暗闇レストラン

ケネディ大統領が尊敬する人はと聞かれて、江戸時代に藩政改革を行った上杉鷹山と答えたというのは、結構知られている話である。
おそらくは、内村鑑三「代表的日本人」の英語版あたりが、ケネディ大統領の情報源かと思われる。
しかし最近初耳だったのが、ヘレン・ケラーが「心の支え」にしてきたのが、江戸時代の学者・塙保己一(はなわほきいち)だったという話だ。
ヘレンは、1937年来日した際に、まっさきに渋谷の「温故学会」(塙保己一の学問研究所)を訪問して保己一の木像に触れ、「私は塙先生のことを知ったお陰で、障害を克服することができた」と語ったという。
ヘレン・ケラーがどのようにして江戸時代の学者・塙保己一のことを知ったのか、日本における知人のルートをたどって推測する他はない。
ヘレンは日本の盲人の指導者の一人であった岩橋武夫との親交により保己一を知りえた可能性があるが、岩橋とはヘレンが大人になってからの交流であるから、ヘレンが若いころから心の「支え」としたのだったら、もっと別のルートで知ったのだろう。
へレンの母は電話の発明家であるグラハム・ベルと親しく、グラハム・ベルは、日本の音楽家の伊沢修二と知り合いだった。
伊沢修二は、近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者であるが、1875年師範学校教育調査のためにアメリカへ留学し、グラハム・ベルから「視話術」を学んでいる。
へレンの情報源にはそういうルートも考えられるが、実際のところはよくはわからない。
ところでヘレンケラーが最も尊敬する人物とした塙保己一なる人物とはいかなる人物であったのか。
塙保己一は、1746年武蔵国(現在、埼玉県本庄市児玉町)の農家に生まれた。
7歳の時、肝の病がもとで失明し、母を病気で失い、15歳の時に失意のなかで江戸出府を決意した。
 1760年江戸に出て15歳の時に、雨富須賀一検校の門人となった。
師匠、兄弟子から鍼・按摩・灸、琴・三味線などの手ほどきを受けたが、いっこうに上達しなかったという。
一年たった時絶望から自殺を決意したが思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を師匠に打ち明けたところ、これから三年間は面倒をみようという有難い返事をもらった。
しかし、反対に見込みがなければ故郷に帰すということを意味する。
塙保己一は隣家に住む旗本から学問の手ほどきを受け、その向学心に感心されて萩原宗固、山岡浚明らを紹介され、文学・医学・律令・神道など広い学問を学ばせてもらったという。
さらに、最晩年の賀茂真淵に入門し、「六国史」などを学んだ。真淵に就いた期間はわずか半年ではあったが、真淵から得た学問や研究仲間は生涯貴重な財産となったという。
1779年34歳の時、「群書類従」の編纂をはじめるが、これは実に40年の歳月をかけての大事業となった。
そして、この「群書類従」によってわが国の貴重書が散逸から免れ、人々に利用されてきたことを思えば、その歴史的な意義は大きい。
1703年、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕府に願い出て許され、番町(現千代田区)に土地を賜ることとなった。
和学講談所で「源氏物語」の講義をしている時に、風が吹いてロウソクの火が消えたことがあった。
保己一はそれとは知らず講義を続けたが、弟子たちがあわてたところ、保己一が「目あきというのは不自由なものじゃ」と語ったというエピソードが残っている。
塙保己一が生涯をかけた「群書類従」は1819年74歳の時に完成し、保己一はその2年後に亡くなった。

ところで、最近NHK・TVで「暗闇ビジネス」なるものが紹介されていた。
「牛のゲップ」(メタンガス)とか「つびやき」(ツイッター)は商売になると聞いたが、なんで「暗闇」がビジネスになるのだろと思いを巡らしていて、上記の塙保己一のエピソードを思い出したというわけである。
もうひとつ「暗闇」で脳裏に思い浮かんだことといえば、オードりー・ヘップバーン主演の「暗くなるまで待って」という映画である。
この映画の監督テレンス・ヤングは「007は殺しの番号(ドクター・ノオ)」「007危機一発(ロシアより愛をこめて)」なので、内容が面白くなかろうハズがない。
ストーリーは、夫が預ってきた人形(麻薬が隠されている)を取り返そうとやって来た3人の男と対決する「盲目の妻」の話である。
視覚障害の人間が、そうではない人間と対等に戦うためには、「暗闇」しかない。
だから「暗くなるまで待って」なのだ。
映画の大詰めはもの凄くスリリングであったのを思い起こす。
映画館の「非常口」の明かりも全部消してあって、文字通り「真っ暗闇」の中で、ヘップバーンの灯す「マッチの炎」だけが館内の唯一の光で、観客も主人公と同様の恐怖を味わうことができるようにしてあったという。
なかには、ラスト30分前から途中入場も禁止するほど気を配った映画館もあったという。
客の入場やトイレは「明るくなるまで待って」というわけである。
そして主役を演じたオードリー・ヘップバーンは「視覚障害者」という難しい役柄をこなし、芸域を大きく広げたというエポック的作品となった。

