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バベル的世界

旧約聖書の「バベルの塔」の物語は、人間の「言葉の相違」の由来について書いてある。
人間が「我々の名をあげよう」と天にまで届く搭を造ろうとしたところ、神様が人間が互いに「語り」合って思い図ることはロクでもないことだと、「人々の言葉」を理解不能にして、互いのコミュニケーションを阻害したということである。
つまり、人間のコミュニケーションの進展はけして人類にヨイ結果をもたらさないということだ。
だから言葉が「通じない」ことによっておきる諸々のトラブルや困難は、人間には「不都合」ではあっても、それはむしろ「神の智恵」にカナッタことなのだ。
ソンナことを最近のグローバリゼーションの広がりと深化とを見ながら思う。
つまり今、世界的に進行する「グローバリゼーション」は、人間の「広い意味」での言葉を「共通化」しようという試みであり、特に経済においては「バベル的世界」の建設に向かっている印象さえある。
世界の時間や単位・規格を同一の基準に乗せるマデはグローバリゼーションとはいわなかった。
ソコからココ20年で、世界市場の上に、共通の企業経営理念、共通の会計原則、金融ビッグバン、そして(地域的)「共通通貨」サエ造ることになっていった。
つまりそれぞれの地域で独自に育った「やり方」を世界統一の基準や枠組み、つまり同じ「土俵」に乗せて同じルールでやっていこうという動きである。
つまりグローバリゼーションとは、「言葉の統一」まではイタラズとも、極端にいえば言語的作用の裏側にある「思考様式」サエも「共通化」しようということなのだ。
(その最大の障害が「イスラム原理主義」である)
世界は境目がなく便利になったように見える一方で、津波の如く襲う「金融危機」やツイッターによって広がる「民衆革命」など、世界に大混乱をマキ起こす「因子」が撒き散らされた感がある。
つまり、神様がいわれた如く、人が思いハカルことはやっぱりロクでもない方向を向いているということだ。
各国経済はハゲタカと呼ばれるファンドで食い尽くされ、「デフォルト」状態の国家が続出している。
経済におけるグロ-バロゼーションは、世界経済の「強靭さ」ではなくむしろ「脆弱さ」を生み出している、という方が真相に近い。
接続の不具合ではなく、接続のヨサこそが危険をもたらしている。
そして改めて痛感させられることは、「生物多様性」が自然システムの安定をもたらすように、各国の「国民経済」の多様さコソが、実は世界経済システムの安定に貢献していたということである。
また、先進国の製造業が新興国に移転して「産業の空洞化」から「雇用不安」が起きているのも、こうしたグローバリセーションの展開と密接に関連している。
さらに、世界的になされている「国債の格付」けから「レストランの格付」まで、世界の統一基準(つまり同じ言語)で表現しようとしたものだ。
日本の政治史の汚点だが、1927年にはじまる「昭和金融恐慌」は、帝国議会で破綻の恐れのある銀行名を「公表せよ」という質問に対して、当時の蔵相が「それを明らかにしたら銀行が潰れてしまう」と答えたことに端を発しているのは、シンボリックなことだ。
つまり「言葉」が発端なのだが、最近「米国国債の格付の引き下げ」が発表され金融不安を起こしたのと同様、こういう「格付の引き下げ」といった「言葉」が最後の「引き金」になってしまうのは、大いにアリウルことだ。
世界中の投資家の便宜をはかって出来た「格付会社」だが、サブプライム・ローンの実体を「読み損なって」世界中を混乱させ、ひいてはリーマンショクまで引き起こしたことは、記憶に新しい。
そして言葉を「シンボル」操作と捉えるならば、通貨と「言葉」は非常に似かよったものだ。
ユーロのような「共通通貨」(共通言語)が登場すれば日常的にも、各地のモノの値段をいちいち単位を換算(翻訳)する必要がなくなり、それまで見えなかった「投資対象」が見え易くなる。
