三つの時代

日本文化には伝統的に、「善」と「悪」との「二元対立」という思考方法はなかった。
人々に不幸をもたらすような厄が起きるのは、ケガレによって生じるものであり、それはハラってキヨメれば是正されることであった。
つまり社会の根本は「良き」ものであり、人々にも「善意」にあふれている。
最近起きている「タイガーマスク運動」が、この寒空に「幸せ」な気持ちを与えてくれるのも、日本人がかつて生きたそうした「時代の空気」を呼び覚ましてくれるからかもしれない。
だから政治や経済の面で「悪事」が発覚しても、それは人間の「徳」や「倫理感」の問題でカタヅケられる程度のものであった。
それでは、ナチス・ヒットラーを道徳の問題で片付けられるだろうか。
また、2000年に起きた世田谷一家殺人事件や2002年北九州で起きた一家監禁殺人事件などを見ると、それらが人間のヒズミやユガミあるいはケガレの問題などではなく、それらが派生した根源的な「悪」というものが存在するのではないか、という気がしてくる。
または、そうした「悪しき」存在が働いたとしか説明ができない事件が続いているように思う。
一方、西洋社会は、「善」と「悪」との根源的な対立を前提としてきたといってよい。
それは、様々な出来事の背景に神の霊と悪の霊と戦いがあるという考え方があるからである。

聖書マタイの福音書8章に有名な場面がある。
「 さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
悪霊どもはイエスに願って言った、もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい。
そこで、イエスが行けと言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体がガケから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった」。
ドストエフスキーの「悪霊」という小説の裏表紙にはこの箇所が引用されて、本の紹介してあったのを記憶している。
ロシアの農奴解放後の無政府主義者達の暴発行為を目前にして、ドストエフスキーは聖書のこの箇所にインスピレーションを受けて「悪霊」を書いたそうだ。
単なる「非科学的」なバカラシイ出来事として読み過ごすこともできるが、この聖書の内容にはトテツモナイことが含まれているように思う。
悪霊は、なぜ好き勝手に行きたい処に行かないのか、ということである。
実はこの「豚の湖突進事件」は、イエスがガリラヤの地に着いた時に、悪霊につかれた二人の者と出会う場面で始まっている。
二人は手に負えない乱暴者で、誰もその辺の道を通ることができない程であった。
その時彼らがイエスに「叫んだ」内容が誠に興味深い。
「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきてわたしどもを苦しめるのですか」。
この言葉の中にある「まだその時ではないのに」の「その時」とはいつを意味するのだろう。
悪霊達は自分たちが決定的に滅ぼされる「その時」が来るのを知っているようだ。
また別の箇所に、「悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」(ルカの福音書8章)ともある。
とするならば、先ほど悪霊達がイエスに「豚につかわせてください」と願い湖に飛び込んだのも、決定的な「その時」からなんとか逃れよう、あるいは「その時」までの時間を引き伸ばそうとしているようにも聞こえる。
聖書からみるかぎり、悪霊はいつしか「底なしの淵へ行く」自分達の運命を知っているかのようだ。
結局、先ほどの「その時」とは「底なしの淵へ行け」という命令がイエスから下される時、ということになる。
そして「ヨハネ黙示録20章」の預言によれば、確かに「その時」が来ることが預言されているのである。
聖書にはしばしば、このような「驚くべき」整合性を見出すことができる。
また、マルコによる福音書1章には、カペナウムでイエスが「権威ある者のように」会堂で教えられた場面がある。
ちょうどその時、「けがれた霊」につかれた者が会堂にいて、叫んで次のように言った。
「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるかわかっています。神の聖者です」。
イエスはこれをしかって、「黙れ、この人から出て行け」と言われた。すると、けがれた霊は彼をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。
この箇所でわかることは、世の人々がいまだ「イエスの正体」をヨミきれていない時、悪霊はハヤバヤと、「イエスの正体」を知っていたということだ。
ちなみに当時の人々は、豚が湖に突進するなどイエスの不思議なワザについて「悪霊のカシラ」だから悪霊を追い出せるなどと語っている始末である。
そして「イエスの正体」を正しく見抜いた悪霊達は、ここでも「滅ぼされる運命」にあることを知って、イエスをいたく恐れている。

