」するという点が「最大の特徴」となっている。
特に、ドイツ、フランスを中心として経営参加、共同決定制度にみられるように、株主と労働者の双方による「企業統治」という二元的企業観で捉えられている。
そこでは労働者への「情報公開」や「事前協議」が要求され、リストラ、首切りはアメリカのようには自由には行えないということである。
その背景には、長い「職能」の世界で育った労働組合運動の成果であるといっていい。
一方、アメリカの労働組合は、学歴や資格のない「時間給」労働者の組織である。
組合は会社との「労働協約」で組合員の時間単位の給料(賃金)を確保することを行うもので、それ以上のことは求めない。
労働組合が会社と争うのは、「組合員の待遇」に関してであって、それ以外に組合が経営に関与することは認められないし、組合の方でも「経営」に関与するなどの気はサラサラないのである。
そして会社が経営上、組合員の相当数を一時解雇すると申し入れた時でも、大抵は認める。 反対して争うよりも残った組合員の給与が優先し、「賃下げ」だけは認めないのである。
組合員には「先任権」があるから、一時解雇も雇用歴の浅い方から先に職を失うことになる。
一時解雇された方も、会社が支給する一時解雇手当と国の失業保険でしばらくは生活が維持できる。
だから解雇反対で争うよりも、一刻も早く景気が回復して再び雇用されるか、別の会社に早く雇用されることを望むダケである。
日本社会からみて、欧米の「失業率」の高さに唖然とするが、逆にいえば「失業」というものにも、どこかにユトリがあるということである。(最近ではそうともいえないカモ)
欧米には「転職」「転社」という「横断的市場」があり、それが「セーフティネット」の役割を果たしている。
ただ、会社の上層部が転職・転社する人間には以前勤めた会社の「企業秘密」を漏らさないという「誓約書」を書かせ、もし誓約を破ったら、告訴され莫大な「損害賠償」を請求されることになる。
日本では労働者が「経営参加」することはないが、労働組合の幹部から「転じて」会社の経営陣に入ることケースが一般的に見られ、それは欧米ではマズあり得ないことである。
日本の会社はある種の「共同体」(ゲマイシャフト)であり、とうてい「株主」にだけ顔をむけて経営するわけには行かず、むしろ「従業員」の利益を第一にしてその「福利厚生」にも重視しなければならない。
そして「株主総会」は形だけで済ます傾向がある。
日本では戦後、「労使一体」で戦後復興を果たしてきた労働組合が「人事管理」に大きな力をもっている。
だから、社長といえども組合の力を借りないと、「人事管理」ができないという面がある。
会社の「人事部」に組合役員がかなりいたりして、早くから管理職になって「人事部長」の地位についたりしているのである。
それで、労働組合の役員のポストが「出世コース」といわれるほど奇妙な事態が起きるのである。
「天皇」あるいは「労働貴族」ともいわれた日産自動車の自動車労連会長の塩路一郎氏を思い起こす。
日産自動車社長の石原俊は、それでも塩路氏の「経営」への口出し(日産のヨーロッパ進出)などに対しては経営権の侵害だと「不快感」をアラワにしていた。
驚くべきことに、日本の大企業の重役のうち6人に1人が労働組合の役員を経験しているといわれている。
一時ホリエモンと対決して話題になったことがあるフジテレビの日枝会長も労働組合の委員長だったことを思い出す。
その元労働組合委員長がフジサンケイグループの創業者・鹿内一族と企業の支配権をめぐって戦い、社長にまでなったのである。
しかし、日枝氏が今度はアメリカ型市場原理の「申し子」とでもいうべきホリエモンと戦うことになったのが記憶に新しいが、まるで源氏物語的「因果応報」の世界である。
ところでその日枝社長のもとでニッポン放送には労働組合が存在せず、「社員会」という親睦団体しかなかった。企業買収の危機に際して急遽、労働組合が作られたのだと言う。
これをもってしても会社の役員になってしまえば、労働組合の幹部出身だからといって労働組合に対して「許容度」が高いかというと、それはゼッタイにナイということがいえる。
あまり適切な譬えではないが、豊臣秀吉は自分のような存在が二度と世の中に現われないように「刀狩」「検地」をシッカリやったのだ。

2001年3月期の東京電力の株主総会では、「脱原発」をめぐる住民投票の結果、「原発はノー」とでたことが議題となった。
その際に少数の株主からではあったが、「民主主義」をどう考えるのかという質問が出された。
東電側からは「住民の意思が変わるようになるのが民主主義の発展だ」という驚くべき回答がなされたのだという。
(そう、確かに「住民」の意思は変わりました。住民全員で「原発ノー」と言えるようになりました)
企業は「法人」として、権利・義務の主体として「人」(自然人)にナゾラエた存在なのである。
大企業に対して「天に宝を積め」とまでいわないにせよ、地上における「宝の積み方」はもっとココロシテやっていただきたい。