またユーロという共通通貨における最大のメリットは、「為替リスク」がナイということである。
為替リスクがなければ、リスクを「ヘッジ」する必要もなく、雇用、ビジネスチャンス、資本調達などの面で一気に可能性が広がることを意味する。
しかし、後述するようにメリットはそのままデメリットとなった。
今度のギリシア財政危機に端を発したユーロ危機は、通貨は言語同様に自然発生的であるのに、上から「意図的」「人工的」に流通させることが、きわめて困難なシロモノであることを教えている。

ところでグローバリゼ-ション的発想の端緒は古代においてスデニ表れている、と思う。
古代中国にあった「中華思想」にはグローバリゼ-ションの萌芽を感じさせるものである。
中国の周辺の国々は、中国の「官制」などを多く取り入れ、日本では「律令」がそれにあたる。
アジア周辺諸国が定期的に貢モノをもって中国に挨拶にいくわけで、古代博多にあった奴国はその挨拶の代りに「漢委奴国王」の金印をもらっている。
つまり中国皇帝から、ソレゾレの地域をおさめる「王」たるオスミツキをもらったということだ。
こうした中国はグロ-バリゼ-ション(チャイナイゼーション)における先輩国家というだけではなく、「規格マニア」といっていい皇帝・始皇帝がいた。
始皇帝は、郡県制の採用、車幅(轍(ワダチ)を統一、度量衡(度=長さ、量=体積、衡=重さ)の統一、貨幣の統一、文字体の統一(篆書)などを行った。
つまり「広い中国」で広義の言葉の統一を行ったのである。
さて、ヨ-ロッパ経済統合のなかで、これまで財・サービス・労働力の域内での自由な移動に加えて通貨統合がなされ、2002年から「ユーロ通貨」が実際に流通し始めた。
今のユーロの問題は、もともと地域格差があるものを「一元化」しようとしたところに無理があったし、労働市場にせよその「地域差」を度外視してヤッテいこうとしたところに問題があった。
つまり「共通市場」は、物価にせよ金利にせよ賃金にせよ、経済規模の大きな水準の国に「収斂」していくものなのだ。
ところが、労働市場などは「一物一価」が成立する「同質的」な完全競争市場などではなく、産業ごと、地域ごと、職種ごと、そして究極的には「企業ごと」分断された、「多種多様」な市場の寄せ集めなのである。
生産性が違う地域には、その生産性に見合った賃金しか支払われないのが正当なのに、生産性が高い地域と同じ賃金を払ったりしたら、企業経営を圧迫することは目に見えている。
また「通貨」が異なることのメリットはデメリットの「裏がえし」であり、「為替の変動」はそれら「生産性」の格差を各国通貨の交換によって「調整」する役割を果たしていたのだといえる。
ところが、全体を「ヒトツ通貨の下」にすると、そういう機能が期待できなくなるのである。
通貨は一般的に、自然に他の媒体を淘汰しながら流通していたモノを中央政府の「保証」により広範に流通していったもので、ユーロのような「人工合成通貨」が果たして成功しうるのか、もともと「実験的」なものであった。
そこで最低限、各国政府に「財政の健全化」をはかることを義務づけたのである。
そこで、各国とも必死に支出を切り詰めて、財政赤字をGDPの3パーセント以内にするなどの条件をクリアして、「共通市場」の大きなメリットを得ようとしたのである。
しかしギリシアは、ソノ努力を怠ったということだ。
ギリシアは日本の政治状況にとっても大いに教訓になるが、ギリシアの与野党は選挙で自党を有利にするために、選挙の協力した人々を次々に公務員に採用するなどしたため、4人に1人が公務員となり、財政を圧迫したのである。
しかも国としての政策の権限を「欧州中央銀行」に委譲しているので、「放漫財政」への歯止めがキカなくなっていた。
ところで、ユ-ロという通貨は、冷戦下の核抑止理論における「MAD」(相互確証破壊)を連想させる。
「MAD」は、米国が核の第一撃で首都機能を破壊されても、米国の原子力潜水艦から発射する第二撃によって、敵を破壊できることを意味する。