ではなぜ神は、悪霊を滅ぼさず「猶予」を与えその「悪しき働き」を許しているのか。
率直に言って神様に聞いてくれだが、聖書にはそのことについて考えさせる話がいくつかある。
旧約聖書「ヨブ記」にみると、ヨブという非のうち所のない人間がいた。
ところが悪霊は神に、ヨブの信仰が堅いのは神の恵みにより守られているからなのだと訴える。
神がヨブの「守り」を解いてみれば、ヨブといえども信仰なんか捨てちゃいますよ、と持ちかける。
神はそれを拒絶するでなく、「いいでしょう ためしてみよう」と答え、ヨブの「守り」を解き彼を悪霊の働きにゆだねる。
ただし神は悪霊に、ヨブの命だけにはフレルなという条件をつけた。
そしてヨブは皮膚病にノタウチ、家の財産や家族までも失うのだが、ついには「神をのろう」ことはしなかった。
ついに悪霊はヨブの信仰を切り崩すことをアキラメてヨブを離れ、神はヨブに以前に「倍する」祝福を与えるのである。
以上の話をまとめると、悪霊は神(イエス)をよく知っており、自分たちの「滅ぼされる時」がくることを恐れており、その活動は神の「許された」範囲内でなされているということである。
さらには、悪霊の働きを許すのも、神が人間を試し「選り分ける」ためか、とも思える。
しかしイエス自身が自身を「つまずきの岩」としており、詩篇に何度も詠われた如く「神の思いはあまりに高くはかり難し」というのが本当のところなのだが。

旧約聖書「サムエル記」には、神の霊と悪しき霊の働きによって運命を変えていく人々の姿を最もよく示している。
ユダヤ王国初代のサウル王と二代目ダビデ王の話であるが、それは「霊の働き」によって二人が「選り分け」られていくかにも見える。
それは、神の目が「留まるもの」と「離れ去るもの」のコントラストなのだが、その意味では「恐ろしい」話ともいえる。
ところで「詩篇」の多くはダビデやソロモンによってつくられたが、ダビデが困難や苦悩と出会うたびに神と交わした濃密な対話やヤリトリは、信者とは限らず一般の人々の慰めや励みとなっている。
ダビデと同じく子ソロモンの詩も「詩篇」に収められているが、ソロモンの「高い英知」をもっていたにもかかわらず、「魂の深さ」については父ダビデは及ばなかったのではないだろうか。
そして、誰よりも深く神に愛されたダビデの生涯は苦難と過ちに満ちた人であったといってよい。
自身の家来の妻が気に入り自分のモノとして、さらにその旦那を戦場の最前線に送り込み、結果として殺してしまうのである。
もちろんこの行為は神を大いに怒らせ、ダビデは大きな試練に直面する。
ダビデは幼子の一人を失い、さらに息子の一人がダビデの王位を奪わんと反乱をおこすのである。
ダビデはその反乱に追い詰められるが、その息子が事故で死ぬや慰めを拒絶するほど号泣するのである。
またダビデがサウルの家来であった時代に戦(いくさ)で手柄を立て、「サウルは千人をうち、ダビデは万人をうつ」という言葉が広まり、ちょうど源頼朝が義経の命をつけねらったように、悪しき霊によって頭が狂い始めたサウルにより、終始命を狙われ逃げ惑うハメに陥ってしまう。
しかしダビデは、サウルを殺す絶対的なチャンスが二度ほどあったにもかかわらずサウルを「神が立てたもの」として自ら手をかけることはしなかった。
そういうことからも、ダビデは自分の都合でブレルことなく、神を畏れる人があったことがわかる。
ダビデの「信仰」の素晴らしさを示すエピソードは次のとうりである。
ダビデはサウル王より「王位」を受け継ぐが、ダビデが一線敗地にまみれると、「ダビデはサウル一族の血に呪われている」と言いふらして歩く一人の男と出会う。
部下が「あの男を殺して黙らせましょうか」というと、「神がそう言わせているのだから言わせておけ」と命じるのである。
これは投げやりな言い方ではなく、悪しき力でさえも神の「許し」の下で働いていること、あるいは、「呪いを祝福に変える」神の力を知っていたのかもれない。
まとめていうと、ダビデは何がおきても「神の手に落ちる」天才なのだ。
それは後にマルチン・ルターによって賛美歌となった詩「神はわが岩、わが城、わが高きやぐら」という信仰こそがダビデの真骨頂であり、その姿勢が終始一貫しているのがスゴイところである。

