クレネ人シモン

中東・北アフリカで起きている政変の嵐が、ついにリビアをのみ込んだ。
カダフィによる独裁政権が続いていた北アフリカ・リビアで、今年2月、大規模な反政府デモが発生し、8月に首都が制圧されその「政権」が倒れた。
リビアの「石油埋蔵量」は世界8位で、アフリカ大陸では3位なのだが、それだけ豊かな資源があるのに「国民の生活」には反映されてはこなかったようだ。
我々はリビアにつき、この石油関連以外には、カダフィによる「独裁政権」と「核武装疑惑」ぐらいしか知らない。
この3つ以外に、「リビア発」または「リビア産」はなかろうかと調べたところ、カワイラシイものがあった。
「ワインガム」とは、硬く噛みごたえがあるグミのような菓子で、動物性ゼラチンから製造され、甘味料・香味料・着色料と混ぜ合わされて作られる。
ガムドロップに似ているが、表面が砂糖でコーティングされていないのが特徴である。
名称はドイツ語でゴムを意味する「Gummi」に由来し、ドイツと北米では「熊」を型どったグミベア(Gummi Bear)が、さまざまな形のグミで最も親しまれ定着した形状である。
アイルランドやイギリスのほか、ニュージーランド、南アフリカ共和国、カナダ、そして他のヨーロッパ中部の国々で一般的な菓子製品である。
ワインガムの名称は、「上質のワインを味わう」のと同様に、すぐ消えることが無い果物のホノカナ風味から付けられたものである。
名称はワインガムであっっても、実際にワインは含まれていない。
ワインガムは「チャーリーとチョコレート工場」の作者であるロアルド・ダールお気に入りの菓子でもある。
彼はベッドの横にワインガムを瓶に詰めて置いていたため、毎晩就寝する前に味わっていたという。
人気の高いブランドには「バセッツ」 (Bassett's) があるが、もうひとつイギリスやアイルランドでは「メイナーズ」(Maynards) が挙げられる。
ワインガムは小さな菓子屋を営んでいたチャールズ・リリー・メイナードを父に持つ、チャールズ・ゴードン・メイナードにより、1909年にリビアで考案された。
厳格なメソジスト教徒で絶対禁酒主義者であった父親のチャールズ・リリー・メイナードは、息子のゴードンが「ワインガム」を考案したと聞き、もう少しで彼をクビにするところだったという。
しかしチャールズ・ゴードンは、父にワインガムのレシピには実際のワインが入っていないことを知らせた時、得意満面であったであろう。
2002年に、メイナーズのワインガムは売上が4千万ポンドに達している。
さて、「リビア産」には、この様々な色合いのあるワインガムに以上に強力な、そして妖しげな「輝き」を放つもののがある。
古代から知られた「リビアン・グラス」である。
リビアングラスは約2900万年前に隕石が衝突した際に衝撃で岩石等が溶けて固まって形成された天然ガラスで、モルダバイトよりも古い歴史を持ち、鉄やニッケルなどの隕石成分が内包されている。
エジプトのピラミッドからはこの「リビアングラス」を使用した「両刃の手斧」が発見され、ツタンカーメン王の墓からは、リビアングラスで作ったスカラべやツタンカーメン・マスクの目や胸の部分にも使用されている。
その形成の元となった「クレーター」がいまだに発見されていないという不思議さを持っている。
リビアングラスはハイパワーな「ヒーリングストーン」として用いられており、そのタグイの資料によれば魂の成長とか宇宙からのメッセージ受信やインスピレーションの向上や、洞察力の向上など多いに期待できるパワーストーンである、と解説がしてあった。
カダフィに仕える女性兵士だけの親衛隊は、「アマゾネス」軍団などともよばれ、とにかく「妖しげ」な魅力あふれる国である。

リビアの首都トリポリには、「クレネ」という「世界遺産」(1982年登録)となっている町がある。
クレネ (Cyrene) は、現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、現存する遺跡の多くは、ローマの植民都市となった際に再建されたものである。
このクレネの町には、古代より「離散ユダヤ人」の住民が数多く住んでいた。
新約聖書の使徒行伝2章10節に「エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち」とあるので、クレネという町がリビアにあったことが確認できる。
さらに、ユダヤの祭りである「五旬節」(ペンテコステの日)にこのクレネの人々がエルサレムに上り、「聖霊が降る」場面を目撃し、その後の「ペテロの説教」によって「初代教会」が始まったことが書いてある。
初代教会のひとつアンテオケの教会で、指導者としてパウロに手を置いて宣教に送り出した一人は「クレネ人ルキオ」という人物がいたことも書いてある。
また新約聖書のハイライトであるイエスがゴルゴダの丘を上る場面で、忘れがたい「クレネ出身」の人物が登場する。
イエスのゴルゴタの丘に登る途中に、十字架を自ら担いで登るイエスを、ローマの兵卒に命じられて「共に」担うことになった「クレネ人シモン」である。
クレネ人シモンにしてみれば、突然の出来事で一体何がナンやらわからぬまま、十字架の重みを感じたであろうが、重要なことは、その重みをたくさんの見物人の中で唯一「実体験」した人物であるということだ。