核は、このような「相互破壊」が確証的であることから実際には使えない兵器となったのである。
実は今、ヨーロッパは経済的に「MAD」状態に近似した体験をしているといってよい。
それは平和条約同様に、ユーロを採用した国に「出口」が用意されていないということによる。
つまりこの協定には、ユーロを採用した国がドノヨウニ脱退できるか明示した規定がない。
つまり体制選択が「非可逆」であるということである。
例えばドイツやフランスがヌケルなんてことを言い出したら、ユーロは国際通貨市場で「投げ売り」されること必定である。
つまりそれ自体がシステム全体の破壊をもたらす「自爆行為」に他ならない。

最近「グローバル経済」という言葉が横行しているためか、「国民経済」という言葉とそれにマツワル経済社会が、懐かしくシカモ健全に思えてくる。
グローバリゼーションの画期は、一国の経済規模を「GNP」(国民総生産)ではなく「GDP」(国内総生産)で表すようになったアタリかもしれない。
「国民経済」ではそれぞれの国家の国民の歴史的体験を担って営まれていた経済活動が主体であり、そのようにある程度「閉じている」ことが、歴史と伝統が育んだ智恵や創意も生かされたのではないかと思う。
ところが経済関係のスケ-ルが大きく国家の枠を超え、まったく国籍の違う住民が生産拠点を移して活動したり、さらに「世界規格」やら「世界標準」というコンセプトが前面にでてくると、各々の国民経済の持つ「歴史性」が消去されてしまう。
それは、かつての国民経済と地域経済との関係にも似て、すべてが国民経済に呑みこまれてしまうと地場産業や地域経済のコジンマリとした「美質」が失われていったこととアナロジカルである。
逆にいうと、多様な国民経済コソは、「グロ-バリゼ-ション」の行き過ぎへの「対抗力」となったのだ。
結局、各国経済の底力は、国民の歴史体験をベースにした「国民経済」の強さにあるのではないか思う。
例えば「グローバリゼーション」の波に呑みこまれないスイス「国民経済」などを思わせられる。
かつてスイスのアルプス登山鉄道の基点・インターラーケンの町に滞在したところ、ウイリアム・テルの歌劇のいうポスタ-がはりめぐらされていた。
そしてそのポスターには、「ウイリアム・テルこそはスイス人の魂である」ということが書かれてあった。
まるで年末の日本の「忠臣蔵」を思わせるが、テルは今なおスイス人にとって「独立のシンボル」となっているのに驚きを覚えた。
それは、スイスの「永世中立国」宣言に見るように、小国でありながらヨ-ロッパや世界の中で実にユニークな国つくりを行い独自路線を歩んでいることとも関係があるように思う。
スイスの銀行、なかでも個人銀行を有名にしたのが「番号口座」で、その匿名性が人気を得て世界中から資金が集まってきた。
犯罪や脱税にそれが使われるという批判はいまなお多いもののスイスの銀行は、度重なる各国当局の開示要求や司法の批判にさらされながらも、少しもヒルマズそうした要求を退けてきた。
そうしたスイス銀行の「守秘性」には、弾圧されて山間の村々に逃れてきたユグノー(新教徒)達の苦難によって根ざした「怨念」さえ感じさせる。
もうひとつ「国民経済」のシブトサを思わせるケースとしては、オランダの復活がある。
オランダは、Hollandつまり「窪んだ土地」という意味であるが、このことに取り組んだ歴史こそがユニークな国民経済をつくりあげた。
オランダは石油ショック以降、赤字財政と失業に悩んでいたが、1983年ハーグ郊外の小さな町ワッセナーに労使政府代表があつまり賃金抑制・労働時間の短縮・雇用確保・減税を約束し合意した。
この「ワッセナー合意」以降、財政赤字も減らすことができ、一時「オランダ・モデル」ともよばれたが、「インフレ連動型賃金」が廃止されたために労働者の収入は実質的減少し、国民全般に大きな痛みをもたらす結果となった。
そして1994年の選挙で新たに連立政権の中心となった労働党は、前政権(キリスト教民主同盟)とは全く異なるアプローチで経済問題を解決しようとした。