最近「暗闇」がウケているという。ウケているというより、ビジネスにさえなっているという。
ホテルのレストランで「目隠し」をして食事をするという企画が結構ウケているとか聞いたが、はじめて聞いた時、ナンデマタというのが正直な気持ちであった。
しかもこれは当初の目論見からすれば、少々生易しい。
本来はレストラン全体を「真っ暗」にして食事をするというものだったという。
もともとは、視覚障害者を「案内係り」として起用する雇用対策と、視覚障害者への理解を深めてもらうプログラムだったため、「真っ暗闇」で食事をするというコンセプトである。
店に入ると給仕人の肩がにつかまり、暗闇へ導かれる。
その際に給仕の居場所が暗闇でも分かるようにするため「鈴」を付けている。
給仕人もライトを持っていないというか、給仕人達自身が視覚障害者なのだから、必要がないものだ。
視覚障害者は、目が見える人から頼られるという体験をし、目が見える側は視覚障害者を頼ることになる。
「暗闇」では立場が逆転し、その意味で互いに同じ位相にあることを知るということもある。
食事が始まると、知らない者同士がテーブルを囲んで、手探りでビールをグラスに入れ、声を掛け合い「カンパイ」する。
何が出されるかも知らされていないので、皿の上のものを手づかみで口に運ぶ。食事における「ブランド・タッチ」である。
指先と味と匂いで「何だろう」と会話しながら、想像をめぐらしつつ嗅覚・触覚・触覚などの感覚をトギスマさせる。
食べているときは、魚なのか肉なのかよく分からない。
自分が普段いかに目に頼って食べているのかが分かる。
要するに、客は一様に「味覚は、視覚に大きく影響される」ことにとても驚くという。
真っ暗闇では、視覚以外の要素をフル活用して料理を味わうことになるので、食材の「鮮度」とは別の意味での「新鮮さ」を体験できるという。
目隠しをして、乾杯や本格ディナーを楽しむ参加者が声をかけ合い、具材を想像しながら味わう過程には、五感を刺激する多くの仕掛けが隠されているともいわれている。
「暗闇」の効果は鋭敏な味覚だけだはなく、見えないことで先入観がなくなり、嫌いなはずのモノも食べられたりもする。
容姿も肩書きや地位も関係なく「ただ一人の自分」として参加えきるということである。
「人見知りが激しいのに、昔から友人だったかのように盛り上がった」など、味以外の感想が続出している。 この「暗闇レストラン」をビジネスとしてみた場合、ビルの内装やウエイターの服装に凝る必要はまったくないので「超低コスト」で済むのもイイ。コンクリート丸出しでもいいのだ。
「暗闇レストラン」は、1999年にスイスのチューリッヒにオープンした「ブラインド・クー」が世界で最初である。
ヨーロッパをはじめ、ニューヨークやロサンゼルス、オーストラリアで「予想以上」のヒットを飛ばした。
その広がりは止まることを知らず、モスクワとカナダ・モントリオールで、今年1月には中国・北京でアジア初の暗闇体験レストランがオープンした。
アジア初の暗闇体験レストランの名前は「巨鯨肚」(Whale Inside)である。
店名が「鯨のはら」とは実に面白い名前である。
旧約聖書には鯨のはらに三日間を過ごした「ヨナの話」がある。それにちなんでつけた店名ならばなお面白い。
ところで、「暗闇レストラン」の創始者ユルグ・シュピールマン氏は、視覚障害者で牧師であった。
自宅に友人らを招いたとき、自分と同じ感覚を彼らにも味わってもらおうと、客を暗闇でもてなしていた。
これを繰り返すうちに、レストランを開いてみようと思いついたという。
そして「見えないとはどういうことか」を考える機会を、いろいろな形で提供してみた。
逆にいうと「見える」とはどういうことかを学ぶ機会を提供していたともいえる。