そして、シモンは十字架を担がされるという異常な体験を通して、道端で見ていた時よりずっと「真剣に」「身近に」イエスを見つめたに違いない。
さてこのクレネ人シモンのその後の運命は如何というのが気になるところである。
その点で聖書は「答え」を目立たぬようにちゃんと用意していてくれる。
マルコ伝に「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」と書いてあるところを見ると、この一家がクリスチャン・ファミリーになっていることがわかるのである。
また、パウロが書いた「ローマ人への手紙」の中に突然に「主にあって選ばれた人ルポス」と出てくるのである。
クレネ人シモンの息子ルボスは、パウロから「主にあって選べれた人」と呼ばれるほどの信者になっているのである。
クレネ人シモンはユダヤの「過越祭り」に参拝するためにやってきてイエスの十字架の場面と遭遇する。
群集にまぎれていたシモンは、なぜかローマの兵卒に命ぜられて「十字架」を背負うハメになってしまった。
人目にサラサレ、キツイ思いをして十字架を担うのが「ナンデ自分が?」というミジメな気持ちにさえなったかもしれない。
ひょっとしたら石さえ投げつけられたかもしれないのだ。
しかし、その後のクレネ人シモンの家族の記録を見る限り、そこには「偶然以上」の何かが働いているように思える。

クレネ人シモンは「十字架」など背負いたくはなかったに違いが、いわば「強制的」に十字架を背負わされたということである。
行きがかりで、「十字架」を背負うハメとなる歴史上の人物というのは少なからずいる。
まず思いつくのは、黒人公民権運動の指導者でああるマルチン・ルーサー・キングである。
アメリカの黒人による公民権運動は、バス乗車をめぐっておきている。
1955年、アラバマ州モントゴメリーにおいて、黒人の店員ロ-ザ・パ-クスがいつものように市バスで帰宅の途についた。
「市の条例」によれば、白人専用の前部座席が埋まると、後部座席の黒人は席を白人に譲らなければならなかった。
その日、勤め帰りにクリスマスの買い物をして、足が疲れていたパ-クスは、あとから白人がバスに乗り込んでも席を立たなかった。
白人運転手は警察を呼び、パ-クスは逮捕された。
パ-クス逮捕の知らせを受けて、市の黒人指導者は市バスの一日ボイコットを計画した。
そして、前年に市内のバプテスト教会の牧師としてボストンから「着任したばかり」のマルチン・ル-サ-・キングにリーダーとして協力要請をした。
アトランタの豊かな牧師の家に生まれたキングは、ボストン大学を出て一年ちょっと前にこの市の教会に着任したばかりだった。
有力な黒人有力者達は「名前が知られてしまう」と表にでることをためらう。
そして弱冠26歳のキングに白羽の矢があたったのは、ボイコット運動の先頭に立つ指導者には市の黒人の「内部情報」に通じていない人物が必要だったのである。
仮にキングが運動失敗の暁には、全責任を負ってどこかに逃走できるクレネ人シモンのような「ヨソ者」だったからである。
つまり失敗してもどこにも累がおよばないということが「一番の理由」だった。
突然表舞台に引き出された男が黒人の公民権運動の指導 者となるが、この無名のキングは、誰もが想像した以上の存在感をもっており、力を結集していった。
キングはそれまで現実の苦難から逃れる場所にすぎなかった教会を戦う拠点に変えた。
キングは四千人を集 めた決起集会で原稿なしの演説を行い、屈辱と忍従にかかわって「自由と正義」を求める時が来たと訴えた。
キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにジョンソン大統領時代の1964年7月2日に「公民権法」が制定された。
これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた「法の下」における「人種差別」が終わりを告げることになった。
しかしキングは、しだいに「身の危険」を感じることも増えていった。
キングはガンジー哲学を学び人種差別のもっとも激しかったバ ーミンガムを戦場と選んだ。しかし白人保守層の過激な反対運動もおきた。
バーミンガムの教会が爆破され、聖歌隊の四人の少女が犠牲になり、イスラム教の立場から運動をしていたマルコムXも暗殺された。
マルチン・ル-サ-・キングも次第に身の危険を感じ始めるが、しかし死の危険にさらされながらもキングはこの運動 と関わり突き進んでいく他はなかった。
「死は怖いし長生きしたい。でも人々を救う犠牲なるのら、死んでも意味はある」と語った。
1968年宿泊先のメンフィスのモーテルで一発の銃声によって、39年の生涯を閉じた。
黒人奴隷といえば「アメイジング・グレイス」という歌を思い浮かべる。
この歌は、日本語で「驚くばかりの恵み」と題した賛美歌であるが、その元歌は1725年ジョン・ニュートンというイギリス人によってつくられた。
それよりも、白血病でなくなった本田美奈子さんが病床からの「肉声」の歌がが、テレビで時々流れていたので大半の人が聞いたことがあると思う。
ジョン・ニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染めるようになり「巨万の富」を築くようになった。