政府がまず目をつけたのがパートタイマーの多さで、正社員一人一日がかりでやっていた仕事を半分にして二人のパートタイマーにやってもらうなどして、徹底的な「ワーク・シェアリング」を行ったのである。
1996年にはパートタイマー労働を通常の労働と差別するのを禁止する画期的な法改正を行い、パートタイマーでも社会保障制度に加入できるなど「正規雇用」と同等の権利を保障した。
ワーク・シェアリングが浸透するにつれて、オランダ経済はミルミル好転していった。
一人一人の収入は伸びていないものの、共働きが当たり前になったために「世帯当たり」の収入が増加したため、家計支出が増えこれが消費全体の拡大を促し、やがて経済の活性化につながったのだ。
こういうオランダの復活も、昔から干拓と治水という苦しい事業を続けてきた歴史があってのことだ。
オランダ人つまり「窪んだ土地」の住人達は、長年その事業を通じて「自治」と「協働」の思想を育んできたのである。
イタリアもギリシアと同じく財政難で連鎖的デフォルトの危機にある。
最近、財政難を解消する為に8000(日本は1769)もある自治体を「統合」して交付金の支給を減らそうとした。
首相が選挙で当選するために住民税の一部を免除するなどして、自治体の財源は一気に縮小したという背景もあって、今政府と各自治体との激しいセメギ合いが起きている。
イタリア・フィレッティーノは、人口500人ほの小さい村だが、今マスコミの注目が集まっている。
インタビューを受けた村人は、この村への交付金は過去30年でわずか数十万ユーロ(数千万円)だけで、これでは何もできないし、村の修繕なんてもってのほかと言っていた。
そういうわけで、政府の「小村統合」案に反発し、「公国」化にむけ村民投票することになったのだ。
豊富な湧き水に恵まれるこの村は、ローマへの水の供給源ともなっているため、「公国」になれば高い「自治性」と権利を獲得できるからである。
フィレッティーノ村は、豊富な「水資源」土台に自立を図っているのだが、古くから「都市国家」が多く独立思想が強いイタリアの自治体ナラデハの動きといえるかもしれない。
さらに村長は、まもなくユーロはなくなると見越していて、すでに「独自通貨」の試作品を用意しているという。そして公国になった暁には、独自通貨を村に流通させるつもりだという。
そして村民は、すばらしい解決策でこれで村に必要な公共サービス全てが導入できたらイウコトナシと期待している。

以上見たように、各国経済には国民の夢や怨念がニツマッテって独自に生み出されたもののである。
そういう意味では「国民経済」には「言語」にも似た要素がある。
結局グローバリゼーションとは、共通言語で人間が地球規模で造りあげている「バベルの塔」のようなものだ。
神は人間に「地に満てよ」といわれたが、中東の砂漠に「ドバイ」という街があってそこに世界で一番高い(828メートル)のビルが建設中という。
アンナ味気ないドバイの街には世界の金持ちがそのステータスを競うように集まり「高き」に昇ろうとしている。
数年前ドバイのバブルはハジケてしまった(ドバイ・ショック)が、このビル建設で活気が再び戻ってくるだろうか。
そこで新約聖書にある一つの不可解なエピソードが思い浮かんだ。それはマタイの福音書の21章にある。
イエスが道を歩いていると空腹になってイチジクの木の実を食べようとしたしたところ、そこには実がナッテいなかった。
イエスはその木に対して「永遠に呪われよ」という激しい言葉をナゲかけている。
慈愛と哀れみに満ちたイエスが発した「この言葉」が恐ろしいのは、「永遠に」というところだ。
イスラエルの「死海」と名のついた湖は、ソドム・ゴモラの跡地にあるが、廃墟と化した幾多の古代遺跡が物語っているのはまさに、イエスが「イチジク」対してに発したコノ言葉である。
それは、「神の名」でなく、神の如くに「人の名」をアゲようとした人々の「顛末」を物語っているように思える。