東京の西浅草には、東本願寺をはじめ多数の寺院が存在するが、その中のひとつ「緑泉寺」では、IBAという団体が主催する「暗闇ごはん」なるイベントを開催した。
参加者はアイマスクを着け、明かりを落とした部屋で食事を摂る。
完全に視覚のない状態で食事を摂り、他の感覚を研ぎ澄ます「プチ悟り」の体験へと導くというものである。
このフランス料理ではない“仏”料理は、味覚と嗅覚を研ぎ澄ます工夫が散りばめられているという。
そして料理僧は「食べることの楽しさ」を発見するきっかけになることを願っているという。
目隠しをされるとなると、食事はボーケンだ、またはキアイだという感じにもナッテくる。
また東京・国分寺には、楽器の生演奏が楽しめる「暗闇カフェー」なるものもできた。
週一回開催されるイベントでは、参加者は心身ともにリラックスでき、「癒し効果」は抜群だという。
こういう「暗闇体験」は、企業の「新入社員研修」などにも取り入れているという。
参加者は、杖をもって真っ暗な部屋の中に入っていく。
案内人が「ここに石があります。川があって、丸木橋が懸けられてます」などと説明する。
参加者はお互い声を掛け合い、耳と触覚だけで室内の情景を想像し、進んでいく。
そして真っ暗の中で、声を出し合うことで、コミュニケーションを深めることができるというのが主眼である。
人との交わりが苦手な若者もこの暗闇体験で、協力し合い皆と打ち解け、親しくなることができるという。
結局、人とのコミュニケーションを妨げるのは、案外目で得た情報かもしれない。
つまり顔や服装など「外見」で人を判断してしまうということであり、暗闇の中では肩書きも地位も存在しない。
というわけで、「暗闇体験」は、人々にいろんなことを気づかせてくれる体験なのだ。

ところで「暗闇体験」といっても、実際の生活の中ではほとんど「真正」のものとは出会わない。
つまり現代にあっては夜でもかなり明るいので「漆黒の闇」とか「暗黒」というのは滅多に体験できるものではないということだ。
あったとすれば、小さいころ押入れに「隠れた」体験ぐらいしかない。
学生の頃、栃木県の那須高原近くの「ユースホステル」近くで星の瞬きも街頭の光も自動販売機もない「漆黒の闇」というを体験したことがあるにはあるが。
目の少し前が「暗い」のではなく、鼻先三寸が「黒」という体験ができたのだが、最近、職場近く福岡博多区御供所町にある東長寺においてである。
この寺には日本最大の木造の仏像があるが、外部からはその像を全く窺うことさえできない。
仏像の高さは10.8メートル。重さ30トン、光背の高さは16.1メートル、光背には7仏や13仏も彫られ後壁面には5000の仏が祀られている。
大仏の台座の中は「地獄・極楽めぐり」となっている。
地獄の様子を描いた絵を見た後、仏像の台座の中に入り込むのだ。
真暗な通路を通って光に満ちた極楽の絵に至るというものだが、曲がった真暗な道を手探りで進んでいくのはとても「怖い」かつ「楽しい」。
東長寺の「地獄めぐり」では目の前を歩く人間の姿さえも確認することができない。
「出口あり」は近いとわっているからこそある程度「平静」な気持ちでいれるが、もう少し「暗闇」の距離が長ければ「パニック症状」を起こす人がいても不思議ではない。
この地獄巡り体験は「短い」とはいえ、「孤立無縁」体験を味合うことができる。
暗闇で人は一切の社会的なものを手放さざるをえず、人は孤立し一瞬ココから出られれないのではないかという「不安」がヨギる。
昔、あらゆる感覚を遮断されて暗室に入れられて何時間もつかという実験があっていたが、テレビ・チャンピオンに出れるような「我慢強い人」でも、2時間とは耐えられなかった実験を思い出す。
この実験ではここから永久に出られないという、底知れないない「孤立」あるいは「恐怖」を体験するのだ。
そして東長寺の出口の明かりを見たときはホッとする感覚は、「救い」そのものの体験であるかのようである。
この地獄(暗黒)と救い(光明)の「落差」の中で、もう一度自分の「素」に戻るという感覚をえることができるのだ。

「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」(DID)のコンセプトはドイツの哲学者・ハイネッケが考案してこれまで600万人以上が体験した。
それをレストランへと発展させたのが、「暗闇レストラン」なのだ。
実は暗闇レストラン最大の魅力は「料理」そのものではなく、視覚を使わずに料理や人と接することで、自分の趣向や内面をより深く理解できるということである。
つまり大袈裟にいうと「実存体験」なのだ。
DIDジャパンの代表の方の話によると、暗闇は人を「元に戻す」メディアであるそうだ。
人間の「リセット体験」といえるかもしれない。
「素の自分」に戻る体験であり、「素の自分」に戻ると人に優しくなれるという。
だから「暗闇」だからこそ人のヌクモリを感じられたりするのだそうだ。
というわけで「暗闇」は社会を静かに優しく変えていく「インフラ」にもなりうるという。
そこまでいうのならば、いっそのこと街全体を暗闇にしたテーマパークなんかを作ってみてはどうかと思う。
名前はもちろん「暗黒街」とする。
場所は東京・青山にある「キラー通り」(コシノジュンコさん命名)に面したあたりにすると、洒落がキイテ面白いかもしれない。
ただし、街創りのコンセプトは、「癒しと温もりの暗黒街」である。