当時奴隷としてアフリカで拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。
このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれる。
ジョンもまたこのような扱いを黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月、彼が22歳の時に転機はやってきた。
船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥ったのである。
今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。 敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心底から神に祈ったのはこの時が初めてだったという。
すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのである。彼はこの日をみずからの「第二の誕生日」と決めた。
奴隷待遇を改善しつつもその後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けたが、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。
これがジョン・ニュートンが背負わされた「十字架」ということがいえるかもしれない。
そして1772年名曲「アメイジング・グレイス」が生まれたのである。
マルチン・ルーサー・キングの前に、リンカーン大統領による1862年「奴隷解放宣言」より100年も前にこの歌が生まれたのは注目に値する。

最近NHKの「ファミリーストーリー」で竹下重人という人物が紹介されていた。
竹下氏は、女優・竹下景子さんの父で 学会出席のため滞在中の福岡市内のホテルで82歳で亡くなった。 心臓などに持病があったそうだ。
竹下師は、長崎県出身で裕福ではない家庭に生まれたは、成績優秀のため篤志家の援助で名古屋高等商業学校に進んだ。
卒業後満州国の官吏となったが満州国は崩壊して、シベリアに抑留された。
シベリア抑留から帰国した竹下氏を待っていたのは、ソビエト当局に「教育」されてのソ連のスパイだの共産主義者だとのレッテルをはられ警察からマークされた。
せっかく決まったかに思えた就職も警察にヨコヤリを入れられダメになった。
そんな中、たまたま見つけた「貼り紙」で名古屋で税務署の税金の滞納者に対する徴収の仕事をみつけた。
採用されたものの、この仕事は、情け容赦ない滞納者への取立をし、泣きつかれようが生活必需品を差し押さえて容赦なく徴収するという「嫌われる仕事」であった。
あくまで国の税務解釈をにそって「徴税」していくのだが、それを「職業」として行ううちに、そのような国の姿勢を疑問に思うようになった。
そして、国の税務解釈を「絶対」としていいのかという疑問がわいてきて、「被課税者」の立場から仕事をしたいと思うようになった。
そして40歳近くになって司法試験を志しして合格した。
NHKの番組のでは,竹下氏が「書き残したもの」を逐次紹介して、当時の情勢と人物像を紹介していた。
例えば、日本の敗戦で、中国人が日本人に「出て行け」と言って罵っていたこと、日本は満州を開拓するためにやってきたといっているがや満州への希望は日本の一方的な思いに過ぎなかったことなどである。
そして、「他人の家に土足で踏み込んで「一緒にやろう」と言っても受け入れられない」と書き残してあったという。
竹下氏は「満州国」の官吏としての仕事にありつつ、こういうものをしっかり書き残して自分の家族や後世に伝えようというところがある。
娘の竹下景子さんに弁護士になってもらいたいという思いがあったようだ。
しかし、娘の竹下景子さんが女優になってしまったため、事務所も「自分一代限り」のようだと書き残している。
ところで竹下氏は、望んだ弁護士になるも国相手でほとんど勝てない税務訴訟を多く引き受け「連戦連敗」であった。
また、弁護士にとって連戦連敗というのはつらい。いくら負けるのが当たり前というような「税務訴訟」であっても、いつも負け戦をしていると、さすがにメゲてしまうのではないかと思う。
それを自分の信念として、80歳になるまで多忙な弁護士の仕事を続けるのは、なかなかできないことだと思う。
しかし「負ける」とわかっていても、誰かが言い続けなければならないと語っている。
これが、この人の「十字架」なのかもしれないと思った。
ただ番組を見て面白く思ったのは、竹下重人氏自身がシベリアで劇のシナリオ書きなどをしていて、「演劇」への思い入れは相当強く、自分の口からは娘に、「女優をヤメロ」とはいえなかったそうだ。
また、若い頃ある縁談が持ち上がったことがあったが、あの時の縁談が成立していたならば、「女優竹下景子」を存在しなかったと同僚に語っている。
竹下氏自身は、仕事の上でははからずも「十字架」を背負わされた形であったが、この人の「人徳」に見合うだけの「恵み」もあったようです。
アメイジング・グレイス。