ところで聖書では「天」はひとつではなく複数である。
第一の天は鳥の飛ぶ所(創世紀1章20)、第二の天は宇宙空間(創世紀1章14)、そして第三の天は神の住む処(第二コリント人12章・4)ということである。
もちろんこれは、高度一万メートルといった「空間」の話ではなく、「霊界」の話である。
「エペゾ人への手紙」2章に、悪霊は「今も不従順の子らの中に働いている霊」とか「空中の権を持つ君」とか記されているように、この悪霊の活動している「空中」こそが「第二の天」にあたる処である。
悪霊は、人々に対して不断の働きかけをなして人々を苦しめているのだが、ようく考えてみると災いや不幸がまったくなかったならば、人間は果たして「神」を求めるだろうか。
また、聖書が教える重大なメッセージは、人間の世界の「動き」が霊界における「動き」と無関係ではないということである。
そのことが最もよく表れているのが、難解な「ヨハネ黙示録」である。
「ヨハネ黙示録」には、この世の終りが間近になるに従い悪霊がその活動を活発化していくことを示している。
「さて、天に戦いが起こって、大天使ミカエルと彼の使いたちは、竜(サタン)と戦った。それで竜とその使いたちは応戦したが勝つことができず、天にはもはや彼らのいる場所がなくなった。こうしてこの巨大な竜、すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれて、全世界を惑わすあの古い蛇は投げ落とされた。
彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた」(ヨハネ黙示録12章)とある。
つまり「空中の権」を持っていたサタンが地上に投げ落とされた時、サタンは「反キリスト」として「世界を荒らす」ことになる。
それは、この世界が体験する最も大きな「苦しみ」の時代が到来することを意味している。
しかし、その後にイエスの再臨により「悪霊」が捕らえられその働きが封ぜられる「千年王国の時代」がくるという。(ヨハネ黙示録20章4節)
アメリカが移民してきたピューリタンによって建国された時、彼らはこの大陸に「千年王国」の実現を夢見たわけだが、残念ながら聖書の預言に即していえば、それは「早すぎる夢」であった。
「千年王国」は、人間の力で建設するものではないからだ。
千年王国の時代は「悪霊」が封じ込められる時代なのであるから、戦争や犯罪や対立の少ないきわめて「平和」な時代のハズである。
それはイザヤ書2章にあるとうり「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げずもはや戦うことを学ばない」と預言された時代である。
アメリカの建国は、どこをどうみても「千年王国」の到来とは言いがたいのは明らかである。
ここで注意すべき点は、「千年王国」の時代に悪霊は「封じられる」のであって、永遠に「滅ぼされる」わけではないということである。
つまり、「その時」がきたわけではない。
「ヨハネ黙示録」の預言(12章)によれば、この「千年王国」の終わりごろに悪霊が漸次解き放たれ、その後に万物更新の「新天新地」の時代が来るという。
いかに聖書が信者に「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(イザヤ書63章)とあっても、現在の「この世にある」我々から、この「新天新地」の様相を想像をすることは相当困難である。
その第一の理由はそれが「天地が崩れ去った」あとに来る「万物更新」の時であり、それについての聖書の記述は多くはない。
第二の理由は、「彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた」(ヨハネ黙示録20章10節)とあるとうり、「悪霊」が完全に「滅ぼされた」世界だからである。
つまり最初に述べた「その時」というのは、この「万物更新」の時を指している。
すなわち、「豚の湖突進事件」の悪霊達は「その時」(ヨハネ黙示録20章)が来るのをよく知っていたということだ。
以上のような聖書の記述の驚くべき「整合性」をもってしても、そういう未来をどうして信じられようかという人が大半であろう。
しかしイエスが「神の国はあなた方の内にある」(ルカの福音書17章)といったように、救いによって内に宿した「聖霊」によってそれを体験できるということである。
それは、神とともにある霊の喜びであり、この体験があるからこそ体験者は「神の国」にコガレる。
またそれは、イスラエルでの教会創設当初にあふれた「聖霊の体験」としてうけつがれきた体験でもある。
そういう歴史的体験がない多くの日本人には、こういう「三つの時代」、すなわち現在という「教会」の時代、「千年王国」、「新天新地」というはなじみのうすい「神の経綸」かもしれない。

ところで十字架や茨の冠の意味するところは「のろい」である。つまりイエスは「呪われた」存在として刑死したということである。
しかしパウロも言うとおり、十字架は「救われた者」にとっては、救いと恵みのシンボルなのである。
また聖書には「のろいを祝福に転じる神」(ネヘミヤ記13章)という言葉がある。
そのことが一番よく表れているのが「イエスの十字架」である。
「悪」の働きが増すこれから、「十字架」の恩寵なくしてはコワすぎる世の中です。